第一章・007
夢を見た。瀬川に話をしたからかもしれない、あの占い師の夢だ。夢の中であいつは元気に動き回っている。孤立をしていても、寂しさなど微塵も感じさせないその笑顔を僕はただ、見つめているだけだった。見つめている事しか、できなかった。
そのうちあいつは疲れ果ててその場に座り込んだ。それでも元気に僕に微笑みかけてくれた。時間が経つと、その身体は次第に痩せ細っていき、弱々しくなっていく。それでも僕は動かなかった。あいつのために何かをしてやるべきだと頭の中で分かっていても、助ける事ができなかった。
「どうしたんだ蒔良ちゃん。そんな悲しそうな顔をするな、うちはまだまだ元気だぞ」
その無邪気な笑顔が僕の心を締め付けた。お願いだからそんな顔をするな。僕はお前に対して、何もできなかったじゃないか。
「蒔良ちゃんは何も気にする事なんかないんだぞ」
それでも、僕はお前の側に居る資格なんてないんだ。例えお前が許してくれても、僕自身が僕自身を許さない。だから……。
「蒔良ちゃんはうちに嫌われたいの? うちがこんなにも蒔良ちゃんのことを許してあげるって言っているのに。そもそも、蒔良ちゃんは別に悪い事なんてしていないじゃないか」
僕はこいつに嫌われたい……のだろうか。分からない。いや、嫌われたくないなんて虫のよ過ぎることだ。いつも一番側で見守ってきた僕が、なにもしてやれない、ただの偽善者だったのだから。
「……うちは蒔良ちゃんのことが嫌いだ」
…………。
「そう言えば、蒔良ちゃんは納得できるのか?」
納得……できるわけもない。こいつに嫌われたからといって、こいつとの関わりを全て絶ってしまったら、それこそ無責任だ。
「あーあ。蒔良ちゃんがそんな男の子だなんて思わなかったなあ。どうでもいいことでうじうじしてみっともない」
どうでもいいなんて、そんなこと!
「でも、うちには何にもしてくれなかった。うちは結局一人ぼっちだ。いくら蒔良ちゃんが側に居たって心は満たされない。うちが唯一幸せな時間は、夢の中だけだ。今の蒔良ちゃんじゃ、うちを幸せにするなんて無理だよ……。だからさ、蒔良ちゃん」
…………。
「うちは蒔良ちゃんのことは大嫌いだよ」
はっきり言われても、やはり僕の心は納得などしなかった。……どうしてだろう。僕は未だにこういつに対して踏ん切りがつかないでいるのだ。
「……或いは、あの子が居るからかな」
あの子?
「瀬川奈々実っていう、あの女の子」
!? どうしてこいつが瀬川の名前を知っているんだ。
「驚く事じゃないだろ蒔良ちゃん。うちは占い師だよ。君の想い人くらい、すぐに分かるよ」
想い人? 瀬川が僕の? ……それはどうなのだろう。確かに僕は瀬川の側に居てやろうと思っているけれど、そこに恋愛的な感情はないはずだ。……いや、持ちたくない。
「あの人が居るから、蒔良ちゃんはうちのことなんてどうでも良くなったんだね。蒔良ちゃんも罪な人だね。昔はうちのことを……」
! おいやめろ! それを口にしない約束だろう!
「うちのことが、好きだったくせに」
どうして……、そんなことを言うんだ。
「今は彼女の事が好きなんでしょう? だったらもういいじゃないか。うちの事なんて放っておきなよ。彼女のために尽くしてあげるべきだよ蒔良ちゃん」
……そう簡単に、人を好きになんてなれない。僕はそう思っている。だって僕は、お前を好きになって、その結果お前を傷つけてしまったようなものだから。
「昔の事をいつまでも引きずるなんて男らしくないよ蒔良ちゃん。うちの事はもう気にするなと言っているじゃないか。うちは傷ついていないし、うちが孤独になったのと、君がうちを好きになったのは別の事だろ」
昔の事なんかじゃない。今も僕は後悔しているんだ。なんの考えもなしにお前を好きになって、お前を傷つけて、お前を助けられなかった。……だから、暫く恋はしないと、僕は自分に誓ったんだ。
「それは君の勝手な思い込みだって。そう何度も言っているのにどうして理解してくれないんだ蒔良ちゃん。そういう考えがうちや瀬川という子を傷つけるんじゃないのか?」
……そうかもしれない。けれど、僕はもう同じ過ちを犯したくはない。だから、今度こそ瀬川のことを救ってやりたいと思っている。そのためには、僕は瀬川を安易に好きになれないんだ。
「うちとは違う方法で、彼女を助けたいと思っているんだね。でも蒔良ちゃん。君はうちのことは助けられなかった。だから今度も失敗するんじゃないの?」
あの時は僕が幼すぎただけだ。
「それはいい訳だよ蒔良ちゃん。蒔良ちゃんがそう思っていても、うちを助けられなかった事実はきえない」
やめてくれ。お前はそんな事を言う奴じゃなかったはずだ。
「その子もきっとうちと同じ事を言うと思うよ。どうして助けてくれなかったの、って」
これから助けるんだ。だから瀬川にそんなことは言わせない。絶対に。それに、僕の中ではお前の事もまだ決着がついていないんだ。いつか必ず、この気持ちとおさらばして、瀬川の事を好きになるとしたら、その後だ。
「じゃあ、今でもうちの事は好きなの?」
……好きだ。
「嘘つき。君はもう恋はできないね。だからもう一度言うよ、蒔良ちゃん」
あいつは立ち上がり、僕の目の前から消える。頭の中にあいつの声が響く。その声には恨みの念がはっきりと感じられた。
「うちはお前の事なんて大嫌いだ」
