第一章・006
美術室に到着し、僕たちが中に入ると、僕の目に映ったのはなにやら得体の知れない瓦礫の山とそれに埋もれる菊地ちゃんの背中、そして側には和久井が唖然とした姿で座っていた。
「瀬川、僕たちはどうやら場所を間違えてしまったようだ」
「そうみたいね。行きましょうか尾崎くん」
さて、何も見なかったことにしてその場を離れよう。
「ぐぐぐ。まくらせんぱい、ななみせんぱい、たすけてくださいよう」
瓦礫の中からうめき声が聞こえるが気のせいだと思いたい。いや、流石に無視するのは可愛そうだろうか。
「……で、和久井。その不燃ごみの山は一体なんなんだ?」
「見て分からんか。これは俺が作った芸術作品だ」
どこをどう見たら芸術作品になるんだ? いや、タイトルを「ゴミ」と名付けるのであればありえるかもしれない。だがそれだと逆に失礼じゃないか? ゴミに。
「それとお前らは場所を間違えてはいない。ここは美術室だ」
「僕にはただのゴミ捨て場にしか見えないのだけれど。その内異臭が放ってきそうだな」
「うう。なにをのんきなことを……」
和久井の作品に埋もれる誰かさんのことは放っておいてやろう。その方が静かだ。
「お前みたいな芸術とかけ離れた人間がどういう思考回路を持ったら何かを作ろうだなんて思えるんだ」
「いや。菊地の暇つぶしに付き合っていたら、昔の先輩だかなんだかが置いていった作品を取り出してきてな。仕方なく俺が完成させようと思い立ったわけだ」
「なるほど。それで、道具には何を使ったんだ?」
「金槌」
壊す気まんまんじゃねえかよ。和久井の手は創造するためにあるのではなく、破壊するためにあるのだと自分でも分かっているだろうに。
「とりあえず菊地ちゃんを助けてやりなよ」
流石にいつまでも生き埋めのままにしておくわけにもいくまい。
「? 菊地が何処に居るんだ。そういえば俺がコイツを完成させた瞬間どっか行っちまったけど」
「ぎぎぎ。かずひとせんぱいいつかころします」
「お前にはこの地獄からの亡者の声が聞こえないのだろうか」
作品のタイトルを変更せねばなるまい。「亡者の墓場」とかどうだろうか。……なんだか安っぽい名前だな。僕にネーミングセンスはないようだ。
「ううう……うがああああああああ!」
突然瓦礫の山が大噴火した。菊地ちゃんが大声を上げながら立ち上がる。おお、ずいぶんお怒りのようだ。
「ふふふ……和仁先輩。この怒れる地獄の魔王が蘇ったからにはただじゃ置きませんよ」
「菊地、俺の作品になんてことを……」
「ええスバラシイ作品でしたね和仁先輩。テーマは破壊とか崩壊とかそんな感じですよね! それともカオスですか。いずれにせよ、この可愛いキューティクル美少女な後輩を生き埋めにしておいてその態度は一体どういう神経構造をしているんですかあなたは!」
そんな大声を出したら他の美術部員の迷惑になるんじゃないのか。……と、思ったらいないな。とっとと退散したか。これでは美術部の先が思いやられる。
「というか菊地ちゃん。よく生きてたね」
「あと少しで死ぬところでした」
「それで綾子。鈴木くんはまだ来てないの?」
話を見事に一刀両断して割り込む瀬川だった。いつもはただ黙ってみているだけだったのに、流石に見兼ねたか。
「あー、そういえばまだ来てませんね。他の子たちもいつの間にか帰っちゃってるし、美展、どうするつもりなんでしょう」
大森先生との話がそれほどまでに長引いているという事だろうか。……これはこちらから出向くべきかな。
「そう。まあいいわ。和久井くん、綾子、このガラクタを片付けなさい」
「おい、これは一応作品で」
「か・た・づ・け・て」
瀬川の一言で同時に動き出した二人だった。案外似たもの同士だな和久井と菊地ちゃん。どっちもかなり馬鹿だ。
「それにしても遅いわね鈴木くん。このまま来なかったらかなり無駄足だわ」
「あの絵のことについては菊地ちゃんじゃだめなのか? 一応美術部員だし」
「綾子に聞いたってどうせ分からないわ。あの子、そこまでつっこんだ部活動はしていないし。なにより、見た通りの馬鹿だしね」
ま、どちらにせよ鈴木くんには結局用があるわけだし、まだ日は明るい。もうしばらく待っていたって大丈夫だろう。
和久井と菊地ちゃんが僕たちの背後でせっせと撤去作業を行っている。僕は瀬川と並んで椅子に座り、鈴木くんの到着を待っていた。その間何を話していいのやら分からず、時が過ぎる間、ただ黙っているだけの僕だった。
「……ねえ尾崎くん」
沈黙を破ったのは瀬川の方だった。美術室の戸を見つめて、瀬川との距離が一番近い僕にしか聞こえないくらいの小さな声で彼女は言った。
「運命って信じる?」
その声はどこか儚げだった。……全く。さっきもそうだけれど、コイツはいきなりこうやっておしとやかになって、僕に何かを伝えようとする。……もう少し場所を選んで欲しい。その、ムードってもんが皆無だ。
「さてね。僕は自分の人生が何かによって決定されているだなんて思いたくはないよ。けれど、例えば何かとても幸運な時に、これはこういう運命だったんだ、なんて言われたら、その時僕は一時的にでも信じてしまうだろう。逆に、とても嫌な事が運命だなんて言われたら、それを否定しちゃうんだろうな。そんな運命は認めないってね」
