第一章・001
短い春休みが終わり、今日は始業式の日である。毎年行われているクラス替えのクラス割は春休み中の登校日に発表されたので、新学期の初日である今日という日は案外さっぱりとしたものだと僕は思っている。いっそのことクラス割の発表を今日この日にしてしまえば多少なりとも楽しみが増えるというものではないだろうか。といっても、高校生にもなってクラス替え如きでときめく僕ではない。好きな女子と同じクラスになれたらいいなとか、嫌いな男子は他所のクラスへいってほしいとか。そんなありふれた事さえ僕は考えてもいなかった。
僕は今年で三年生だ。これまでの二年間はとても平和で気を抜いて生きてきたが、流石に今年はそういう訳にもいかない。進学にしろ就職にしろ、クラス替えによってどんな人間と関わる事になろうとも、それがたとえ好きな人間でも嫌いな人間でも僕はどっちでも構わない。要は、いちいち人間関係なんて気にしていたらこの先の受験という戦争を生き残れないだろうということだ。
なんて、クールぶった優等生みたいな事も実のところ考えてはいなかったが。僕の場合、クラスの内容がどんなものであれ、いままで通りの生活をしていれば就職も進学もあまり支障が出ないのだ。特に成績がいい訳でもないし、運動部に入って特別な賞を貰っているわけでもないけれど、それでもそこそこの大学にいけるだけの学力は持っているし、学校側の推薦でそこそこの企業には就職できる見込みがある。まあそれでも、あまり甘く見すぎるのもどうかと思うが、この一年ずっと緊張しっぱなしっていう訳にもいかないだろう。
……普通に、今まで通りの生活、か。
「おはよう尾崎くん。今日から一年間、どうぞよろしくね」
「……はあ」
「どうしたの溜息なんてついちゃって。せっかくの新学期にそんな疲れた顔をされると気が滅入って……どうしようかしら」
今日からお世話になる教室に僕が入ると、一人の女子生徒が挨拶をしてきた。彼女の名前は瀬川奈々実。一見すると普通の女子生徒で、一年間一緒になるクラスメイトに挨拶をするほど気さくな性格をしているように錯覚する。髪は艶やかですらっと長く、制服も乱れなく着こなし、油断するとかなり綺麗で美しく、見とれてしまいそうだ。が、これも錯覚。
「朝から無視されるなんて心外だわ尾崎くん。私があなたに無視されるような何かをしたかしら」
「……おはよう瀬川。別に無視していたわけじゃないよ。ただ、今年も平和にのんびりゆっくりゆったりまったり暮らしていこうと誓った僕が馬鹿らしくてね」
「ふうん。今更ね。でも、尾崎くん。私と同じクラスになれてとても残念、という顔をしているけれど、クラス割は私が決めている事ではないのだから恨まれてもどうしようもないのよ。一度私によろしく言っておいてそんな顔をされると、いたく傷つくわ。私はこれでも結構繊細なのよ」
瀬川のどのあたりが繊細なのだろう。僕は疑問に思わずにはいられなかったがなるほど、確かに僕はあからさまに彼女に対して苦手意識を持ちすぎているのか。これでは客観的に見て、僕の方が悪者なんだろう。ふむ。今後はそんな事を思われないように注意しよう。
と、いっても、その客観的視点が存在するなら、もとより僕は瀬川を苦手とする理由がないのだけれど。
正直に言えば、彼女は僕だけじゃない、周囲の人間からも苦手とされている。というより、あからさまに避けられている。異常、異端、異質、異様、異例。彼女と関わると必ず不幸な出来事に遭遇する、といった根拠もない噂が流されたり、彼女は実は既に死んでいて、道連れにする肉体を求めて現世をさまよっているのだ、と言い出す輩が居たり、学校の七不思議の全てを瀬川が一任しているのだという説も存在する。これではある意味いじめに近いのではないかと僕は考えているのだが、それほどまでに彼女は周囲の人間からは受け入れがたい種類の人間なのだ。そのため彼女はいつだって独りだった。表面上は普段通りにしていても、内心、面白くは決してないはずだ。
何を血迷ったのか(多分、魔が差したんだろう、それ以外考えられない)、そんな彼女に僕は話しかけてしまった。
春休みの登校日。正面玄関の掲示板に貼り出されていたクラス割を見ていた僕は、同じクラスに瀬川奈々実という名を発見する。瀬川とは一、二年と同じクラスになった事はないが、瀬川がどのような人物であるのかは噂で聞いて知っていた。そのため、ああ、彼女は僕が関わる必要性のない人間なのだと、頭では理解しているつもりだった。
なのに僕はどうしてか、彼女に話しかけてしまったのだ。
クラスでのホームルームの後、僕は休み時間に、廊下で窓の外を見て佇む瀬川奈々実の姿を見た。周囲の人垣は、瀬川に場所を譲るように開いている。そのときの僕は心の中で何を感じ、何を思っていたのかはもはや思い出せない。僕の足は自然と瀬川の方へと向き歩き、僕の口が開かれた瞬間、廊下に響いていた喧騒は静寂へと変わる。
「やあ、僕は尾崎蒔良。四月から君と同じクラスなんだ。よろしく」
周囲のどよめきが僕の耳に届くのに費やした時間は僅かだ。それ故、僕が一体どれほど馬鹿なことをしたのか理解する。が、一度話しかけた手前、後に引くこともできず、僕は彼女の前に立ち尽くしていた。
彼女の目は驚きに満ちていた。話しかけられたという、彼女にとってはありえない事実を考えれば当然のことと思えた。しかし、すぐにその表情は怪しげな微笑へと変わり、
「……あなたは、死にたいと考えた事はある?」
と、僕に問いかけた。
その問いに僕は答えるべきかどうか迷っていた。周囲は僕たち二人を遠目で見守りながら、声を潜めてなにやら話をしている。……どうやら、僕は瀬川に話しをかけた時点で変人扱いをされてしまっているようだ。
「……僕は、死にたいと考えた事は一度もないよ」
どの程度悩んで導き出した答えかは分からない。周囲の時間がゆっくりと進んでいるように感じた。やけに静かだ。その中で、彼女の声だけが僕の耳の中でこだました。
「……私は、死にたくないなんて考えた事は一度もないわ」
彼女は制服の右のポケットからカッターナイフを取り出した。カチカチと音を立てて剥き出しにされる刃。それをゆっくりと自分の左手首にあてがって。
「おい! やめろ!」
