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マクラな草子  作者: アヴェ
始まりの草子
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第一章・002

 教室での騒ぎを聞きつけた足立先生は、それはもうご立腹だった。これから一年、どう足掻いたって同じクラスでやっていくんだから、つまらない事で揉めてんじゃねえ、と、主に問題を起こした僕以下五人は特に叱られた。新学期初日から幸先が悪い。これ以上僕に対する心象を悪くしてしまうと推薦を受ける事ができなくなる。今後気をつけよう。

 と、改めて志したところであまり意味はないような気がする。今回の件で、瀬川がどれほど人から嫌われているか僕は思い知ってしまった。だからといって今更後戻りはできないし、僕はこれからも瀬川に関係のある何かしらの事柄に振り回されていくのだろう。

 始業式では校長先生が、一年生は部活に入ってどうたら、二年生は中堅としてこうたら、三年生は最上級生としてうんたらといった、とてもありがちで退屈な、ありがたいお話を長々としてくれた。おかげで立ちながら夢を見てしまいそうな程の眠気に襲われた。この学校の校長は話が長すぎる上に定型文すぎるんだよな。おかげで毎年毎回の集会の度にまたその話か、と思わずにはいられない。

 そんな始業式も終了し、国語と数学の休み明けテストをそこそこの出来栄えで終えて現在昼休み。瀬川と、さっそく友だちになった千早さんら三人と共に昼食を摂る。学食なんて立派なものはないので、購買で買ってきたパンや家から持参した弁当を食べる。去年はまた別の友だちと共に昼休みを過ごしていたはずだが、初日からメンバーが全交換とは恐れ入る。

「千早さん。他の仲のいい友だちはいいの?」

 僕は自分の身を省みずに瀬川の事を庇ってくれた千早さんに聞く。けれど、千早さんは別段何ともないように答えた。

「大丈夫。彼女たちも分かってくれたから。でも、それを言うなら尾崎くんこそ、他に友達が居るんじゃないの?」

「元々の友だちは皆他のクラス。と言っても、別段そこまで仲が良かった奴は一人くらいしか居なかったし、そいつは瀬川とも普通に関われる器を持っているから、呼べば来るとも思うけど」

