第一章・003
翌日の朝。僕はいつも目覚ましがなる前に起きるので、実は目覚ましなんて要らないんじゃないかと常々思っている僕である。欠伸をしながら階下へ降りる。居間に辿り着くと僕の姉さんが朝食と僕の弁当を拵えてくれていた。
「おはよう明里姉さん」
「おはよう弟くん。今日は雨が振るそうだよ」
僕の家では母親はとっくに他界し、父親も単身赴任先から帰って来ず、今年二十歳になる姉さんと二人で暮らしている。生活費は父親が一部口座に入れてくれるものの、大半は姉さんがどこからか稼いできたお金でまかなっている。僕の姉さんはひょっとしたら宇宙人か何かじゃないかと疑ってしまうくらい人間離れしているので、大学に通いながらも収入の多い仕事を見つけては出稼ぎに出かける事もしばしばだ。
「天気予報でそう言ってたのか?」
「今更ね弟くん。勿論あたしの勘だよ」
だろうな。勿論分かってたけど。勘と言いつつも姉さんの事だから、空気の流れとか雲の流れとか湿度とか肌で感じ取って判断しているのだろう。人口の街に暮らしているくせにかなりの野生人である。
「姉さん、大学のほうは大丈夫なの?」
「前の仕事で稼げるだけ稼いだし、しばらくは学生生活をエンジョイするつもりよ。そうそう、今度学校の創立祭あるんだけど来る?」
「考えとくよ」
姉さんが準備してくれた朝食を摂り身支度をする。今日から通常通りに授業があるので忘れ物がないように確認し、出発までの間、居間で姉さんと団欒する。
「弟くん、良かったね」
「何が?」
「進級早々女の子のお友だちができて」
「……なんで?」
ただのあてずっぽうか? 僕は昨日の出来事も春休みでの出来事も姉さんに話したことはないのだけれど。いや、まあ女の子のお友だちができたっていうのは本当だし別段隠すような事でもないんだけど。
「まあ、な」
「はっはっはー聞いたよぉ弟くん。その女の子に膝枕してもらったんだってねえ」
「ぶっ!」
いくらなんでもそこまで知ってるなんて異常だぞこの姉さん。いやまて落ち着け僕。慌てたら肯定と受け止められるぞ。
「……そんなわけないだろ姉さん。デタラメもいい加減に」
「でたらめじゃないよ。弟くんと同じクラスの男の子から聞いた話だし」
それこそ変な話じゃ……。まさかあの時僕が寝ていたときに実は誰かが美術室に来ていて……。
「誰から聞いたんだよ。今日の朝とっちめてやる」
「やめた方がいいと思うよ。あたしでさえ手を焼くもん、そいつ」
「姉さんの知り合いなのか?」
「そうだよ? 名前、欅っていうんだけどね。しょうもない悪ガキだよ」
欅、か。確かにいたなそんな名前の奴。人の秘密を勝手にばらすなんて時点で関わりあいたくないタイプの人間であることは間違いないな。
「ま、欅から聞いたけど、その女の子のためにクラスの子と喧嘩したんだって?」
「喧嘩って程じゃないさ。ただ、その子、瀬川っていうんだけど、そいつは生徒たちから良く思われてなくてさ。僕はなんだか理不尽だと思って瀬川の事庇っただけなんだよ」
「ふうん。いいじゃないか。それでこそあたしの弟だ。あたしは誇りに思うよ、あんたのこと。これからもその瀬川ちゃんと仲良くしてあげなね」
全く。姉さんときたら、ただそれが言いたかっただけの癖に回りくどい事を。姉さんとまともにやりあうと本当に疲れるな。精神的に。
「当たり前だろ。じゃ、僕はそろそろ行くよ」
「いってらっしゃーい」
僕はかばんを手に取り家を離れた。
駅前の通りに差し掛かったところで、駅からたくさんの生徒が出てくるのが見えた。この時間帯は通勤ラッシュのごとく生徒たちの群れが出来上がる。通りも少し混み合うので、僕はいつも、ここで少し待ってから行く事にしている。それなら混みあわない時間帯を選べばいいのでは、と思うだろうが、こうして人の流れを眺めているのもまた面白いのだ。
生徒たちの数もまばらになった頃、見知った顔が駅から出てきたのを確認する。千早さんだ。相変わらず意味なくヘッドホンを首に掛けている。千早さんとは別に二人の女子生徒の姿も見えた。きっと、千早さんと仲のいい友だちだろうから、僕が話しかけるというのは野暮だろう。
「おーっす、尾崎」
ベンチに座っていると横から僕を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、眠そうな顔をした佐藤くんと、もうひとり。クラスで見たことある顔だからたぶんクラスメイト。