僕は現状がどんどん悪い方向へ向かっているとここにきてようやく理解し、彼女のリストカットを寸前で止めた。
「なに考えてんだ! 危ないだろ!」
よく見れば瀬川の左手首には包帯が巻かれていた。リスカット自体は既に行われていた事実のようだ。確かに、瀬川奈々実に自傷癖があることを噂で聞いたことはあった。が、やはり実際に目の前でリストカットされそうになると、その現実が痛いほどに胸に突き刺さる。心臓に悪い。
「……止めないでよ」
「止めるに決まってるだろ。目の前でリストカットなんてされたくない」
「あなたなんなの? どうして私に話しかけてきたの」
瀬川の視線は冷たい。どうやら僕の印象はあまりよくないようだ。いや、むしろ感謝して欲しいくらいなんだけれど。
「何って言われても。さっき言っただろ。四月からのクラスメイトだよ」
「クラスメイトだからって私に話しかけてこないでよ。お互い迷惑でしょ」
……なんだか腹が立った。せっかく独りで居るところを話しかけてやったってのに。こうなったら、意地でも会話を続けてやる。
「あのな、クラスメイトってのはコミュニケーションが必要なんだ。だからほら、あれだよ。たとえばお前が独りでいて寂しそうだなーとか思ったわけじゃないぞ」
「そんなこと思われたくないわよ。私が独りで居るのは勝手でしょ。あなたに私の自由を損害する権利はないわ」
「だったらお前は僕の自由を損害する権利はないよな。じゃあ僕は、なんだか独りで居たがるちょっぴり悲しい可愛そうなお嬢様を目の前にしてだらだらと独りごちてみようかな」
「うっとおしいわよそこの男子。人の迷惑を考えないでそんなところでべらべらしゃべってるなんてあなたには常識が足りないの?」
「おや何かなお嬢様。僕に話しかけてくるなんて、やっぱり寂しかったのかなあ」
「ぐ。もういいわ」
彼女は僕を無視して廊下の先へとすたすたと歩いていく。僕は後ろから着いていき、なにやら独りでしゃべっていた。
「着いてこないでよ」
「ん? どうしたのかなお嬢さん。偶然、僕が行く先とお嬢さんが行く先が重なっただけだよ?」
「……どうして独りでしゃべってるのよ。空しくならないの?」
「いや。独り言が僕の趣味だから」
「……もういいわ。勝手にして」
とうとう瀬川が折れた。立ち止まって窓の外を見る。僕はその側で、誰にでもなく独りごちていた。こんな時に無駄に役に立つボキャブラリーだ。他の生徒たちはなんだか変な目で僕のことを見ているが、それは瀬川に話しかけた時点で同じなので今更気にしない。当の瀬川は僕の話を聞いているのかいないのか、ただひたすらに窓の外の景色を眺めていた。
この日、僕は休み時間のたびにこうして瀬川の側に居た。瀬川も初めは嫌な顔をしていたがどうやら慣れてきたらしく、黙って僕の独り言を聞いていた。
そして放課後。瀬川は僕には目もくれずにさっさと帰ってしまっていた。僕はこの日、一体何をしていたんだろうと自問自答し、辿り着いた答えはつまり『馬鹿なこと』、だった。よくよく考えれば、瀬川奈々実という人物と関わろうとした時点で僕のこれからの人生に安息はないかもしれない。でも今日彼女と接してみて、別にそこまで異様な人間ではないんじゃないかと僕は結論付けたのだが、それ故に逆に不安に駆られるものがあった。もしかして僕はまだ、瀬川奈々実について理解できていないのかもしれない。彼女が周囲から避けられている存在であるのには、噂だけではない確証たる確信があるからなのだろうから。
それからは自分の行いを悔いて、これからは真っ当に生きよう、と志したのだが、むしろその行為を悔いたほうがいいのだと僕は理解した。本日始業式の今日、教室に入った瞬間彼女に話しかけられるとは夢にも思っていなかったため、実は僕は馬鹿なんじゃないかと本気で思った。
「……まあ、改めてよろしくな、瀬川」
「ずいぶん素直ね。こちらこそよろしく尾崎くん」
普通に、今まで通りの生活。これはどうやら諦めざるを得ないようだ。成績が下がるような事さえなければ、まあ、たとえ瀬川奈々実だろうとただのクラスメイトに過ぎないのだから、僕はそのあたり、腹をくくって覚悟をして割り切っていこうと思う。
「ねえ尾崎くん。実は私、美術部、なんてものに入ってるんだけれど、もしよかったら尾崎くんもどうかしら」
自分の席を確認し、再び瀬川の元へ戻った僕に対して彼女はそう聞いた。
「美術部? なんでまた」
「せっかくお近づきになったのだから同じ部活で一緒に楽しめないかとか、そう思っただけなんだけれど」
ふうん。良くない噂しか流れていないこいつがそう言うと何か裏でもあるんじゃないかと思ってしまう。けどまあ、こいつは今までひとりで生活してきたようなものだし、案外本気でそう思っているのかもしれない。
「悪い話じゃないんだけれど、僕たち今年でもう三年だし、入ったってどうせすぐ引退だろ?」
「それもそうなのよね。でも尾崎くん、あなた部活なんてやってないじゃない。就職にはちょっと不利なんじゃない?」
あれ?どうして僕が部活に入っていないなんて知っているんだろう。僕が瀬川と会話をしたのは春休みの登校日が初めてだったはずだし、僕は学校内ではそんなに目立っている訳でもないから、全く無関係の瀬川に僕の情報が漏れてるなんてことは不思議な話だ。僕の知り合いの誰かが瀬川に僕のことをしゃべるなんて考えられないし……。
「不思議、って顔してるわね。簡単な事よ尾崎くん。……私が、あなたを、ずっと前から、意識していたのよ」
「……何言ってんだよ」
「ふふ、冗談よ」
溜息。相手が相手だから多少の冗談でも心臓に悪いな。その内僕は心臓を悪くして病院に運ばれるんじゃないだろうか。その場合、原因はおそらく瀬川になるんだろう。
「確かに僕は部活なんて入ってないけれど。それで、どうして分かったんだよ」
「あなたは案外頭も悪いんじゃないの? さっき私が、『一緒にどうかしら?』と聞いたときに、あなたは『三年生だから』と答えた。部活をやっている人間なら『僕は既に部活をやっているから』と答えるのが一般的よね。単純に、部活をやっている人とそうでない人では断り方に決定的な違いが出る、というだけのことよ」
「なるほどね」
そりゃ確かに単純だ。でも、このくらい分からなかっただけで頭が悪いなんて言われたくない。
