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マクラな草子  作者: アヴェ
始まりの草子
9/16

第一章・008

 放課後、尾崎くんと別れた私は一人図書室へと向かう。その前に千早さんや卯の花さんにがんばってね、と声をかけられが、私がどのようにがんばればいいのかはわからなかった。今日一日皆と相談をしても、私のこの気持ちを率直に教えてくれる人はまだ居ない。答えは同じ、それは自分で理解するもの、らしい。本当なら綾子や鈴木くんにも聞いておきたいところだが、尾崎くんを美術室に向かわせてしまったため、今日はもう美術室には行けないし、行きたくない。帰りはつい一緒に帰るのを約束してしまったが、帰りまでにこの気持ちに整理がつくのかは分からない。

 だから私は図書室に居る、久家さんにも相談するつもりだ。久家さんがなんて言うかは分からないけれど、その答え如何によっては、私は尾崎くんを待つこともなく先に帰ってしまうかもしれない。でも、もしも尾崎くんが先に私を待っていたらどうしよう。その時、私が今よりももっと尾崎くんの顔を見るのが辛いと感じてしまっていたら、尾崎くんは怒るだろうか。……それは分からない。今はとにかく、図書室に向かおう。

「久家さん。こんにちは」

 私が図書室に入ると、やはり一人で読書をしている久家さんの姿を見つけた。私が近づいて声をかける。

「…………」

 こんにちは奈々実ちゃん。

 久家さんは相変わらず無口だ。私の姿をその目に移すと、と言っても目は前髪に隠れて見えないが、会話用のルーズリーフを取り出して自分の言葉を綴った。

「…………」

 今日は蒔良くんは一緒じゃないんだね。

「ええ。尾崎くんは美術室に居るわ。帰るときは一緒なんだけれどね」

「…………」

 そうなんだ。まあいいや。今日は一応作品とぎりぎり呼べるようなものは持ってきているけど、読む?

 久家さんがなにやら紙の束が入ったクリアファイルを取り出した。どうやら作品はルーズリーフではなく、一度パソコンで打ち込み印刷をしているらしい。

「ええ。読ませてもらうわ。……へえ、久家さんてパソコン使えたのね」

「…………」

 まあね。いちいち鉛筆で書くのは面倒だし、パソコンで書いたほうが楽なの。

 私は渡されたA4紙を手に取り、読み始めた。分量はそこそこあり、おそらく文庫本一冊くらいだろう。このぐらいの量ならニ、三時間程で読みきれるだろうけれど、今はそんなに時間はない。区切りのいいところまで読んであとは借りよう。

 内容は、はっきりとは分からないがおそらくファンタジーなのだろう。と、いうのも、舞台が異世界なのではなく、今より数百年後の地球だ。その世界では戦争によって人類の大半と、人類が築き上げた文明のほとんどが失われた世界で、世界政府といくつかの大企業によって人々の生活がかろうじて保たれているらしい。世界の中心には、世界政府と大企業が共同で造り上げた人類の全てを管理する塔がそびえており、物語はその塔に異変が起きるところから始まる。

 物語は三つの視点から描かれている。私たちと同じくらいの年齢の男女の主人公たちの物語と、とある大企業に勤める女性の物語、そして、世界の異変に対抗すべく造られた人工生命体である少年の物語。それぞれのストーリーが今後、どのように交差するかはわからないが、世界の崩壊に主人公たちが立ち向かう王道ストーリーだ。

 読み進めていくと、どうやら主人公たちの敵となる存在は、世界を管理する塔の周辺から突如現れた未知の生命体らしい。度重なる戦争によって兵器と名の付く全てを放棄した世界ではそれらに対抗する手段がなかったが、世界政府と大企業たちは結束し、一度は封印したあらゆる兵器を呼び覚まし、それらに立ち向かっていくのだ。

