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第一章:エリートの蹉跌

【1988年10月14日/国会・衆議院第1委員室】


 委員室の空気は、秋の乾いた外気とは別物だった。蛍光灯の白い光に汗が浮き、椅子の背に貼りついた背広が、じわじわと重くなる。机上の書類は整然としているのに、言葉だけが乱れている。私は腕を組み、首を右に大きく傾げて、質問者の顔を見た。


 「では、宮崎大臣。リクルードコスモスの未公開株、あなたの名義で譲渡があった。これは事実ですか」


 委員長の木槌の乾いた音のあと、社新党の議員が、紙を掲げた。紙一枚で人は刺されるのだと、私は初めて知った。数字や社名や名前が、こちらの息づかいまで奪っていく。


 私は、ゆっくりと息を吐き、「えー、」と間を置いた。言葉はいつも、選べば選ぶほど遅れる。その遅れが、相手には逃げに見える。


 「私の名前があったということは分かりました」


 言った途端、室内の温度が上がった。私は続けた。続けねばならなかった。


 「秘書が自分の名前を利用した、そういうことでございます」


 野党席から一斉にざわめきが起きた。あらかじめ用意した線に沿って答えたつもりが、線そのものが私の首を絞め始める。私は、政治家としての倫理を説いてきた。金銭の匂いを嫌うことが、私の矜持であり、保守本流の作法だと思ってきた。だからこそ、この件は「秘書の取引」だと言うしかない。私が触れていないものは、触れていない。事実として、そうである。


 しかし、この委員会は事実だけでは進まない。進めたいのは、印象だ。絵だ。誰かの顔に貼り付いた「説明の仕方」が、事件そのものになる。


 「秘書が勝手にやった? 大臣は、責任を秘書に押しつけるのですか」


 「押しつける、ということではありません。私の関知しないところで――」


 「関知しない? では、秘書はあなたの名前を勝手に使えるのですか。あなたの秘書官と言えば官吏である。刑罰を受けてもしゃべるわけにはいきませんと、秘書が言っている、そういう状況ですよ。大臣はそれでも、秘書のせいだと言い切るのですか」


 喉の奥に、金属の味がした。秘書官。官吏。刑罰。言葉が、私の側の防波堤を逆流してくる。私は秘書を守りたいと思っているのではない。私の責任の範囲を守ろうとしているのだ。だが、守るべき境界線が、国民の目には線引きではなく、逃走経路に見える。


 議員は畳みかけた。


 「ばつの悪い人が出てくる。あなたの秘書でしょう。自分が刑罰を受けるということをもう覚悟なさったのじゃなかろうか。そういう人に全部背負わせて、あなたは平気でいるのですか」


 私は、机の下で指を組んだ。腕は組み続ける。首は右に傾いたままだ。癖は、心の不安を隠してはくれない。むしろ、照明の下では目立つ。私は、ここで感情を見せれば負けると知っている。感情は、証拠よりも先に人を裁く。だが、感情を見せないこともまた、裁きを早める。


 「私は、平気でいるわけではありません。政治家は、国民に対して説明責任を負う。そういう意味で――」


 「説明責任を負うなら、なぜ最初から正直に言わなかった。二転三転しているじゃないですか」


 「二転三転」という言葉は、私の胸に貼り付いた。発言の順序が、私の人格の順序にされる。言葉は、政治の道具であるはずだった。いま、言葉が私を裁く刃物になっている。


 委員会が終わったとき、私は廊下の窓に映る自分の顔を見た。目の周りが、いつもより暗い。副総理兼蔵相という肩書きは、その暗さを隠す化粧にはならない。


 秘書が控室の前で待っていた。背広の襟がよれている。私はその襟を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。『お前は、何をしてくれた』。それを言えば、私が「責任を押しつけた」絵が完成する。言わねば、私が守ってやった絵が完成する。どちらに転んでも、絵は私の意志ではないところで描かれる。


 「大臣……」


 秘書の声が震えていた。私は視線を上げずに言った。


 「君は、余計なことを言うな。いまは何も言うな」


 それは命令だった。防波堤を立て直すための命令だ。だが、同時に、私自身の口を塞ぐ命令でもあった。言えば言うほど、私は沈む。


 官邸への車の中で、私は黙って窓外を見ていた。赤信号のたびに、運転手がブレーキを踏む。その小さな揺れが、国会の追及よりも胃に響いた。『私の政治は、こういう揺れの上に乗るものだったのか』。そう思った瞬間、自分の知性が、ただの自意識に変わる気がした。


 官邸に戻れば、消費税導入の工程が待っている。税制の数字は嘘をつかない。だが、人の怒りは数字では割れない。私は、制度を整える者として生きてきた。制度の外にいる怒りが、いま、制度そのものを揺さぶっている。


 「総理がお呼びです」


 秘書官が告げた。私は立ち上がり、腕を組み直した。首を右に傾ける。癖のままに、私は組織の中心へ戻っていった。


 その日から、同じ質問が違う形で繰り返された。私は答え、答え直し、言い換え、補足した。言葉を整えるほど、整えた痕が残る。痕は「二転三転」と呼ばれる。私は、答弁をするたびに、次の答弁のための地雷を埋めているようだった。


 党内の会合では、誰もが表情だけは穏やかだった。宏政会の若手が私の前で「先生、いまは耐えるしかありません」と言う。耐える。耐えるという言葉は、実は何もしないという意味ではない。数の勘定をし、誰が動くかを測り、誰が切り捨てられるかを予測する。その予測に、私の名前が入っていることが耐え難い。


 私は、政治が国民のものであると言ってきた。だが、いま私を動かしているのは、国民ではなく、委員会の時間割と、新聞の見出しと、派閥の空気である。組織の論理が、私の理想を分解していく。『これが政治か』。問いが、答えにならないまま積もっていく。