……なんて嫌な夢だ。神様っていうのは時折残酷なものをまざまざと見せ付けてくれるものらしい。僕があいつと知り合ってからもう六年……。僕の知り合いの中では一番長い付き合いだ。今更あいつが僕のことを嫌っているはずは、ない。……けれどどうしてだろう。そう断言できない僕が居る。本当は心の中で僕のことを恨んでいるのかもしれない。どうして助けてくれなかったんだ、って。僕は携帯電話のアドレス帳に登録されているあいつの番号を見つめる。あいつは金を持っていないが、携帯電話は明里姉さんが持たせているのだった。料金は全て姉さんが支払っている。最近は電話をしていないな。……この時間帯では寝ているだろうが、放課後あたり電話してみるのも良いかも知れない。
……どうしてあんな夢を見たのだろう。いや、たかが夢だ。いちいち気にする事じゃない。……そうだ。気にするな。
僕は朝食を摂るために、着替えて階下へと降りた。
胸が苦しい。昨日尾崎くんにあんな話をしてからずっと、胸が苦しい。いや、もっと前からだ。初めて尾崎くんと話をしたときから日に日に苦しさは増していった。こんな気持ちは私は初めてだ。苦しくて苦しくて、昨夜は嫌な夢を見てしまった。尾崎くんが私のことを避けている夢。他の人たちと同じように、私は異端だからって、決して側に近づこうとしない。尾崎くんだけじゃない。千早さんや卯の花さんたちもみんな、私のことを避けている。……でも、尾崎くんに避けられていると感じると、もっと心が苦しくなった。苦しくて、痛くて、尾崎くんの姿を見る度に、私の心は軋んだ。どうして? 今まではこんな気持ちになんてならなかったのに。私はいつも通り、ストレスを発散するためにカッターナイフを取り出した。尾崎くんは私のことを見ている。でも、私の自傷行為を止めてくれる尾崎くんじゃなかった。その瞳は侮蔑に満ちていた。
「またあいつ、手首切ってるぜ。頭がいかれてるんじゃないか?」
尾崎くんがそんな事を言った。私の頭の中が真っ白になった。今まで誰に言われても決して揺らがなかった私の心が激しく唸り、かつてない憤りが私の身体を支配した。
気がつくと。周りには血だまりができていて、あたりに血の匂いが蔓延していた。私の身体も、誰のものか分からない血液で赤く染まっている。私はカッターナイフを強く握っていて、私だけが生きている。つまり、私がみんなを殺したのだろう。……どうして? 自分をいくら傷つけても、自分の心を何度も何度も殺しても、みんなを殺したいだなんて考えた事もないのに。
「……うっ」
私の足元で一人の男子生徒が呻いた。……首から血を流していて、腕やおなかがも切り裂かれていて、それでも息がある。
「それがお前の本性、なんだな、瀬川」
尾崎くんだ。……私は尾崎くんにまで手を出してしまったの? あんなに私に優しかった尾崎くんを? いいえ。今地に伏している尾崎くんは、私が知っている尾崎くんじゃない。私を蔑み遠ざける、優しさなんて微塵も感じられない尾崎くんだ。
「ふ、ふふ。殺してみろよ、瀬川。それでお前が満たされるんなら、殺してみろよ」
これは尾崎くんじゃない。こんな恐ろしい目をしている尾崎くんは尾崎くんじゃない。……いいわ、殺してやる。
私は尾崎くんの額にカッターナイフを突き立てた。普通の人間ならこれで死ぬはずだ。私は尾崎くんを殺した。この手で。
でも尾崎くんは生きていた。
「どうした? 僕はまだ生きているぞ」
どうして生きているの? まだ生きて、それでいて、そんな残酷な目をしているの? 私は叫んだ。叫んで、尾崎くんの身体を何度も何度もカッターナイフで切って、刺して、恐ろしい光を放つその瞳もくりぬいて。喋れないように舌も切り取って。それでもどうして? 何故生きていられるの尾崎くん。
「どうしたの、瀬川。僕はこっちだよ」
気がつけば、周りに倒れていた全ての死体が尾崎くんだった。みんな立ち上がって、私のことを見ている。
「瀬川、気がすむまで僕のことを殺すといいよ」
「そうそう。僕はこんなにもたくさん、君の側に居てあげられるんだからね」
「君のためなら僕は何度だって死ねるよ、瀬川」
やめて……尾崎くんはそんな事は言わない。お前たちは、尾崎くんなんかじゃない。優しそうな顔をして、優しそうな言葉を吐いていても、お前たちは尾崎くんじゃない!
「つれないことを言うんだね、瀬川。僕は他でもない、僕だよ。僕以外の尾崎はいない」
「そうだよ瀬川。僕は決心したんだ。君の痛んだ心を癒して挙げられる方法は、君に、殺されてあげることなんだって」
やめて!
私は一人の尾崎くんの首を切った。鮮血を噴いてよろめく尾崎くん。でも決して死なない。
「ぐっ……。そ、そうだよ、瀬川。そうやって僕を殺していればいいんだ。そうすれば、君の心の痛みも癒せる」
そんなことで私の心は癒されない! 尾崎くんの姿をするな! 私の前から消えろ!
「どうしてそんなことを言うの? 僕は瀬川に嫌われているの? いやだなあ瀬川。僕の方はこんなにも君のために尽くしたいと思っているのに」
お前たちなんか嫌いだ! 早く消えてしまえ! 私は必死にカッターナイフを振り続けた。それでも尾崎くんの姿をしたソレらは全く死ぬ気配がない。……私の心はもう、壊れかけていた。
「……そうか。じゃあ、これでさよならだ、瀬川」
え? 私の最後の一振りで尾崎くんは息絶えた。……まさか、死んでしまったの?