 この物語はむしろSFなのだろうか。いや、SFファンタジーというジャンルがあったのならそれに属するだろう。未知の生命体こそ存在するが、剣や魔法といった要素が存在しないので判断がしにくい。登場人物はそれぞれ、男女一組の主人公の二人は一応世界を旅するという、一見ファンタジーとも思える設定で、人工生命体の少年は、未知なる生命体との戦闘が主だった役割らしい。大企業に属する女性は、世界の中心である管理塔の異変について政治的観点から介入し、世界に巻き起こる異常現象を調査するという役柄だ。

 三つの視点から描かれた作品か。とりあえずファンタジーと定義はしておくが、むしろそういった感覚を捨てたほうが楽しめそうだ。

「うん。面白そうね。まだちょっとしか読んでいないけれど、世界の異変についての謎が最初からちりばめられているのは読書欲をそそるわね」

「…………」

 本当? 気に入ってもらえたなら何よりだわ。でも、今瀬川さんが手にしているので全部じゃないの。それはある意味第一部終了までって感じで完結はしていないわ。

 すでに結構な分量なのだけれど。言うなれば上・下巻でいうところの上巻ね。

「この時間だけで全部読んでしまうのは勿体無いし、久家さんが良ければ借りていきたいところだわ」

「…………」

 全然構わないよ。データは全部パソコンとUSBメモリに入っているからバックアップも万全なの。よければあげようか?

「いいの? でも続き書くのに困ったりは……しないか。パソコンに入ってるなら」

「…………」

 うん。細かい設定とかも全部別に保存してあるし。困ったときはそっち見ればいいしね。

「ありがとう。全部読み終わったら感想を聞かせてあげるね」

 それにしても、よくこんなに書けるなあ。頭の中からイメージやアイデアが泉のように浮かんでくるんだろうな、やっぱり。小説に対する情熱は本物らしい。

「…………」

 他にもいくつか作品はあるんだけど、今のところ人に見せてもいいと思えるのはそれだけかな。

 うーん。私には考えられない。そういえば自分で物語を考えた事はなかったかも知れない。演劇とかオペラとか観るのは好きだし、小説もそこそこ読むのだけれど。

「……私も考えてみようかしら。ストーリー考えるのにコツとかっているのかしら」

「…………」

 私もプロじゃないから上手くは言えないけど、自分で面白いと思うものを考えるのが一番じゃないのかな。本当に上手い人は、なんだか理屈っぽいことも言うんだろうけど。

「そうね……。どうしようかしら」

 うーん、と、私たちは二人で考えた。しばらくして久家さんがあることを思いついた。

「…………」

 テーマを一つ出して、そのテーマにそって即興で短いストーリーを考える遊びはあるよ。三題噺とか四題噺とか言われてるけど。

「なるほど。短いって、まさか久家さん的には原稿用紙三枚くらいとか言わないよね」

「…………」

 私は鬼じゃないんだからそこまで求めないよ。本当にニ、三行とかでもいいと思うよ。

 ニ、三行か……。手軽に物語を考えるには丁度いいのかもしれない。でもそんなに短くて物語といえるのだろうか。

「…………」

 とりあえずやってみようか。テーマはそうだなあ、「鳥」と「りんご」で。

 なんとも言えないテーマだ。難しいのか簡単なのかも分からない。とりあえず考えてみよう。鳥とりんご。考えられるのはやっぱり、鳥がりんごを食べているような感じだろうか。でもこれでストーリーを構築するというのは、いろいろな広がり方があって絞りきれない。

 私は最初のテーマで既につまづいていた。私には文才というのがないのかもしれない。

「…………」

 そんなに難しく考えなくてもいいよ。こういうのは理屈でやらないで感覚的にやったほうが楽だと思うよ。頭にぱっと浮かんだストーリーで構築するの。

「頭にぱっと……」

 といっても、既に色々なパターンを思い浮かべてしまった。

「どれに絞ればいいんだろう。分からないわ」

「…………」

 複数出てきているということは、それだけのストーリーを奈々実ちゃんは考えられているということだよね。それっていいことだと思うよ。

「そうなのかな。まあいいわ。とりあえず、一つだけに絞ってみるわ」

 私は無難に、鳥がりんごを食べに来たというストーリーを選んだ。

「……こうかな」

 一人の少年がりんごを買いに行きました。その少年は、りんごの一つを母親に、一つを父親に、一つをおばあちゃんに、一つを少年が想いを寄せる少女に、それぞれ分けました。けれども少年は計算を間違えて、りんごを一つ余らせてしまいました。さあどうしようと考えていると、一羽の鳥が少年の側を飛びまわっています。少年は最後のりんごを、その鳥に分けてあげました。鳥は喜んで空に飛んでいきましたが、少年は後から気付きました。なんと、自分の分のりんごをあの鳥にあげてしまったのでした。