「とりあえず入っておくだけでも損はないんじゃない? 内心には響くでしょ。二ミリほど」
「二ミリ程度じゃ一日学校休むか休まないか程度の違いしかねえよ」
「風邪で休むかさぼって休むかくらいの違いは出ると思うわよ」
そんなに僕を美術部とやらに参加させたいのだろうか。今年からはじめたところでろくな活動はできないだろうし、そもそも僕には芸術的なセンスを一切持ち合せていない。入っても部員たちの足を引っ張るだけになる事は間違いないと思うのだが。
「美術部って何やってるんだよ。あまり活動をしているような雰囲気は感じられないんだけど」
「……さあね。実際私も大した活動はしていなかったし、ほとんど幽霊部員と変わらないわ。といっても、大抵個人製作だから、私ひとり居ないからって部としての活動に影響が出るわけではないから、それこそ内心のためと言われても仕方ないわね」
「ふうん。部内に中のいい奴とか居ないのか」
「居る事は居るけれど、その子にも迷惑はかけたくないわ」
「お前何のために俺を誘ったんだよ」
勧誘している本人がどうしてこうも後ろ向きなんだ。これじゃ気が滅入る。
「そういえばどうしてなのかしら。自分でも分からないわ」
「……へえ」
始業のチャイムが鳴り、僕は瀬川の元から離れ自分の席へと向かう。瀬川と会話をしていた俺はとっくに異常者扱いされているらしく、僕が動くと同時に僕の席までの道は一瞬で確保された。……全く、高校三年生にもなっていじめを受けているような気分だ。瀬川はこんな気分を二年も味わってたってのか? 僕が瀬川の立場なら絶対に耐えられないな。下手をすれば自殺位するかもしれない。
「あ、ねえ、君」
僕はふと思いついて近くのクラスメイトに話をかけた。僕に対する反応を間近で観察してみようと思い立ったからだ。
「は、はい」
どうして緊張しているの? 僕何かしましたっけ?
「どうでもいい話なんだけれど、春休みにやってた新春アニメスペシャル『名探偵コモン 怪盗二十五面相』見た?」
「いや、見てないけど」
「そう。残念。悪いね引止めて」
ふむ。今ので僕の印象は多少なりとも緩和されただろう。少なくともごく普通に世間話できる人、程度には捉えてくれたはずだ。いや、捉えて欲しい。僕は瀬川奈々実と違って普通の生徒だ。と、思いたい。
ちなみに『名探偵コモン 怪盗二十五面相』は毎週月曜日放送中の『名探偵コモン』の劇場版だ。ネタバレすると、コモン=新二。という探偵アニメだ。
「全員揃ってるかー。じゃ、ホームルーム始めるぞ」
担任の教員が教室に入ってきて、ざわついていた教室内は一瞬で静まり返った。
「なんだ意外とおとなしそうなクラスだな。ちっとは張り合いがないと先生としてもつまんないんだがな」
そう言ってこのクラスの担任、足立智成先生はクラスメイトたちの点呼を始めた。足立先生は国語の先生で、生徒からの信頼も厚く、人気がある。多少、教師らしからぬ態度をとることもあるが、それは生徒の気持ちになって考えた結果の行動で、他の教員からも一目置かれている。
足立先生は点呼の最中、生徒との多少のコミュニケーションをとっているようだ。ただ名前を呼ぶだけでなく、一言二言言葉を交わして親睦を深める狙いのようだ。……といっても、もう三年だし、親睦を深めるというよりは、ただ先生が雑談したいだけなのかもしれないけれど。
「江口」
「はい」
「なんだ、お前はあれだな。眼鏡なんてかけて、見た感じ漫画とかに出てきそうな優等生キャラをしてるな。ふむ。実際どうなのかは知らんが、博士っぽいからな、俺が分からない事があったらお前に聞くのでよろしく頼む」
「……先生ひとつ質問していいですか」
「なんだ博士」
「なんの漫画から参照したんですか」
「天才キテレコ大百科」
……聞いたことねえよ。ドマイナーすぎるぞ先生。
「なんだ知らない? 面白いんだぞ、あれ。じゃあ次。遠藤」
「はい」
席順は五十音順のため、僕の前に座っている女の子が返事をする。
「遠藤は部活何やってんだっけ」
「え? えーっと、吹奏楽ですけど」
「あー、吹奏楽な。お前きっと部長だな? 間違いない」
「いいえ、ただの部員その一です」
「いや。部長だ。お前は部長っぽい顔をしている。そうだな、お前が部長じゃないという事実は俺の中には存在しない。今すぐ部長交代だ」
なんて無茶苦茶な。あんた結構勝手な奴だな。そこがいいところでもあるんだけれど、暴走はしないでくれよ、教師として。
「じゃ次。尾崎」
遠藤さんの後ろに座っている僕の名が呼ばれる。
「はい」
「じー」
そんな黙って見つめられると怖い。早く何か喋るか次に回してくれ。
「……なんでしょうか」
「いや、お前、特徴なさすぎるにも程があるだろ。なんかこう、髪の毛一本ツンツンにして見るとか、派手は眼鏡かけてみるとか。制服までちゃんと着こなしやがって今時珍しいだろ。ん? 珍しいってことは特徴的なのか? いや、校則守るのが普通だから普通なのか?」
何勝手に混乱してるんだか足立先生は。国語の教師なんだから旨い言葉遊びでも聞かせてくれ。
「あー面倒くせえ。お前は特徴無いのが特徴。以上だ」
「ひでえ!」
思わず突っ込みをいれてしまった。そのことに対しては何も触れず点呼に戻る足立先生。ま、基本的に悪い先生じゃないんだけれどね。むしろ最近の教員は教えることだけに重点を置いて、それだけで生きているような気がして、心地はよくない。こういう先生は、現在まれだと思う。それだけに惜しい。一、二年と足立先生が担任なら良かったのに。
「はい次。瀬川」
瀬川の名前が呼ばれたとき、教室の中は異様な静けさに見舞われた。そんな空気を無視するかのように、瀬川は平然とした表情で口を開いた。
「……足立先生問題です。例えば私が、先生にとっては都合の悪いだろう写真を持っていたとして、それをこのクラスメイト全員に渡すとしたら、どうします?」
おいおい瀬川。足立先生の何を握ってるんだか分からないが、そんなことをしているから変な噂が立つんじゃないのかお前。
「先生に問題を出すなんていい度胸だな」
先生全く動じてないし。
「答えは簡単。ばら撒くならばら撒けばいいさ。俺にはやましいことは何にもないぞ!」
「……ニヤ」
瀬川が不敵な笑みを見せた。まさか本当に……って、その手に持っている写真の束はなんだ!