「おはよう佐藤くん。と、えーっと」
「いい加減クラスメイトの名前覚えろよ。こいつは河野だ」
そんなこと言ったって、今回のクラス替えで僕の知り合いは全員他のクラスにいってしまったからなあ。寂しい限りだ。
「よろしく尾崎くん。俺は河野鉄平っていうんだ」
河野くんは朗らかに自己紹介した。笑顔が爽やかで人も良さそうだ。勝俣くんのように僕と敵対するような人物じゃないだろう。
「で、なにしてんだお前」
「いや別に。人間観察。佐藤くん家ってそっちの方なんだ」
「ああ。神社の近くだ」
この街の神社はいくつもあるが、駅側の神社は僕の家からもっと先にある。ずいぶん遠いところにある神社なのだけれど、毎朝歩いてきているのだろうか。
「大変じゃないの?」
「別に。このぐらいの距離だったら全然」
「自転車くらい乗ったらいいのに」
「面倒だ」
面倒て。歩くほうがよっぽど時間かかるし面倒なんじゃないだろうか。ずいぶん根性あるな佐藤くん。
「尾崎くんって結構変わってるよね」
突然河野くんがそう言った。……また瀬川と関われるなんて、とか言うつもりなんじゃないだろうな。
「瀬川さんのこととは別にね。うん。俺の友だちにも尾崎くんみたいな人って珍しい、か、居ないかもなあ」
瀬川のことは別、か。それにしても、それ以外で僕が変わり者扱いされるような要素ってなにかあるだろうか。自分では思い当たる節がない。
「まあいいや。さあ二人とも、早く行かないと遅刻するかもよ」
「ああ、そうだな。行くぞ尾崎」
二人が歩き出したので僕もついていく。駅から出てくる生徒はまだ見受けられたが、もう知り合いは居ないようだ。
「二人はいつから知り合いだったの?」
僕は雑談の意味も込めてとりあえず聞いてみた。別に他人の人間関係が気になるわけではないのだけれど、僕はこういう類の質問をよくする。
「別に。特別仲がいいわけじゃねえけど、今日はたまたま一緒になっただけだ」
「俺は友だちが多いからね。学校外でも知り合い多いから、人探しとかは俺に頼むといいよ」
顔が広いって事か。まあ、無駄に友だちの多そうな奴ってどこの学校にもいるよなあ。明里姉さんも顔結構広いし。
「尾崎くんはクラスで知っている人とか居ないの?」
「そうだなあ。木村くんや逸見さんは有名人だから知ってる。あとは立川生徒会長とか」
木村くんは陸上部のエーススプリンター。僕の学校では一番足が早い人物だ。通称チーター。一年の頃からその俊足を買われ、毎大会上位を維持し続ける生徒だ。逸見さんは合唱部員で、その歌声は全国でも通用するほど美しいといわれている。学校での発表会などでは彼女のソロが特に人気があって歌姫とも呼ばれる。立川生徒会長に至っては、逸話がありすぎて語りきれない。瀬川とは違う意味で変人。僕の目には馬鹿だろこいつとしか思えないほど馬鹿なことしからやらない。しかし全校生徒からの支持を受けるなど、カリスマ性は抜群。らしい。
「その三人を知らない人は居ないんじゃないかな。他には」
「他はあんまり。河野くんは誰がどんな人か大体分かるの?」
「大体ね。もちろん知らない人もいるけれど。学校に着くまでに何人か教えておこうか?」
ありがたい申し出だが口で説明されるだけじゃ分からない部分も多いだろう。顔と名前を一致させなきゃいけないわけだし。
「まあ、おいおい教えてもらうよ。でもそうだな、一人だけ教えておいてほしいんだけど」
僕は今朝の姉さんとの会話に登場した欅という生徒のことを尋ねることにした。僕が欅という名前を告げた瞬間、佐藤くんと河野くんの表情がそのままで一瞬凍りつく。
「あ、はは。欅くんねえ。どうする佐藤くん」
「俺に聞くなよ」
なんだろうこの反応。その欅というクラスメイトはそこまで恐ろしい人物なのだろうか。昨日見た限りじゃそこまで強面な生徒はいなかったと思うのだが。身体が恐ろしくでかかったり堅物そうな人は居たけれど。
「どうしたの二人とも。僕は何か聞いちゃいけないこと聞いた?」
「そうじゃないんだけどね」
「……尾崎。世の中な、知らないほうが幸せということもあるんだぞ。それでも知りたいのか」
そう言われるとなんだか怖くなってきた。誰に対しても平等、という信念を持つ佐藤くんにここまで言わしめる程の人物って一体何者なんだろう。つうか明里姉さん、そんなのと知り合いになってんじゃねえよ。
「さあどうする尾崎くん。聞くかい?」
「いや、やめとく」