「……うーん」

「…………」

 童話みたいだね。いいと思うよ。

 そうだろうか。ちょっと子供っぽいかもしれない。でも、鳥ってりんご咥えて飛べるのだろうか。……自分で考えておいて意味が分からなかった。

「やっぱり変だわ」

「…………」

 まあまあ最初だしね。じゃあ次のテーマは……「海」と「猫」と「バイオリン」で。

 三つか……。海といえば真っ先に思うのは夏の風景だ。猫といえばあの可愛い生き物が浮かぶが、海と猫といえば、ウミネコという鳥がいる。それらと関連性が無さそうなバイオリンをどのように物語に組み込めばいいのだろう。

「難しいわね、バイオリンが」

「…………」

 難しいと思うから難しくなるんだよ。ぶっちゃけちゃえば、物語なんだから多少の無茶は効くよ。

 効いてもあまり変な物語は考えたくない。うーん。海辺でウミネコの鳴き声を聞きながらバイオリンを弾く? なんだか安易だ。海と猫を別々に考えてみようか……。どうしよう。

「ねえ、久家さんはどんな物語が思い浮かぶの?」

「…………」

 そうだなあ。三題噺なんてここ最近やってないから変かもしれないけど。

 そう言いなが久家さんは自分の物語を別のルーズリーフに書き始める。そのペンの動きには淀みがない。すでにストーリーは構築し終わっているようだ。

 可愛い可愛い動物たちの王国で音楽家兼冒険家の猫は、王国中を渡り歩きながらバイオリンを弾いていました。けれどそのバイオリンの演奏は、動物たちには騒音でしかなく、あまり評判は良くありませんでした。

 ある日、猫の音楽家は旅をしている内に広大な海を見渡せる高台へとやってきました。この海の向こうには、自分のバイオリンを聴いてくれる誰かが居てくれると信じました。でも、海を渡り、動物たちの王国の出るという事は掟に反してしまいます。海の向こうは人間たちの世界。向こう側へ渡ってしまえば、猫はバイオリンを演奏できなくなります。途方にくれた猫はその夜、ウミネコの鳴き声を聞きます。ウミネコたちは、海の向こうへ渡ってもバイオリンを弾く事ができる方法を教えてくれました。……それは、人間になる事です。人間になって、人間の世界でバイオリンを弾く事ができると、ウミネコは言いました。けれどその方法は同時に、動物の王国に、二度と帰って来れないということも意味します。猫は迷いました。迷って、その迷いをバイオリンの音にのせて、海の向こう側へ向けて演奏を続けました。人間の世界と、動物の王国との狭間で、猫はがむしゃらに演奏を続けました。その一途な想いはやがて王国中の動物たちに広まり、ウミネコたちも人間たちにその響きをもたらしました。その後、猫は美しい音を奏でる歌い手として有名になったという事でした。

 さっき私が考えたりんごと鳥の物語より長い。でもこれも童話みたいだ。

「可愛らしいお話ね。バイオリンを弾く猫だなんて」

「…………」

 子供の頃、動物たちが音楽隊を組む絵本があったじゃない。それを参考にしたの。

 ブレーメンの音楽隊、だったっけ。私も読んだ事はあるけれど、どんなお話だったかはもう忘れてしまった。

「でも分かったわ。私にはあんまり才能はないみたいね」

「…………」

 そんなことはないと思うよ。さっきの話もなんだかほのぼのとしていて私は好みだな。

「お世辞でも嬉しいわ」

 お世辞じゃないよと久家さんは無表情で言う。相変わらず、文章では色々な感情が読み取れるのに、実際の久家さんの表情は全く変化がないのだった。でも基本的にいい人だと私は思う。聞けば他のクラスの男子から結構な人気があるらしい。卯の花さんも人気者だけれど、違う意味で久家さんも人気があるようだ。