 つうか、瀬川とは違う意味で目立ってるからな、あいつ。境遇は似ている、ようで似てもいないか。

「へえ。卯の花さんは人気あるし、佐藤は? 他の友だちとの関係やいかに」

「どうだろうな。ま、別にいいんじゃねえの。俺が誰と付き合おうが、俺のダチが誰と付き合おうがそれは自由だろ。なるようになるさ」

 このメンバーは皆神経が図太いな。むしろ一番繊細なのって瀬川なんじゃないだろうか。

「卯の花さんは? いくら人気があるって言っても」

「んー? どうだろ。わたしは別に困らないなあ」

「尾崎。こいつの場合はな、卯の花と距離をとると、いざ自分が怪我したときに困るんだよ。怪我を治してくれる奴が居なくなるからな」

「いや、保険の先生頼れよ」

 いくら治療の腕が良くたって、一応免許持ってる先生も居るわけだし。

「正直に言って、あんな教員に面倒なんて見てもらいたくはないがな。だから皆卯の花を頼るんだ」

 哀れ、保険教員。

「……ま、卯の花さんがいいんならいいんだろうけれど」

「尾崎くんも怪我したらわたしに言ってね」

 本当にやさしいなこの人は。でもなおさら怪我なんてできないな。あんまり人に迷惑がかかるような行為は慎まないと。

「よし、今日はあと英語の試験を受ければ終わりね。いつもより早いし、皆でどっか行く?」

 千早さんが張り切って提案してきた。悪くはない申し出だがどうしよう。とりあえずみんなの反応を待つ。

「さんせー」

 卯の花さんは迷いなく賛成。明るすぎるなこの人。

「俺は用事があるし、今日はすぐ帰るぞ」

 佐藤くんは都合が悪いらしい。後は瀬川だけだが。

「あら、残念。瀬川さんはどうする?」

 実はこの昼休み、一度も口を開いていないのだった。こういう、人と会話をするということに慣れていないのだろうか。黙々と弁当を召し上がっている。

「…………」

「瀬川さん、どうしたの?」

「そういえば私、人と一緒に遊びに行った事なんてない」

 初めて口にした言葉がそれか。まあ、今までの瀬川の境遇を考えてみればあり得ない話でもないけれど。

「じゃあ、この際だ、思い切り遊ぼう」

「あ、でも、今日は遠慮しておくわ。私も用事があるの」

 何かよからぬことを考えているんじゃあるまいな。

「そう。残念ね。じゃ、また今度都合がいい時に遊びましょう。尾崎くんはどうするの?」

 そうだなあ、今日は特に用事はないし、了承したいところだけれど。なんとなく気まずいような。

「気まずいだなんてそんなことはないよ。ね、卯の花さん」

「うん。ないと思うよ」

 また見透かされた。実は読唇術でも持っているんじゃないだろうか千早さん。まあ、二人がそう言うのなら、別に構わないよな。

「尾崎くん。駄目よ。私と用事があるの、忘れたの?」

 瀬川がなにやら僕には身に覚えのないことを言ってきた。……じっと僕を見つめてくる瀬川。完全に口裏を合わせろ、ということらしい。だがまだ僕が否定さえすれば、瀬川の謎の計画は崩壊する。はず。

「ごめんなさいね千早さん、卯の花さん。実は尾崎くんとはこの後大事な大事なお話があるのよ」

 僕が行動に移す前に瀬川がどんどん僕との約束を勝手に構築していく。

「大事な話?」

「そう。とってもプライベートなお・は・な・し」

 瀬川、それは卑怯じゃないかおい。千早さんや卯の花さんがなんだかドキドキしているぞ。佐藤くんは完全に傍観モードだし、こうなると僕が慌てて否定すると逆に肯定しているように思われてしまうだろうし。やりおる、瀬川やりおる。

「ご、ごほん。そ、そう。大事な話ね。それはしょうがないね。うん。そう、分かったわ。尾崎くん」

「……なんでしょう」

「ぐっどらっく」

 やめてくれ。

 否定するまもなく瀬川から押し付けられた約束の時間、つまり放課後がやってきた。佐藤くんはさっさと帰ってしまったし、千早さんと卯の花さんはなんだか落ち着かない様子で僕たちに別れを告げて行った。教室に取り残された僕と瀬川。……居づらい。

「さてと、行きましょうか」

 暫くして瀬川が口を開く。用件も何も伝わらないその一言に一体どれだけの強制力があるか。この場に居合わせないときっと分からない。

「行くって、どこへ」

「どこかしら。どこがいい?」

「決まってねえのかよ。僕に言われても、って感じなんだけれど」

 無表情の瀬川。一体何を考えて行動しているのだろうか。観察眼に優れた千早さんでも、瀬川の行動を読むのことはできないんじゃないだろうか。

「冗談よ。ほら、今朝話したじゃない」

「話って……。ああ、美術部にどうこうって話ね」

 いまさら入っても仕方ない上に、別に今日でなくても問題のない話なんじゃないか。それに、この話の流れから行くと、どうやら美術室に行きたいらしいが、始業式の本日、美術室なんて開いているのか疑問である。

「別に入部しなくてもいいわ。どうせ私だって活動してないし。ただ、ちょっと気になってるのよ」

「気になる?」

 瀬川は言おうか言うまいか考えているようだ。なんだろう、美術室に何かしらのサプライズでもあるのだろうか。

「まあいいわ。どうせ暇でしょ。付き合って頂戴」

 瀬川は有無を言わさず歩き出した。僕は渋々付いていく。……このまま付いていくと、瀬川がみんなから避けられている理由がはっきりするかもしれない。とはいえ、それを今更知ったところで、どうにかなるものでもないだろうが。