「それが賢明だよ。どうせ同じクラスなんだから自然と耳に入ってくると思うしね。逆に、自分から首突っ込んで彼に目を付けられたら結構やばいよ?」
すでに目を付けられている可能性が高い事は伏せておくべきか。どうしよう、瀬川に続いて、聞くだけでやばそうなのと関わりなんて持ってたら僕の最後の高校生活が崩壊しかねない。
僕たちは交差点を右に曲がり、そこから続く坂道を登っていった。学校に到着し、教室へと向かう。途中、河野くんは他のクラスで朝の時間をすごすというので別れ、僕と佐藤くんは自分たちの教室へと入る。
瀬川の姿はまだない。僕は自分の席で荷物を降ろして座る。先に来ていた千早さんと、どうやら同じクラスだったらしいほかの二名は楽しそうに談笑している。他の二人もやけにテンションが高くて相手にするだけで疲れそうだ。
「良く見るとこのクラスは変な奴ばっかだな」
佐藤くんが僕の側に来てつぶやいた。
「平等精神を持っているんじゃないの?」
「それとこれとは話は別だ。俺は誰とだって同じように接してやるが、そいつが変な奴だろうが構わない、ってだけのことだ」
佐藤くんの価値観的に言えばそういうことらしい。それにしても、そんなに変な人居るだろうかこのクラス。僕の知る限りでは瀬川と、立川生徒会長と、欅くん、だけか? そんなに多いとは思わないのだけれど。それとも、三人も居れば多いと言えるのだろうか。僕と佐藤くんの価値観の違いもあるのだろう。
僕と佐藤くんが他愛もない会話を続けていると、一人の生徒が僕の方へ近づいてきた。その生徒の存在に気付いた佐藤くんの表情が一変する。なんだか恐ろしいものを見る目だ。……となるとこの人が欅という生徒?」
「や。おはよう佐藤くん。と、不吉な名前を持ってる蒔良くん」
「……おう」
一応返事はするあたり、佐藤くんも人ができているな。
「聞いてると思うけど、ボクが欅だよ。欅ナツカ。よろしくね」
「ああ、よろしく、欅くん」
「なんだよ蒔良くん。ボクのような道化のことなど呼び捨てにしてくれたまえ。もっとボクを卑下にしてくれて構わないんだよ?」
なんなんだろう。思っていたほど普通に見える。ただ、その微笑が不気味に映るのだが、メイクをすればサーカスのピエロと見間違いそうだ。
「えーっと、欅くん」
「ま・く・ら・くん?」
そんなに呼び捨てがいいのかこの男。訳が分からない。
「あー、欅。僕の姉さんと知り合いなんだっけ」
欅は嬉しそうに微笑みながら答える。
「クスクス。そうだよ。ボクと明里さんは大分前から知り合いでね、キミのことはよく聞いたよ」
思い出した。こいつ、僕が昨日瀬川と何してたのか見てたんだった。そのことについて言及せねば。でも側には佐藤くんが居るし、あんまり知られたくないなあ。
「フフ。佐藤くん聞いてよ。昨日ね、蒔良くんが……」
「おい欅。それ以上口にしやがったら瀬川にカッターナイフ借りてお前の首掻っ切るぞ」
欅が空気を読まずに昨日のことを話そうとしたので思わず脅してしまう。が、それでも欅は動じる事もなくへらへらとしている。
「やだなあ、蒔良くん。なにをそんなに怒ってるんだい? なにかやましいことでもあるのかなあ?」
こいつ確信犯か。性質悪りいな。いやだめだ。怒るな。落ち着け。
「あー、欅。きみ、なんかいろいろ知ってそうだね。物知りなのかな?」
ふと佐藤くんの方を見ると、なんだか世界を諦めかねないような暗い表情をしている。どうしたのだろう、欅が側に居るからだろうか。
「まあ、物知りといえば、物知りだね。何か教えて欲しい事があったら聞いてくれて構わないよ。クスクス。まあ、ボクに構ってくれるような物好きは本当に珍しいんだけどね」
欅はどうやら、人の様々な秘密を握っているらしい。そのネタを利用して人の反応を楽しむ半外道といったところだ。半、というのは、そこまで悪質なレベルではないと勝手に判断したからだが、性格がよくないことには違いない。姉さんですら手を焼くって言ってたからな。
「じゃあ、君が持っている知識をあんまり人に公開しないようにね。特に僕の事とか僕の事とか僕の事とか。最初に言っておくけど、僕を怒らせると怖いよ。姉さんの事は知っているから良いとして、僕にはもうひとり強い味方が居るんだから」
「知ってるよ。和久井っていう怖そうな人でしょ。っていうか、彼も結構な有名人じゃないか。彼がいるからこの学校の治安は守られているといっても過言じゃないよね」