「…………」

 じゃあ次のテーマいってみようか。「心」と「気になる人」と「友だち」……この三つで。

 ……心、気になる人、友だち。

 私の頭の中で浮かんできたのは一人の男の子だった。……言わずもがな、尾崎くんだ。でも、頭の中の尾崎くんがどんな表情をしているか分からない。顔だけぼやけて、なんだか尾崎くんの顔を忘れてしまったようで居心地が悪い。

「…………」

 どうしたの奈々実ちゃん。

「……いいえ」

 私が導き出した物語は……私がこれから作り出したい物語は……。私が、尾崎くんと共に歩んでいきたい未来は……。

「わからないわ。久家さん。あなたはこんな気持ちになったことはあるかしら」

「…………」

 どうしたの?

 心。私は今、自分の中で渦巻くこの気持ちが分からない。気になる人。尾崎くんのことを考えるだけで、胸の奥が痛い。友だち。尾崎くんは友だちだけれど、千早さんや佐藤くんたちとは違う、もっと特別なものだと思う。

「……こんなことを言っても仕方ないかもしれないんだけれど。尾崎くんのことを考えると胸が痛いの。尾崎くんのことを考えると夜も眠れないの。落ち着かないの。やっと寝つけても、昨日はとても怖い夢を見た。そのせいで今日はろくに尾崎くんとは話してない」

「…………」

 それってもしかして……。

「これってどういうときになるものなの? 皆に聞いても、それはやっぱり自分で見つけるものだからって教えてくれなくて」

 久家さんに話しても結局同じ答えが返ってくるに違いない。でも私は話さなくては気が済まなかった。自分の気持ちを理解するために。尾崎くんと共に並んで帰るまで、そう時間は残されていないのだから。

「…………」

 きっと私も同じことを言うと思うよ。……なんて、本当は私が言えることじゃないの。

「どういうこと?」

「…………」

 ちょっとね。……テーマは「心」と「気になる人」と「友だち」……だったよね。

 久家さんは新しいルーズリーフを取り出してペンを走らせた。私が真剣に悩んでいるというのに、どうして久家さんはそんなことができるのだろうか。それとも、私のこの気持ちを物語で表現してくれるのだろうか。

 答えは後者だった。久家さんが書き上げたストーリー。そこに描かれている登場人物はまさに私と尾崎くんだった。

 ある女の子には気になる人が居ました。ずっと女の子の側に居てくれた一人の男の子。今までただの友だちだと思っていた男の子。でも最近、その男の子のことがひどく気になります。どうしてこの心はこんなにも疼くのだろう。どうしてこの心はこんなにも痛むのだろう。どうしてこの心はこんなにも不安なのだろう。女の子はそれが不思議でなりませんでした。女の子にとっては初めての経験です。この気持ちの正体が一体なんなのか、女の子には分かりませんでした。

 ある日女の子は一冊の本に出会いました。どんなことでも知っている魔法の本。その本は女の子の言葉を解し、女の子の悩みを解決してあげようと言いました。

 この気持ちの教えてください。

 女の子はその本に問いました。本は自らのページをぱらぱらとめくり、やがて一文字の言葉を女の子に伝えました。

 すなわち、恋です。

 本はそれだけを伝えると、女の子の前から姿を消してしまいました。

 魔法の本は久家さんのことだろうか。確かに図書室にいて、いつも本を読んでいるからイメージは合う。

「……でも」

 恋? これが、恋? 私は尾崎くんに恋をしているの? 恋をするとこんなにも心が苦しくなるの?

