『カルパシアの処刑人』
トランペットの余韻がまだ谷間に残る中、
ローレンスとルシアンは、ダグラス家の祖霊の間へと続く大理石の回廊を歩いていた。
高い窓から差し込む光が床石を琥珀色に染め、
香と古い埃が混じった空気は、まるで死者だけが理解できる厳粛さを帯びて震えているかのようだった。
その傍らを、黒狼ウンバーが音もなく歩く。
闇と溶け合うような黒い毛並み、
琥珀色の瞳は、一瞬たりともルシアンから離れなかった。
ローレンスは横目でそれを見やり、苦く息をつく。
あの視線の正体は分かっている。
それは獣のものだけではない――
ソフィアの不信が、契約を通してこちらを見張っているのだ。
「……自分の息子に、危害を加えるつもりはないさ、ソフィア……」
彼は空気ではなく、石壁に向かってそう呟いた。
ウンバーはその言葉を理解したかのように、ふっと頭を上げた。
途端に、空気が一段と重くなる。
ルシアンは狼の視線を避けた。
三者の間に流れる沈黙はあまりに濃く、
足音でさえ冒涜に思えるほどだった。
やがて、広間の中央へと辿り着く。
そこにそびえていたのは、王国そのものよりも古い黒曜石の monument――
黒い石で造られたオベリスク。
表面には無数のルーンが刻まれ、
それらは微かな光を放ちながら、
まるで“生きている”かのように脈打っていた。
空気はさらに張り詰め、
沈黙には太古の反響が混じる。
ローレンスは歩みを止め、その冷たい表面に手を置いた。
すると一瞬、
オベリスクの輝きが彼の接触に応えるかのように強まり、
呼びかけられた血を“認識”したように見えた。
「これは、しきたりだ」
低く、重い声でローレンスは言う。
「父もな……最後の戦へ向かう前、私をここへ連れてきた。
そして今度は――私が、お前を連れてくる番だ」
ルシアンは、何も言わずにうなずいた。
ローレンスは一瞬、目を閉じて深く息を吸い、そして語り始めた。
「時と共に、我らは成長した。
だが成長の先にあったのは、常に戦だった。
部族は誇りと恐怖のために互いを喰らい合い、
血は雨よりも大地を潤していた」
彼は静かに続ける。
「――だが、七百二十年前。
一つの転機が訪れた。
エルクハン家が大諸侯を招集し、
ボーランス、そしてブリッグスがそれに応えた。
その会合から生まれた誓約こそが、
今の王国の礎となったのだ」
ローレンスはゆっくりとオベリスクの周囲を歩く。
ルーンの光が甲冑に反射し、影と光が交錯する。
「我らダグラスに与えられた役割は、最も暗いものだった。
攻め、屈服させ、破壊する。
我らは“影”となり、他の家々をエルクハンの光へと追い立てる存在だった」
低く、確信に満ちた声。
「ボーランスは国境を守り、
ブリッグスは法と貨幣で統治し、
エルクハンが王として君臨する。
そして――我ら“黒き者たち”は、
姿なき守護者となる」
彼は一瞬、言葉を区切った。
「王国への脅威が存在するならば、
たとえそれが“彼ら自身”から生じたものであっても、
我らが排除する。
そう誓ったのだ」
指先が石に刻まれた紋章をなぞる。
黒き隼が、蝕まれた太陽の上に翼を広げている。
「自治が尊重される限り、
我らは王国の一部である。
そうして誕生したのが、ダグラス公爵領だ」
その声には、揺るぎない厳粛さが宿っていた。
「……そして数世紀にわたり、
我らはその誓いを果たし続けてきた」
ルシアンは沈黙のまま父を見つめていた。
その言葉一つ一つが、
血と年月の重みを引きずっているように感じられる。
(“姿なき守護者”、“影の処刑人”……
それは義務というより、呪いに近い。
なんて悲劇的な役割だ。
――まるで、物語に出てくる理想的な悪役みたいだな)
そう思いながらも、彼は口を開かなかった。
ローレンスは頭を垂れ、
オベリスクに刻まれた碑文を低く読み上げる。
「――ダグラスは、王にも王冠にも仕えぬ。
我らが仕えるのは、均衡のみ。
光が弱まるとき、動くべき影となれ。
王国が平和の代償を忘れたとき、
それを思い出させる刃となれ」
そして、顔を上げ、息子を真っ直ぐに見据えた。
「我らの使命は、守ることだ。
……たとえ、そのために破壊せねばならぬとしても」