やっぱりご存知抜かりなしか。予想はできてたけど。和久井というのは僕の数少ない親友の一人だ。頭が悪い上に短気で喧嘩っ早く、乱暴で猪突猛進な男だ。この学校で和久井に勝負を挑んで勝てた相手は居ない。一年の時、この学校に居た不良グループを単身で壊滅させた程喧嘩の腕は強い。この学校ででかい顔をしたいのならまず和久井を倒さなくてはいけないとも言われているため、和久井の存在は治安維持のために一役買っている。
が、別に和久井が不良というわけではなく、生徒たちに実害が及ぶ連中たちを個人的にシメている内に有名人になっていたというだけである。そのおかげで教師たちからも頼りにされているほどだ。本人は大がつく程馬鹿だが、結構思いやりのある奴なのだ。
欅が僕と和久井が知り合いだという事実を告げたとき、佐藤くんは驚いたような顔をした。そりゃそうだろうな。和久井は生徒たちからの人望はあっても近寄りがたいタイプの人間だし、僕も和久井と友だちなんだ、とか言ったら単に相手を脅しているようにしか聞こえないらしいから言ってない。
「尾崎、お前和久井と知り合いだったのか」
「まあね。別にただの友だちだよ。和久井の力を利用してどうこうってわけじゃないからそんなに驚かなくても」
「クスクス。彼と友だちな時点でやっぱりキミも変わりモノだね」
その台詞はそっくりそのまま返したい。たぶん欅のがよっぽど変人だろう。僕が保証する。間違いがないとは言わないが。
「ま、確かに和久井くんを相手にするのはごめんかな。彼も正義感が強いし、ボクの事を知ったら本気で退治しようとするんじゃないかな」
自分が害ある存在だと認めてるようなものだぞそれ。いやまあ、欅みたいな人間は退治されたほうがよっぽど世のためだと思うが。欅本人はそうは言ってても全然怖がる風ではないし。
「いやあ、ボクは一年の頃から常々思ってたんだけど、変な人多いよねこの学校」
さっきの佐藤くんみたいなことを言い出した。欅が言う変人の基準とはどんなものなんだろう。気になってはみるがあまり知りたくもないような気がする。
「正確に言うなら変な趣味をもっている人間、カナ。……」
突然欅の表情が曇る。ひどく真剣な表情で僕の顔を見つめてくる。……変な趣味ってまさか欅、そっちの気があるんじゃないだろうな。
「欅?」
「いや、蒔良くん」
欅の表情と比例してその声色も真剣な音を奏でる。
「これは言うべきかどうかわからないんだけれど。根拠のないことはあまり話すと混乱するかもしれないし」
「なんだよ回りくどいな」
「…………」
欅は黙って考え込む。すると欅の背後から彼女の声が聞こえた。
「欅くん? 珍しく考え込んでどうしたの?」
本日遅めに登校してきた瀬川だ。佐藤くんが嫌がるタイプの欅に平然と話しかけられるところを見れば、欅の視点では瀬川も変人に映っているのだろう。いや、それは元からか。
「あ、おはよう瀬川さん。いや、昨日はどうも、面白いものを見せてくれてありがとう」
やっぱ見てたのかこいつ。多分僕が寝ている間に。
「どうしたの欅くん。表情が優れないわね」
「…………」
欅が瀬川の顔をじっと見つめる。その表情はやはり暗かった。
「いや、なんでもないよ。クスクス。蒔良くん、いい事を教えてあげよう」
欅が不適な表情に戻る。
「……ボクはキミのクラスメイトだ。そして、もっとキミたちのことを良く知りたいと思ってる。だからボクはね、蒔良くん。何があってもキミたちの味方だ。……ボクにできることならなんでも協力するよ」
「?」
「じゃ、又ね」
欅は意味深な事を言い残して僕の元から去った。何が言いたかったのだろうか。あんな顔で味方だ、とか言われても説得力ない上に余計疑わしい。
「……欅があんなことを言うのは珍しいな」
「そうなの?」
佐藤くんは僕と瀬川を交互に見る。
「お前ら昨日、なんかあったのか?」
いや、何もなかったですよ? ええ決して。……僕が必死に否定したい事実を欅が握っているんだよなあ。欅の目には僕のことがかなり恥かしい奴として映っているのだろうか。
「今日の欅くん、変ね」
「そうだな」
言われても僕には分からないのだけれど。欅のような人間を僕はこの二年の間に認知できていないとは。僕は案外鈍感なのだろうか。……いや逆か。ああいう人間だからこそ、生徒たちも噂にするのを恐れていたのだろう。……それにしても、欅が最後に残した言葉はどういう意味が?
