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マクラな草子  作者: アヴェ
始まりの草子
6/16

第一章・005

 ロングホームルームが再開され、クラス委員が正式に決定した。元々推薦に挙がっていた僕と佐藤くん、千早さんと長島さんの中から誰を選ぶか、というところから協議は再開されたが、あれほどの問題を引き起こした僕は勿論辞退した。佐藤くんも辞退をしたがっていたが、男子の中で他に推薦される男子が居ず、クラス中からその平等精神を買われ、佐藤くんはクラス委員長に就任する事になった。千早さんと長島さんはお互い、先ほど中立の立場を築き上げた守屋さんを新たに推薦する。守屋さんは、自分では荷が重過ぎる、と言っていたが、あの長谷川くんでさえも守屋さんが適任だと言われ、しぶしぶ納得する事となった。残るは文化祭実行委員だが、これもクラスから二人選出する事になっていて、男子では三ツ星くん、女子からは金子さんがそれぞれ立候補してあっさりと決まった。僕たちが巻き起こした議論のせいでロングホームルームの時間は圧縮され、結局、文化祭についての話し合いをする機会は次のロングホームルームへと持ち越しとなった。

 そして放課後。僕は今日も瀬川と共に美術室へ赴く約束をしていた事を思い出す。今日からは部活動も本格的に開始され、美術室に飾ってある首のない人物像について詳しく知っていそうな生徒に話を聞くのだ。……別に僕と知り合う前にそういうことは聞いておいても良かったんじゃないだろうかと思うのだが、そんなことを瀬川に言ったところでろくな回答は返ってこないだろう事は目に見えていため、僕は黙っている事にした。

「それじゃあねーなっちゃん! まーくん!」

「それではまた明日! 急ぐぞヒマワリ! ちーちゃん!」

 日向さんと野中さんはなにやら急いで教室を出て行った。教室中が一気に静かになる。やはり日向さんと野中さんの二人がいるとこのクラスが賑やかになるようだ。

「全くあの二人は。じゃあね、尾崎くん、瀬川さん。早く行かないとあの子たちに置いていかれるから」

 多分彼女たちの保護者役を買って出ているのだろう千早さんも後を着いていった。まだ教室内に残っている生徒たちも居るが、何人かは瀬川に軽く挨拶をして出て行った。今回の一件で、瀬川がこれから孤立するという事は滅多に起こらないであろう。僕はそう確信して、瀬川に声をかけた。

「瀬川、今日は……」

「尾崎くん。例えば私のカッターナイフがあなたの首を誤って突き刺さる、なんて事が起こったら許してくれる?」

 いきなり何物騒な事をつぶやくんだこいつ。こいつの冗談は冗談じゃないレベルなので用心することにする。備えあれば憂いなし。

「……できれば許してあげたいけど、許してあげる前に僕の命が尽きていると思うから期待しないでくれ」

「そう。……あ、ごめんなさい、手が滑ったわ」

 サクッ。そんな幻聴が聞こえてもいいくらい唐突に、彼女がいつの間にか手に握っていたカッターナイフが僕の喉元に突き刺さる。苦しい。

「ゲホッ。洒落になってねえよ瀬川。僕が死んだらどうするつもりだよ」

 カッターナイフの刃は仕舞われていたため、喉に穴が開く事はなかったが、それでも硬い物体が喉に突き当てられたら苦しい。つうか痛い。

「死んだら許さないからね。あなたは私が許可しない限り、絶対に死んではいけない」

「それをどの口が言うんだよ。だったらカッターナイフなんて持つな」

「これは私のカッターナイフなの。これを所持する権利は私にしかないのよ尾崎くん。だからあなたに何を言われる筋合いは全くないわ」

 はあ。なんて身勝手な奴だ。さっきまでは肩が震えるほど精神が不安定だったくせに。さっき自傷行為をしなかっただけで奇跡だな。

「……それで、今日も行くんだろ? 美術室」

「そうえいばそうだったわね」

 忘れてたんですか瀬川さん。まあいいけど。僕たちは自分の荷物を持って教室を出ようとしたが、僕たちを呼び止める声が聞こえた。

「……待って尾崎くん」

 振り向くと、そこには七海さんがいた。こうして向かい合うと本当に小さい。

「さっきは調子に乗ったような事を言ってごめんなさい」

「? どうして七海さんが謝るの?」

「気にしないで。それとこれ、会長から預かっているの」

 七海さんは封筒を取り出して僕に差し出した。……立川生徒会長から? なんだろう。……というか、会長すぐそこに居るんだけれど。七海さんの後ろに。

「会長。わざわざ七海さんに頼まなくても自分で渡せばいいじゃん」

「はっはっは。気にするな尾崎くん。それと、会長なんてよそよそしい呼び方はよしてくれ。おれは生徒会長である前に、きみのクラスメイトなんだ。普通に立川か響と、呼び捨てで呼んでくれて構わない」

 改めてそういわれるとなんだかむず痒いな。ただでさえ絡みにくい種類の人間である生徒会長の名前を呼び捨てだなんて。

「あー、じゃあ呼びやすい方で響くん」

「呼び捨てにはしてくれないのか。まあおれは欅くんのように強情じゃあないから別に構わないがね。七海くんもおれの事は気軽に呼んでくれていいんだよ」

「……会長は会長だし。名前で呼ぶの面倒くさい」

 七海さんは結構強情かもしれない。僕の知った事ではないが。そういえば七海さんの下の名前はまだ聞いてないな。

「七海さん。失礼だけど下の名前ってなんだっけ。まだこのクラスの生徒一人一人の名前を覚え切れてないんだ」

「加奈子。本当に失礼ね尾崎くん。……実は私もあなたの下の名前分からないんだけど」

「そうだったんだ。僕は蒔良だよ」

 蒔良……。つぶやいて七海さんは何か考え事をする。僕の名前を聞いてこういう反応をするということはつまり。

「今年で受験生なのに不吉な名前。面白いわね」

 こういうことだ。僕の名前を聞いての印象は大体二通りある。ただ単に変わった名前だと思うか、不吉だと思うか。この反応の違いで、その人がどういった人間であるのかある程度判別する事が可能だ。あくまでも目安程度で僕の勝手な解釈なのだが……。前者は純粋な心の持ち主。後者は捻くれ者。そして変り者である可能性が高い。