良いこと全てが自分の人生に関わってくるわけじゃないし、悪いことも全てを否定してしまえばそこから先の道は開けない
「そう。……そうよね。でも、そもそも運命って何かしらね」
「……それは誰にも解けない問題だと思うよ。解答は人それぞれ、でいいんじゃないかな。因みに瀬川はどう思っているんだ?」
「わからない。ただの人生と、どう違うのかしら。尾崎くんはどう思うの?」
「僕は、そうだな……。受け入れること、だと思うよ」
「受け入れる?」
「そ。良いことでも悪いことでも素直に受け止める。逃げないで受け止める。目を背けてばかりいたら駄目なんだ。どんな時でも受け入れて、その先を見つめて、見つめた先に見えた未来が、きっと運命なんだと思うよ」
言ってから後悔した。僕は何をえらそうな事を言っているのだろう。僕だって昔から今まで目を背けてきたことがたくさんあるのに。
「見つめた先に見えた未来……」
「……昔話でもしてあげようか」
「え?」
僕は瀬川に、僕がまだ小さかった頃の話を聞かせた。
「僕の友だちに女の子が居るんだけどさ。その子は昔、瀬川と同じように孤立していたんだ」
確か僕が小学六年生の頃だったと思う。あのときの僕も今と同じように特徴がないのが特徴と言われてたほど質素な子供だった。けれどどうしてか、その子と出会ったとき、何故だかは分からないが、運命めいたものを感じてしまった。馬鹿げた話、なんだけれども。
「その子は占いが好きだったんだ。つまり、そう、運命を見るということに憧れていた。僕が彼女と出会ったのは本当に偶然だったんだ。僕がたまたま拾った筆箱の持ち主がたまたまその子だった。それをそいつは、これは運命的な出会いだって言ってね。僕が、いや、偶然だ、って言い張っても聞かなくてね」
あいつの顔はとても輝いていた。その時はまだ、自分の人生に生きがいを見出せていたんだ。……けれど、中学に入ってから彼女は変わってしまった。
「小学生の内はまだ占いを信じる可愛い女の子程度の認識だった。けれど、中学に入って、その子自身が占いに手を出し始めると、とうとう周りも、本格的に彼女の事を避け始めた」
「たかが占いでしょ? そうそう当たるものじゃないし、孤立するほどの趣味には思えないのだけれど」
そう。普通ならそうだ。大人たちでも占いを信じる人や、占いを生業としている人たちも大勢居る。それがただの占いなら、孤立するというのはおかしな話なのである。
「けれど、彼女は孤立した。それは彼女の占いの的中率が異常なまでに高かったからだ」
「……え?」
「人とかけ離れた特技を持つ人間というのは良い意味でも悪い意味でも注目される。その子は占いの才に秀でいたんだ。運命を見ることができた結果、周囲から気味悪がられた。……その子の両親からも」
中学に入ったばかりのあいつを両親が手放すまでの期間は一年を切った。彼女の両親は世間からの風評をひどく気にする両親で、彼女を捨て、すぐに遠くへ引っ越してしまったのだ。
「……そんな」
「運悪く彼女の親戚はどれも遠いところに住んでいて、一銭も持たない彼女は一人で町をさまようようになってしまった。中学も通わなくなって、僕はそんなあいつのことを放っておく事はできなかった」
家へ来るかと誘った事もあった。だがそいつは、どうせお世話になっても迷惑をかけるだけだからと、僕の誘いを断った。
「運命を見続けた結果、あいつは住む家も財産もなにもかもを失ってしまったんだ」
「……そう。運命っていうのは本当に、残酷でもあるのね。……それからその子はどうしているの?」
「今は懲りずに占い師をやってるよ。川の近くに防空壕があってね、そこでホームレスをやってる。占いで数日分の生活費を稼いで、占い以外の時間は大抵寝てるよ」
そいつは僕と同い年で、彼女が孤立した後も僕はあいつの側に居た。それでも、自分の心が痛まないように、痛んでも忘れられるようにと、あいつはよく眠るようになった。眠っている間は悪夢さえも見なくて、とても幸せなんだとあいつは言っていた。……あいつが現実を受け止め、見出した未来は……。
「……だから、あいつの人生がそういう運命だったなんて、僕は思いたくはない。例えそうだとしても、一番近くにいた僕がその運命を捻じ曲げてやれなかったんだ」
「…………」
「だけどあいつは、僕に側に居てくれてありがとうって言ったんだ。相変わらず、僕と出会ったのは運命だったんだって、微笑んでてな」
自分の現状を理解したうえで、あいつは自分自身を苦しめた占いという道を突き進んだ。並の神経でできることじゃない。
「辛気臭い話をしちまったな。忘れてくれ」
「いいえ。……でも、じゃあ……」
瀬川が僕の顔を見つめ、
「……私と尾崎くんが出会えた事は運命なのかしら」
僕は、瀬川とあいつは似ているな、なんて事を考えていた。
そのとき、廊下から誰かの足音が聞こえ、まもなくして美術室の戸が開かれた。そこに立っていたのは蒼白で痩せた少年だった。
「おや、何やらおそろいで。はじめましての人もいるようだね」
その少年は儚げな微笑を浮かべた。なんだか今にも倒れてきそうなほどの貧弱さだ。栄養足りてるのか?