 廊下を歩いている途中瀬川はずっと無言だった。とりあえず横に並んで一緒に歩いているが、なんだろう、空気が微妙だ。そういえば瀬川は僕のことをどう思っているのだろう。元はといえば僕から先に話しかけ、ある意味それが原因で今日みたいな事が起こったわけだから。心の底では迷惑がっているのかもしれない。瀬川は元々表情が読みにくいから、僕ではそんなのわかりっこないのだけれど。

「あー、なあ瀬川」

 僕は沈黙に耐えかねて瀬川に声をかけた。

「千早さんたちのこと、どう思う?」

「何よ突然」

「いや、特には」

 再び沈黙。僕の問いには答えてくれないのだろうか。それとも、意外に恥かしがっているだけなのだろうか。

「……いい人たちね」

「え?」

 瀬川がポツリとこぼした言葉には全てが込められていた。なるほど、まんざらでも無さそうだな。いままで孤立していた分、千早さんらの好意は素直に嬉しいのだろう。少なくとも僕にはそう見える。

「……あなたは別よ」

「……ん?」

「うっとおしいわ」

 ……切ねえ。

 ようやく美術室に辿り着く。瀬川は何も言わずに美術室の戸を開けた。普通に開いているということは、部の活動をしているのだろうか。僕も後に続いて美術室内へ入る。

 そこに僕が考えていた光景はなく、そこには誰一人として居なかった。鍵が開いていたのだから誰かしら居ると思ったのだけれど。電気も付いていないし、なんだか暗い。

「誰も居ないじゃないか」

 僕が言っても瀬川は立ち止まらなかった。見れば美術室の奥にカーテンで仕切られた小部屋があることに気付く。どうやら瀬川の目的地はあそこのようだ。

「……」

 瀬川はその仕切りの向こう側へ入っていく。……僕も行くべきだろうか。でも、僕は一応部外者なわけだし、あまり無断で入るのも良くないような気がするのだけれど。

「どうしたの尾崎くん。こっちよ」

 カーテンの向こう側から瀬川の声がする。僕はその声に従い、恐る恐るその向こう側へと入っていく。

「……これは」

 小部屋の中には大きな絵が一つだけ飾られていた。どうやら油彩画のようだ。人物が描かれていて、僕のような素人が見ても、それはとても完成された作品である事が伺える。だが、なんだろう。僕はこの絵をどうにも好きにはなれない。

「この絵がどうかしたのか?」

「気味悪いわね」

「瀬川、君、あくまで美術部員だろう。この絵が誰の絵だか知らないが、あんまりそういうことは言わないほうがいいんじゃないか? それともこの絵は君が描いたのか?」

 僕はもう一度絵を眺める。うん、見れば見るほどすばらしい絵だ。でもやはり、見れば見るほど不安になる。もしも今の時間が真夜中で、肝試しでもしている中にこの絵を見てしまったら腰を抜かしてしまうだろう。

「この絵を見て不気味に思わないなんて、あなたどうかしているわね」

「……いや、まあ、な」

 思わないわけがない。それはきっと、この絵に描かれている人物の性別が特定できないからだ。人は人の形をしたものに自然と恐怖を覚える。いや、正しくない。不完全な姿でありながら、人に近い形状のものに恐れ怯えるのだ。

 この絵には、首が描かれていなかった。

 それがひたすら、僕の心に不振感を募らせる。そう、ただ単に、首がなくて、性別が特定できないだけの絵だ。そんなものにいちいち不安を覚えるなんて、どうかしてる。

「この絵になにかあるのか?」

「いいえ。ただ、なんとなく尾崎くんにも見せてあげたくて。理由は分からないのだけれど」

「……この絵は何度も見てるんだろ。なんで今更」

 瀬川は黙って絵を眺めていた。僕はようやくこの絵の不気味さに慣れてきた。が、そうそう何度も眺めるようなものでもないな。

「瀬川、僕は外に出てるよ」

「……」

 返事がないのでそのまま放っておいて僕は小部屋から抜け出す。薄暗い美術室。あちらこちらに画材やら描きかけの絵やらが放置されている。僕はとりあえず一通りに眺めて周ることにした。