「…………」

 人を恋するということは色々とあるけれど、奈々実ちゃんのそれはきっと、蒔良くんのことが単純に、好きなんだね。

「好き……尾崎くんのことが、好き……なの? 私は」

 やっぱりよくは分からない。私はいままで人を好きになった事が多分なかっただろうし、恋したこともきっとない。でも、このぼんやりした気持ちに、まるで霧が晴れていくみたいにすっきりとした気持ちに嘘はない。

「…………」

 人を好きになるのって大変な事だよね。辛いよね。でも、それでいいの。その辛さを感じれば感じるほど、その人のことをもっと好きになれる。

「好き、なのね。尾崎くんのことが」

「…………」

 蒔良くんの側に居ると、どんな気持ちになるの?

 どんな気持ち……それはもちろん、心が暖かくて、気持ちが良くて、温もりがあって。安心できた。ああ、そうか。そう感じるということは結局、恋なんだ。私は尾崎くんに恋をしていたんだ。

「…………」

 その想いを蒔良くんに告白するにはやっぱり勇気がいると思うけど、がんばってね。

「勇気か……。いいえ、久家さん。私はこの自分の気持ちを理解できたら、尾崎くんにはっきり言うって約束したから、今日の帰りにでも告白するわ。でも、どんな言葉で言えばいいの?」

「…………」

 ずいぶん思い切りがいいんだね。そうだなあ、難しい言葉や飾った言葉なんて要らないと思うよ。純粋に、好きと一言言えばいいんじゃない?

 好き、と一言。簡単な事だ。そう、簡単だ。簡単な事だけれど、やっぱりだんだん心臓が高鳴ってきた。今までならどんな恥ずかしい言葉でも言えた筈なのに、たった二文字の言葉を伝えるだけでこうも緊張しなくてはならないの?

「ありがとう。久家さん。私、がんばるわ」

「…………」

 うん。応援してる。

 そうと決まれば即実行。今日はもう先に昇降口で待っていよう。

「…………」

 奈々実ちゃんががんばるなら、私もがんばらなきゃな。

 と、久家さんが続けた。……久家さんにも何かあったのだろうか。その顔は無表情だが、なんだか元気が無さそうに見える。

「どうしたの? 久家さん」

「…………」

 うん。奈々実ちゃんも私に打ち明けてくれたんだもんね。私も相談するよ。聞いてくれる?

「ええ。いいわ」

 そういえば本来は七海さんのお願いを聞くために久家さんと話をしているのだった。久家さんがこれからする話がそのことに関わってくるかは分からないが、聞いておくに越した事はないだろう。

「…………」

 実は私、友だちと喧嘩中なの。七海加奈子って知ってるよね。奈々実ちゃん、今日も話してたしね。

 やはり、七海さんの事か。こちらから余計な詮索をしないで向こうから話をしてくれるなんて好都合だ。

「…………」

 加奈子ちゃんと私は昔からの親友だったの。無口な私にも周りの人たち以上に接してくれたし、私も加奈子ちゃんのことが好きだった。さっきはあんなテーマを出したけれど、あれ、自分にも当てはまることなの。友だちだった加奈子ちゃんと喧嘩して心が傷ついて、今でも加奈子ちゃんのことが気になっている。でも今更どんな顔をして話せばいいのか分からないの。

 久家さんはどうやら、心の中では七海さんと仲直りをしたいと思っているらしい。けれどそれは七海さんも同じことなので、案外二人の関係はすぐに戻せるんじゃないだろうか。

「一体何が原因で喧嘩を?」

「…………」

 ちょっと、ね。……こんなことを瀬川さんに言ったってしょうがないよね。でも私、がんばるから。今はまだ気持ちの整理ができていないけれど、いつかちゃんと加奈子ちゃんと向き合うから大丈夫。

 久家さんがそう言うなら、私がこれ以上口出す事は何もない。自然に関係が回復するというのなら、それに越した事もないのだ。

「そう。でも、私や尾崎くんはいつでも相談に乗るわよ。何でも言ってね」

「…………」

 ありがとう。奈々実ちゃんもがんばってね。

 その後私は久家さんに挨拶をして昇降口へと向かった。

 廊下が暗い。そんなに長い時間会話をしていたわけではないはずだけれど、今日はなんだか雲もかかっているし、そのせいだろう。昇降玄関の近くまでいくと、私の心臓はどんどん高く鳴り響いてくる。誰も居ない廊下で、私は自分自身の心音がこだましているのかとも思ってしまった。