 自分の名前を占いみたいに使っている僕も捻くれ者なんだろう。こんな名前を付けられるほど僕の両親は単純な奴で、意味のない勝手な解釈をしてしまっているのは息子である僕なのだから。

「さ、自己紹介も済んだだろう? 尾崎くん、その封筒を開けてみてくれたまえ」

 僕は言われたとおりに封筒を開けた。そこには折りたたまれた紙が一枚。それを広げてみると立派な様式で書かれた文書だ。

「依頼状?」

 文書にはそう書かれていた。どういう意味だろう。この学校の生徒会長が直々に何かを依頼するという事だろうか。

「それはおれの依頼状じゃない。作成したのはおれだけど、依頼者は七海くんだよ」

 依頼者は七海さん? どういうことだ? 僕は七海さんとは今日初めて話したのだから、僕に対してこんなものを作っている余裕などどこにもない。

「以前から七海くんから相談は受けていてね。とある事情によって、その依頼状を正式に手渡しする人間を見極めていた。だが今回、きみの行動を見た七海くんがきみにすると言ったんだ」

 なるほど。つまり渡す相手は誰でも良かったわけか。この文書は予め作成しておいて、いざその時になったから響くんではなく七海さんが手渡しを行ったと。しかし僕を選んだ理由ってなんだろう。

「こう見えて七海くんは人を見る目がある。それはおれが保証するよ。七海くんが選んだ人間に間違いはない。引き受けてくれるなら相応の報酬は用意するよ」

 僕は改めて文書の方に目を通す。そこに書かれている内容は、七海加奈子と久家千里との間に出来た溝を埋め、その関係を改善する事。久家千里の心を開いて欲しいという事。この二つのことが書かれていた。

「……この久家千里って言うのは」

「このクラスの生徒よ。席は欅くんの前の席。いつも一人で本を読んでいるちょっと無口な子よ。今は図書室で本を読んでるんでしょうけれど」

 欅くんの前の席……というと、あのおとなしそうな子か。前髪が長くて表情も読みにくいし、ロングホームルームで僕らがあの周辺の席に集まったときも全く動かず本だけ読んでた子だな。

「七海さんとの関係の改善って、二人は何かあったの?」

「……私たち元々は親友だったのよ。だけど、ちょっと、ね」

 いざこざがあって、自分では近づきにくくなってしまったと。それを生徒会長に相談して、この問題を解決できそうな誰かを探していたと。

「でも、どうして僕なんだ? 別に響くんでも、というか、こういう事って響くんの方が適任じゃないのかな」

「のんのん尾崎くん。確かにおれだって手を貸してやりたいのは山々なんだけれど、おれが彼女と接触するとすぐに誰かの思惑だってばれてしまう。元々おれと久家くんには面識がないからね。だがきみなら、瀬川くんの事を放っておく事ができないきみなら、久家くんと接触したところで、また余計な世話を誰かに焼いている変なやつだと思われる程度で済む」

 さりげなくひどいこと言いまくりやがったなこの会長。

「冗談半分本気半分。久家くんはすでにクラスで孤立している状態だからね。きみはただ、孤立している生徒は放っておけないという、瀬川さんのときと同じ理由で彼女と接触すればいいんだよ」

 僕は瀬川が孤立をしていたから、というより、瀬川が本当はどういう人間なのか知りたくなったからというのが理由な気もするけど。それでも状況的にはあまり変わらないか。

「ま、分かったよ。けど響くん。こういうことは何も正式な文書を作ってまで頼む事じゃない。こんな形式にこだわってたらどんな行動も遅れるよ。だから僕はあくまでも、クラスメイトに頼まれごとをした程度の気持ちでやらせてもらうよ。七海さんも、それで構わない?」

「……別にいいけど、やるからには本気でやりなさいよ。私だっていつまでもこんな調子じゃいやだもの」

「勿論。瀬川も、勝手に決めちゃったけど協力してくれるかな」

 瀬川はなんだかちょっと機嫌が良く無さそうにしている。本日瀬川とともに美術室に行くという用事を伸ばし伸ばしにされるかもしれないと思っているのかもしれない。

「……大丈夫。今日は瀬川に付き合ってやるから」

「私は別に構わないわよ。それに、あなたちょっと勘違いしているわ」

 勘違い? なんだろう。

「……まあ、ありがとう。というわけで七海さん。君の頼みは聞くけれど、今日は瀬川の用事に付き合う約束をしているんだ」

「そのようね。私はあなたにお願いをしている立場として、そこまで要求しないから自分の事を優先してくれていいわ」

「ありがとう。やり方についてはどうする?」

「それもお任せするわ。千里は放課後は遅くまで図書室に居るし、昼休みも図書室で過ごしているわ。居ないほうが珍しいから、好きなときにいって相手をしてあげて」

「了解した。じゃ、行こうか瀬川。じゃあね、七海さん、響くん」

 僕は、瀬川が急かして僕の袖を引っ張るので足早に退散する事にした。背後から七海さんと響くんの挨拶が耳に届く。が、廊下を暫く歩いていくと、後ろから響くんが追いついてきた。