 一つ目。なんだが抽象的な絵だ。ところどころ乱雑な線が描かれている。全然絵のテーマが見えてこないが、これはこれで面白い。

 二つ目。これはイラストだろう。ファンタジックなドラゴンの絵が描かれている。といっても、そこまで複雑なデザインではないし、ただ遊びで描いているだけのようにも見える。

 三つ目。これはただの石膏デッサンか。それにしても上手い。すごくリアルだ。僕にもこんな絵の才能があればいいのにとも思う。

 適当に手にとっては適当な解釈をするが、僕は芸術に携わった事のある人間じゃないため、その解釈が的を得ているかは甚だ疑問である。実際、どの絵が良くてどの絵が良くないのか判断は付かない。……どうして瀬川は僕を美術室になんて連れてきたのだろう。

 しかも、僕だけ。千早さんや卯の花さんでは駄目だったのだろうか。なにか僕でなきゃいけない理由が? いや、自惚れるな。単に瀬川の気まぐれということもあるだろう。……はあ、なんだか考えるのも面倒になってきた。

「それにしても遅いな。いつまで見てるんだ?」

 僕は再び、カーテンで仕切られた小部屋へと入る。瀬川は椅子に座って俯いている。なんだろう、なにか考え事だろうか。

「瀬川?」

 呼びかけても返事がない。首は下を向いていて、長い髪に隠れて表情も伺えない。

「……瀬川?」

 もう一度声を掛けるがピクリとも反応しない。……どうした。何があったんだ? 僕は慌てて左腕を見る。手首は……切れていない。ということはリストカットはしていないか。

「おい、瀬川」

 僕は瀬川の肩を揺する。やはり反応がない。一体どうしたというんだ。新手のドッキリか? 僕が瀬川の肩から手を離すと、瀬川の身体は斜めに倒れていく。

「おい瀬川!」

 慌てて身体を抱き起こす。ようやく瀬川の顔を拝む事ができた。しかし、目を閉じていて反応がない。

「……瀬川」

 僕はその姿を見て、言葉を濁した。なんと表現すればいいのか。こんな経験は初めてだ。このあと僕は一体どうすればいい? 

「…………」

 言葉を発さない瀬川の唇。冷たい体。閉じた瞳。綺麗な髪。まるで精巧に作られた人形を抱いているようだ。こうして見れば、どんな男性の心でも射止めてしまえそうな、麗しき令嬢。油断したら僕まで惚れてしまいそうだ。

 だが、そんな気持ちと裏腹にこみ上げてくるこの感情の矛先を、一体誰に向ければいいのだろう。動かない瀬川の身体を抱いて、なるべく冷静を装って考えた。考えた末に導き出した答えは、とりあえず、瀬川の事は放っておこう、という事だった。

 僕は瀬川の身体を壁に寄りかからせ、おそらく、この大きな絵を埃から守るために被せてあっただろう布を丁寧に折りたたみ、瀬川に被せてやった。

「おやすみ、瀬川」

 僕は小部屋から抜け出し、最寄の椅子に腰掛ける。……全く、本当、面倒な奴だな、あいつ。僕は思考をめぐらせ、その内、目の前が真っ暗になって……夢の中へと潜り込んでしまった。

 …………

 …………

 …………

「…………ん……」

 頭の中で声がする。

「お………………」

 澄んでいて綺麗な声だ。

「…………………」

 なんとも心地よい。

 僕は深い海の中に沈んでいる。目を開くと、水面を越えた先の、太陽の光が僕の身体を貫いてくる。暖かい。そして、懐かしい。この感じはきっと、僕がまだ赤ん坊だった頃、母親のお腹の中に居たときの安心感だ。そう。僕は今赤ん坊だ。足を伸ばすと、僕を包み込む壁に当たる。手を伸ばせば、母親の温もりが実感できる。