 尾崎くんは既に待っていてくれているのだろうか。待っていなかったとしても、彼の姿が現れるまでに私が自分の緊張に押しつぶされてしまいそうだ。

 玄関に出ると、外の光が直接薄暗い校舎内に差し込んでくる。尾崎くんの姿はまだ、ない。ほっとしたようなそうでないような、私は落ち着かないまま、昇降口の掲示板の前で待っていることにした。

 一分間が長い。二分間が遠い。三分間が果てしない。四分間が永久だ。五分間は無限に感じられる。

 最早時間の感覚なんて意味を成さない。まだかまだかと思いを馳せて携帯電話の時間を見るとほんの数分しか経っていないし、すれ違う生徒たちの顔を数えていても、その中に尾崎くんの顔はない。

 美術室に向かってみようか。ただ待っているだけというのも退屈だ。

 私は目を瞑って、尾崎くんの姿を捉える。私は手を伸ばして尾崎くんの背中を追う。でも、決して追いつかない。しばらくして尾崎くんが振り向く。私はもっと手を伸ばす。もうすこしで届く。届く。届いた。届いて、尾崎くんの体が鮮血を噴出して傾く。私の手にはいつの間にかカッターナイフが握られていた。

「……先輩?」

 目を開けると、そこには綾子と鈴木くんの姿があった。……どうやら眠ってしまったらしい。立ちながら眠れるなんて、なんだかみっともないな。

「綾子?」

「よかった。もうすぐ蒔良先輩も来ますよ。わたしたちは先に帰るので。それじゃ」

 言葉を最小限にし、綾子と鈴木くんはすぐに外へ出ていってしまった。

 もうすぐ尾崎くんがやってくる。やっぱり怖いな。私の気持ちを素直に受け入れてくれるかどうかとても不安だし、とても痛い。

 私がそうやって考えている内、私の横から声が聞こえた。

「瀬川」

 私は振り向き、尾崎くんの姿を瞳に収める。どうしてだろう。尾崎くんがとても遠くから帰ってきたみたいな、そんな感覚だった。


 僕は瀬川の側に立つ。瀬川は今度は目をそらさずに僕の姿を見据えてくれる。

「待たせたな」

「構わないわ。それじゃ、帰りましょう」

 僕は瀬川と共に校舎からでて、坂道を下っていく。その間、僕たちはそれぞれ、鈴木くんと久家さんに関する情報を交換し合った。久家さんの方は多少の進展があったといえるだろう。けれど鈴木くんの方は本当に、響くんに話すべきかどうか分からなくなるな。どうして鈴木くんの情報を欲しがっているのだろう。

「……」

 僕と瀬川はそれ以降、大した話もせずに坂道を下りきる。交差点に差し掛かり、いつも通りに瀬川を送ろうと、右へ曲がろうとする僕を瀬川が制した。

「尾崎くん。私、尾崎くんに言わなくてはならない事があるの」

 瀬川が改まって僕に言う。瀬川の瞳には決意の色が見て取れた。

「なんだ?」

「……私、久家さんに教えられたの。私の、この、尾崎くんに対する想いがなんなのか」

 ああ、そうか。瀬川はもう、自分の気持ちに気付いてしまったんだな。それを今から僕に伝えたいというわけか。

「本当は今日、皆に聞いて回っていたのよ。でも、教えてくれなくて」

「それで今日、僕と距離を置いていたわけか」

「ううん。それとは別なの。とにかく、私、尾崎くんに言いたいことが……」

 どうしたものか。瀬川の気持ちに素直に応えてやるべきなのだろうか。でも今の僕が瀬川を好きになるなんてことはできない。……いや、そうじゃない。僕は怖いのだ。瀬川を好きになる事で、また一方的に彼女を傷つけてしまうのが。