「そうそう、ついでに一つ、今度はおれからのお願いを聞いてくれないかな?」

「響くん。できれば手短に頼むよ。瀬川が僕を殺してしまう前に」

 瀬川のカッターナイフが僕の横っ腹に当てられているのでとても怖い。

「そうだな。でも瀬川くん。君たちは美術室に行くんだろう?」

「……そうよ」

「美術部に鈴木正時という男子生徒が居る事は知っているね?」

 鈴木正時? 初めて聞いた名前だ。同じ学年なのだろうか。まあ、仮にそうだとしても、僕の知らない生徒はたくさん居るから気にする必要もない。

「ええ。鈴木くんなら知っているわ。彼がどうかしたの?」

「……大した事じゃないんだけれど、彼の身の回りを調べてきて欲しい。彼の友だちや家族、趣味なんかも色々と」

 その鈴木正時くんがなにかしたのだろうか。まるで警察の取調べみたいだ。

「きみたちに頼む理由はさっきと同じ。おれが直接彼に接触するよりも、同じ部員である瀬川くんの方が警戒されないからだ」

 それでも瀬川は一応学校中に知れ渡っている有名人なのだけれど。クラスメイトならともかく、他クラスの生徒では瀬川と関わりを持とうとする人は居ないはずだし、むしろ響くんよりは警戒されるんじゃないだろうか。

「それは本当についででいいの?」

「ついでで構わない。適当に世間話でもしながらさりげなく聞いてきてくれたまえ。余り深追いする必要もない。すぐにでも必要という情報ではないからね」

「でも響くん。その鈴木って人が何かしたのかい?」

「それは今のところ分からない。何かしたのかもしれないし、してないのかもしれない。もしかしたらこれから何かするつもりなのかもしれない」

 意味が不明だ。だがやはり、響くんともあろう人物が特定の人物についての情報を欲しがるというのはやはりきなくさい。その鈴木正時という人物についてはこれから美術室に行けば判明する事だからあえて聞く必要もないが。

「分かったわ。適当に聞いて、報告も適当でいいわね。今度こそじゃあね、立川くん」

 瀬川は響くんに背を向けて歩き出した。瀬川のやつ、そう簡単に了承しちゃっていいのか? 話しかけた瞬間逃げられる、なんてことがなければいいが。

「大丈夫よ尾崎くん。鈴木くんとは結構話をしているから」

「そうか」

 瀬川と対等に話をする人間がクラスメイトたち以外に居ようとは。いや、これは流石に失礼だな。そうなるとその鈴木くんというのはよっぽどの変り者か、佐藤くんのような平等精神の持ち主なのか。

「ところで尾崎くん。彼のことは放っておいていいのかしら」

 瀬川が立ち止まって前を指差す。そこにいたのは僕の親友である和久井が窓の外を見ていた。別に放っておいたわけではないのだけれど、三年になってからは別のクラスになり、おまけに瀬川の事も構わなくてはならないので相手をする暇がないのだ。

「和久井」

「あ? ああ、お前らか」

 和久井はだるそうな目をこちら側に向けた。退屈そうだなこの男は。

「何してるんだこんなところで」

「別に。お前らこそどうしたんだ。帰らないのか?」

 僕はとりあえず和久井に事のあらましを説明した。といっても、単純に瀬川と美術室に行くと伝えただけだが。

「ふうん。まあお前らが何しようと勝手だがな。お前らの組がホームルームで何やってたかは既に噂になってる。あんま目立つような真似すっと後々面倒だぞ」

「心遣い痛み入るよ和久井。といっても、もう今更って感じがするし、僕は全く気にしてないんだ」

「そうかよ」

 気にするほうが負け。そんな感じである。まあ、僕のクラスがあの一件で良い方向へと向かっていくのであれば、その噂こそ広まって瀬川の評価は上がるだろう。そうでなくてもどうせ最後の一年なのだから、色々と考えるよりも気楽な毎日を暮らしたほうが心の負担も軽いだろう。

「暇そうね和久井くん」

「まあな。最近はでしゃばってくる馬鹿どももいなくて腕がなまりそうだ。どうだ尾崎。そろそろ俺と一戦してみるか」

「何度やったって和久井には勝てないから遠慮しておくよ。今度うちの姉にでも頼めよ。喜んで相手になると思うよ」

 和久井の喧嘩の腕は半端じゃないので僕なんかが相手にできるやつじゃない。明里姉さんなら和久井と対抗できるのだが、それは対抗どころでは決してなく、姉さんの天才的な技術の前では和久井のほうが話にならないのである。単純な腕力なら和久井の方が上だが、姉さんの洗練された技術が和久井との実力に差をつけている。

「あの阿呆もどうせ本気でやりゃしねえんだろ。ちっ、まあいい。俺は帰るぞ」

 和久井が玄関に向けて歩き出すが、瀬川がそれを止めた。

「まあ、此処で会ったのも何かの縁よね。和久井くんも着いてきなさい」

「あ? なんで俺がお前らと一緒に行かなきゃならねえんだよ」

 当然の反応だ。和久井は全くもって関係ない。瀬川は自分の気まぐれで無関係の人間を自分の都合に巻き込むという特技を持っているらしい。

「来ないと……」

 瀬川の背後から不吉な音が聞こえる。別に止めてもいいんだけれど、散々僕が体験した恐怖を和久井にも経験させてやろう。たまには見ているだけというのも……って、瀬川さん。そりゃないんじゃないですか?