 でも、いつまでもこのままではいられない。早く外の世界を見に行かなくては。

 僕は、深く深く沈んでいく自らの身体を思い切り起こし、水面に向かって手を伸ばす。魚みたいに足を一生懸命に動かして、あの太陽の光を目一杯浴びるために。

 …………

 …………

 …………

「……ん……」

 目を開けると、まず真っ先に天井が見えた。電気も点いていない薄暗い美術室の天井。どうやら僕は眠ってしまったらしい。

「ようやく目を覚ましたのね」

 すぐ耳元で声が聞こえた。僕が少し顔を上げると、そこには見慣れた少女の綺麗な顔が、さかさまに映った。

「……おはよう、瀬川」

「まったく、お寝坊さんなのね、尾崎くんは」

 瀬川が僕の顔を真上から覗き込む。……ん? これはどういう状況だろう。そういえば頭がなにか柔らかいものに乗っかっている。僕の真上には瀬川の身体があって、瀬川の顔は真っ逆さま。つまりこれは、その、あれだ。

 どうしよう。気付いたら猛烈に恥かしくなってきた。いくらなんでも、ありえない。

「あらあら、顔を真っ赤にして間抜けね」

「……なあ瀬川。僕はどういう寝相をしたらこういうことになるのか、説明できるか?」

「簡単な事よ。私があなたの頭を、自分で自分の膝に乗っけたから」

 なに考えてんだこいつ! 

「どうしたの? 恥かしいの? もっと甘えてもいいのよお坊ちゃま」

 いやだ、死にたい。いや、もう死ぬ。恥かしさの余り心臓がバクバクいってて、その内過労で止まる。まさかとは思うが、さっきの夢の中で感じた安心感ってこいつのせいか? いやいや、認めたくない。

「よし、起きた。今起きた。だからその手をどかしてくれ頼むから」

 瀬川が僕の頭を抑えているせいで起き上がろうにも起き上がれない。手で無理やりひっぺがすことも出来なくはないが、いや、怖い。無理。

「あと、その、なんですか。物騒なものは仕舞ってくれ」

 だって、もう片方の手でカッターナイフ握ってるんだもん。

「いいじゃない。私みたいな美人に膝枕してもらえて、あなた幸せモノよ。幸せついでに、耳掃除してあげる」

「あんた僕の母親かよ!」

「黙りなさい。お母さんの言う事は聞くものよ」

 なんだかこいつも嬉しそうだぞ。僕みたいな男にいらぬ恥をかかせた上、これからもっと恥かしい事をしようとするな! 

「さてはお前、エスだな」

「どうかしらね」

 瀬川にこんな一面があるとは思わなかった。マジで何考えてるかわからねえ。しかもここは美術室。もしも誰かが来てこんな場面に遭遇したとしたら、僕はもう立ち直れない。

「人に見られたらどうする!」

「大声出すと、余計集まってくるわよ。安心して、人に見られたところで、私は困らない」

「僕が困るってんだよ」

 最早聞く耳持たず。瀬川は、どこに仕込んでいたのやら、綿棒を取り出して僕の耳に突っ込んだ。

「ほら、耳、こっち向けて」

 ……抵抗むなしく、僕は同級生に耳掃除させられるという、夢でもありえねえような状況を体験する事になってしまった。もういい。やけくそだ。

「気持ちいい?」

「あー、意外とな」

 それにしても、やっぱりなにか安心できるな。卯の花さんみたいな、元から優しい、というのとは違って、いや、瀬川の場合のこれは優しさでは決してないのだろうけれど。それでも、まだ母親に甘えていた小さな頃に戻ったような気がして。