「……まあ、いいか」
深く考えるほどのことではないと僕は判断し、僕は心の引き出しの中に仕舞い込んだ。
午前中の授業を終えて昼休み。昨日と同様のメンバーで昼食を摂り終え雑談をする。千早さんは途中で仲のいいメンバーに呼ばれて教室を出て行ったため、現在は四人で固まっている。
「卯の花さんと千早さんも結構仲いいよね」
「そうだね。いつからこうして喋るようになったのかは分からないけど。千早さん、友だち多くていいなあ」
「? 卯の花さんだって友だちいるでしょ?」
「ううん。わたしの場合友だちっていうよりただの私のファン。わたしを純粋に友だちって言ってくれる子って実は少ないの」
同性からも好かれるタイプだとは思うんだけどなあ、やさしいし。そのやさしさが仇になってしまってるのだろう。なんだか複雑な気分だ。
「あ、そういえば、尾崎くんって、あの和久井くんと友だちなんでしょ? すごいなあ」
「すごい?」
「うん。あの人も友だち少なそうだし、なんだか怖そうだけど。有名人じゃない?」
有名人というなら卯の花さんだって有名人じゃないか。僕が卯の花さんと会話してることによって、実はさっきから男子陣(卯の花さんのファンだろう)からのお暑いアピールを受けているんだけれど。
「別にすごくはないよ。なんなら呼ぼうか? 意外と普通だよ、あいつ」
「尾崎。それこそ騒ぎになるんじゃねえのか。クラス中が驚くぞ」
「別にいいんじゃない? ただ友だちを呼ぶだけだよ」
僕は携帯電話を取り出し、三人の同意も得ずに和久井の番号をプッシュした。
「あ、和久井? 今暇ならこっちのクラス来ないか?」
数コールの内に電話に出る和久井。なんだかだるそうな声をしているが、僕は和久井と二言三言話をして、電話を切った。
「渋々来るそうだ。卯の花さん。あいつしょっちゅう怪我するから治療のしがいがあるよ」
「本当? それは楽しみね」
人の手当てに生きがいを感じる子なのか卯の花さん。だがまあ、和久井の到来については反対もしていないようだ。佐藤くんはなんか不安そうだけれど。
「尾崎、いいのか。困るのはお前じゃねえの」
「どうして?」
「言っちゃ悪りいかもしれねえけど、結構変り者ばっかと知り合いだからな、お前が孤立してしまうかもしれねえぞ」
余計な心配をするなあ佐藤くんは。進級当初は孤立することを恐れてはいたけれど、今は佐藤くんたちがいるんだから大丈夫だよ。それにこれは勘だが、僕はまだまだ変な人との関わりが自然と増えるんだろうと思っている。
「……お、来たよ」
背が高く、ガタイの良い男子生徒が近づいてくる。うん。見た目は完全に不良だな。見た目だけ。和久井が教室に入ってきたとき、やはり教室は騒然としたが、すぐに安心した風にもとの空気へと戻る。他の変人たちとは違い、生徒から恐れられはすれど、信頼はされている。
「尾崎、急に呼び出すから何事かと思ったが、なんだこいつら」
だが和久井と僕が会話を始めた瞬間、再び教室は騒がしくなる。……そんなに珍しい事かなあ?