その眼差しは、激しく、どこか悲劇的だった。
「もし私が、この戦から戻らなかったなら――
次の“影の守護者”は、お前だ」
静かに、しかし逃れようのない言葉。
「王国がそれを求めるなら、
お前がカルパシアの処刑人となる」
その言葉は、
誓約として、空気の中に静かに刻み込まれた。
ルシアンは、背筋を走る悪寒を抑えきれなかった。
その一族が背負ってきた誓い――
義務という名のもとに縛られた犠牲の重さが、胸に突き刺さる。
今まで考えたこともなかった。
生き延びることだけに必死で、
この世界の現実が持つ重みを、直視する余裕などなかったのだ。
だが今、ルシアンははっきりとうなずいた。
それが、父への答えだった。
ローレンスは彼を見つめ、
悲しみと誇りが入り混じった表情を浮かべる。
「……教えてくれ、ルシアン。
お前は――私を、憎んでいるか?」
ルシアンは、その視線を真っ直ぐに受け止めた。
心の中では、ただ一つだけ思う。
(憎む? あなたを憎めるはずがない。
だって……俺は、あなたが思っている“息子”じゃない)
だが、その言葉は口にしなかった。
沈黙こそが、彼の唯一の答えだった。
「一つ、頼みがある」
ローレンスは声を落として続ける。
「もし、できるのなら……」
「できることなら、やる」
感情を交えず、ルシアンは即答した。
「マーサを、守ってくれ」
ルシアンは再び、うなずく。
その意味を、ローレンスは痛いほど理解していた。
自分が戦へ赴く間、
愛妾であるマーサは無防備になる。
もしソフィアが彼女の死を望めば、
王国のどこにも安全な場所は存在しない。
だが――
母と特別な“繋がり”を持つルシアンだけが、
その運命に抗える存在だった。
ローレンスは一歩退き、
祖霊のモニュメントを最後に見上げた。
松明の光が、彼の顔に長い影を落とす。
これが、城で迎える最後の日かもしれない。
息子を見る最後の瞬間、
そして、最後の安らかな呼吸かもしれない――
そう、彼は悟っていた。
数時間後、
城壁からトランペットの音が鳴り響いた。
ダグラス公爵ローレンスは、
五千の兵を率いて戦場へと向かう。
影から王国を守ると誓った、
選び抜かれた男女の精鋭たち。
重厚な城門が閉ざされる中、
ルシアンは無言のまま、
夜明けの土埃の向こうへ消えていく行列を見送っていた。
――――――――
黒き山脈と東方の大平原の彼方。
そこに広がるのが、
絶対的秩序と圧倒的力を誇る国家――
フェルッシ帝国である。
白亜の大理石で築かれた太陽宮の塔からは、
昼夜を問わず鍛錬を続ける大軍勢が見渡せた。
金属の波のような軍勢が、
大地そのものを震わせている。
空気は、鉄と汗、
そして圧縮された魔力の匂いに満ちていた。
十万の兵が、
まるで一つの生命体のように完璧な隊列で進軍する。
帝国軍団は十二の主力軍団に分かれ、
兵士たちのレベルは五〇から六〇に達していた。
規律は揺るぎなく、
一人一人が並の敵部隊を殲滅できる力を持つ。
その中でも際立つのが、
深紅の太陽騎士団――皇帝直属の近衛部隊。
三千の精鋭が、
秘儀刻印で祝福された鎧と、
太陽のルーンを宿す槍を携えている。
さらに後方では、
五千を超える戦闘魔導士から成る魔導コホートが展開し、
広域殲滅魔法によって、
要塞すら一瞬で消し飛ばす力を誇っていた。
そして、その上空を舞うのは――
帝国権威の象徴、
王冠翼竜。
レベル五〇以上の騎士を背に乗せた竜獣たちが、
空から戦場を支配する。
帝国が即座に動員できる戦力は、
地方民兵や契約傭兵を除いても、
実に十五万を超える。
それは、
数世紀をかけて築き上げられた戦争機構。
そして今――
その“帝国の眼”が、カルパシアへと向けられていた。
黄金の間。
大理石の柱が林立し、
天井にはモザイクと溶けるような金が施されたその空間で、
皇帝アルデウス・フェルッシ・ベッカーは
大陸地図を静かに見下ろしていた。
老いたが長い指が、
南部国境――ダラをなぞる。
その隣に立つのは、
揺るぎない眼差しを宿した少女。
第七皇女、
ナイラ・フェルッシ・ベッカーだった。
夜の闇のように黒い髪、鋼のように冷たい灰色の瞳。