 十二月に入ると、空気はさらに冷たくなった。だが、私の周囲の熱は冷めない。追及は止まらず、内閣の支持率が数字として落ちていく。数字は嘘をつかない。だからこそ、数字は残酷だ。


 竹原総理との面会の帰り、私は廊下で立ち止まった。総理の部屋の扉は重い。重さは木のせいではない。そこに集まる派閥の数、票の数、沈黙の数の重さだ。私は、その重さに自分の身体が押しつぶされる音を聞いた気がした。


 『このままでは、内閣が持たない』


 誰かの声が背後で囁いた。振り返れば、顔見知りの幹部だった。彼は私を見ない。見れば、言葉が記録になる。政治の世界では、視線すら記録される。


 私は、うなずいただけだった。うなずくという行為が、私の政治生命の時計を早めているのを、どこかで理解していた。


【1988年12月9日/東京・大蔵省】


 記者会見場の壁は白かった。白い壁は、どんな影も濃くする。フラッシュが焚かれるたび、私は瞬間的に顔を奪われ、次の瞬間には、より鮮明に晒される。辞任とは、肩書きを下ろすことではない。光の当て方を変えられることだ。


 私は壇上の椅子に座り、背筋を伸ばした。腕を組みたい衝動を抑える。腕を組むと、守りに見える。守っているのは自分ではなく、組織の都合だと見抜かれる。首を右に傾ける癖も抑える。癖は、内心の揺れを暴露する。


 「本日をもちまして、副総理兼大蔵大臣を辞任いたします」


 声は思ったよりも乾いていた。自分の声が、他人の声のように聞こえる。辞任の文章は、何度も推敲した。言葉を選べば選ぶほど、心が置き去りになる。


 質問が飛ぶ。


 「答弁が二転三転したと言われています。どう受け止めますか」


 私は、呼吸を整え、「えー、」と間を取った。間を取らねば、余計なものが混じる。余計なものが混じれば、また「嘘つき」と書かれる。


 「国会答弁や発言が、結果として二転三転したことは、率直に申し訳なく思っております」


 頭を下げる角度は、計算できない。計算しようとした瞬間、計算の匂いが立つ。私は、計算の匂いを嫌う人間だと思ってきた。だが、政治は計算の上にしか立たない。私の嫌悪は、政治に向かない嗜好なのかもしれない。


 「政治家は、普通の人以上に高い倫理性を求められる」


 その言葉を口にしたとき、胸の奥に冷たい塊が落ちた。私は、倫理を語る立場であり続けたかった。だからこそ、辞任会見で倫理を語ることが、最も残酷な皮肉に思えた。倫理を語れば語るほど、私は倫理の欠如を告白しているように見える。


 会見場の後方で、秘書が立っているのが見えた。目が合いそうになり、私は視線をずらした。『君のせいだ』とも、『君を守る』とも言えない。私はただ、事実の枠を守ろうとしただけだ。だが、国民は枠を見ない。枠の外に溢れた怒りだけを見る。


 質問は続く。


 「未公開株について、知らなかったという説明は通らないのでは」


 私は、喉の奥の金属味を思い出した。知らないと言えば、逃げに見える。知っていたと言えば、罪になる。政治家の言葉は、いつからこんな狭い通路になったのか。通路が狭いのではない。私の背負ったものが大きすぎるのだ。副総理兼蔵相という肩書き。消費税導入という難事業。宏政会の矜持。保守本流の名札。すべてが、私の肩の上で互いに押し合っている。


 私は、事実を繰り返した。関知しない取引。秘書の行為。自分の名義。説明責任。言葉は整然と並ぶ。だが、整然と並ぶほど、そこに人間の血が通わない。血が通わない言葉は、冷たく、疑われる。


 会見が終わり、控室に戻ると、背広の内側が汗で湿っていた。冬だというのに、汗が出る。私は椅子に座り、ようやく腕を組んだ。首を右に傾ける。癖が戻る。癖は、勝敗が決まったあとにだけ、私を守る。


 『なぜだ』


 なぜ、私はここにいるのか。なぜ、政策通として国益に尽くしてきた自分が、「秘書の株取引」ごときで政治生命を断たれるのか。私は、悔恨と憤懣を言葉にしたくなった。だが、言葉にすれば、また記録になる。記録は、政治家を縛る鎖になる。


 扉の向こうで、誰かが「次は誰がやるんだ」と低い声で言った。私の辞任は、個人の問題ではない。内閣の問題であり、党の問題であり、派閥の問題である。私は、ようやく理解した。組織は、個人の倫理で動かない。組織は、持ちこたえるために個人を差し出す。


 その瞬間、私の中で何かが反転した。『政治不信の当事者』。その言葉が、どこからともなく浮かんだ。国民の怒りの中心に、私の名前がある。私は、国民のために政治をしてきたつもりだった。だが、国民は私を信じない。私の知性は、国民の信頼を買う通貨ではない。


 私は立ち上がり、鏡の前に立った。疲労の色が滲んだ顔が映る。ここから先、私はこの顔で、政治改革を語らねばならないのかもしれない。嘘つきと呼ばれたまま、倫理を語り続けねばならないのかもしれない。


 廊下に出ると、秘書が近づいた。彼は何か言おうとして、口を閉じた。私は先に言った。


 「君も、今日はもう帰りなさい」


 命令ではなかった。慰めでもない。単なる、区切りだ。区切りをつけたところで、次の戦いが始まる。私の失脚は終わりではない。むしろ、これから私の名前は、別の形で使われる。改革を求める世論の壁の前で、私はまた言葉を試される。


 私は歩き出した。白い壁の影が、足元に伸びる。影は、私の背中から離れない。

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