「鈴木くん。あなたを待っていたのよ」
ようやくのお出ましか。一見すると、響くんが警戒するような人物じゃ無さそうだけれど。人は見た目では判断できないか。
「もう、正時先輩遅いですよ! 他の部員はもうみんなとっくに帰っちゃったです!」
「あー、そうみたいだね。ごめんごめん」
いや、帰ったのは多分僕たちのせいかと。
「えーっと、君が鈴木くん?」
「? そうだけど」
「僕は尾崎蒔良。あっちのでかいのは、知ってると思うけど和久井。瀬川が鈴木くんに用があるってんでその付き添いで来たんだけれど」
「付き添いじゃないでしょ」
付き添いだろ。僕はあの絵については特に興味があるわけじゃないんだから。かといって、一応初対面である僕が用などと言えるわけないし。
「……まあいいや。僕は鈴木正時。はじめまして。二人とも、よろしくね」
「…………」
和久井は相変わらず憮然とした態度をとっていた。全く、そう初対面の人間に対していちいち喧嘩売るような態度をとるなよ。
「尾崎くん。彼は怖いね。……僕なにかしたかな」
「いや。和久井はデフォであれだから気にしないほうがいいよ」
「そうなんだ」
「それで鈴木くん。あの首のない絵のことなんだけれど」
瀬川が本題に乗り出すと、菊地ちゃんが突然騒ぎ出した。……今度はなんなんだよ。突然暴れだす病気でも患ってるンですか菊地ちゃん。
「ぎゃー! 奈々実先輩駄目です怖い話は嫌いですわたしは耳を塞いでいます!」
「……綾子。今後のために言っておくわ。……こういう話を聞いておくと、この先何があっても絶対に恐怖を感じる事はなくなるの」
なに適当な事言ってやがるんだ瀬川。菊地ちゃんは恐ろしい形相で瀬川の事を見ている。
「ほ、本当ですか」
「用は慣れよ。人が恐怖を克服するという事は大変な事なの。いい? 綾子。あなたもいずれ出会うことになるであろう、人生最大の恐怖に立ち向かうには、必要な事なのよ」
人生最大の恐怖ってどんなことだろうか。僕は自分なりに想像してみた。やはり死ぬ瞬間だろうか? いや、死ぬ瞬間ってのは自分の人生を振り返れるほど案外冷静らしいからな。となると、テロリストに襲われたとか、受験戦争が激しい、とかだろうか。……ぱっとしないな。
「人生最大の恐怖ですか」
「そうよ。例えば、あなたが将来一人暮らしをするときにアパートの一室を借りて、その部屋が大量のゴキブリで埋まっているとき、あなたはそいつらに立ち向かわなくてはならないのよ」
「ぎゃー! 確かにそれは怖いです、最悪の恐怖です。今のわたしじゃ太刀打ちできません! 多分自殺します!」
おそるべしゴキブリパワー。部屋を埋め尽くすほど大量だったらゴキブリじゃなくても怖いがな。……猫とかだったら可愛いかもしれない。
「ロシアンルーレットやバンジージャンプ、或いは会社の社長を目の前にして最大の失敗をしたとき、あなたはそのどれをも乗り越えなくてはならないのよ。あなたにその心の強さがあるかしら?」
ロシアンルーレットやバンジージャンプなんて経験する人の方が少ねえよ。かなり限られた恐怖を例えにしたって説得力ねえ。
「……ぶるぶる。いいえ、絶対に耐える自身がありません」
「わかったかしら綾子。これはあなたにとって試練なのよ」
「……ぐぐぐ、わかりました。奈々実先輩。わたし、どんな怖い話でも聞く覚悟はできました! さあ、どんとこいです!」
うおおおおっと雄たけびを上げる菊地ちゃん。感情の表現方法が極端すぎるな、見てて面白いが。暇があれば菊地ちゃんをからかって遊んでみたい。どういう反応をするのか楽しみだ。
「まあ、冗談なんだけれどね」
「はい。知ってます」
知ってたのかよ。お前ら打ち合わせでもしてたのか? かなりスムーズな掛け合いだったぞ。
「……もういいかい?」
待ちあぐねた鈴木くんが声をかけ、二人は鈴木くんに注目する。和久井はかなり退屈そうにしている。
「ええ。あのカーテンで仕切られた小部屋に飾ってある、首が描かれていない絵画について、何か知っていたら教えて欲しいのよ」
「ああ、あの絵か……」
鈴木くんはなんだか遠い目をしている。……なんだろう、あの絵に対して何か思い入れでもあるのだろうか。鈴木くんは近くの椅子に腰掛け、話し始めた。
「……あの絵はね、昔、僕の兄さんが描いた絵なんだ」
「!?」
それは予想外だ。てっきり他の生徒が書いた作品か、卒業生が残していったものかと思っていたから。
「数年前にね。兄さんは張り切っていたよ。この絵が完成したら、最優秀賞だって夢じゃないってね」
「お兄さんは?」
「……あの絵をコンクールに出す前に、事故に遭って死んだよ」
「……ごめんなさい」
