最終章:運命の「やるんです」
【1993年5月31日/東京・六本木 テレビ朝日アーク放送センター】
車を降りた瞬間、空気が変わった。官邸の空気は重いが、ここは違う。軽いのに、刃がある。建物のガラスは新しく、足元の床は滑らかで、案内の照明は明るい。明るさが、逃げ場を奪う。私は首を右に傾け、腕を組みそうになってほどいた。癖が出るとき、私は自分を慰める余裕がない。
廊下の壁に、番組の進行表が貼られていた。文字が整いすぎている。官邸の混沌とは逆だ。整いすぎた現場は、失敗を許さない。私はペンで直せない場所に来てしまったのだと思った。
控室で、スタッフが頭を下げる。
「総理、よろしくお願いいたします」
彼らの声は丁寧で、視線は忙しい。礼儀の下に、時計が動いている。生放送というのは、政治と同じだ。取り消しが利かない。いや、政治は取り消しが利くこともある。答弁は修正できる。法案は継続審議にできる。だが、生放送の言葉は、切り抜かれて残る。切り抜かれた言葉は、私を「嘘つき」にした。私は、あのときの紙面を思い出して、喉の奥が乾いた。
メイクをする間、私は無言で鏡を見た。疲労の色は隠せない。隠せないものを隠そうとする行為が、また嘘に見える。私は口を閉じ、ただ頷いた。
「田口さん、きょうは攻めますよ」
スタッフ同士の囁きが、壁の向こうから聞こえた。攻める。攻められる。政局の言葉が、ここでも通用する。だが、ここでの攻めは、票を取りに来る攻めではない。絵を取りに来る攻めだ。絵は、翌朝の空気を作る。
私は腕を組み、首を右に傾けた。『国民に直接話せば伝わる』。そう思って来たはずなのに、いまは『国民に直接刺される』という感覚が強い。伝わるのは理屈ではなく、刺さった瞬間の顔なのだと、どこかで理解している。
「総理、まもなくです」
私は立ち上がり、背広の裾を整えた。整えることで、整わないものを誤魔化せると信じたい。だが、誤魔化しはテレビの前では剥がれる。ライトの前では、人間の皮膚は薄くなる。
◆
【同日/テレビ朝日スタジオ】
スタジオに入った瞬間、熱気が押し寄せた。空調は効いているのに、体感は熱い。人の視線が熱いのだ。円形に並んだ席。テーブル。周囲を取り囲む若い顔。学生や市民と呼ばれる人々。彼らの目には、怒りがある。怒りは正義の顔をしている。正義の顔は、手続きの説明を許さない。
田口総司郎が中央に立っていた。姿勢は軽い。軽い姿勢で、重い言葉を投げる男だ。彼は私を見るなり、笑った。笑いは歓迎ではない。挑発だ。私は椅子に座り、背筋を伸ばした。背筋を伸ばすほど、首だけが右に傾きそうになる。私は必死に抑えた。
カメラが赤く点る。小さな赤が、巨大な目になる。私は喉を鳴らし、「えー、」と間を取った。癖は、戦闘開始の合図になる。
田口が言った。
「総理、あなたは本当にやる気があるのか!?」
スタジオの空気が一段上がる。私は、いつものように、議会制民主主義の手続きと、党内調整の必要性を説明しようとした。説明は誠実だ。誠実さは、理解されることを前提にしている。しかし、この場は理解の場ではない。裁きの場だ。
「えー、政治改革は国民の信頼を取り戻すために必要でありまして――」
「必要なら、なんで進まないんですか!?」
田口が遮る。遮られるたび、私の言葉は短くなる。短くなればなるほど、手続きの説明はできない。できなければ、私は「煮え切らない」と映る。映像は、手続きを映さない。映すのは、口を開けたまま止まる瞬間だ。
「総理、党内さえまとめられないじゃないか!?」
笑い声ではない。嘲笑だ。私は、その声の中に、かつて国会で浴びた言葉を聞いた。ばつの悪い人が出てくる。刑罰を受けてもしゃべるわけにはいかない。嘘つき。二転三転。全てが同じ方向から飛んでくる。言葉の投石だ。
私は息を吸い、落ち着いた声を探した。
「えー、党内の議論は――」