ナイラは、見る者の意識を奪うほどの妖艶な美しさを放っていた。
彼女の周囲では風の魔力が静かに舞い、
呼吸のたびにマントと髪の一房一房をやさしく揺らしている。
生まれたその瞬間から、
彼女は帝国の後継者としての称号を与えられていた。
歴史上でも極めて稀な資質――
イプシロン適性。
それは、絶対なる力へと至る前兆に他ならない。
「時は来た、ナイラ」
アルデウスの低く重い声が、
広間に反響する。
「お前は帝国最高の師たちに鍛えられてきた。
あらゆる戦争論を読み尽くし、
年齢の許す限りの魔術を修めた。
だがな――言葉や栄誉など、
戦場で証明できねば何の意味も持たぬ」
「承知しています、父上」
ナイラは静かに答えた。
その胸中で心臓が強く脈打っていることを、
彼女は誰にも悟らせなかった。
「前線を、お任せになるのですね」
「それ以上だ」
皇帝は微笑んだ。
誇りと、抑えきれぬ狂気が入り混じった笑みを。
「南方戦線の全権をお前に与える。
第四、第五星、そして第七軍団――
すべてがお前の指揮下だ」
彼は一歩近づき、低く告げる。
「最初の勝利を掴め、ナイラ。
帝国に示すのだ。
お前こそが、新たな時代を導く後継者だとな」
ナイラは小さくうなずいた。
「カルパシア王国は脆い」
冷静な分析の声で、彼女は続ける。
「内部分裂が激しく、
貴族たちは互いに喰らい合っている。
精密に動けば、国境を破るのは容易でしょう」
アルデウスは高らかに笑い、
その眼は狂信者の炎のように燃え上がった。
「カルパシアは最終目的ではない、我が娘よ。
違う……」
彼は地図の上に手を置き、
声を囁きへと落とす。
「そこには、
それ以上に価値あるものが存在する。
一人の若者だ――
ルシアン・ダグラス・オブ・モンドリング」
ナイラは片眉を上げた。
「その名は聞いたことがあります。
イプシロン適性……私と同じ」
「その通りだ!」
アルデウスは興奮を隠そうともしなかった。
「しかも、完璧で、混じり気のない適性だ。
もし彼を私の前に連れてきたなら……
我らの血脈に取り込めば……」
皇帝の声は熱を帯びていく。
「帝国は、
祖先たちが数百年にわたり夢見てきた領域へ到達する」
「……完全なる血?」
ナイラは感情を抑えた声で問う。
「完全どころではない!」
アルデウスは机を叩いた。
「オメガ適性だ、ナイラ!
人類魔術の極致!」
彼の瞳は狂気に輝いていた。
「お前の血が宿す至高の風と、
あの少年の深淵なる闇が交われば……」
震える声で、彼は言い切る。
「その子は――
フェルッシ帝国に君臨する、
生ける神となるだろう」
沈黙が、広間を支配した。
ナイラは穏やかな表情のまま、父を見つめる。
だがその瞳の奥には、
抗えぬ魅了と、
わずかな恐怖が静かに揺れていた。
皇帝は身を乗り出し、ほとんど囁くように言った。
「連れてくるのだ、我が娘よ。
ダラを征服し、王国を打ち破り、そして――その男を私のもとへ」
一瞬の間。
そして、声が低く、粘つくような執念を帯びる。
「……もし連れてこられぬのなら――
その子の子を、その身に宿して帰ってこい」
玉座の両脇に控えていた近衛たちは、
何も聞かなかったかのように静かに頭を下げた。
空気が震え、
ナイラの周囲を巡る風が、無意識の反応のように荒れ狂う。
「父上……」
かすれる声で、彼女は問いかけた。
「あなたは……どこまで行くおつもりなのですか?」
アルデウスは彼女を見つめた。
その眼差しには、父としての慈愛と、
常軌を逸した狂気が同時に宿っていた。
「必要とあらば、どこまでもだ」
彼は静かに、しかし断固として告げる。
「我が血にオメガ適性の後継者が流れると知ったまま死ねるのなら……
それで我が魂は安らかに眠れる」
そして、言い聞かせるように続けた。
「純血こそが、我らフェルッシ家の宿命だ、ナイラ。
決して忘れるな」
ナイラは、ゆっくりと頭を下げた。
荒れていた風は次第に静まり、
広間は再び静寂に包まれる。
だが――
彼女の胸の内では、炎のような葛藤が燃え続けていた。
父への忠誠ゆえに従うのか。
それとも――
恐怖ゆえに、抗えないだけなのか。
その答えは、まだ彼女自身にも分からなかった。