最優秀賞を夢見ていたほどの作品なのだから、やはりそれだけ思いいれがあったのだろう。……だが、その作品を遺して鈴木くんのお兄さんは逝ってしまった。
「いや、いいさ。それからあの絵は僕が引き取ったんだけれど、あの絵が既に完成したものなのか、未完成の状態なのか、僕には判断がつかなくてね」
「それで学校に置いてあるのね」
「あの大きさだろう? 運ぶのも一苦労だし、もし手がけるのであれば、家でやるには狭いしね。……なにより、美術室に置いておいた方が、兄さんの作品がみんなに見てもらえるだろうからと思っていたんだけど、やっぱり踏ん切りがつかなくて……。それで、あんな小部屋にひっそりと飾ってあるというわけさ」
完成品なのか未完成なのかで迷い、手がけるべきか否かで迷い、一般生徒たちに公開するかどうかで迷い、迷い多き作品には、作者と、そして鈴木くんの思念が込められているような気がした。
「……そう」
「ふふ。あの絵がそんなに気になるかい?」
「ええ、なんだか不思議な感じがして」
「ありがとう。それがたとえどんなものでも、自分が死んだ後も自分の作品がなんらかの評価をされるというのは兄にとっては喜ばしい事だろう。勿論、僕にとってもね」
……それが、鈴木くんを傷つけないように言葉を選んだものだとしても、か。瀬川のあの絵に対する評価は先日聞いた。……不安になると、彼女はそう言っていた。それは僕も思ったことだし、きっと、鈴木くんだって一度はそう考えた事もあるのだろう。
「あの絵についてはもういいかな? 正直なところ、兄さんがどんな思いであの絵を描いていたかは、弟の僕でも良く分からないよ。兄さんの芸術の腕は、僕よりも何倍も先に進んでいたから」
「……そうね。ありがとう鈴木くん。貴重な話を聞かせてくれて」
「お役に立ててなにより。……じゃ、僕はあの絵を眺めてくるよ。どうぞゆっくりしていってね」
鈴木くんは言い残して、カーテンで仕切られた小部屋へと消えていった。
鈴木くんの話は瀬川にとって有益なものだったのだろうか。瀬川がどうしてあの絵について詳しく知りたいだなんて言い出したのは、単に美術部員としての好奇心なのか、はたまた単なる気まぐれなのか、それは分からなかったが、いずれにせよ、あの絵に関してこれ以上の情報を彼から聞くことはできなさそうだ。
「うーん」
瀬川はそれでも何か考えているようだった。
「どうしたんだ瀬川。何か気になることでもあるのか?」
「そうじゃないんだけれど。私たち無関係の人間のあの絵に対する評価と、作者の弟である鈴木くんの評価はまた違うじゃないかって思ってね」
「そりゃあそうだろうよ。でも、そんな事知ってどうするんだ?」
「そうよね……」
……? なんだろう、瀬川の奴。そんなにあの絵が気に入ってしまったのだろうか。
「それにしても、全然怖い話じゃなかったじゃないですか奈々実先輩」
「ええ、そうね」
期待してたのか安心したのかどっちなんだ菊地ちゃん。
「それで、お前らそんなことを知ってどうするんだよ。俺はその、首のない絵ってのを見たことねえからなんとも言えねえが」
見たって分からないと思う。僕だって分からないし。
「どうもしないんじゃないかしら。……でも尾崎くん、一応、立川くんに報告できるような情報は手に入ったんじゃない?」
「……そうだな。だとすればあながち無駄じゃないか。むしろ、自然に会話できるネタが事前にあってよかったかも知れない」
響くんに報告できる事といえば、彼には昔、芸術に秀でた兄が居て、その兄が既に亡くなっているということ。美術室には鈴木くんの兄が描いた首なしの人物画が置かれているという事。……でも、これって一応個人情報だし、鈴木くんの断りなしで喋っちゃって良い問題なんだろうか。最近、色々気が引けるようなことばかりしているな、僕は。
「じゃあ帰るか? 瀬川。もうここには用はないだろ」
「……それもそうね」
「あのなあお前ら。俺をここに連れてきた意味はなんなんだよ」
言われてみれば、和久井をここに連れてきても意味なんてなかった。単に菊地ちゃんの相手をして、無駄にゴミを増やしていただけではないのだろうか。
「だったらその絵を俺にも見せてみろよ」
「和久井に絵を見せてもなあ。大事な作品だし、壊されても責任取れないぞ」
「見るだけだっつの」
まあ、別にいいか。一応鈴木くんの話を聞いた手前、和久井にもあの絵を見てもらおう。馬鹿の馬鹿なりの意見をたまには聞いてやっても罰は当たらない。
というわけで、菊地ちゃん以外の三人は例の絵が飾られている小部屋へ入る。中に入ると鈴木くんが椅子に座って絵を眺めていた。
「おや? みなさんお揃いで」