「ほ、ほう、瀬川。そんなのどうせ脅しだ、脅しに決まってる。やれるものならやってみろ。そんな事をしても生徒の俺に対する信頼は揺るがない!」
それにしては動揺しているな先生。だがまあそれも当然といえば当然だろうな。例え自分にやましい事が無くても、瀬川の行動によって動揺しないやつはおそらく居まい。
「先生、おめでとうございます」
「へ?」
瀬川が手に持っていた写真をばら撒いた。宙に舞う写真。僕は側に舞い降りてきた写真を掴み取って見てみる。その写真に写っているのは先生と、先生が大事そうに抱き上げている、赤ん坊だった。
「春休み中に産まれたんでしたよね。母子共々健康に育っているとか」
瀬川がまるで解説するかのように言った。
「あ、ああ。ありがとう。ははは、そうなんだよ」
「で、なんで瀬川がその写真を持っているんだ!」
思わず叫んでしまった。写真を拾い上げたクラスメイトたちは、写真に写った赤ん坊を見て可愛いとつぶやきながら、不思議そうな顔をした。
「そんなに驚かないでよ尾崎くん。これも簡単な事。単に私が先生に無理言って譲ってもらっただけなのよ」
またそれか。
「ま、そういうことだ。俺は以前から瀬川の話し相手になってやってたりしてたしな。妻が妊娠してからはずっと子供の事に気をかけてくれて、なあ?」
「……」
瀬川が照れている。ふうん。噂通り、というわけでもないじゃないか。
「でもなんで写真なんか」
「それは勿論。私だけがこんな情報もってたって仕方ないでしょ。足立先生は良い先生だし、その先生のクラスの皆には知っておいて欲しいことでしょ? まあ、どうせその内先生から言い出すだろうとは思ってたけれど、普通に教えるだけじゃつまらないってものよね」
普通に教えろよ。前言撤回。噂通り変な奴だ。
「先生、もしかして先生もグル?」
「いや、完全に瀬川の独断。やられたよ。四十枚もくれって言うから変だとは思ったが。妻に、そんなにたくさん写真撮ってどうするの、って笑われたよ」
変だと思うなら四十枚はやめとけばいいじゃないか。まあいいか。足立先生も嬉しそうだし、クラスメイトたちも、瀬川のしでかした事なのになんだか穏やかな顔してるし。この機会に瀬川の孤独が解消されるといいんだけれど。
「と、まあ、次行くか。次は……」
興奮冷めやらぬ中、足立先生の点呼作業は続いていく。瀬川以降の生徒からは赤ん坊についての質問が相次いだ。足立先生の信頼は失うどころか、人気急上昇中といったところか。瀬川も粋な事をする。当の瀬川は既にぼうっとしているけれど。
足立先生の点呼作業が終了した時点で残りホームルームの時間は残り僅かとなった。全く、いくらなんでも時間かけすぎじゃないのか?