「尾崎くんが死ぬわよ」

「……この流れから行くと和久井を脅すのかと思ってたんですけど浅はかでしたか瀬川さん」

「私は空気が読めないのよ尾崎くん。それに、定石通りの展開じゃつまらないじゃない」

 カッターナイフの伸びた刃が僕の首に密着する。動きたくても動けねえ。ええ、僕は瀬川を信用しているから本気でやりはしないと思いますよ? でも万が一というのがこの場合考えられるわけでして。うっかり瀬川の腕が引かれると、それにつられて僕の首が切れるという状況だ。

「どうせ脅しだろ。やるならやれよ、くだらねえ」

「ちょっと待て和久井。瀬川を挑発するつもりなら俺の命を掛けてくれ。そしてできればかけるな。マジで死ぬから」

「いい度胸ね和久井くん。私が三つ数える内に回答をハッキリさせないと、私が殺人罪で捕まっちゃうかもしれないわ」

 今も脅迫罪で逮捕できるレベルですけど瀬川さん。

「と、言うわけだ和久井。人助けと思って」

「……一回死んでみたら案外楽なんじゃないのかお前の人生」

「言ってる場合かこの馬鹿!」

「相談は終了ね。カウントダウン開始」

 死の宣告が始まった。つうかここは廊下のど真ん中なんだけれど、都合よく誰も来ない。そりゃあ、瀬川プラス和久井という有名人二人が居て、そこを堂々と通過する強者がいるわけないんだけれど。

「三……ニ……一……。何か言い残した事は、尾崎くん」

「一杯あるような気がするんだけれど、この場で全て語りつくせるほど時間は与えられないんだろうから一つだけ。瀬川、天国に行ったら説教だ」

「……悪くないわね。でも残念。私はきっと地獄へ堕ちるわ」

 カッターナイフを握る瀬川の腕がゆっくりとスライドしていく。それに併せて刃が僕の首の皮を引っ張っていく。

「痛え」

「ちょっと痛いだけで済んでよかったわね尾崎くん」

 カチカチと瀬川がカッターナイフの刃を納める。多分僕の首には一本の筋ができてるだろうな。いくら切れない方を向けてるからってそんな思い切り食い込ませなくてもいいじゃねえか。

「まあ、オチは分かってたんだけどな。どうだ和久井。瀬川の脅しってのはただの脅しじゃ済まないんだ」

 和久井は頭が悪いからな。分かってるんだか分かってないんだか。それでもとうとう諦めたのか両腕を挙げて降参のポーズをとる。

「ちっ。仕方ねえな。一緒に行けばいいんだろ」

「はじめから素直にしてればいいのよ」

「というか瀬川。人を説得するのにいちいち僕の命を使わないでくれ」

「結構な交渉道具よね。私が直接刃をつきたてるよりも簡単」

 僕の命の価値ってその程度なんだろうか。これから瀬川が何か言い出すたびに僕は命をかけなくちゃいけないなんて、かなり神経が磨り減るな。

「じゃ、行きましょうか」

「……尾崎。死ぬなよ」

「保証はできないな」

 和久井をメンバーに追加して、僕たちは美術室へと向かう。今日から美術部も活動を開始しているはずだし、やはり部外者として気が引けるよなあ。

 と、そんなこんなでようやく美術室へ到着。中に入るとやはり美術部員が数名見受けられた。だが見た限り、全員がまとまって活動をしているわけではないようだ。前の方に集まっているグループと、後ろのほうでポツンと活動している女子生徒が一人。僕たちが美術室に入ると、前の方に集まっているグループは知らない顔で活動をしていた。瀬川も美術部員の筈だが、どうやら良くは思われていないらしい。そんな中、一人で活動をしていた生徒が手を休め、瀬川の元へ笑顔で近づいてきた。

「奈々実先輩! お久しぶりですね!」

「久しぶりね、綾子」

 久しぶり、ということは瀬川とは以前から話を交わしていたようだ。先輩、と言っているということは二年生かな? 明るくて元気そうな子だ。野中さんや日向さんと通じるところがあるな。

「こちらの方々はどちら様ですか?」

 綾子と呼ばれた女子生徒は僕たちに向き直る。

「僕は尾崎蒔良だよ。よろしく」

「まくらですか……。なんだか修学旅行で投げ合いたくなる名前ですねえ」

 枕投げかよ。そういう返しをする人間は珍しいな。そして初対面で失礼だな。

「こちらの方は?」

「…………」

 和久井は無愛想にしている。和久井にとっては苦手な人種かもしれないなあ。そうでなくても、和久井は初対面の人間に対しては大抵憮然とした態度をとっているが。

「……この方はなんなんですかー! わたし無視されるなんて思ってもいませんでしたよー! 人生初の出来事にわたしは大変ショックで気が狂いそうです! 誰か助けて寂しくて死んじゃう!」

 和久井の態度を見て騒ぎ出す女子生徒。あれだけで癇癪を起こすくらい気の短い性格をしているのか?

「やー、やー、無視しないで、無視しないで、お願いですよー!」

 瀬川は既に感染モードだった。僕も止めたほうがいいのだろうが、なんだか見ていると面白いな、この子。

「きゃーきゃー! 何で? 何で? 無視しないでって言ってるでしょ! うわー! わたし今空気? それとも蒸気? それともガス? 二酸化炭素ですか窒素ですか酸素ですかオゾンですかフロンですかヘリウムですか? 火をつけたら爆発しますよつけなくても爆発しますよ! わたしが爆発したらすごいですよ! いいんですか? いいんですね! じゃあ爆発します! ううっ! ううう! うわああああ! ………………ぎゃー! わたし今すげー痛い子!? わたしをこんな痛い子にしたてあげた人はどこのドイツ人だ! そんな目でわたしを見るなー! 哀れまないでくださいお願いしますよー! もう、どうでもいいです、あなたなんて知らないです! だから、無視しないでー!」