「だめ、行かないで尾崎くん……側に居て、お願いだから! 側にいてよ!」
私は声なき死体に叫び続けた。でもこれは尾崎くんなんかじゃない。私は何に対して叫んでいるのだろう。それすらももう、分からなくなっていた。
目が覚めると私の目からは涙があふれていた。……夢の中でとはいえ、私はこの手で尾崎くんを殺したのだ。なんだか今日はもう尾崎くんとは顔を合わせたくない気分だ。学校を休んでしまおうか。……でも、一日中彼の姿を見ずに居るのもなんだか不安だ。私が居ない間に、私のことを嫌いになっちゃったりしたらいやだ。
でも、もしも尾崎くんが私のことなんて本当はどうでもいいと思っていたらどうしよう。そう思うとやはり胸が苦しかった。どうしてこんなにも彼のことを考えてしまうのだろう。その理由が私には分からない。誰かに聞いてみれば分かるだろうか。だけど、私の話を真剣に聞いてくれる人なんているのかしら。やっぱり今日、学校に行って聞いてみよう。私は着替えて、階段を降りて行った。
学校に到着し、僕が瀬川に挨拶をすると、瀬川は何か緊張した様子ですぐに目をそらした。全く、いつも通りに接してくれと言ったはずなのだが、昨日の事で僕との間に気まずい空気が流れたらみんなが心配するだろうに。
「おはよう、佐藤くん……。と、和久井」
何故居るんだ和久井。予想外すぎてお前に慣れている僕も驚かずには居られないじゃないか。
「和久井はさっき廊下で会って、なんとなく連れてきてみたんだ」
「すっかり馴染んでるね佐藤くん。そんなに和久井と仲良くなったの?」
そういえば佐藤くんは基本いい人で平等精神を持っているけれど、外見は結構砕けたところがあるからな。和久井と佐藤くんの意外な共通点だ。
「尾崎、お前、瀬川となんかあったのか?」
和久井が僕に聞いてきた。昨日ラーメンを食べた後、僕たちは和久井たちと一緒に帰らずにいたからな。そのことを気にしているのかもしれない。
「なんか今日あいつの様子変だぞ」
「何もないよ。それに、あいつが変なのはいつもの事だろ」
僕はとりあえず平静な顔でそう言ったが、佐藤くんはなんだか不振そうな目で見ている。
「……尾崎
「なに? 佐藤くん」
「……いや、なんでもない」
佐藤くんもどうしたのだろう。なんだか様子が変だな。瀬川になにかされたのだろうか。……気になるけど、気にする必要はないのかもしれない。
僕は休み時間ごとに瀬川の様子を観察していた。昨日は休み時間になると僕の方にやってきて雑談なんかをしていたのだけれど、今日はなんだか一人で色々な人と話をしていた。千早さんや卯の花さん、欅や河野くんらに話しをし、その度に彼らは驚いた様子をしていた。……一体なんの話をしているんだ瀬川。
昼休みにいつものメンバーで集まった時に、みんなが僕の顔をじーっと見つめていた。
「……どうしたの?」
「いえ。その、尾崎くん」
「千早。余計な事は言わなくていい」
僕に何か隠し事でもしているのだろうか。みんな揃って? それともよくある、もうすぐ誕生日だからびっくりさせてやろう、とかだろうか。瀬川がみんなに根回しをして? ありえない。そもそも僕の誕生日はまだまだ先だ。
じゃあいったいなんなのだろうか、みんなのこの態度は。
「えーっと、みんな一体どうしたの? 様子が変だよ?」
「それより尾崎くん。七海さんと響くんに昨日の報告してきて」
僕がみんなに事情を聞こうとしたが、瀬川に割り込まれてしまった。……この様子だとどうせ何も話してくれそうにないな。
「……分かった」
とりあえず瀬川の言うとおりにして、まずは響くんに鈴木くんに関する報告をしに行く。
「響くん」
「おや尾崎くん。なにかな?」
昼休みに分厚い辞書なんか読んでんじゃねえよ。しかも別に調べ物してるわけじゃ無さそうだし。あんたの愛読書は辞書なのか?
「鈴木くんについて報告しようと思って」
そんなことは置いといてさっさと本題を進める。
「もうわかった事があるのかい? 流石だねえ」
「大したことは分かっていないよ」
僕は響くんが、今は亡き兄がいた事。美術室にその兄の描いた絵が飾られている事、体が弱くて毎日送り迎えをしてもらっているという事、ついでに携帯電話を持っていないということを話した。
「はっはっは。本当に大したことがないねえ」
「そう言うなよ」
「まあいいさ。一日そこらでそこまで期待はしていない。ただひとつ気になったんだけど、誰に送り迎えされているんだい?」
「あー、そういえばそこまでは聞いていないなあ。次の機会に聞いておくよ」
「頼んだよ」
僕はとりあえずの報告を済ませ七海さんの方へと向かおうとしたが響くんに呼び止められた。
「尾崎くん。……どうやら瀬川くんとなにやらあったみたいだね」
「そういえばさっき、瀬川となにか話してなかった?」
瀬川が響くんとも話をしていたのを思い出して聞いてみるが、響くんはただひたすらニコニコしているだけで何も答えない。一体なんなんだよ。
「……ま、気にするな。他愛もない話だよ。……それに、近いうちに瀬川くんの方から話してくれるだろう。それまでは君は、いつも通りでいたまえ」
なんだかなあ。僕は隠し事をされるという事に慣れていない。それはみんなが正直者であるととることもできるが、ただ単に隠し事が下手な連中が多いだけである。
「ふーん。じゃ、またね、響くん」
僕は改めて七海さんの方へと向かった。七海さんの依頼は逐一報告をするようなものじゃないけれど、いくつか聞いておきたいこともあるのだ。
「七海さん。ちょっといいかな」
「あら尾崎くん」
相変わらずか細い澄みきった声で応える七海さん。けれど、なんだろう、七海さんの目がちょっと怖い。僕何かした?