「議論ばっかりじゃないですか! 結局、やるの? やらないの?」
その問いに、私は一瞬、言葉を失った。やるか、やらないか。私はいつも、その間に政治があると思ってきた。間にあるのが政治だ。だが、ここでは間が許されない。間は逃げになる。
ライトが眩しい。眩しいのに、視界は狭い。逃げ場がない。私は腕を組みたい衝動を噛み殺した。腕を組めば守りに見える。守っていると思われた瞬間、私は終わる。
田口が畳みかける。
「総理、この国会で改革をやるんですね? まとめるんですね? 6月20日の会期末までにやるんですね?」
私は、その数字を耳で聞いた。6月20日。日付が、刃物のように置かれる。官邸では、日付は調整できるものだった。ここでは、日付が判決になる。私は、党内の会議室を思い出した。梶原の低い声。毒まんじゅう。譲れば分裂。譲らねば国会が止まる。小森の無言の圧力。改革は最優先。逃げるな。
私は、目の前の田口を見る。田口の目は、視聴者の目である。視聴者の目は、私の内圧を知らない。知らないまま、外圧だけを作る。外圧は、内圧をさらに強める。私が作りたかったのは政策だ。だが、いま私が作っているのは圧力の循環だ。
『ここで「難しい」と言えば、私は死ぬ』
死ぬとは、政権が終わることではない。政治家としての信用が終わることだ。嘘つきの烙印が、永久になることだ。私は、もう一度あの紙面に戻ることになる。
『逃げたと言われるくらいなら、壊してでも前に出る』
自分でも乱暴だと思った。知性派の言葉ではない。だが、知性はこの瞬間、私を守らない。守るのは、意地だ。意地は、時に政治家を救い、時に政治家を殺す。
私は、珍しく気色ばんでいた。自分の声が少し高い。私は田口の目を直視した。直視するという行為が、私に残された唯一の武器になった。
「私はやるんです……」
自分の口から出た言葉が、スタジオの空気を切った。切った瞬間、切り口が広がるのを感じた。言葉は刃であり、同時に契約書だ。私は続けた。
「私はやるんです。この法案を何としても成立させたいんです」
スタジオがざわめいた。田口がさらに迫る。
「絶対にやるんですね!?」
私は一瞬だけ迷い、迷いを握りつぶした。迷いは映る。映った迷いは、翌朝の見出しになる。私は、見出しに先回りする形で、自分を縛った。
「この国会で改革をやる。絶対にやる」
言った途端、背中に冷たいものが走った。退路が消えた感覚だった。自分が自分の道を塞いだのだと、はっきり分かった。言葉の力を信じすぎる知性。追い詰められた意地。嘘つきと呼ばれた過去への反動。全てが一つの文に溶けて、口から出た。
田口は満足した顔をした。満足の顔が、私の敗北を意味することを、私は知っている。だが、ここで敗北を認めれば、私はさらに負ける。私は背筋を伸ばし、呼吸を整えた。整えれば整えるほど、私の内側は崩れていく。
生放送が続く。私の言葉はもう、私のものではない。視聴者のものになり、翌朝の政治のものになる。私は、そのことを理解しながら、なお話し続けた。
番組の終わりが近づき、赤いランプが消えた。消えた瞬間、音が遠のいた。スタジオの熱が、急に冷たくなる。私は椅子から立ち上がり、礼をした。礼をしても、契約は解けない。
控室へ戻る廊下で、スタッフが「総理、ありがとうございました」と頭を下げた。私は頷いた。頷きは、いつもの癖だ。だが今夜の頷きは、別の意味を持つ。私は自分で自分を縛った。それが、どんな反応を呼ぶのか。
私はまだ知らない。あるいは知っているのに、見ないふりをしているだけかもしれない。
廊下の窓に映る自分の顔は、照明が落ちても疲労を隠せなかった。私は首を右に傾け、腕を組んだ。癖が戻った。癖が戻るということは、戦いが終わったということだ。戦いが終わったから、次の戦いが始まる。
私は小さく、「えー、」と息を落とした。
その息が、後から追いついてくる音を、私は聞きたくなかった。