「ちょっと狭いわね、流石に」
確かに、こんな小さな部屋に四人も入ると窮屈だ。和久井の図体がでかいだからなあ。
「ふふ。どうぞ。僕はもう散々見ているからね」
鈴木くんが立ち上がるが、瀬川がそれを制した。
「いいえ。まだちょっと居てくれるかしら。この絵について何か気がついたことがあったら聞きたいから」
「……うん、いいよ」
さて、改めてみると、鈴木くんのお兄さんには悪いが、どうしてこんな絵が描けたのか不思議だ。この絵を間近で見るのはこれで二回目だが、やはりどこか不安だ。
「これがその絵か。……で、この絵の事なんか知ってどうするつもりだよ」
「いや、ただの興味本位だよ。和久井はこの絵を見て、どう思った?」
「……さあな。俺はやっぱり、絵なんてもんはさっぱりわからねえ。けどよ、なんだろうか、この絵、ちょっと変だな」
この馬鹿も僕たちと同様の意見らしい。この絵が僕に不安を与える要素といえば、ひとつは、首が描かれていない事だ。人の形をしているのに、それが不完全なものだと人間は恐怖を覚えるというのは心理的に当然のこと。もうひとつは、この絵に描かれている人物の性別がわからないこと。人を判断する上で性別というものはとても重要だ。性別がはっきりしないというのは、その人物に対してどのように感じるべきか分からないということ。
「鈴木くん、この絵の人物は男性なのかな、それとも、女性なのかな」
「ごめん、尾崎くん。そう言われると、この絵には首も描かれていないし、輪郭もなんだか曖昧で、僕には判断できないな」
「そう。ありがとう」
人体は性別の違いで肉体の輪郭が異なる。……それすらも曖昧だなんて、なんともはっきりしたものがない絵である。
「……ちっ。面倒な絵だな。おい鈴木、この絵の人物にモデルはいるのか?」
和久井が鈴木くんに尋ねる。
「……ごめん。兄さんはこの絵に関しては何も言わなかったからね。モデルについても特に何も。首は元々描く気がなかったのかもしれないし、これから描くつもりだったのかもしれないし。お役に立てなくて申し訳ない」
或いは全く題材というもの決めていなかったのかもしれない。鈴木くんのお兄さんがどういう想いでこの絵を描いていたかはわからないが、なんらかの思い入れはあったことだけは確かなはずだ。鈴木くんがこの絵を大事にしていることからもそれは理解できる。
「ありがとう、鈴木くん。もういいわ。それじゃみんな、帰りましょうか」
「ああ」
瀬川がそう言うので僕たちはそろって小部屋から退室した。菊地ちゃんはもう後片付けを終え、下校準備も万端なようだ。
「あら皆様もお帰りですか。じゃあせっかくだし一緒に帰りましょう!」
「そうね。今日は賑やかになるわね、尾崎くん」
ま、どうせ坂道を下った先の交差点までは誰でも共通の帰り道なのだから、わざわざ別々に帰るというのもおかしな話か。
「その前に、菊地さん」
「あ、そうでした」
僕たちがいざ帰ろうというところで鈴木くんに呼び止められた菊地ちゃんは、なにやら携帯電話を鈴木くんに貸しているようだった。
「もしもし。はい。……いつもすみません。いえ。……では」
どこかへ電話をし終えた鈴木くんは菊地ちゃんに携帯電話を返すと、自分には迎えの人が来るから、一緒には帰れないと言った。
「迎え?」
「はは。お恥ずかしながら、僕は生まれつき体が弱くて。学校前の坂道も上り下りが大変なんだ」
確かに見た感じ丈夫では無さそうだけれど。まあ、人それぞれの都合があるし、あまり詮索するようなものではないだろう。
「分かった。じゃあね、鈴木くん」
「ああ。美術室の鍵は僕が閉めておくから」
……鍵。いつもは閉めているのか。でもなんで昨日は鍵が開いてたんだろう。昨日は部活がなかったはずだから、鈴木くんも部には顔を出していないはずだしな。まあ、大森先生が開けっ放しにしていたのかもしれない。
「菊地ちゃん。鈴木くんは携帯電話を持っていないのかい?」
「はい。帰りはいつもわたしに携帯借りてるので持ってないんだと思いますよ」
自分で持っておかないと大変なんじゃないだろうか。その迎えを呼ぶにしても、菊池ちゃんがいないときとかは困ったりしないのだろうか。……でも、いざとなれば、学校にも公衆電話が設置してあるし、困らないのかもな。
「にしても、腹減ったな」
学校を出ると和久井がぼそっと言った。確かに、夕飯時にはまだ早いが、それでも食いたい盛りの学生にとっては空腹を催してもおかしはない時間帯だ。
「じゃあみんなで何か食べに行きませんか!」
誰か言い出すかと思ったが、真っ先に手を挙げたのは菊池ちゃんだった。
「そうね。尾崎くん、どこか良いお店知ってる?」