「えーっと。久家さんのことでちょっと。昨日早速話をしていたんだけれど、結局進展はなかったよ」
「そりゃそうでしょうね。あの子無口だし。でも、進展がないのに一々報告してくれるなんて尾崎くんはしっかりしてるわね」
「いや、それとは別に。やっぱり二人の間に何があったのかだけでも聞いておきたくて。原因が分からないんじゃ進展のしようがない」
二人の問題にずかずかと足を踏み入れたくはないのだけれど、この際仕方がないだろう。
「……本当にどうしようもないことよ。でもね、あなたが理由を知ったところで、千里にそのことについて聞くの? それこそ千里の心証が悪くなるわよ。下手したらもう二度と口利いてもらえないかもしれない」
それってどうしようもない程度の問題なのかな。
「でも聞くくらいなら……」
「万が一、よ。うっかり口を滑らせてしまったら大変じゃない。それに、あの子あれでかなり勘が鋭いから、余計な知識を持っていくよりはいいのよ」
そうか。それもそうだ。二人の仲違いの原因を知ったところで、じゃあ仲直りしてくれと言って聞くくらいなら仲違いなんてしないだろうし。さりげなく会話をし、さりげなく二人の仲を戻せるなら、何も知らないほうが確かに都合は良いかも知れない。
「……了解だ」
「それでね尾崎くん。私からも一つ聞きたいんだけど」
七海さんの瞳がより一層鋭くなる。……体躯は小さくてもこんなに鋭利な瞳を持っているんだなあ、七海さんは。
「あー、七海くん」
七海さんの背後から響くんが近寄る。どうやら七海さんに制止を促しているようだが、七海さんは響くんを一瞥すると、何事もなかったように続けた。
「……瀬川さんのこと、どう思ってるの?」
「え?」
七海さんからそんな質問をされるなんて思わなかった。やはり瀬川がなにか言ったのだろうか。瀬川は七海さんとも話をしていたらしい。どうやら瀬川は知り合い全員となにやら僕には秘密な話をしているのらしいな。
「どうって……。うん。瀬川は友だちだし、側にいたいと思っているよ」
「側にいたいって、どういう意味で?」
どういう意味? それこそどういう意味だろう。うーん。あるとすれば昨日の帰りに瀬川と交わした会話が関係してくるのだろうが、それは瀬川と僕しか知らない話で、僕は瀬川の気持ちに整理がつくまでは側に居てやるという事を約束はした。でも、僕が瀬川に抱いている感情はまだ、瀬川が僕に抱いている感情とは違うはずだ。それが同じものになるまでにきっとまだ時間がかかる。
「……まあいいわ」
もう話すことはないと言いたいのだろう。七海さんは僕から視線を手元の本に移した。響くんもやれやれと自分の席に戻る。僕もみんなの所に戻り雑談をするが、やはりみんなが隠し事をしているという実感があるため、心の底から楽しめていない自分がいて、そんな自分を僕は憎んだ。……くそ。今朝から嫌な気分が続いている。
私が学校に着いたとき、尾崎くんの姿はまだ見えず、私は知らずにほっとした。今の私は尾崎くんと顔を合わせるのも辛い。でも、やっぱり自分の気持ちを知りたくて、とりあえず私は既に到着していた佐藤くんに声をかける。
「おはよう佐藤くん」
「ん? ああ瀬川か。……尾崎はまだなんだな」
私と尾崎くんはどうやらセットみたいな認識をされているらしい。でもそう思われても仕方ないか。この二日間は大抵一緒にいるし。
「え、ええ」
「ん? どうした瀬川。顔色あんま良くないみたいだな」
「え!? 瀬川さん病気なの? 大丈夫?」
どうやら顔色が良くない、に反応したのだろう、卯の花さんが私の側に寄ってきてその手を私の額に当てた。……別に風邪引いてるわけじゃないんだけれど。
「熱はないみたいだけど。どこか具合悪いの瀬川さん」
「大丈夫よ卯の花さん」
でもいい機会だから卯の花さんにも私のこの気持ちを聞いてみよう。
「えっと、二人に聞いて欲しい事があるんだけど。……その、尾崎くんのことで」
「尾崎? 尾崎がどうかしたのか?」
なんて言えばいいのだろう。そういえば言葉を整理していない。そのまま、尾崎くんのことを考えると胸が痛くなるんだと言えばいいんだろうか。でも、胸が痛いだなんて言ったら卯の花さんがまた病気と勘違いしそうだ。かと言って、この複雑な心境を他の言葉で言い表す術を私は知らない。
「……その、なんて言えばいいのかしら。尾崎くんの事を考えると落ち着かないというか」
「落ち着かない?」
「気持ちを言葉で表すのって難しいわよね。どう言えばいいんだろう。とりあえず、最近の私は尾崎くんのことばかり考えている気がするわ」
私が言うと佐藤くんと卯の花さんは顔を見合わせてポカンとしていた。……やっぱり私の言葉の意味が伝わらなかったのだろうか。自分では上手く伝えられたと思っているのだけれど。
「アレよね佐藤くん」
「ああ。アレだな」
どうやら私の言いたいことは伝わったらしい。でもアレってなんだろう。それが私が知りたがっているこの気持ちなのだろうか。
「あの、瀬川さん? それってひょっとしてさ、尾崎くんの事を思うと夜も眠れないとか、胸が苦しいとか、そんな感じ?」
「ええ。そうね。昨晩は眠れたけれど、ひどい夢を見たわ」
思い出したくはないけれど。夢の癖にいつまでも頭に残っているのが腹立たしい。