 和久井が黙り続けていると彼女は徐々にヒートアップしていった。うむ。痛い子だ、完全に痛い子だ。

「………………無視すんなっていってるだろーが!」

 そのとき彼女は予想外な行動に出た。なんと、あの和久井にビンタをかましたのだ。部室中に響き渡る鈍い音。和久井を殴る人間なんて久しぶりに見た。当の和久井も驚いている。

「…………あああああ! わたし今何しました! ひでー! わたしの外道、人でなし! だから無視されるんですよわたしなんていらない子なんだ! 誰かわたしを殴って! やっぱり殴らないで痛いから!」

 言っていることが無茶苦茶だこの子。このまま放っておくとどこまで暴走するか分からない。興味はあるけどここは止めなきゃいけない気がする。何より和久井を殴って無事で居られるのかどうか。

「ちょ、落ち着いてよ君」

「…………え? ああ、すいません。ちょっと取り乱しました。……はあ、なんだかとても疲れました。殴ってごめんなさい。……屋上ってどこでしたっけ? それか、ロープあります? ああ、瀬川先輩カッター持ってましたよね、貸してください」

 僕の声に反応したと思ったら今度は何しようとしてやがるんだこの子! 瀬川も当たり前のようにカッターナイフを取り出すな!

「今のわたしは危ない子」

 瀬川からカッターナイフを受け取った彼女はごく自然に刃を左腕に当てた。いや、目が冗談じゃねえ。

「……ああうっせえな! もう無視しねえから手首なんて切ろうとするんじゃねえ!」

 和久井が彼女の腕を取る。ふう、どうやら事は起きてないようだ。自傷癖の持ち主は瀬川だけで十分だ。これ以上変なのが増えてもらっても困るだけだ。

「ありがとうございます。わたしはこれからはいい子になるのでよろしくお願いします」

 今まで騒いでいたのが嘘みたいにけろっとしている彼女。……まさかわざとじゃないだろうな。だとしたらこの子の性格もかなり破綻していると思われる。面白いからいいけど。

「では改めまして。わたしは菊地綾子と言います」

「……和久井和仁だ」

「よろしくお願いします蒔良先輩。和仁先輩」

 菊地ちゃんがあれほど騒いでいたのに、他の美術部員はまるで気にしていない様子である。いや、これはもう、無視されているといった感じだ。心の中ではさっさと帰れとか、お願いだから来るなといった風に思われているのだろう。

「なあ瀬川。やっぱり僕たちは来るべきじゃなかったんじゃないか?」

 僕はとりあえず、美術部員たちに気を遣ったふりをして瀬川に問う。

「別に構わないわよ。私は美術部員だし、美術部員が正式にお友だちを招待しているのだから全く問題はないわ。それにね尾崎くん。別に部外者はあなたたちだけじゃないのよ。……あの子なんかは、美術部ではなかったはずだし」

 瀬川が一人の生徒の方を見遣る。なるほど、自分たちで部外者を呼んでいる手前、僕たちに強く言う権利がないわけだ。

「……仮にそうだとしても、だ。菊地ちゃん。君もどうやら孤立しているみたいだけど、いいのかい?」

「今更ですよそんなの。わたしはあの排他的な人たちと違って、例えどんな人でもどんな国籍でもどんな人種でも、どんな変態さんだろうとオールオッケーなミス・インターナショナルですよ。奈々実先輩も例外ではありません」

 ミス・インターナショナルの意味を履き違えている菊地ちゃんではあるが、彼女も彼女でポリシーというものがあるらしい。

「それに、奈々実先輩と一緒に居るほうがなんだか楽しいですもん。いろいろ面白いこと言うし、行動も見ていて飽きませんし。……それにですね、なんだか放って置けないじゃないですか」

 菊地ちゃんは、最後は瀬川に聞こえないような小さな声で言った。後輩に気を遣われるとは瀬川も人が悪い。けれど、分からなくもないな。まだ合計して三日ほどしか瀬川とは話していないが、それでもあまり目を話したくない人物である事は確かだ。

「ところで綾子。鈴木くんは今日は来てないのかしら?」

 瀬川は菊地ちゃんに尋ねた。忘れるところだったが、本日の目的は、あの首のない絵について詳しく知っていそうな人物に話を聞くこと、と、ついでにその鈴木という人物についての情報を得ること、だ。

「正時先輩なら今は職員室に居るはずですよ。大森先生と次の美展について話し合っているはずです。何か用でもあったんですか?」

 大森先生というのは美術教師だな。眼鏡をかけて冴えない印象を与える中年男性だ。

「いえ。鈴木くんならあの絵について詳しく知っているんじゃないかと思って」

「あー、あの首のない絵のことですか。あれの話を聞いて何かあるんですか?」

 どうやら瀬川の見立てによると、その鈴木という生徒があの絵に関して詳しいらしい。響くんの頼みも同時に達成できそうだし、一石二鳥だな。

「……聞きたい? とっても怖い、身も凍るような恐怖よ?」

「ぶるる。面白そうですが耳をふさぎます」

 今のは瀬川の冗談だろうけれど。菊地ちゃんも本気で信じているのか疑わしいな。

「じゃあ、正時先輩が戻ってくるまで暇を潰しましょう」

 菊地ちゃんがあらゆる遊び道具を準備する。……美術室ってなんでこう、美術と関係のないものまで一杯置いてあるんだろうか。トランプ、将棋、チェス、人生ゲーム。ありとあらゆるボードゲームが美術室には保管されていた。