「……はい。じゃあ反対側」

「ん」

 瀬川の為すがまま為されるがまま。僕はこのひと時を過ごしたのだった。

 ようやく解放された頃には日もすっかり沈み、元々薄暗かった美術室も真っ暗になった。結局、今日瀬川が一体何をしたかったのか分からなかった。……わざわざ膝枕するために、耳掃除するために僕を連れてきたのだろうか。いや、そんなわけない。これはきっと単なる気まぐれだ。そう思いたい。

「さて、帰るか」

「そうね。勿論送っていってくれるわよね」

「……しっかりしてるよ、お前は」

 なんだかすっかり瀬川のペースに巻き込まれてしまったな。でもなんでだろう。心の中で、それも悪くないと思っている僕が居る。実質まだ二日しか言葉を交わしていない相手に対してこんな気持ちになるなんて、僕もどうかしている。

「瀬川の家ってどの辺なんだ?」

「交差点を右に曲がった先。商店街の手前らへん」

 僕たちが通う学校は一本の坂道を登った先にある。生徒たちが何処に住んでいようと、必ずその一本の坂道を登らなくてはならず、その坂道を下るとに交差点があるのだ。僕たち生徒が交差点、と言えば、必ずその場所のことを指すのだ。

「あの辺か。買い物楽でいいな」

 僕と瀬川は美術室を出て、並んで歩いた。鍵は開けたままだ。元々開いてたのだし、帰りも開け放しで大丈夫だろう。

「そうでもないわよ。あそこ、この街一番の商店街だし、どんな時間でも混んでるから結構大変なのよね」

 学校はすっかり静かになって、ひょっとすると、生徒用昇降口は鍵が掛けられているかもしれない。

「尾崎くんの家はどの辺なの?」

 そうなると、教師用の昇降口から外に出なくてはならない。生徒用昇降口からはそこそこ距離があり、こうしてだらだらと会話しながら歩くには、丁度いいのかもしれない。

「僕の家は駅の近くだよ。だから、瀬川の家からは反対側」

 商店街反対側、つまり、交差点を左に真っ直ぐ行くと駅がある。遠くから来る生徒は電車に乗ってそこの駅で降りる。僕が学校へ行く時間帯には、駅から生徒たちが出てくるのをよく見かける。

