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第四章:包囲網

【1993年1月/東京・首相官邸】


 年が明けても、官邸の空気は軽くならなかった。正月の飾りが片づくと同時に、机の上には「政治改革国会」という看板だけが残った。看板は、店の中身を保証しない。私の内閣は、看板で呼吸している。


 「総理、きょうの紙面です」


 秘書官が新聞を差し出す。見出しは太い。太い文字は、こちらの心臓まで太く叩く。


 「宮崎 改革やる気あるのか」


 私の名前の横に、疑いが並ぶ。疑いは、一度並ぶと、次の日から事実として扱われる。私は腕を組み、首を右に傾けた。癖が出た瞬間、自分が見出しの中に吸い込まれる気がした。


 国会は始まっている。法案はある。だが、審議は進まない。野党は、小選挙区と比例代表の併用などの妥協案をちらつかせる。党内では、幹事長が強硬姿勢を崩さない。私はその間に立っている。立っているというより、両側から綱で引かれている。


 「総理、野党側が修正協議に応じる用意があると」


 官房長官が言う。私は「えー、」と間を置き、返した。


 「ならば、こちらも話は聞くべきだ。聞かずに押し切れば、国会が壊れる」


 「幹事長が、譲歩はしないと」


 幹事長。梶原和六。あの低い声が頭に浮かぶ。毒まんじゅう。食えば死ぬ。私はその言葉を、紙の上で反芻したことがある。だが、今は紙ではない。国会の議事日程が、毒まんじゅうを机に並べてくる。


 「呼びなさい。今夜でもいい」


 私は言った。言うしかない。調整は逃げだと叱られた。逃げないためには、会って、殴られに行くしかない。


 ◆ 


【1993年2月/東京・永田町 党本部】


 党本部の会議室は、いつもより狭く感じた。狭いのは空間ではない。発言できる余地が狭いのだ。幹部の顔が並び、机の上の灰皿がやけに目立つ。煙草の匂いは、ここでは議論の潤滑油でもあり、脅しでもある。


 梶原が椅子に深く座り、腕を組んでいる。首は傾けない。あの男は、癖を見せない。癖を見せない政治家が、一番怖い。


 「総理、野党と妥協する話が出ているそうですね」


 梶原の声は低い。低い声は、こちらの返事を待たずに結論を運ぶ。


 「えー、国会を動かすには、修正も必要だ。手続きは――」


 「手続きで時間を稼ぐ気ですか」


 梶原は遮った。遮られると、私はリクルートの委員会を思い出す。遮られた瞬間、私の言葉は敗北する。私は胸の奥で心の声を握りつぶした。


 『まただ。私はまた、遮られて終わるのか』


 小森が会議室の端にいる。小森は黙っている。黙っているのに、部屋の中心にいる。黙ることが、圧力になる男だ。私は、その圧力の出所が煙草ではなく、数だと知っている。


 「野党の妥協案に乗れば、自政党は分裂しますよ」


 梶原が言う。分裂。言葉が乾いて落ちる。私は反射的に否定したくなる。だが否定すれば、分裂の可能性を認めたことになる。認めれば、明日の見出しができる。


 「分裂は避ける。だからこそ――」


 「だからこそ、譲るな。譲れば負けだ」


 勝ち負けの言葉で国会を語る男に、私は理屈で対抗できない。理屈は、勝ち負けを曖昧にする。曖昧にするものは、弱さと呼ばれる。


 会議が終わると、廊下に報道陣が群がっていた。カメラが待ち構える。照明が、私の顔色を探る。私は口角を上げる練習をしていない。上げようとすれば、引きつるだけだ。


 「総理、やる気はあるんですか!?」


 全角の疑問符と感嘆符が、耳に刺さる。私は足を止めずに言った。


 「えー、ございます。改革は、この国会で――」


 「でも党内がまとまってないじゃないですか!?」


 まとまっていない。事実だ。事実を認めれば負ける。認めなければ嘘つきになる。私は、喉の奥に金属の味を感じた。嘘つき。二転三転。あの二つの言葉が、また背中に貼りつく。


 私は記者の目を見ず、前だけを見て歩いた。前には、官邸へ戻る車が待っている。車に乗れば、窓が盾になる。盾の内側で、私は息をつく。息をつけば、また次の質問が待っている。盾は、戦いを終わらせない。