「あー。佐藤くん。どう思う?」
「俺に聞くな」
「つまり、私はこの変な気持ちがなんなのかを知りたいのよ」
二人は溜息をついた。教えてあげるべき? とか、今までのことを考えると知らないのも無理はないのかもしれない、とか言っているけれど、なんの事か私には分からない。ようやく結論がまとまったようで、佐藤くんが私に言った。
「瀬川。それはおまえ自身が自分で学ぶべきものなのかもしれない。俺らがどうこう言えるもんじゃないだろうな」
「でもいいことなのよ。瀬川さん。がんばってね」
いい事なのか。でも、いい事なのにどうして胸が痛くなるんだろう。胸が痛いのは良いことなの? 苦しいのも良いことなの? 私には分からなかった。
「それで瀬川。このこと、尾崎には言ったのか」
「昨日帰りに言ったわ。尾崎くんも私のこの気持ちがなんなのか知っているみたいだったけれど、私がこの気持ちを理解できるまで今まで通りで居てくれって」
「そうか。……じゃあ、俺から尾崎に言う事は何もないな。これはお前次第だ、瀬川」
私次第、か。でも私だけじゃやっぱりこの気持ちを理解できないような気がする。今日は色々な人から話を聞いてみよう。
「そうね。私たちじゃどうしようもないわね。……でも瀬川さん。これだけは言えるわ。……尾崎くん、あなたの事は嫌いじゃないみたいね」
嫌いじゃないって……あの悪夢じゃないんだし。心底嫌っているなら私とは関わっていないだろう。でも、やっぱり不安だ。いつか尾崎くんがあの夢のような尾崎くんになってしまったらと思うと……。いいえ。考えないようにしよう。
「ありがとう。参考になったわ。それじゃ」
私は二人から離れ、とりあえず席に戻る。そしてしばらくして尾崎くんの姿が見えた。彼は普通に私に挨拶をしてきたが、私はなんだか目を合わせられなかった。彼の顔を見つめると、あの夢の中の尾崎くんなのではないかと不安になる。でもこれは気のせいだ。ただの、気のせいなのだ。
私はその後、休み時間毎に私の気持ちをみんなに伝えていく。それでもみんなは、佐藤くんや卯の花さんと同様の反応を示した。……皆は私のこの心の不安の正体を知っているようだが、誰も教えてはくれないようだ。それは全て、自分で理解する必要があると、皆は言うのだ。
昼休みになると当然のように尾崎くんと昼を共にする事になる。私は尾崎くんがご飯を食べ終わった頃、尾崎くんを遠ざけた。
「お前、ちょっとあからさまなんじゃねえか?」
佐藤くんが私の行動をいぶかしむ。やっぱりそうなのだろうか。今朝からろくな会話をしていないし、別に尾崎くんを避けているわけではないのだけれど。
「でも尾崎くんも瀬川さんの気持ちには気付いているんだよね。だったら逆に尾崎くんを遠ざけるのはやっぱり不審がられるよね」
「そうよね。かといって瀬川さんの気持ちもわからないでもないし」
うーん、と皆は悩む。私のために考える必要なんてないと思うのだけれど、こういうのをお人好しというのだろうか。
「で、お前ら一体何の話だ」
そういえばまだ和久井くんには何も話していないから、どうやらこの流れを彼は理解できていないようだ。……でも、和久井くんに話しても無駄な気がする。頭悪そうだし。
暫くして尾崎くんが戻ってきた。私たちはなんでもないように雑談に戻り、残りの時間をすごした。
そして放課後。今日は特に瀬川との約束をしているわけではないが、暇な時間は七海さんや響くんの依頼をこなしておかなければならないため、僕の足は自然と瀬川のほうに向かう。
「瀬川」
「え、ああ。何?」
僕が話しかけただけで固まる瀬川。……いつも通りでいいと言ったのに、この調子じゃこっちが困るよ。まあ、仕方ないか。
「今日はどうする? このまま図書室に行くかい?」
「……そのことなんだけれど。今日は二人別々に行動してみない? 尾崎くんが鈴木くんと話をしてきて、私は久家さんと話をしてくるの」
なんだかんだ理由をつけて僕と離れたいだけなんじゃないだろうか瀬川。
「まあ、そうだな。二人で同じところに行くよりは、分担したほうが確かに効率はいい。分かった。帰りはどうする?」
「帰りは……。昇降口で」
「了解。瀬川、一つだけ僕のお願いを聞いてくれるかな」
瀬川の体が硬直する。なんだよ、なんでそんなに緊張するんだよ。まるで僕が弱いもの虐めでもしているみたいじゃないか。
「……早くいつもの瀬川に戻ってくれよ。僕は待ってるからさ。……じゃ、また後で」
僕は言い残して瀬川の元を離れた。……言っている僕も恥ずかしいんだから、早く元通りになって欲しい。
廊下で和久井に遭遇した。こいつはいつでも無愛想な顔をしている。
「よ。今日も一人か、和久井」
「お前も一人なんだな。瀬川の奴はどうした」
「まだ教室。今日はちょっと別行動だよ。僕はこれから美術室に行くんだけれど、お前どうする?」
「俺は別にお前に付き合う理由はねえだろ。先に帰る」
ま、そうだろうな。昨日はただ瀬川に脅されて一緒に居ただけだから。
「分かった。じゃあな」
和久井は僕に背を向けて昇降口のほうへ向かっていった。その背中を見送った後、僕は美術室へ向かう。