「……ごめんなさいね綾子。鈴木くんが居ないのなら先にやっておく事があるわ。そうよね、尾崎くん?」

「先にやっておく事?」

「図書室よ」

 ああ、そうか。確かに暇ができるのなら、ここで七海さんの依頼のほうもこなしておくというのもいいな。

「おい尾崎。図書室ってのはなんのことだ」

「和久井くんは気にしなくていいのよ。というわけで綾子。和久井くんはここにおいて置くので、存分に遊ぶといいわ」

 和久井を連れてきたのは単に菊地ちゃんの相手をさせるためだったんじゃねえだろうな瀬川。流石にそんな扱いでは和久井も泣くぞ。

「おまえな、こんなところに連れてきてそれは……いや、なんでもねえ。早く行って来い」

 和久井も分かってきたじゃないか。瀬川に対しての抵抗は無駄だって事。

「分かりました。いってらっしゃい先輩たち! では和仁先輩はわたしとお留守番ですね」

 菊地ちゃんと和久井を置いて僕たちは美術室を後にした。

 図書室は美術室と同じ階にある。様々な実習室が集まる二階にあり、主に文化部の活動はこの二階に集中している。しかしながら、図書室というのは校舎の端のほうに位置し、そこにわざわざ足を踏み入れる生徒も少ないと聞く。でもそれは逆にとても静かであるということであり、僕たち受験生にとっては街の図書館で勉強をするよりは返って落ち着く場合もあるらしく、一、二年生たちよりも三年生の方が利用率は高いのだそうだ。

「尾崎くんも図書室で勉強をしたりするタイプなのかしら」

 歩きながら瀬川が僕に問いかける。

「いや。僕にとってはどこで勉強しても同じにしか感じないからな。図書室にしろ図書館にしろ、他人が周りにいる環境での勉強は落ち着かないものがあるし。やっぱり自分の部屋でやるのが一番だと思うよ」

「ふうん」

 それきり瀬川は黙ってしまった。そういえば瀬川は試験前とかどうやって勉強しているのだろう。あまり成績は上位の方ではなかったと思うし、まさか全く勉強をしていないわけでは……。いや、もしかしたらそれもありえるのか。

 まもなくして図書室に到着する。図書室の前には荷物を置くロッカーのようなものが設置してあるが、これでは無用心だと思う。図書室の戸には「静かにご利用ください」という決まり文句が書かれた貼り紙が貼ってある。入り口の横には司書室があり、窓から司書の先生がコーヒーを飲んでいるのが見えた。

「……あの子だな」

 図書室に入り、一通り中を見渡すと、やはり同学年で見かけたことのある生徒がちらほらと見受けられる。僕たちのお目当ての人物は、図書室の奥の方の席に一人で座って読書をしていた。うん。確かに欅の前の席に座っているクラスメイトだな。僕はそこら辺の本棚から適当に本を手に取り彼女に近づく。瀬川が僕の行動を不思議がっていたが、僕に倣って本を一冊手に取った。

「ご一緒してもいいかな?」

 僕が声を掛けると彼女が目線を本から僕に移動させる。……といっても、前髪が長すぎて僕の方からは彼女の目が見えないんだけれど。

「えーっと、僕は尾崎っていうんだけれど、知ってるよね。クラスメイトだし」

 彼女は僕と瀬川の顔を交互に見た。瀬川の顔を見ても全く動じる様子がない。……予想以上に反応が薄いな。これは普通に会話をするだけでも大変なんじゃ……。

「たまたま図書室に来たら君のことを見つけてね……えーっと、名前、なんだったっけ」

 本当は七海さんから預かった依頼書に書いてあったため分かるのだが、あえて知らないふりをした方が警戒はされないはずだ。僕は彼女と話したことは一度もないのだから。

「…………」

 彼女は机に置いてあったルーズリーフに自分の名前を書いて僕の方に差し出した。

「久家千里さんか。よろしくね。それで、お邪魔でなければ良いかな?」

 久家さんは名前を書いた紙にそのまま「ドウゾ」と書き加えた。

「……どうもありがとう」

 僕と瀬川は久家さんの向かい側の椅子に腰掛ける。それにしても、聞いた以上に無口だ。七海さんはちょっととか言ってたけどこれはそんなレベルじゃない。話せないという訳ではないのだろうけれど、それでもわざわざ紙に書くくらいだから相当なものだ。

 とりあえず僕は本棚から持ってきた本を開く。この本はただのカモフラージュ用なのだけれど、なるほど、序盤をちょっと読んだだけで物語に引き込まれそうになった。今度機会があれば本格的に借りて読んでみよう。

「……ん?」

 久家さんは自分が読んでいた本を開いたままの状態で置き、ルーズリーフになにやら書き始めた。僕たちに話題を振ってくれるのだろうかと思ったがどうやらそうではないらしい。勉強をしているのか? いや、久家さんが開いている本は参考書じゃない。よく見れば、クリアファイルの中に文字がたくさん書き連ねてあるルーズリーフが何枚か挟んである。どうやら図書室に来てはこうして何かを書いているらしい。

「何してるの久家さん?」

 僕が聞くよりも前に瀬川が先に口を開いた。瀬川はカモフラージュ用の本さえ開かず、久家さんのことを観察していたらしい。

「…………」

 小説を書いてるの。

 久家さんは会話用のルーズリーフに文字を書いた。なるほど、この手の子ならありえるな。

「へえ、久家さんは小説を書くのが趣味なのね。休み時間もずっと本を読んでいるから、てっきり読むだけかと思っていたけれど」

 こういう話は男子である僕よりも、久家さんと同じ性別である瀬川の方が話しやすい場合もあるか。よし、ここは瀬川に一任してしまおう。

「…………」

 奈々実ちゃんの趣味は何?