「そうだなあ。最近外食なんてあまりしないし、何が食べたいかにもよるけど」
瀬川の家の近くにある商店街はこの時間帯はかなり混むし、駅前も、商店街ほどではないがそこそこ混む。
「お手軽にラーメンなんてどうでしょう」
「ラーメンか。ラーメンといえば和久井、お前この前、変なラーメン屋見つけたとか言ってなかったか?」
なんでも、そのラーメン屋は考えられないような普通でないメニューが存在するらしい。和久井がそのメニューに挑戦し、その内容を僕に教えてくれたのだが、半信半疑で今日まで過ごしてきたのだ。
「だがお前、あの時は全然信じなかったじゃねえか」
「あの時はあの時だ。どうせ行くなら大勢で行くほうが楽しいだろ。それに、お前の話がどこまで本当なのか、確かめるにはもってこいだ」
「……いいだろう。ただし行くなら、全員でそのメニューを注文するぞ」
えー……。それは流石に。どんな際物が出てくるか分かったもんじゃないし。
「面白そうじゃない。私はそのラーメン屋さんで構わないわ」
「色々なものに挑戦するというのはすばらしい事ですね、奈々実先輩!」
「決まりだな。腹括れよ」
全く物怖じしない瀬川と菊地ちゃんだった。瀬川は最初から期待していないが、菊地ちゃんもそうか、面白そうな事は放っておけない性質か。
そのラーメン屋というのは交差点を直進し、少し複雑な道を歩くとその姿を現した。見た目はごく普通のラーメン屋だ。中に入りメニューを見ると、醤油、味噌、塩などの通常のメニューに加え、メニューの最後に、マル秘ラーメンというメニューが書かれていた。和久井が店長に、そのマル秘ラーメンを四人分注文する。店長は少し驚いた風にしたが、すぐに喜んで厨房に入った。
「あれが和久井の言っていた変なラーメン、か?」
「そうだ。マル秘ラーメンを頼むと、複数ある隠しメニューの中から店長が気まぐれで選んだラーメンが運ばれてくるんだ。どんなラーメンが運ばれてくるかは、客には全く分からない」
ロシアンルーレットかよ。つうか、隠しメニューってそんなにあるもんなのか?
「安心しろ。食えねえものは一切出てこない」
出てきたらそれはクレームものではないだろうか。……マル秘ラーメンについての注意書きは、注文したらどんなものが出てきても文句言わず食べる事、だった。注文するくらいなら責任もって食えということだろう。
「マル秘ラーメンを注文しておいてそれを残すと店長はすげえ怒るからな」
なんだか緊張してきた。……一体どんなものが運ばれてくるのか。
「楽しみね。ふふふ。間抜けにうろたえる尾崎くんの姿を見れるとなると、胸が熱くなるわ」
「何を期待しているんだ瀬川。僕はうろたえないぞ。どんなラーメンが運ばれてこようとも、僕は決して冷静さを失わない」
「どこまで本気か、見せてもらうわよ、尾崎くん」
「望むところだ」
一体何の勝負をしているんだ撲は。まあ、たとえ変なラーメンっていったって、ご当地的なレベルの変り者メニューってところだろう。その程度なら、流石にうろたえるほどじゃあ……。
「へいおまち! マル秘ラーメン四つね」
……あいた口がふさがらない。なんだこれは。これはラーメンなのか?
「う、うろたえてるわね、尾崎くん……ふふふ」
「何言ってるんだよ瀬川……僕は、至って冷静さ。ははは、お前こそ、うろたえてるんじゃないのか?」
どっちもうろたえていた。引き分けってところか。……いや、でもこれは、マジでなんなんだよ。店長が盆に載せられた四種類のラーメン(らしい)を適当に四人に配っていく。僕の前に置かれたラーメンは、なんだか見た目に色気がない。白い。他の三つに比べれば、辛うじてラーメンの体は成しているといえるが、食ってみないことにはどんなモノか分からない。瀬川の前に置かれたラーメンはひたすら黒い。どこかのご当地ラーメンで黒いラーメンはテレビで見たことがあるが、そんなレベルじゃない。どんな材料を使ったらこんなに黒くなるんだってくらい黒い。もう、まず、中身が全く分からない。具になにが入っているかとか確認できない。むしろ闇を目の前にしている感じ。和久井の前に置かれたラーメンはもはやラーメンの形をしていない。なんていうか、芸術的である。麺と具が立体的になにかの形をしていて、天高くそびえている。他の三つのラーメンと比べると、他のお客さんからの注目度は桁違いだ。どうやって支えてるんだその麺。菊地ちゃんの前に運ばれたラーメンは、とりあえず、一番ラーメンっぽい見た目をしているがまず、麺の色がおかしい。緑とか赤とか様々だ。次に具の色がおかしい。メンマとかチャーシューとか全部同じ色だ。そう、ちょうど普通の麺の色をしている。……ということは?