美術室に到着し、中に入る。教室の前半分に居座っている美術部員は僕の姿を一瞥すると、やはり知らん顔で己の作業に没頭し始めた。昨日瀬川が言っていた、美術部員が連れてきている部外者の姿もあるようで、やはり僕の事を追い出す資格はないらしい。と言っても僕も部外者ではあるので、余り長い間居座りたくはない。とにかく用を済ませて早く帰りたいところだ。
「おや蒔良先輩じゃないですか。今日は奈々実先輩や和仁先輩は一緒じゃないのですか」
僕の姿に気付いた菊地ちゃんが寄ってくる。この子も相変わらず他の部員たちと一緒には居ない様だ。……瀬川との関わりを持っているからって、そう頑なに他人を否定する事もないだろうに。
「まあね。今日は別行動だよ。まあ、ただ雑談をしに来ただけという感じなんだけれど。鈴木くんは居るのかい?」
「正時先輩なら今日もあの小部屋ですよ。……いくらお兄さんの作品だからと言っても、見すぎな気もするんですけれどね」
「肉親の遺した作品だ。それだけ思い入れがあるということなんだろ」
それでもやはり多少は気になるかな。いくら肉親の作品だとは言え、兄の遺した作品は何もあれだけではあるまい。あの作品だけに固執するというのは他にも理由があるのかもしれない。けれど、それは僕が知る必要のないことだろう。
「そうですよね……。うーん。まあいいでしょう。では蒔良先輩は、今日のところは単に三人でおしゃべりを楽しみたいと」
「そんなとこかな」
「分かりました。今呼んでくるので座って待っていてください」
菊地ちゃんはそそくさと、カーテンで仕切られた小部屋へと消えていく。僕はその間、近くの椅子に座り、その辺に置いてある画材やら工具やらをいじくりながら、今日の瀬川の事を考えていた。
僕が知らないうちに瀬川に何か嫌な事でもしたのかもしれない。でも機嫌が悪いというわけでは無さそうだったし、やはり昨日の事を気にしているのかもしれない。もしかすると、昨日の時点では理解していなかった自分の気持ちに理解でき、ただ単に恥ずかしがっていただけなのかもしれない。……いや、瀬川が素直に恥ずかしがる性格なのかどうかは怪しい。うーむ、分からない。
「どうしたんですか蒔良先輩。そんな難しそうな顔をして。頭の中でパズルでも解いているんですか? それとも、そこにある道具たちをどのように改造してやろうかと悪巧みしているところですか? もしかして、今日奈々実先輩が居ないのは、蒔良先輩によってなにか妙な事をされたからじゃあ……」
「いや、何を言っているんだ菊地ちゃん」
「いやあ来ないで! わたしを連れていかないでください蒔良先輩! 奈々実先輩には悪いですけれど、やっぱり自分の身が可愛いので逃げていいですか!」
一体この子は僕のことをどう思っているのだろうか。変なマンガを読みすぎて頭がファンタスティックになっちゃんてるんじゃないだろうな菊地ちゃん。
「あのねえ菊地ちゃん……」
「こ、怖いです蒔良先輩。でも大丈夫、わたしには正時先輩という頼りになる先輩が……。……………………ごめんなさい正時先輩。やっぱり頼りにならなそうです」
「菊地さん、それひどくないかい?」
あ、居たんだ鈴木くん。菊地ちゃんの存在感がすごすぎて気付かなかった。
「でも正時先輩。そんな細い身体でどうやってわたしを助けられますか。……囮くらいにはなりそうですけど」
あくまで先輩に対してなんて言い草だ。いや、間違っちゃいないけど。確かに鈴木くんはボディーガードとしては全く頼りにならないけど。……ふむ。どうせ鈴木くんについての情報はほんのついでという事だから、もうしばらく菊地ちゃんの遊びに付き合ってやろう。
「菊地ちゃん。実はね、僕は君に言いたいことがあるんだよ」
「な、なんでしょう蒔良先輩」
鈴木くんの背後に隠れる菊地ちゃん。でも全然壁になってない。菊地ちゃんの背はあまり高くはないし、鈴木くんはそこそこの身長があるが、それでも鈴木くんの体格では壁というにはいささか無茶がある。
「実はね。僕がこれから菊地ちゃんに言う事は、瀬川には聞かれたくないことなんだ。……だから、今日は瀬川とは別行動なんだよ」
「……蒔良先輩がわたしに?」
「ああ、とってもプライベートな用事でね」
「プ、プライベート……。なんだかドキドキする響きですね。まさか、愛の告白ですか!?」
はやとちり過ぎる菊地ちゃんだった。まあ、それもいいだろう。むしろその方が面白いかもしれない。鈴木くんはなんだか所在なさげにしている。
「あの、尾崎くん。僕はどうすればいいのかな?」
「いや、別にここに居てくれて構わないよ。すぐ済むからさ」
僕は菊地ちゃんの目をまっすぐに見つめる。じっと見つめる。菊地ちゃんの瞳を掴んで離さない。その視線を独り占めにする。
「な、なんですか……。そんなに見つめられると、恥ずかしくなってきます……」
菊地ちゃんの視線が泳ぐ。頬もだんだんと赤く染まり始め、僕は菊地ちゃんの側に寄る。そして耳元で、菊地ちゃんだけに聞こえる声で、こう、呟いた。
「好きだよ、菊地ちゃん」
「ぶふぉっ!」
菊地ちゃんは奇妙な声を上げて僕の目の前から一歩で下がる。顔が真っ赤だ。いやあ、そこまで威力があるとは思わなかった。
「愛してるよ」
「げふぉっ!」