「あら、じゃあ交差点まででも構わないわよ」

「いや、別にいいさ。大して距離もないし」

 何より、僕はもう少し瀬川と話をしていたいと、心の片隅で思っているのだった。なんだか、この時間の居心地よさが、僕の感覚を鈍らせているのだろう。

「……鍵がかかっているわ」

 案の定、生徒昇降口は閉鎖されていた。こんな遅くまで、僕たちは何をしていたのだろう。いや、思い出したくない。

「教師用から出るしかないな」

 学校用の上靴をロッカーに入れ、自分の靴を持っていく。廊下の電気も消されていて本当に真っ暗だ。

「……なんだか怖いわ、尾崎くん」

「何を今更。第一瀬川、お前に怖いもんなんてあるのか」

 いやあ、ごめんなさい。怖いのは僕でした。瀬川のカッターナイフに光が反射した瞬間、僕は本気で殺されるかと思った。

「闇にまぎれて暗殺ですか瀬川さん。まじで勘弁してくださいよ」

「だって怖いんだもの」

「そんなもの持ってるほうが怖ええよ!」

 教員用昇降口に辿り着いた頃、足立先生と遭遇した。ちょっと暗くて分かり難いが、どうやら眠いらしい。

「何打お前ら、まだ居たのかよ」

「……先生はまだ帰らないんですか?」

「そろそろ帰るよ。お前らこんな時間までなにやってたんだよ。部活はどこも休みのはずだろ」

 いや、何って。寝てた。うん。

「実はですね……」

「ちょ、瀬川、何言い出すんだ。先生、なんでもありませんから」

「……そうか。まあいいけどな」

 先生もそんなに突っ込んで聞いてこなくて助かった。全く、瀬川が口を開くときっとろくな事にならない。

「ま、あれだ。お前ら仲いいみたいだし。俺もちっとは安心してんだ。尾崎、瀬川の事よろしく頼んだぞ。じゃあな」

 足立先生は言うだけ言ってさっさと職員室に戻ってしまった。僕は瀬川の直属の担当じゃないですよ足立先生。

「それじゃ、行きましょう」

 昇降口を出ると、広い宇宙に星々が輝いているのが分かる。雲ひとつない空だ。この街は結構田舎だし、街灯が少ない分星は良く見える。

「綺麗な星空ね」

「そうだな」

 僕たちは揃って坂道を下っていく。少し小高いところから見下ろす町並みは、この空の星々と肩を並べる輝きを誇っている。

「……そういえば、なんだけど。あの絵、そんなに気にしてどうするんだ」

 僕は本日の本当の目的を思い出して瀬川に問う。どうせまともな返答なんて返ってこないだろう事は分かっているのだけれど。

「ああ、あれね。あの絵を見るとちょっとね、不安になるのよ」

「それは分かるが、たかが絵だろ? 何か問題あるのか?」

 瀬川は考え込む。僕は、瀬川がここまで思い悩むほどの何があの絵に込められているのか分からなかった。僕は本当に芸術というものが分からないのだ。

「分からないけれど、明日もちょっと付き合ってね。明日からは美術部も活動を始めるだろうし、あの絵に関して詳しい人がいると思うわ」

「いると思うって……。お前一応美術部員だろ」

「部員でも、知っている事と知らない事は部外者と等しく存在するものなのよ」

 どう考えても同等ではないと思う。

「で、なんで僕が付き合わなきゃならないんだ。それ相応の理由があるのか?」

「ん。……それはあれよ。秘密って事でひとつ」

 本当は理由なんてないんじゃないのか。まあ瀬川の心の中なんて僕には分からないし、どうせ暇なんだから別に付き合っててもいいか。

「オーケー。僕でよければお供しますよお姫様」

「……恥かしくないの?」

 散々人に恥かしい事させておきながら平然としてやがる。もう何も言うまい。

「わたしは恥かしいわ」

「知らねえよ」

 坂道を下り終えて交差点を右に曲がる。商店街まではまだそこそこ距離はあるが、瀬川の家に着くまで、僕たちは他愛無い会話をしながら歩いた。

 徐々に商店街を行き交う人々のせめぎ合いが聞こえてくる。この街では一番にぎわう場所だ。瀬川の家はこの商店街の手前に位置しているらしい。

「こんなにも近いと結構迷惑なのよね」

「……分かる気がするな。で、どこだ、お前の家」

「この小路地入ったとこ。……じゃ、ここでいいわ」

「ああ。じゃあな」

「またね」

 瀬川は薄暗い路地の中へと消えていった。僕は身体を向きなおして、駅のほうに歩いていく。

 なんとも今日は騒がしい日だった。高校三年というのはこうも騒がしいものなのか? いや、まだ初日だし、全てを悟るには早計過ぎるか。千早さんといい卯の花さんといい佐藤くんといい、僕のクラスには瀬川の事を理解してくれる人が居る。というのも変な話なんだよな、やっぱり。

 瀬川は確かに変なな奴だけれど、彼女にまつわる噂はやっぱり単なる噂に過ぎないんじゃないかと僕は思う。僕はこうして瀬川と一緒に帰ってみて、そのことを強く実感している。

「……はあ。やっぱりただの間違いなんじゃねえのかな」

 僕は思わず独りごちてしまった。

 まあいいさ。どうであれ、僕はこのままずっと瀬川と共に生活していく事になるんだろうから。それによってどんな未来が待っていようとも、僕はきっと後悔はしないだろう。なぜならこれは、僕が自ら選んで行っている事なのだから。

 なにはともあれ、これから先どうなることやら、やっぱり僕には予想できない。おさきはいつでもまっくらなのだ。

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