「お客さんら、全員でマル秘ラーメン注文する猛者なんてそうそういないぜ?」
「でしょうね」
「あの、店長さん。これ、それぞれがどういったラーメンなのかしら」
確かに、お客に出すくらいなら説明責任があるはずだ。
「お嬢ちゃんのは闇鍋ラーメンだ。その黒いスープでは、どんな具を掴めるか分からない、闇鍋気分が味わえるぞ。反対にその白いラーメンは、まあ食ってみりゃあ分かるさ。その立体的なラーメンはそのまんま芸術ラーメン。すげえだろ? 自信作だぜ。その麺と具の色がごっちゃまぜになっているラーメンもよく味わってみれば秘密が分かる。どれも味だけは保証できるから、ゆっくりしていきな」
はっはっは、と嬉しそうに厨房に戻っていく店長。食えば分かるって、怖いんだけど、店長。
「それじゃ、頂きましょう」
「……そうだな」
和久井はさっさと謎の技術が駆使された芸術作品を崩壊させ、普通に食べ始めた。さすが破壊屋、ちっとは味わえよ。
「いいよな、和久井は。変わっているのが見た目だけで。崩してしまえばただのラーメンじゃねえか」
「運がよかっただけだな。俺がこの前食ったラーメンはこれの何倍も変だった。……で、お前ら、早く食えよ」
いざとなるとやっぱり怖い。僕たち三人は一口も食べてはいなかった。
「尾崎くん。あなたも男なら勇気を出して食べなさい」
「……瀬川こそ。いや、瀬川のラーメンはさすがに仕方ないよなあ。……分かった、食うぜ」
僕は決心し、白いラーメンの白いスープを一口飲む。うむ、スープは普通に美味い。問題は麺、だ。スープが美味いのだから麺の味も期待したいところだ。……僕は数本を掴み、いっきにすする。
「……どう?」
「……これ、美味いな。普通のラーメンと遜色ないて……んだけど……」
「だけど?」
「これ、こんにゃくだ」
いうなればこんにゃくラーメンだ。麺も具も全てがこんにゃくでできている。……つうかこれは、最早ラーメンじゃない。
「こんにゃくって……」
「さあ、次はどっちが行く?」
「……じゃあ私が行くわ」
瀬川が真っ黒なスープに箸を入れる。……何かを掴み、取り出すと、どうやらそれは麺らしい。だが、麺まで真っ黒だった。
「身体に悪そうね」
瀬川が真っ黒な麺を啜る。すると、いぶかしんでいた瀬川の顔が一変する。
「美味しいわ。これ……。今度は具を掴んでみましょうか」
流石に麺と具の形は違いすぎるので、具らしきものを引き上げるとやはり真っ黒だった。
「食べてみないの何か分からないわね。形はなんだかかまぼこかチャーシューって感じよね……。……。……これは、にんじんだわ」
なんというフェイント。にんじんがかまぼこやチャーシュー並みの柔らかさを得たのか。
「でも美味しい。さあ、次は綾子ね。美食家ばりのコメントをお願いするわ」
「とうとう来ましたか……いえ、でも見た目は普通ですし、たべてみましょう」
菊地ちゃんはとりあえずカラフルな麺から手を出した。緑、赤、茶色。……それに比べて具の色が一色だけということはつまり、僕の予想が正しければ……。
「……これは、にんじんとキャベツとチャーシューですね。どうやって作ったんでしょう」
やはりか。つまり、麺は通常使われる具の材料で作られ、具は全て麺でできているという、麺と具が逆転したラーメンなのだ。……どういう技術だよ。
「でも味はやっぱりおいしいです。見た目とか作り方とか材料が変なだけで、普通に食べられますね」
「僕はいい加減飽きてきたけどな。全部こんにゃくだぞ」
「ある意味一番報われないわね尾崎くん」
本当に。和久井はとっくに食べ終わっていたが、瀬川は黒い液体から出てくる黒い物体がなんなのか一々予想しながら食べているのでまだまだ続きそうだ。菊地ちゃんも、麺と具が逆転しているだけのただのラーメンなのですぐ食べ終わるだろう。僕はただひたすらこんにゃくを食べるという苦行をこなしている。……しばらくこんにゃくは食べたくないな。
みんなが食べ終わり、お金は僕と和久井が女子たちの分も払って、店を出た。日もすっかり暮れて、和久井が菊地ちゃんを家まで送っていく事になった。方角は同じなのだが、瀬川が僕を引き止めるのでここでお別れとなった。
「……まだなにか用あるのか?」
「いいえ。近くに公園があるからそこで休んでいきましょう」
なんだろう。みんなと別れてまで僕になにか言いたい事でもあるんだろうか。
近くの公園のベンチに腰掛け、瀬川は星空を見る。
「綺麗ね……」
「……そうだな」
昨日の帰りもそんなことを言っていた気がするけれど。この公園の辺りは灯りが少ないし、星はよく見える。
「それで、何かあるのか?」
「……ううん。何も無いわ。何か期待した?」
「何も無いほうが違和感があるっていうのも、変な話だな」