「あー、今日の予定はだな。ご存知の通り始業式。の、前に大掃除をこれ終わったらやって、始業式の後は休み明けテストだ」
この学校では休み明けテストを始業式にやる。国語、数学、英語の三教科だけだが、休み中の宿題をさぼってたり復習をやってないとかで舐めてると痛い目をみる。
「詳しい日程は用紙を黒板に貼っておくので見て置くように。あと、春休みの課題は帰りに回収。それまではテスト対策にでも使え。以上。……時間余るなあやっぱり」
点呼の方が長いってどういうことですか先生。もうちょっとなんか、教員らしいこと話したらいいのに。
それはそれとして。本日のテストに関しては漢字と英単語を多少見直す程度で大丈夫だな。数学なんてものは公式さえ頭に入っていれば解ける教科なので問題ない。
「んじゃ。時間余ったから早めに切り上げて掃除の準備でもすっか。さっさとやってさっさと終わったほうが楽だろ。ほれ、準備しろ」
先生の号令と共にクラス一同行動開始。机を運び、教室の前半分を広くする。足立先生が適当な生徒に担当箇所を指定していき、生徒はそれに見合った道具を準備する。
「尾崎と勝俣の二人は窓拭き。あとで新聞持ってくっから。瀬川、福島、鹿児島、目黒の四人は床拭き。後でクレンザー持ってくっからそれまで水である程度拭いとけ。渋谷と飯島は床のガム取り。念入りにな。……それにしても汚ねえなこの教室」
僕は窓拭きか。二人居るんだから時間内には終わるだろう。……問題は瀬川か。他の三人は瀬川のことはどうやら避けたい気分らしい。どう折り合いをつけてやれるか、ってところか。僕は僕で自分の担当やりながら瀬川のほうも気にしてやろう。……僕は別に瀬川の保護者とかじゃないのだから、気にするのも変な気もするんだけれど。
「おし。とりあえずこんなものだろう。休み時間が終わったらすぐ始めるんだぞ」
足立先生はまだホームルームは終わっていないというのにさっさと退散してしまった。大掃除開始まで二十分弱。ずいぶん時間が余っているようだから、これからお世話になるクラスメイトたちと多少なりとも会話を交わしておきたいところだ。
「…………」
よく見れば、一、二年と同じクラスになった事があるのは数人だけで、あとはあまり関わりがなかった人たちばかりだ。
「…………」
僕も瀬川と関わってしまった時点で、クラスメイトたちから距離を置かれているような状況にあるため、話しかける相手は慎重に選ばなくてはならない。しかし、やはりというべきか、皆それぞれのグループに固まっていて中睦まじい。間に割って話しかけるような勇気は今のところない。
「…………」
このままではクラス内で孤立してしまう。せっかく最後の一年、やはり楽しく生活していきたいというのに。
「…………」
瀬川は瀬川で端の方でぼうっとしている。一体何を考えているんだか検討も付かないが、ああして黙っている分にはなるほど、可愛いものがある。
「…………」
えーっと。うん。あの。つまりだな。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
怖い。
「あのー。何か」
僕が声を掛けると、その人は僕のほうに歩み寄ってきた。首に大きなヘッドホンを掛けている女生徒だ。先ほどからなにやら僕を睨みつけるようにしていたのが気になっていたのだけれど、相手にするのもなんだか面倒くさそう、もとい、怖そうな相手なのであからさまに無視をしていたのだ。
「じー」
そんな近くで僕を見ていてどうするんだこの人。
「……あの、怖いんですけど」
こちらから話しかけても反応が薄いので、僕も僕なりに彼女を監察することにした。髪はショートで綺麗な黒色をしている。見た目、とてもサラサラだ。制服も見事に着こなし、性格は一見真面目、といったところか。首に掛けているヘッドホンはファッションなのだろうか。
「じー」
彼女に見つめられ、僕は思わず緊張してしまった。彼女の瞳がとても真っ直ぐで、全く濁りがなかったからだ。純粋、純真。そんなものでは決してないが、とても、綺麗な目をしている。こんな目をした人は僕は会ったことがなく、だからこそ、僕の身体は金縛りに遭ってしまったかのように硬直した。
「ふうん」
初めて彼女が口を開いたとき、僕は周りの空気が急に動き出したかのように錯覚した。
「なるほどね」
なにやら一人で納得しているようだけれど、僕には全く理解できなかった。
「私は千早。千早なつきよ。よろしくね」
「え? ああ、うん。僕は尾崎蒔良。こちらこそよろしく」
僕はなるべく平静を装って、この場に最もふさわしい言葉を探して答えた。
「君の名前、かなり変わってるよね。私ら三年生にとっては不吉極まりないな」
不吉て。かなり失礼な事を言うなこの人。
「気に障った? と、聞くまでもないよね。このくらいのことで気分悪くするような器のちっちゃい男の子じゃないよね、君は」
うーん。なんだか見透かされているような気がするな。瀬川とは違う意味で可笑しな人だ。
「まあ、ね。君が僕の名前をそんな風に解釈できるってことは、僕にとっては君はそこそこ可笑しな人だと捉えることができるんだけれど、どうかな」
「おや、調子が出てきたじゃないか。そうだね、そう思ってくれて構わないと思うよ」
なんつうか、さっきまで緊張していた自分が馬鹿らしくなるくらい話していて何ともない。
「それで、僕に何の用?」
「うん? いや、別に。なんとなく」
「なんとなくで話しかけてくるのか、君って」
「私たちクラスメイトだよ? 話しかけるのに特別な理由なんてないさ。そうだな、強いて言うなら、君、今朝瀬川さんとなにやら話しをしていたじゃないか。瀬川さんと関わりあえるような人間って、どんなかなと思ってね」
……この人も瀬川を避けているのだろうか。
「別に。僕はただ、クラスメイトとして、瀬川と話をしていただけさ。それで、僕の印象派どんな感じなんだ?」
「思ったより安心できるよ。これは実際に会話してみた印象だけどね」
「安心?」