「なんだか騒がしいな」
「ああ、和久井。今日は新しい友達を紹介しようと思って」
和久井は僕の周りにいる面々の顔をじっと見つめていく。卯の花さん。佐藤くん。そして、瀬川。和久井は瀬川を見た瞬間、一瞬顔をしかめたが、すぐにもとのぶっきらぼうに戻って言った。
「珍しいやつと友だちなんだなお前は。まあいいけどよ」
「みんなも知ってると思うけどコレ、和久井和仁。僕の友だち」
僕がとりあえず紹介するが和久井はぶっきらぼうなままである。全く、初対面の人間に対してそういう態度をとっているから恐れられるんじゃないのか。
「……俺は佐藤恵。とりあえずよろしく」
「わたしは卯の花つぼみ。尾崎くんから和久井くんは結構怪我するからって言われて、ね? 怪我したらわたしに言ってね!」
本当に嬉々としているな卯の花さん。和久井の方は迷惑そうだけれど。
「私のことはご存知よね。瀬川奈々実よ」
瀬川はじーっと和久井の事を見上げている。そんなに見てたら首が疲れるだろうよ。和久井かなり背高いし。
「……なんだよ」
瀬川が不適な笑みを浮かべている。うむ。なにかたくらんでいる顔だ。お願いだからこんなところで奇行に走らないでくれよ。
瀬川は立ち上がって和久井の前に立つ。和久井は瀬川を見下ろし、瀬川は和久井を見上げる。しばらくすると、瀬川は今までにないような満面の笑顔を浮かべてこう言った。
「よろしくね和久井くん。あなたの噂はかねがね聞いてたからあこがれてたのよ和久井くん。間近で見ると格好いいわね和久井くん」
ああ、瀬川の背景にキラキラ花畑が見える。完全に友好的で好意的な人の良いお嬢様を演じている。瀬川は結構な美人だから、そんな笑顔で話しかけられたら、何も知らない男子はすぐに惚れてしまうだろう。
「背が高くて頼りになりそうだし、喧嘩もお強いんでしょう? いいなあ、私もあなたみたいに大きくなりたいわ和久井くん。ねえねえ、不良グループを一人でノシたって本当? だとしたらすごいわみんなのヒーローね! 私が困ったときも助けに来てくれるのかしらヒーローさん。もしくは白馬の王子様かしら? いずれにしろ良いものよねえ。私強い人好きなの。私王女様やるから王子様やってよ和久井くん。本当素敵ねえ格好いい惚れそうだわ」
ベタ褒めしまくる瀬川。僕はそれが演技だって分かってるからいいけれど、分かってるからこそ怖い。というか、瀬川は地味に、「私の下僕になって」って言ってるんだ。
「お、おい尾崎、なんなんだこいつは」
完全に困り果てている和久井。卯の花さんは状況を分かっているのかなんか楽しそうにニコニコしている。佐藤くんは見てみぬふり。その瞳の向こう側には何を映しているのか佐藤くん。
「その人は瀬川と言って、僕もまだ知り合って僅かだが一つだけわかっている事は、瀬川には僕の常識が通じないという事だ」
「あら失礼ね」
巣の顔に戻って僕に向き直る瀬川。変わり身早ええよ。さっきの満面の笑顔はどこの時空に投げ捨てたんだ。
「あらあら和久井くん、何をたじろいじゃってるのかしらみっともない。これぐらいの誘惑こそ簡単に退けてこそ立派な男の子よ」
「……てめえが訳わかんねえことしてくるからだろうが」
「まあ尾崎くん。和久井くんはどうやら分かってないようよ。私みたいな美少女が全身全霊を持って魅力の全てを曝け出したというのにそれに気付かないだなんて。……ショック」
「あー魅力ねー」
ある意味魅力である。魔性の。あと本当にショックそうな顔をするな。それも演技なんだろうがなんだか同情を禁じえない。
「……卯の花さん。振られちゃったわ。私みたいな女の子は眼中にないんだって。慰めて卯の花さん」
「あらあら瀬川さん可愛いわねえ。こら和久井くん。女の子の乙女心を無下にしちゃ駄目よ」
卯の花さんもノッてるなあ。それとも素か? 残念ながら僕には判断できなかった。
女子二人の口撃を受ける和久井。すでにクラス中が見物モード。ところどころ笑い声とか聞こえてくるあたり、瀬川もなかなかクラスのムードメーカーになれるんじゃないだろうか。……だとしたら喜んでいいのか悲しんだほうがいいのか。