「私の趣味か……。そう言われると思いつかないわ。今までどんなことをしながら生活してきたかなんて、案外分からないものね。でも強いて言うなら、尾崎くんを虐めるのが趣味よ」

 なんて迷惑な趣味を持ってるんだ瀬川は。しかもそれはかなり最近の趣味じゃないか。まあいずれにしろ、瀬川とまともに応答を続けているあたり、無口ではあるが、それなりに友好的な性格をしてはいるようだ。でも、どうして七海さんとの仲がこじれてしまったのだろうか。そのあたりの理由を聞いておいたほうが対策も立てられるというものだが、わざわざ聞くというのも野暮だしなあ。

「…………」

 蒔良くんの趣味は?

「僕? そうだなあ。読書も音楽鑑賞も人並みにはするかな。最近は映画鑑賞とかも結構するね。昨日足立先生も言ってたけど、僕は特徴ないのが特徴みたいだから」

「…………」

 特徴がないなんてそんなことない気もするけど。もうクラスの中心的な人物じゃない。

 そうだろうか。……いや、否定はできないか。それはいいとして、こうして久家さんが紙に自分の言葉を書いて、僕たちだけが声に出して喋っていると、なんだか周りからは痛い目で見られそうな光景だ。辛うじて今は瀬川が隣に居るが、それでも図書室内は静かで、僕たちの声はいやでも周りの耳に届いてしまいそうだし。

「ところで久家さん。どんな小説を書いているのかしら」

「…………」

 色々書くけど、最近多いのはファンタジーかな。

「ファンタジーね。恋愛小説とかは書かないの?」

「…………」

 恋愛小説はやっぱり書いてて恥かしいし、私自身が恋愛経験ゼロだから書きにくい……。

 無口であるという事を除けばかなり普通の乙女だな久家さんは。僕が今年になって新たに知り合った女の子たちの中では一番まともな性格をしているのかもしれない。千早さんや卯の花さんもそこまで変とは言わないが、標準的ではないことは確かだろう。

「へえ。面白そうね。もし差し支えなければ見せてくれるかしら」

 瀬川はかなり自然に久家さんとの会話を進めていく。案外久家さんのことを気に入ったのかもしれない。

「…………」

 別にいいけど、今作品と言える作品を持ち合せてないの。

「そこのルーズリーフは?」

「…………」

 これはまだ作品とは呼べない。ただ思いついたことを文章にしてみているだけだから。基本的に、本格的に書くのは家だけで、これは本番前のリハーサルみたいなものなの。

 久家さんの会話用のルーズリーフがどんどん文字で埋まっていく。……でも例え紙だとしても、これだけ会話ができるのだから普通に喋って話すこともできると思うのだが。何か声を発したくない理由でもあるのだろうか。

「…………」

 こんな落書きでよければ見せてあげられるけど。

「本当? ありがとう」

 久家さんはクリアファイルに入っているルーズリーフを数枚ほど取り出し、僕たちの方へ差し出した。ルーズリーフには文字がびっしりと詰まっている。

「これで落書き? すごい文字数ね」

 いやすごい。僕にしてみれば十分作品と呼べるレベルだと思うのだが。素人目の基準なんて語ったところで説得力はないけれど。

「そういえば久家さん。僕たちには惜しげなく見せてくれたけどいいの? こういうのって大抵見せるのが恥ずかしいとか考えそうなんだけれど」

「…………」

 私、プロの作家目指してるから。恥ずかしいなんて言ってられないの。

「なるほど。でもなんだか納得。すごいよ久家さん。これならコンクールとかも入賞できそうなんじゃない?」

 お世辞ではないが、所詮素人の意見である。本気でプロを目指している人物に対してこういう発言は失礼だろうか。

「…………」

 ありがとう尾崎くん。たとえ落書きでもそう言って貰えると少しは気が晴れるわ。……でも、現実ってそう甘くないの。

「……久家さん?」

 その長い髪のせいで表情は読みにくいがどうやら落ち込んでいるらしい。文字では明るく話しているように思われるが、実はさっきから久家さんは笑ってない。

「…………」

 なんでもない。

「なんか元気ないよ、久家さん。どうかした?」

「…………」

 私、端から見ればいつも暗いって言われるけれど、これでもテンション高いのよ。

 本当かよ。そう言ってても変化が全くわからない。前髪切ればいいのに。

 僕は久家さんのルーズリーフをもう一度眺める。見れば見るほどすばらしい作品だと僕は思うのだが、現実は甘くない、ということは何度か落選を経験した事があるということなのだろうか。それでもこうして諦めずにがんばっているのだ。

「久家さんはいつも図書室にいるの?」

「…………」

 昼休みと放課後は大体。どうして?

「久家さんがよければまたお邪魔させてもらうわ」

「…………」

 私は全然いいよ。ていうか同じクラスだし、気兼ねなく話しかけてね。

「そうね。それじゃあね、久家さん。私たちそろそろ行くわ」

 瀬川が立ち上がって久家さんに手を振った。僕もそれに続いて席を立つ。

「それじゃあ久家さん。また明日」

「…………」

 またね。

 久家さんは会話用のルーズリーフに最後の一文を書き加え、僕はそれを確認したのと同時にその場を離れる。カモフラージュ用の本を借りていこうかと迷ったが、今日のところは別にいいだろうと思い、そのまま本棚に戻した。

「いい子じゃない、久家さん」

 図書室を出て廊下を瀬川と並んで歩く。

「そうだな。七海さんに話を聞いたときは会話が成り立つか不安だったけれど、結構友好的で安心したよ」

「そうね。こうやって自然にしていれば、その内七海さんの依頼も達成できそうね」

 七海さんの一件はとりあえず幸先良いな。でも、もともとは親友だったのだから、七海さん自身が久家さんと直接話をして解決すればいいのではないのだろうか。……そうも言ってられないか。二人の間に溝ができてしまうほどの問題があったわけだし、ただでさえ無口な友だちとは気兼ねなく話かけられないか。