「そ。私としてはそれが何より。これからも君と仲良くしていきたいと思っているんだけれど、どうかな?」
今日の今日でよくこんななれなれしいことを平気で言えるよなこの人。悪い人じゃあ無さそうだけれど。
「それは、クラスメイトとして?」
「いいや。友だちとして、ね」
彼女は微笑んだ。元々整っている顔立ちをしているので、笑いかけられると意外と可愛らしいとか思ったりもするけれど、なんていうか、何度も言うけど不思議な人だ。
「まあ、僕は別にいいけど」
「そうか? ありがとう。ふふ、そう照れるな。私のことは異性だなんて思わなくたっていいんだよ?」
「照れてねえよ。……まあいいや。それより、これは僕からのお願いなんだけれど」
言わずもがな。どうやら千早さんにも分かっていたようで、僕が言葉を紡ぐよりも早く解答をくれた。
「うん。分かってる。個人的に彼女にも興味はあるしね。それじゃ、またあとで」
千早さんはそう言って僕の側から離れていった。他のクラスメイトたちを観察するのかと思えばそうではなく、元々仲の良かったグループに加わって談笑を始めた。
ふむ。このクラスにおいて早速友だちができたのは喜ばしことだ。ちょっと変わった人ではあるけれど、話していてこちらとしても楽しかったし、どうやら僕はクラス内での孤立を免れそうだ。
時は流れて大掃除の時間。同じ窓拭き担当の勝俣くんと共に作業を開始する。新聞紙を水にぬらして窓の汚れた部分を擦る。窓は上と下で二段になっているので、丁寧にやるとするとやはりそこそこ時間はかかるだろう。
僕が作業をしていると、勝俣くんが作業を中断して僕に話をかけてきた。
「お前、今朝瀬川となんか話してただろ」
またそれか。千早さんは好意的に受けてめてくれたようだが、どうやら勝俣くんにとってはそうではないご様子だ。
「……サボってると終わらないよ」
「掃除なんてどうだっていいんだよ。で、どうなんだよ」
どうやら勝俣くんと僕は仲良くなれそうにないな。
「どうって、何がだい?」
「しらばっくれてんじゃねえ。瀬川の事だ」
面倒な。瀬川の事が嫌いならそんな事いちいち気にするなっての。仕方ない。こういう輩はちょっとおちょくってさよならしよう。
「あー、勝俣くんは瀬川の事が気になるんだね。ひょっとして好きなの?」
「んだとてめえ」
冗談は通じないらしい。ものすごい剣幕で睨んでくる。下手な事を言うと殴りかかってきそうだ。まあ、殴りかかってきたところで困るのは僕じゃないけれど。
「嫌いならそんなに気にする必要ないんじゃないかって僕は思うんだけど」
「じゃあてめえは好きなのかよ」
「別に。好きでも嫌いでもないよ。今のところ、ただのクラスメイトってところか」
例の噂もどこまで真実味を帯びているのかは分からないし。別段、瀬川と始めて言葉を交わしたあの日から異常な出来事が起きた訳でもなし。だから僕は瀬川については楽観視しているのだけれど、このクラスメイトの一部以外はどうやら彼女の事をよろしく思っていないらしい。そんな風に思われるくらいの事を瀬川がしたのだろうか。
「あんな奴と平気で一緒に居れるような奴が増えるとな、困るのは周りの人間なんだよ」
「……そう言い切れる根拠ってのはなんだい?」
「決まってるだろ。あいつが当たり構わず不幸を撒き散らす疫病神だからだ」
……なんだか腹が立ってきた。僕自身が貶されているわけではないというのに、なんだか自分の事のようにむかついてくる。僕の堪忍袋が切れる前に早々にこの場から立ち去ったほうが勝俣くんにとっては良いかも知れないな。
「そんな事を思っているのは君だけかもしれないだろ」
「そうも言ってられねえんじゃねえ? 見てみろよ、あれ」
勝俣くんが指指した方向には瀬川と、瀬川と同じ床拭き担当の三人の女生徒が居た。僕は勝俣くんに構ってそちら側の注意を怠ってしまったようで、三人がどうやら瀬川に対して何か言っているようだ。
「どうしてあなたみたいなのが同じクラスなのよ」
「あまり近づかないでよ、私たちに何かあったらどうするのよ」
「なんなら掃除なんてしなくていいから、この教室から出て行ってよ」
いじめの現場をリアルタイムで見ているかのようだ。瀬川の方は相変わらず平静そうだが、こちらとしてはやはり気分が悪くなる。こんな時に足立先生は居ない。誰かが場を取り繕ってくれればいいが、そんな雰囲気でも無さそうだ。
「行くなよ。この際だから見てみぬ振りをしろ」
僕が足を踏み出そうとしたとき、勝俣くんに制止された。邪魔だぞこの坊主頭。ぶん殴られたいのかこの野郎。
「君はあれを見ててなんとも思わないのかよ」
「逆なんだよ。お前が、瀬川なんて奴の事どうして気に掛けられるんだ」
僕の頭が沸騰しかけた。というか僕、瀬川の事でこんなに怒れるなんてそんなに瀬川の子と好きだったっけ?
僕が勝俣くんを押しのけて瀬川の元へ駆けつけようとと思った矢先、瀬川たちの方から女子たちの悲鳴が聞こえた。
「きゃああ!」
「ほら見ろよ、あの女ろくな奴じゃねえ!」
見れば瀬川の足元に血だまりができていた。瀬川の右手にはカッターナイフが握られていて、その刃には真新しい血液が付着していた。瀬川の目は冷たく沈んでいて、自身を貶した三人の女子たちに向けられていた。
まさか瀬川の奴、思いあまってあの女子たちに切りかかったんじゃ……。いや、違う。三人はまるで痛がっているようには見えず、瀬川の側から逃げるようにして離れていく。じゃああの足元の地だまりは誰の、と、もはや考えるまでもなかった。
僕が春休みに見た瀬川の左腕に巻かれていた包帯。そういえば今朝も巻かれていたが、それを思い出してみれば答えは一つ。
「ああやって人前で自分の手首切っちまう奴のどこが正常だよ」
そう。瀬川は自分の左手首を突然切ったのだ。いわゆる、リストカット。僕が初めて彼女に話しかけたときもリストカットしようとした。瀬川が自傷癖を持っている事をすっかり忘れてしまっていた。
「……どけよ」
僕は未だ立ちふさがる勝俣くんを思い切り睨んだ。
「ひっ」