「和久井くんはだめね。……じゃあ、佐藤くんはどうかしら。ねえ、佐藤くん?」
佐藤くんは自分に向けられた矛先を避けようと席を立とうとするが腕をつかまれ逃げられない。男子として無理に振りほどこうとするのはやはりプライドが許さないのだろう。
「いや、その瀬川。酒でも飲んでるわけじゃねえよな」
「……ふえ?」
佐藤くん。その発現は逆効果らしいよ。完全にスイッチ入っちゃったじゃないか。変なスイッチが。
「な、なあ。尾崎。助けてくれ」
「男だろ、佐藤くん。あと和久井。逃げるな」
僕は逃げようとする和久井の腕を捕まえる。瀬川は酔っている振りをして佐藤くんのことを上目遣いで見つめる。女子の必勝パターンらしいな、上目遣いって。そこに涙を浮かべると破壊力が増すらしいけれど。
「瀬川さんって結構可愛いわよね、尾崎くん。いいなあ、なんだか妹に欲しいかも」
「卯の花さん。それ、本気で言ってるの?」
あんなのが妹に居たら一家は崩壊する。妹に全てを掌握され、財産、権力すべて妹のものになってしまう。そんな家庭はいやだ。
「う。瀬川、その」
佐藤くんは苦しそうだ。これはいい加減に助けてやらなきゃいけないかな。友だちとして。
「あー、瀬川。いい加減に……」
僕が声をかけると、瀬川の首が僕のほうに向いた。……嫌な予感しかしない。
「……したら……」
「お・ざ・き・く・ん」
瀬川がふらふらと僕の方へ歩いてくる。お前演技美味いな。本当に酔ってるみたいだ。いや、実は元々酒を準備していたとか? そんなわけねえよな。
「……なんだ瀬川」
「佐藤くんがね、私じゃいやだって」
「そうか。残念だったな」
「だから今度は……」
「却下」
瀬川が言わんとしている事は分かっているのではっきりと断る。だが瀬川は表情を変えずに僕の前でしゃがむ。
「あのね尾崎くん」
「なんだよ」
瀬川は自分のポケットから、アレを取り出し、そしてアレからアレをののばして僕に突きつける。……微笑みながらこんなものを突き出されるとすごく怖いです。
「……私の言う事一つだけ聞いて」
「嫌だといったら?」
「このカッターナイフの銀色の部分が、赤く染まる」
「誰の赤色で?」
「勿論。ア・ナ・タ・の」
誰か助けて。この目はマジっぽいです。いや、まさか本気で刺しはしないだろうが、刺し違える事は大いにありえる。なにせ既にカッターの刃は僕の首元まで伸びてきているので、瀬川がうっかり転んでその刃が僕の喉に突き刺さらんとも限らないわけで。くそ、和久井や佐藤くんには使わなかった最終兵器を僕に対して使用してくるなんて。
「あー、分かったよ。で、なにをすればいいんだ?」
とりあえず命は惜しいので僕のほうが降りる。瀬川は素直にカッターナイフを引いてくれたが、どんな無理難題をふっかけてくるのやら。
「……私はひどく眠いのよ」
「それで?」
「膝枕。して?」
ただ今氷河期がやってまいりました。佐藤くんはやれやれと首を振り、和久井はなんなんだこいつと瀬川を見つめ、卯の花さんだけはやたら楽しそうに微笑んでいる。いや、卯の花さん。まじ勘弁して。
「……切るわよ」
一瞬真顔に戻って背顔が脅す。なんだろう、僕は恥をかくか死ぬかしか選択肢はないのだろうか。昨日に引き続き、膝枕とは。しかも今度はクラスメイトたちがいる教室の中で。
「……あー。分かった」
「ふふ、ありがとう。おやすみなさい」
瀬川は僕の膝に頭を乗っけて目を瞑る。本当に寝る気かこいつ。僕は猛烈な恥かしさが襲い、顔が熱い。クラス中が僕たちのことを見ている。……ハロー、ハウワーユー。
「膝枕なら卯の花さんにやってもらえよ」
無駄だとは思うが瀬川に話しかけてみる。どうせ狸寝入りだろうに。
「尾崎。俺、改めてお前の事すごいと思ったよ」
佐藤くんが僕を褒める。いや、嬉しくないぞ。
「でも瀬川さん、なんだか尾崎くんに懐いてる感じじゃない?」
「そうかな。ただ僕で遊んでいるだけのような気がするけど」