今度は鈴木くんにも聞こえてしまうくらい堂々と言い放つ。
「僕には君しか居ない」
「あびょっ!」
その度に菊地ちゃんが奇怪な音声を発するが、もしかしてわざとではないのだろうかと思えてきた。
「世界で誰よりも、君だけが大切だ」
「がひょっ!」
どう驚いたらそんな声を出せるんですか菊地ちゃん。
「結婚しよう」
「どぶぇらっ!」
今のはどうやって発音したんだい菊地ちゃん。僕は菊地ちゃんの様子を伺う。なんだか死闘を繰り広げた戦士のような息遣いで僕の方を見つめている。
「はあ、はあ、なんという攻撃力でしょう蒔良先輩。いきなり何をおっしゃりまするか!}
動揺しているのかどうなのか。日本語までおかしくなってきてるし。
「……すみません、取り乱しました。まさか、本当に愛の告白だったとは。……でも、それって……」
「僕じゃ……だめかい?」
僕はわざとらしい演技で菊地ちゃんに言い寄った。菊地ちゃんは僕の顔を見ないようにして、赤くなった顔で小さく応えた。
「い、いやじゃないですけど……その、急すぎると言いますか、心の準備が……」
「急なのは分かっている。僕たちが言葉を交わしたのは昨日が初めてだからね。……でも僕にはそれだけで十分だった」
「あ、えと。その。少しだけ時間をください。わたしにも考える時間を……」
「だめ、待てない」
僕は菊地ちゃんの言葉を遮って菊地ちゃんに言う。菊地ちゃんは余計焦った顔をして慌てている。ふむ、面白い反応だ。もしかして瀬川も僕に脅しをしているときはこんな気分なのだろうか。
「……あ、の。それって、本当ですか?」
「どう思う?」
「本当だったらわたし、断る理由がないというか……あわわわ、何を言っているんだろうわたし、冷静になれわたし、こういう大事な事はすぐには決めちゃ駄目なの。でもでも、この場で先輩の気持ちを無碍にするわけにはいかないでしょうし、ああああどうすれば」
うむ。だんだん動揺してきたな。
「さあ、早く答えを」
「ええええ。どうしようどうしよう、こんな展開少女漫画でも見たことありませんよ! 少女漫画読んだ事ないですけど。でもでも、現実は小説よりも奇なりって言いますし……ええっとええっと、なんて言えばいいのか、ま、蒔良先輩……」
「なんだい菊地ちゃん」
「最後に、本当に、これだけは確認させてください!」
菊地ちゃんが決意の表情で僕の顔を見る。もう決心はついたようだ。ならば僕もそろそろ、いつも通りの僕に戻ろう。
「これは、冗談ですよね!」
「うん。冗談だよ」
「ですよねー」
どうやら途中から見抜いていたらしい。あっさりと素に戻る菊地ちゃんだった。どうやら菊地ちゃんもかなり察しがいい方らしい。ノリがすごい。
「まあ、蒔良先輩に限ってありえないと思いましたしね」
「ん? どういうことだい?」
「……いいえ。なんでもありません。蒔良先輩は雅時先輩に用があるんでしたよね」
菊地ちゃんも僕に隠し事でもあるのだろうか。いや、まさかな。瀬川は休み時間はずっと教室にいたから今日は菊地ちゃんとは会っていないはず。
「……まあ、用というほどでもないよ。瀬川の用が終わるまで、三人で雑談でもと思っただけさ」
「じゃあ正時先輩、こっちこっち」
いつの間にか遠くへ離れていた鈴木くんを手招きする菊地ちゃん。鈴木くんは近くの椅子に座り、こうして僕たちは三人で雑談をする態勢に入る。
「それにしても尾崎くんは瀬川さんと仲が良さそうだったね。まだ知り合って間もないんだろう?」
「ん? ああ。春休みの時に僕が瀬川に話しかけてから、かな。実際はまだ四日しかろくな会話をしていないんだ」
春休みのときは僕が一方的に喋っていただけで会話自体は成立していなかったのだけれど。
「ふうん。四日でも、あの瀬川さんとそこまで仲がよくなれるというのはすごい事だね。僕は未だに苦手だな、あの人が」
「そういえば鈴木くんも瀬川と普通に会話できてるよね。顧問の先生と美展の打ち合わせをするくらいだから部内の立場としては大変なんじゃない?」
僕は美術室の前半分に集まっている美術部員の方を見遣る。相変わらず彼らは僕たちのことなど見えていないように黙々と作業を続けている。
「僕は一応部長なんだけれどね。でも、だからこそ、同じ部員である瀬川さん一人を放っておくわけにもいかないさ」
「そういうもんかな」
鈴木くんも鈴木くんでそれなりの理由をもって瀬川と接しているようだ。でも、それって仕方なく関わっているという風にも聞こえる。……鈴木くんの本心はやはり、瀬川とは距離をおきたいと思っているのだろうか。
「でも蒔良先輩こそ良いんですか?」
「僕は別に構わないさ。自分の、単なる好奇心、みたいなもんかな。それで瀬川に近づいて、瀬川に話しかけて、瀬川と一緒に居るんだ。後悔はしてないよ。それにね」
「それに?」
「昨日はそのことでクラスメイトたちと一悶着起こしちゃってね。でも、それによってクラスの皆も瀬川のことを単なる異常な人ではなく、同じクラスの一員として認めてくれるように少しはなったんだよ」
それでもまだ全員がやはり認めたわけじゃないのだろう。できれば関わりあいを持ちたくないと思っているクラスメイトはまだまだいるはずだ。別に彼らを説得しようというわけではないが、最終的に、卒業式には全員が全員を認め合うようなクラスになれればいいと、僕は思っている。