 とりあえずこの件はゆっくり取り組めば良いとして、問題は鈴木正時の方か。そろそろ大森先生との話し合いも終わって美術室に戻っていればいいけれど。そう何度も部外者の僕が美術室にお邪魔するというのは気が引ける。

「それにしても全く喋らなかったわね、あの子」

「そうだな。元々喋れないのかそうでないのかは分からないけれど。でも別にいいんじゃない? ああやって文字にして会話はできるんだし」

「そうね。野中さんや日向さん。それに綾子もかなりテンション高いし、久家さんくらいの子が居れば釣り合いはとれそうね」

 瀬川や七海さんだって見た目は大人しそうでも性格はそうじゃないからな。どちらかといえばお嬢様。……まあ、普通の性格っていうのは基準がはっきりしてなきゃ意味はないし、どんな人でも個性があるということだろう。……欅みたいな性格を基準にしたら異常なのは僕たちのほうだし。

「案外私の性格も普通なんじゃないかしら」

「それはないな。僕の知り合いにはカッターナイフを脅しに使う人は一人も居ない」

「つまり私のことは普通じゃないと、そう言いたいのかしら?」

 ……しまった。これは罠だ。これから僕は瀬川の陰湿ないじめを受ける事になるが、覚悟はいいだろうか? いや待て、悪いのは僕の方なのか? 

「あれだけみんなに大々的に私のことを庇っておいて、心の中ではやっぱりそう思っていたのね。ショックよ」

 カチカチ。案の定だがそう何度もやられてたまるか。僕はすぐさま瀬川の右手を押さえ、カッターナイフを取り上げる。

「……早いわね」

「流石に慣れた。いい加減すぐにカッターナイフを取り出す癖をやめろ。そんなことしているから普通じゃないなんて思われるんだ」

「ふふ。でも、いい感じね」

「何がだ?」

 瀬川が僕の顔を見つめてくる。

「そうやって尾崎くんが私を止めてくれれば、私も怪我をしなくて済むものね。これからもあなたがストッパーになってくれるなら、私は安心できるわ」

「……言われなくても、最低でもこの一年はストッパーになってやるが、手首を切りたくないならその始めからカッターナイフなんて持ち歩くなよ」

 僕もこうなればすっかり瀬川の保護者だな。……だが、瀬川はなんだか暗くなって僕の顔をじっと見つめる。

「こんな廊下の真ん中でこんなこと言うのもなんだけど、私ね、こうやって人と会話をする事が少なかったの」

「それは……分かるが。どうした?」

「……だからね。みんなにあいつは異常だ、危ないから近づくな、だなんて言われると、とてもストレスが溜まってくるの」

 そうだろうな。……そもそも何が原因で瀬川は避けられる対象となってしまったのだろうか。流れている噂はどれも真実味を帯びていないし、そういえば瀬川が具体的にどんなことをしたのか、僕は一度も聞いたことがない。

「ストレス解消に自傷行為をするなんて、別に珍しい話じゃないじゃない? 自分で手を噛んだり、爪を突き立てたり。わたしは一度、心が限界まで追い込まれて、死んでしまおうとすら考えた」

「それでリストカットを?」

「そう。けれどリストカットなんて本当は自殺の手段にしては確実性が薄いものでね。私は死ねなかったの。それでも心はなんだかすっきりしてて、それから癖になっちゃったのよ」

 瀬川の自傷癖はやはり、極度のストレスによるものだったのか。異常だなんだと蔑まれ、そのストレスに耐え切れなかった瀬川はところ構わずリストカットをしてしまう。それ故に余計に距離を置かれるようになってしまい、つまりは悪循環が始まるのだ。

「……だからね、尾崎くん。今更私がこのカッターナイフを手放す事はできない。でもあなたが止めてくれるから、私は安心できるの」

「瀬川……」

 僕が初めて瀬川に話しかけたときも瀬川は手首を切ろうとした。僕はそれをかろうじて止めることができたが、今まで自分の自傷行為を止めてくれた人間など居なかったのだろう。

「いいぜ。僕が止めてやる。もしそれでストレスが解消できなかったら……そうだな、僕の手首を切ってくれて構わないよ」

 本当は嫌だけれどね。痛いのはごめんだ。でも、そうでもしないと瀬川の自傷癖は治らないだろう。

「……それは駄目よ。私の代わりに傷つくなんて、私は許さない。私の痛みは私のものだから。……そうね、尾崎くん。私のストレスが限界に達して、あなたが側に居てくれるというのなら……」

 瀬川は僕の顔を見つめ、

「……あなたの前で泣いてもいい?」

 その瞳はとても美しい色をしていた。

「ああ。思い切り泣けばいいさ」

「ありがとう」

 その美しさを僕は守ってやりたいと思う。不思議だ。どうしてこんな気持ちになれるのだろう。昔の僕から見たら今の僕など滑稽に映ってしまうのだろう。笑うがいいさ。それでも僕は、瀬川の側に居て、こいつの痛みを受け流す緩衝材になりたい。

「……瀬川」

「なあに、尾崎くん」

「それはいいけれど、できれば僕をカッターナイフで脅すのも止めてくれないか」

「ふふ」

 瀬川は微笑み、カッターナイフを取り出すとその刃を僕の首にあてがった。

「脅させないと脅すわよ、尾崎くん」

「……ま、分かってはいたけどな」

 きっとそれもストレス解消の一部なんだろう。……本当にそうかどうかは分からないが。今更抵抗したって無駄だ。

「じゃ、行きましょうか」

「へいへい」

 僕と瀬川は再び歩み始めた。

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