「……聞いてくれるかしら」

「ああ」

 それでも、瀬川の言葉を聞かずには居られない。聞かなくてはならない。その後、僕がどのように瀬川と接するかは、それからだと、おもう。

「久家さんは飾った言葉なんて要らないって言ってたから、これだけ言うわ。……好きよ、尾崎くん」

「……」

 僕だって瀬川の事は嫌いじゃない。くそ、僕はなんて心が弱い人間なんだ。瀬川がこれほどまでに真剣に自分の想いを伝えてくれたというのに、僕はそれに応える勇気もない。

「瀬川。僕にも時間をくれないか」

「時間?」

「僕は臆病だから。今君に僕の気持ちを伝えても、君を傷つけてしまうだけだ。瀬川の気持ちはわかってる。好きって言ってくれて、僕は嬉しいよ。でも、今は僕に考える時間をくれ」

「それって、どういうこと? 私を傷つけるって……。それって、本当は断りたいけど、断ると私が傷ついてしまうと思っているの? だから、今は保留にしたいって事?」

 瀬川が僕の顔を必死に見つめてくる。僕は瀬川を真っ直ぐに見据えて言った。

「そうじゃないさ。むしろ、僕は君の気持ちに全力で応えてあげたいとも思っている。でも、怖いんだ」

「怖い?」

「……昔さ、僕は君に話した占い師の女の子のことが好きだった」

 瀬川が驚く。

「僕は自分の気持ちをその子に包み隠さず伝えた。あいつも、僕のこと好きだって言ってくれた。でも、その結果、僕はあいつを傷つけてしまったんだ」

「……だから、私を好きになると、その子と同じように私のことを傷つけてしまうかもしれないって、そう思っているの?」

「察しが早くて助かるよ。つまりはそういうことだ」

 瀬川が両手で僕の手を握る。

「傷つけるなんてとんでもないわ、尾崎くん。私は逆に癒されているくらいなのよ?」

「……分かってる。僕だってさ、君の事を素直に好きになれたらどんなに楽かと思うよ。でも、やっぱり心の中で何かがつっかかって、その気持ちを吐き出せないでいるんだ」

 この心の詰まりを治す方法を僕は知っている。そのためには一度、彼女と会わなくてはいけない。僕が恋し、恋し切れなかったあの占い師に。守ってあげられなかった占い師に。そして、謝らなくちゃいけない。あいつはすぐにでも許してくれるだろうけれど、それじゃ駄目なんだ。それだけじゃ足りない。

「いつまでもは待てないわよ。私はそこまで気が長くないから。……あなたが自力で決断できないときは、そのときはどんな手を使っても、無理やり私のこと好きになってもらうから」

「……それじゃあ」

「ええ。少しだけ時間をあげる。丁度明日は土曜日だし、ゆっくり考えるといいわ。……だからね、尾崎くん」

 瀬川が僕の手を強く握る。

「……日曜日、デートをしましょう」

「デート?」

 瀬川が僕に与えてくれる時間は一日だけらしい。でも、そうだ、あまり待たせているわけにもいかない。この際、はっきりとこの気持ちに決着をつけてやる。

「そう。日曜日の午前十時。私はこの交差点で待っている。遅刻は絶対に許さないし、一秒でも遅れたら、私はもうあなたとの縁を切るわ。……といっても、もしもそれまでに尾崎くんの気持ちが今のままだったら、そんな状態でデートをしても楽しくないから、来なくてもいいのよ。……その時は、尾崎くんにとっての私の存在なんてその程度だったと思うことにする、から」

 瀬川の手が震える。頭を伏せて、僕に顔を見せないようにしている。

「……瀬川」

「今日はこのまま別れましょう。送っていかなくて構わないわ。……それじゃ、日曜日に、会えたら良いわね」

 僕の手から瀬川の温もりが去っていく。瀬川は僕から逃げるように、走り去っていった。今の僕には瀬川を追う力はない。瀬川の姿が見えなくなった頃、僕は踵を返して自宅へと向かった。

 瀬川、泣いてたな。くそ、結局僕は彼女を傷つけてしまったんじゃないか。僕がうじうじしているから。

「……僕に瀬川の側に居る資格なんてあるのか?」

 誰にとも言わず、僕はむなしく広がる曇り空へ独りごちた。

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