卯の花さんがニコニコしながら僕のことを見つめる。なんだよ。全く。そんなに僕のことがおかしいか。
「ふふ。尾崎くんは瀬川さんに好かれてるよね。嫌いな人にはそんなことしないでしょ」
それはそうかもしれないけれど。僕としてはひたすら恥かしい。
「何してるのみんなして」
もう少しで昼休みが終わるというところで千早さんたちのグループが戻ってきた。
「……なんか楽しそうな事してるね!」
千早さんの側に居た女子の一人が元気一杯に言う。ん? 瀬川の側に来ても大丈夫なのかこの子ら。
「なんかなっちゃん気持ち良さそうだなー。よしちーちゃん、あたしに膝枕しろ!」
もう一人のボーイッシュの子が叫ぶ。なっちゃんってのは瀬川の事か。既に愛称を付けるあたり、千早さんとの間では瀬川についての話がついているみたいだな。
「ちょっとジュン、いきなり抱きついてこないでよ。……ん?」
ようやく千早さんが和久井の存在に気付く。他の二名も同様で、和久井の姿を見て最初は驚いた風だったがすぐに元通りになった。
「おー、和久井っていうあの有名な方じゃないっすか!」
「あの怖そうな人だー!」
テンション高けえなこの二人。千早さんが落ち着いてるだけあってなんとも不思議。千早さんはストッパーか?
「尾崎くんの知り合いだったのね。これは驚き。やあ和久井くん。私は千早なつき。こっちは野中と日向よ」
「やあやあ日向だよぉー! 下の名前は彩音だよぉー! たまにひまわりとかひなたって呼ばれるけどひむかいだから気をつけてねー!」
「ご紹介預かりましたわたくしは野中潤だ! 元気が取り柄のソフトボール部現役のピッチャーだぞ! よろしくな、かずくん!」
かずくん!? 初対面で和久井に対して愛称を付けるか野中さん。二人とも臆面もなく和久井と対峙しているが、和久井はこういう人たちはむしろ苦手だからな。
「あ、ああ」
「それで、なんで尾崎くんは瀬川さんに膝枕を?」
「いや、これには訳が」
野中さんと日向さんは目を輝かせて興味深深な顔をしている。返答に困る僕。別に説明する義務はないと思うけれど、説明しないならしないでしつこそうだし。変にがっかりさせて恨まれそうだし。
「なんて説明すればいいのやら」
「ほら野中さん、日向さん。だめよ尾崎くんを困らせちゃ」
卯の花さんが二人をなだめにかかる。
「決まってるじゃない。瀬川さんの乙女心よ」
だから乙女心ってなに。卯の花さんは別に二人をなだめた訳ではないらしく、余計に二人の輝きが増すばかりで卯の花さんにも困ったもんだ。
「卯の花さん、なんて事を。まあ、確かに尾崎くんと瀬川さんは仲がいいけれど」
どうやらこの女子メンバーの中では千早さんだけがまともらしい。……別に助けてくれる風でもないけど。
「あはは。まあいいけどね! えーっと、なんて呼べばいいの? 尾崎くんって」
日向さんは明るく能天気に言う。
「別になんでも構わないよ」
「下の名前って蒔良だっけ。じゃあまーくんとか」
「いいな! よろしく、まーくん」
なんでも言いとは言ったけどやっぱりなんだか恥かしい。まあ、女の子なんてこんなもんだろう、多分。元気で何より。
「そろそろ昼休みも終わりね。うん。明日からは二人も一緒しない? 勿論和久井くんも」
そうやって昼休みに一緒に過ごすメンバーが拡大されていく。なんとも男性陣が弱いグループになりそうだが、仕方あるまい。なんなら河野くんでも呼ぼうか。いや、河野くんは他に友だち大勢居るらしいから誘っても来ないだろう。欅を含めれば男性陣のパワーが格段にあがるだろうが、僕がいやだ。
「ん……」
瀬川がゆっくりと身体を起こした。本気で寝ていたようで、ぼーっとしている。というかあれだけ騒がしかったのに良く眠れるな。
「……はぅ!」
起き上がった瀬川の顔を見て日向さんが奇妙な声を上げる。やはりまだ瀬川の事におびえているのだろうか。そう思ったがいらぬ心配だった。
「おでこが赤い!」
「……?」
起き抜けの瀬川には通じない話だった。