彼は情けない声を発して素直に道を明け渡してくれた。ちっ。そんな程度で粋がるなよ。
「大丈夫か瀬川」
「あら尾崎くん。何の御用?」
これは錯覚かもしれないが、心なしか瀬川の声は震えていた。
「そんな悠長にしてる場合か。早く血を止めないと。……あんたら何黙ってみてるんだよ!」
クラス中が黙りこくったまま、瀬川から距離を置いている。くそったれ、お前らそれでも血の通った人間かよ。
「ちょっとじっとしてろよ」
僕は自分が着ていた制服のワイシャツを脱いで、その袖で彼女の傷口に巻いた。みるみる内に鮮血で染まっていく制服。
「歩けるか。保健室に行くぞ」
僕が瀬川の手を引っ張って行こうとすると、一人の女生徒が立ち塞がる。茶髪の、化粧をした女生徒で、さっきの三人の内の一人だ。
「どいてくれ」
「そんな女ほっとけよ。どうせ何回も手やってんだから、どうせ死にやしねえ」
どうしてこうも邪魔するかな。全く。
「……どけよ。今の僕はすごく機嫌が悪い。例え相手が女の子だろうと、手加減できるかは怪しいよ」
「んだと? お前みたいなひょろっちいのに何ができるってんだよ」
「忠告はした。後悔しても知らないよ」
僕はゆっくりとその子に近づいていく。彼女も動じない。どうやら本気で僕とやり合うつもりらしい。
「待って。尾崎くん。ここは私に任せて、君は早く瀬川さんを連れて行って」
背後から声を掛けられ僕は振り向く。千早さんだ。……全く、千早さんならどうにかしてくれるだろうと少しは期待していたのに。
「ごめんなさい。私も仲の良い友だちの手前、自分ひとりだけ瀬川さんと仲良くするなんて出来なかったの。いや、言い訳かもしれないけど、私には尾崎くんのように瀬川さんのために何かしてやれる勇気がなかったの」
千早さんは言いながら瀬川の元に駆け寄った。そして瀬川の手を取り高らかに宣言した。
「でももう大丈夫。私はこれからは何があっても、例え友だちから嫌われたって、瀬川さんの味方をするわ」
「手を離しなさい」
瀬川が千早さんの手を振り解こうとする。が、千早さんはすばやく瀬川の暴れる手を押さえ込んだ。
「さ、尾崎くん。瀬川さんを連れていってあげて」
「ありがとう。千早さん」
僕は瀬川の元に戻り、瀬川の手を引っ張って行こうとした。だがやはり立ち塞がる女生徒。
「行かせないよ。そんな女が居るから皆不幸になる。もっともっと手を切らせて、自分で死んじまえばいいんだ」
「……全く。君はとんだ愚か者ね、目黒さん」
千早さんが目黒という女生徒の頬にビンタをした。教室中に響く音。目黒さんの頬は見る見るうちに赤く腫れ、それ故目黒さんの怒りも頂点に達した。
「この……!」
「千早さん!」
目黒さんが僕の事など目にもくれず千早さんに襲い掛かる。だが千早さんは平然として微笑んでいた。
「私なら大丈夫」
本当に大丈夫か千早さん。いや、気にするな僕は早く瀬川を保健室に連れて行かなくては。
「どいてくれ」
気が付けば、教室の外では騒ぎを聞きつけた他クラスの生徒たちが集まっていた。僕と瀬川が廊下に出ると皆一目散に教室へと戻っていった。
「さ、行くぞ瀬川。大丈夫か」
「……」
返事がない。が、足取りはまだ軽そうだった。どうやら傷はそんなに深くはないようで安心した。
途中、同じクラスでも他の場所を担当している生徒とすれ違った。
「あ、瀬川さん。その腕どうしたの!?」
「……またか。おい大丈夫か。顔色わりいぞ」
見た感じ優しそうな雰囲気の女生徒と、目つきがちょっと悪い男子生徒の二人組み。どちらも瀬川のことを気に掛けてくれる分、いい人のようだ。……僕は瀬川に構うか構わないかで人のこと判断したくはないのだけれど。
「あ、えーと、なんだっけ」
「尾崎。尾崎蒔良だよ」
「そう、尾崎くん。今から保健室に行くのね? わたしも付いてく」
女生徒は思いがけないことを口にした。
「悪いよ。そんなことしたら、君まで孤立しちゃうかもしれないよ?」
「いや、連れてってやれ。怪我の手当てなら、保険の先生よりも腕がいいからな」
僕が女生徒のことを気遣って、嬉しい申し出を断ろうとしたのだが、男子生徒の方がそう言ってきた。
「……なるほど。状況は分かった。また目黒の馬鹿がなんかしたんだな。教室の方は俺が何とかしてくるから。瀬川の事はお前らに任せたぞ」
「お願いね」
言うなり、男子生徒は自分の担当場所を放棄して教室のほうへと歩いていった。なんて頼もしい背中だ。いや、今はそんな事気にしてる場合ではないか。
「さ、行きましょう」
「……分かった」
この女生徒も女生徒で瀬川に対して献身的だ。将来看護士でも目指しているのだろうか。瀬川は一々抵抗してるんだけれど。
ようやく保健室に辿り着く。ここまで来るのに何人かの教員とすれ違ったが皆、またか、という顔をして、それでも一応教員の顔をして瀬川のことを気遣う体を成していた。けれど、本気で瀬川のことを心配している教員はいなかった。
「失礼します」
「あらあら。……瀬川さんね」
この保険の先生も例外ではなかった。保健室清掃担当の生徒たちは、僕たちが入室するなり廊下へと飛び出して行ったがもはや気にしても無駄である。
「今日は珍しく付き添いが居るのね。……卯の花さんも一緒だったら、先生は別に居なくてもいいわよね」
「先生!」
「……いいよ、尾崎くん」
保険の先生は足早に退室、廊下に居た生徒たちになにやら指示をして、保健室の前には誰一人として居なくなった。
「なによあの先生。まあいいや。じゃあ瀬川さん、そこ座って腕出して。えーっと、包帯と、消毒液と……」
流石に瀬川も素直になって、女生徒の言う事にはすんなり従った。女生徒は自分の制服のポケットから様々な救急道具セットを取り出す。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」
「え? うん。そうだよ」
なるほど。さっきの男子生徒が、怪我の手当ては保険の先生よりも腕が良い、と言ったのも理解できるな。ワイシャツで巻かれていた傷口を診て、手早く処置していく女生徒。その行為には淀みがなく、手馴れている感じで安心できる。