僕は瀬川に何かされたいのか? いや、そうじゃない。瀬川が側にいるという状況に、完全に慣れてしまったんだ。参ったな、それでもそんな状況に嵌っちまっている僕が居る。
「その……、例の占い師さんと出会えて、尾崎くんはよかったって思う?」
「何を藪から棒に」
「……考えてみたのよ。その占い師さんは尾崎くんが側に居たから、占いによって自分の人生が悲惨なものになっても、自分の好きなことだからって続けられたのよ」
いや。違うな。僕はあいつに何もしてやれなかった。
「瀬川。あいつは自分が占いを続けるって言った時、こう言ったんだ。自分が孤立するのは占いのせいなんかじゃない、元々こうなる運命だったんだって。自分が好きなことやって自分が不幸になるわけないんだって」
「……そう」
「……僕はあいつと出会えたことを誇りには思っているよ。今でも大切な友だちだ。……だけど、僕は自分の意思であいつに関わったんだ。それは運命なんてもんじゃない。僕はそう思っている」
なんでもかんでも運命で片付けられても、それでは自分の意思なんてあってないようなもの。自分がどんな事をしても、それが全て無駄な事だと思えてしまうのだ。
「私は……」
「うん?」
瀬川が星を眺めながら、静かに言った。
「私は、あなたと出会えたことは運命だったのだと思いたいわ。あなたの意思なんて、私の意思なんて関係ない。私たちはね尾崎くん。共に在るべき運命にあるのよ」
「……瀬川」
なんだか大げさなことを言う奴だ。いや、意外とロマンチストなのか。今は場所も雰囲気もなんだか合っている。
「だからね、尾崎くん」
「うん」
「その……。私は尾崎くんと出会えてよかったと思っているし、こうしてあなたが側にいるとね、とても暖かい気持ちになれるの」
「うん」
「春休みにあなたが話しかけてくれて、本当はとても嬉しかったのよ。……今も嬉しいわ。こんなに近くにあなたが感じられるっていうのが、とても……」
「うん」
今の瀬川の表情は今まで見たことないな。……僕はひょっとして、とても貴重な時間を過ごしているのかもしれない。
「尾崎くん。まだ三日しか話してないし、本当はもっとお互いのことを知った上でこういうことを言うべきなんだけれどね……えっと、その。…………あの……」
なんとなく瀬川が僕に伝えんとしていることが分かった。……でも、僕が瀬川の気持ちを素直に受け止めて、彼女と接する事ができるかどうかわからない。もしかしたら瀬川を傷つけてしまうかもしれない。
「……瀬川。その言葉を口にしたら、お前と僕は今までどおりの関係でいられなくなる。お互いが気を遣っちまって距離が開いてしまうかもしれない。……そうなるとまた、お前が孤立してしまうかもしれない。僕はそんなのごめんだ」
「……でも……」
「はっきり言うとな、瀬川。僕は怖いんだ。いままでの瀬川を失うのが。そりゃあお前にカッターナイフを突きつけられるのは嫌だけれど、あの時の瀬川の活き活きとした顔が見られなくなるとやっぱり寂しい」
……こんなことを言っている時点で同じなのかもしれない。僕が瀬川の気持ちを知ってしまった時点で。
「……私はこんな気持ちになるのは初めてなの。この気持ちは一体何? わからない。だからどういった言葉であなたに伝えればいいのか、見当もつかないの」
「それで?」
「これだけは言える。あなたと一緒に居たい」
瀬川の瞳は決意の色で満ちていた。
「これは運命なのよ尾崎くん。運命に逆らうなんてできない。あなたは私と一緒にいるしかないわ。そうでしょ?」
「運命か。たまにはそういうのもいいかもしれない」
「本当?」
「ああ。お前が自分の気持ちを理解できて、僕にちゃんとした言葉で伝えられるようになるまで、僕はお前の側に居るよ。……それまで、僕も自分の気持ちを整理しておくから」
「……うん。ありがとう」
とりあえずの解答はこんなところだ。瀬川が僕に対して抱いている感情。それに応えてやれるような僕ではまだないが、いつの日か、お互いの気持ちを理解しあえるときに、僕の本気の気持ちを伝えよう。
「その代わり、変な気遣いは無用だぞ。今までどおりのお前でいてくれ。僕も今までどおりの僕で居るから。そうじゃないと、僕の本当の良さってのがお前に伝わらないだろ?」
「えらそうな事を言うのね。……いいわ。じゃあ、早く私を家まで送っていって」
「……了解」
僕たちは星を眺めながら瀬川の家を目指して歩いた。瀬川の家が近づくにつれ、商店街の灯りで星が見えにくくなり、瀬川はそれを嫌がっていた。どうせ明日の夜になれば星は見えるさと、気取ったことを言った僕のわき腹を瀬川のひじが小突く。
「じゃあな、瀬川。また明日」
「ええ。……おやすみなさい」
商店街前の路地へと消えていく瀬川。……さて、僕も帰るか。明日もまた、元気に瀬川に脅されるために。