「そうなんですか。それほどまでに蒔良先輩は奈々実先輩を大事に思っているんですね」
そうなのだろうか。自分でもよく分からない。
「……尾崎くん、君はいい人だね。でも、それならなおの事、今は瀬川さんの側に居なくてはならないんじゃないのかい?」
「それは分かってる。でも、今日の瀬川はなんだか僕を遠ざけているようだった」
「遠ざける?」
……しまった、余計な事を口走ってしまった。
「それってどういう意味だい?」
仕方ない、白状するか。
「なんだか話をしようとしてもすぐに目をそらされるし、皆とは普通に会話をしているみたいだったのに、僕には内緒みたいな、そんな感じで皆からは言われるし」
「そういえば蒔良先輩。昨日奈々実先輩と二人で残って何話してたんですか」
「えーっと、それこそプライベートだから言いたくはないんだけどね。うーん、やっぱり関係あるのかなあ」
僕は瀬川が僕に抱いている感情の正体を知っている。もしかしたら、昨日の時点でその気持ちに応えてやらなかったから怒っているのかもしれない。瀬川は素直じゃないから、普通に怒るという事を知らなくて、あんな態度をとってしまったのかもしれない。
「……なんにせよ、今瀬川さんが一人で居たいと言うのなら、尾崎くんはそれに従うしかないんだろうね」
「そうなんだよね」
でも、瀬川はやっぱり今日も僕と一緒に帰りたがっているみたいだから、今は心の整理をつけているのだけで、帰りまでにその気持ちに決着をつける腹積もりなのかもしれない。
「それで奈々実先輩の用事が終わるまでの、これはいわゆる暇つぶしというわけですか」
「そういうことだね」
本当は単なる暇つぶしではないけどね。
僕たちはその後、適当な雑談やカードゲームなどをしてこの時間をすごした。それでも瀬川のことが紛れるわけでもなく、僕は楽しみながらもずっと瀬川のことを考えていた。
今朝見た夢。僕の大切な占い師に言われたことを思い出す。あいつは、瀬川は僕の想い人だと言った。あれは夢だ。でも、僕があいつの事を好きになり、今はもう、人を容易に好きになってはいけないというのは本当の事だ。だから、もしも瀬川が自分の気持ちを理解し、その気持ちを僕にぶつけてきたら……。僕はそれに応えてやる事ができるのだろうか。あの占い師を傷つけ、今度は瀬川の事を傷つけてしまう事になるのだろうか。そもそも、僕は瀬川を救う必要があるのか? 僕にそんな義務はないはずだ。いや、たとえ義務がなくても、僕はあの夢の中で、瀬川を救ってやるとあいつの前で宣言した。たとえ夢の中だろうとも、あの気持ちも本物だ。でも、瀬川を救うってどういうことだ? 瀬川に孤独を感じさせないという事だろうか。皆に瀬川のことを理解してもらうという事だろうか。分からない。何が瀬川にとっての救いになるのか。分からない。これでは瀬川を救う事なんてできない。……あいつの時と同で。ただ側に居るだけで、何もできなかった、あの時と同じで。もし瀬川がそれでも許してくれると言っても、僕自身が僕を許せない。誰が僕を許そうとも、僕だけは僕を許す事はできない。
だったらどうする? 僕はどうすればいい? なあ瀬川、お前はその答えを持っているのか?
「尾崎くん?」
僕は鈴木くんの呼びかけで我に返る。窓の外を見ると、もうすでに日が沈みかかっていた。もうこんな時間か。
鈴木くんは菊地ちゃんに携帯電話を借りて、また迎えを呼んでいた。……瀬川ももう昇降口で僕のことを待っているかもしれない。
「ありがとう菊地さん。それじゃ、もう美術室を閉めるよ」
「ん? ああ。……そういえば鈴木くん、いつも誰に迎えに来てもらっているの? お父さん?」
さっきまでの雑談で全くと言っていいほど鈴木くんについての情報を得られなかったので、最後に聞いてみることにした。
「僕の家で働いてる家政婦さんだよ」
「家政婦さん?」
「うん。……父と母は僕が幼い頃に他界したよ。……今の家政婦さんは三人目、だったかな」
「……ごめん」
鈴木くんはいいよ、と言ってくれたが、やはり申し訳ない気持ちになった。既に家族三人に先立たれ、鈴木くんは辛いだろうな。……やっぱり、人の家の事情にそう安々と首を突っ込むもんじゃない。……はあ、嫌な依頼を受けてしまったもんだ。けれどこれでまた新しい情報が手に入った。響くんに話すというのも、気が引ける話だけれど。
「じゃ、菊地ちゃん、行こうか」
僕たちは三人で美術室を後にした。既に他の美術部員たちは帰っていたらしく、残っていたのは僕たちだけだ。今日はもう、瀬川と合流をして帰宅するだけ。
昇降口が見えてきた頃、菊地ちゃんが僕のことを制止した。
「もう奈々実先輩は来てますね。……じゃあ蒔良先輩。今日はここでお別れです。わたしは先に帰るので、あとからゆっくり奈々実先輩と帰ってください。じゃあ、行きましょうか、正時先輩」
ずいぶん気の利いた後輩だな。菊地ちゃんは鈴木くんと共に昇降玄関に立っている瀬川と二言三言会話し、そのまま外へ出て行った。僕はそれを見計らい、瀬川の方へと近づいて声をかけた。
「瀬川」
僕はなんだか、久しぶりに瀬川と会ったような、そんな気分になった。