「よいしょっと。はい、終わり。あんまり無茶しないでね瀬川さん」
「……」
あっという間に作業を終えた女生徒は近くの椅子を引きずってきて瀬川の前に腰掛けた。
「尾崎くんも座りなよ」
「ああ。……慣れてるね」
僕は言われるがままに椅子を持ってきて側に座る。女生徒は微笑んで答えた。
「うん。結構しょっちゅう、誰かさんの手当てしてるから。……えっと、自己紹介まだだったよね。わたしは卯の花つぼみって言います。よろしくね」
「僕は尾崎蒔良。さっきも言ったけど」
「うん。さっきの男の子は佐藤恵くん。見た目はぶっきらぼうだけれど、どんな人にも優しくしてくれる良い人よ」
かく言う卯の花さんだって人には優しそうだ。
「瀬川さん、大丈夫? まだ顔色が優れないみたいだけど」
「……ええ。もう大丈夫」
ようやく口を開いた瀬川だが、やはり声が震えている。……気の強そうな女だと思っていたのだけれど、本当に繊細な神経の持ち主なんだろうか。
「尾崎くん。悪かったわね。私なんかのために」
「別に僕は何もしてないよ。ただ無駄に怒ってただけ」
「そんなことないよ。瀬川さんが目黒さんにいじめ、っていうか、何か言われてたときに、真っ先に怒ってくれたの尾崎くんなんでしょ? 人のために怒れるって、滅多に出来る事じゃないじゃない」
「……僕の事なんかより、卯の花さんにお礼言えよ。傷の手当てしたのだって卯の花さんだし」
本当、僕は役になんて立ってない。卯の花さんや瀬川がそう言っていても、ただひたすら、怒っていただけの僕なんて。……惨めなだけだ。
「二人とも。ありがとう」
瀬川がお礼を言う。卯の花さんは嬉しそうに笑っている。本当に人の単に何かするのが好きなんだ。でも僕は。
「僕は、やっぱり胸を張れるようなことはしてないよ」
僕がそういうと、卯の花さんは頬を膨らました。
「そうでもねえぞ」
不意に保健室の戸が開いて佐藤くんと千早さんが保健室に入ってきた。
「お前が瀬川をかばってくれたおかげで、瀬川に対する態度が少しは良くなるかもしれん。目黒の奴には俺が説得しておいた」
「ありがとう。でもそれは君の説得のおかげ、なんじゃないのかい?」
佐藤くんはムッとした表情になる。なんだろう、僕はなにかいやなこと言ったのだろうか。
「お前な、しまいにゃ怒るぞ。俺がお前の手柄だっつったんだ。お前は自分の行動に間違いがあるとでも思ってんのか」
「……」
「尾崎くん。私は尾崎くんのこと見くびってたみたいだわ。実のところ、瀬川さんとは話せるだけ、だと思っていたから。ああやって行動に移せるとは思ってなかったのよ」
「千早さん……」
千早さんは卯の花さんの方に近づいていって、なにやら二言三言交わし、僕の方を見た。
「ただ今より、私千早なつきと」
「卯の花つぼみは」
「「瀬川奈々実の友だちになることを宣言する」」
瀬川も驚いて二人の事を見上げる。何か言おうと口を開こうとしているが、言葉にならずに半開きでものすごく間抜けな顔だ。
「さあ瀬川さん。これからは休み時間はいつも一緒よ」
「瀬川さんが怪我をしても、わたしが治してあげられるよ」
うむ。もしかしたら瀬川にとっては相性がいい二人なのかもしれない。千早さんは神経図太そうだから、瀬川が何か異行に走っても気にせず付いていけそうだし、卯の花さんは瀬川の自傷行為にとっては丁度いい治療薬になりそうだ。
「ほら尾崎くんも、佐藤くんも宣言して」
「は?」
卯の花さんから思わぬ振りをされた。返答に困る僕と佐藤くん。瀬川もなんだか所在なさげだ。
「なあに? ここまできて友だちになりたくないなんて言わないよね」
「いや、僕は別に構わないんだけどさ……」
宣言って、あの宣言します、っていうやつを言うのか? 正直かなり恥かしいぞ。
「卯の花。俺はあくまで中立な立場をだな」
佐藤くんも焦っている。僕はともかく、佐藤くんの性格ではもっと恥かしいんじゃないかと思うんだけれど、どうやら卯の花さんと千早さんにとってはそんなことお構いなしらしい。
「佐藤。君は男の子でしょう? 男にはやらなきゃいけないときがあるんだ、とか、昔誰かが言ってたような気がするんだけど。言っていいかしら、これ」
「千早、その話はよせ!」
佐藤くんと千早さんは昔からの知り合いなのだろうか。千早さんも佐藤くんのこと呼び捨てだし。
「佐藤くん。平等な立場とか言っても、他にもお友だち居るじゃない。瀬川さんはだめなの? むしろそれって平等じゃないような……」
「ぐ……」
佐藤くんは困りきっている。というか多分、内心もう諦めているのだろう。顔が引きつっている。
「……分かったよ」
「ありがとう、佐藤くん」
卯の花さんは嬉しそうだ。さて僕は、今のうちに保健室を出て教室へ。
「後は君だな尾崎くん」
帰れなかった。さすが千早さん。僕の浅はかな考えなど全てお見通しという事か。保健室の出口へ先回りされた。
「はあ。仕方ない。佐藤くん。男にはやらなきゃいけないときがあるんだ」
「知るか」
「良かった。それじゃ、さっき私たちがやったようにお願いね」
ここは腹をくくるか。佐藤くんと打ち合わせて、僕たちは瀬川に向かって言う。
「あー、ただ今より、この僕、尾崎蒔良と」
「佐藤恵は」
「「瀬川奈々実の友だちになることを宣言する」」
とりあえず一件落着。で、いいのだろうか。全く、始業式の初日、というか、まだ始業式すら始まっていないというのにこの調子ではこれから先の自分が思いやられる。と言っても、千早さんや佐藤くん、卯の花さんの三人どれもいい人たちだし、瀬川も、いままでは孤独な毎日を送っていたのだとしても、これからはそういう生活とはおさらばだろう。
やれやれ、なんだかどっと疲れた。できればこんな日はもう御免被りたい。けれど、クラスメイトたちの瀬川に対する接し方や認識が多少改善されるようならば、その度にきっと僕が汗を流している事になるのだろう。僕だけでなく、千早さんや佐藤くん、卯の花さんの三人も。
全く。おさきまっくらだよ、自分。