 ◆ 


【1993年5月/東京・首相官邸】


 連休が明け、会期末という言葉が新聞の片隅に居座り始めた。日付が近づくほど、議事日程は詰まり、言葉だけが先に走る。私はその速度に、呼吸が追いつかない。


 官邸のテレビを、私はあえてつけていた。逃げれば、外圧はさらに強くなる。見ないふりをすれば、見出しは勝手に成長する。私は画面の中で、自分の顔が切り取られるのを見た。言葉ではなく、瞬間の表情だけが流れる。解説者が言う。


 「総理は煮え切らないですね。改革をやる気があるのか」


 煮え切らない。言い換えれば、決められない。決められないのは私の性格ではない。構造だ。だが構造は、画面の中では映らない。映るのは、私の躊躇だけだ。


 次の場面では、梶原の顔が映った。幹事長室の前で囲まれ、短く言い放つ。映像は、あの低い声より先に印象を運ぶ。画面の中の梶原は、悪代官のように見える。私がそう思ったのではない。そう見えるように切り取られている。切り取りが、政治を動かし始めている。


 「総理、テレビ局から依頼です」


 官房長官が言う。私は眉を動かさずに聞いた。


 「どこだ」


 「テレビ朝日です。田口総司郎さんの特番で」


 田口総司郎。名前だけで胃が縮む。彼は理屈を聞かない。いや、聞かないふりをする。聞かないふりをして、相手の言葉を切り裂き、視聴者の苛立ちを代弁する。代弁された苛立ちは、世論になる。


 「断れ。危険だ」


 誰かが即座に言った。官邸の空気が一斉に固くなる。危険。危険を避けてきた結果が、いまの停滞だ。停滞が危険になった。危険の種類が変わっただけで、危険は消えない。


 私は腕を組み、首を右に傾けた。癖は、思考が行き止まりのときに出る。行き止まり。国会は行き止まり。党内は行き止まり。外は、包囲網だ。


 『国民に直接語りかければ、伝わるはずだ』


 心の中で、その言葉が勝手に形になった。私の知性は、言葉を信じる。言葉が通じないなら、政治家の仕事は何だ。私はそう考えてきた。だが、言葉が通じないからこそ、いま私は追い詰められている。


 「総理、出れば火に油です」


 官房長官が言う。私は頷かず、黙った。黙れば黙るほど、決断が遅れる。遅れれば、煮え切らないと書かれる。書かれれば、支持率が落ちる。落ちれば、党内が動く。動けば、分裂が近づく。分裂は、内圧だ。内圧が高まれば、外圧はさらに強くなる。包囲網は、輪を縮める。


 私は机の引き出しを開け、古い切り抜きを指でなぞった。リクルード事件の見出し。嘘つき。二転三転。私はその紙を、捨てていない。捨てれば、忘れたことになる。忘れたと言われれば、また嘘になる。


 『ここで改革を実現できなければ、私は再び嘘つきになる』


 私は、その恐怖を正面から見た。恐怖が、私の背筋を伸ばした。恐怖が、決断を促すこともある。望ましい形ではないが、政治ではよくある。


 「田口さんの番組か」


 私は小さく言った。声が乾いている。乾いた声は、覚悟ではなく、賭けの声だ。


 「はい。『総理と語る』という特番です」


 私は目を閉じ、開いた。砂防会館の応接室で、パーラメントの煙が天井へ逃げるのを見た記憶がよみがえる。支配は、煙よりも軽い動作で行われる。テレビは、煙よりも速く支配する。


 私は立ち上がった。腕を組み、すぐにほどいた。癖が出る。出た癖を、私は抑えきれない。抑えきれないまま、私は言った。


 「出よう。国民に、直接話す」


 部屋が静まり返った。誰も賛成しない。誰も反対もしない。反対すれば責任を負わされる。賛成すれば巻き込まれる。これが官邸の沈黙だ。沈黙の中で、決断だけが孤独に立つ。


 私は椅子に戻り、草稿の余白に一行を書いた。


 「この国会で改革をやる」


 その一行が、今までよりも重く見えた。重い一行を、私はテレビの前で口にすることになる。まだ、その夜がどんな形で私を噛むかを、私は知らない。だが、噛まれに行くしかないところまで来ている。


 窓の外で、春の風が木を揺らす。官邸の中では、包囲網が揺れていない。揺れていないものほど、逃げ場がない。


 私はペンを置き、「えー、」と独り言を落とした。独り言が、誰かの見出しにならないことを祈りながら。

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