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マクラな草子  作者: アヴェ
卑しくも哀しい才能の子羊
14/16

第二章・002

 とても、昼休みだ。

先週から、すなわち新学期が始まってから昼休みに集まるメンバーというのは、僕が去年まで一緒に集まっていたメンバーとは総入れ替えが行われたかのように、誰一人として被ってはいない。僕の親友であるところの和久井和彦だって、去年僕と一緒に居たメンバーたちが怖がっていたため、昼食を共にした事は一度も無い。そして現在、僕が瀬川と関わりを持ったということが彼らに知れ渡り、和久井までならよかったものの、流石に僕に愛想を尽かしてしまったらしい。新学期に入ってから一度も彼らと会話らしき会話をしていない。

 おそるべし、瀬川の異常性。

 今となっては当たり前のように瀬川の側に居るけれど、そういえばどうして瀬川が「異端」だとか「異常」だとか呼ばれていたのだったか、ともすれば忘れてしまいそうだ。うん。というかほとんど忘れている気がする。いや、忘れてはいないけれど、思い出しても今はそっちの方が現実味が無くて信じられないという感じだ。

 例えば瀬川の「異端性」。よくリストカットをする。人前で。

 瀬川は常にカッターナイフを所持していて、何かあるとすぐにそのカッターナイフでもって自らの左手首を傷つけるという行為をしょっちゅうしていた、らしい。僕が瀬川と初めて会話したときも、僕の目の前でいきなり手首を切ろうとした。幸い未遂で終わらせる事が出来たのだが、後日、始業式当日にクラスメイトたちと揉めたとき、僕が止めに入る隙も与えず、クラスメイトたちの目の前でリストカットを許してしまった。

 例えば瀬川の「異常性」。これはまだ実感をしたことが無いが、どうやら痛覚が無いらしい。痛みを感じるという事が、ほとんど、ないらしいのだ。

 それは神経に疾患があるというわけではなく、単純に、自傷行為をしていく内に痛みに慣れたとも取れる。こればかりは様々な憶測が飛び交っていて真相は知れない。瀬川に直接聞いて確認をしていいことでもないような気がするし。

 瀬川の「異様性」を表現する噂はもちろんこれだけではない。だがそれらの「異質性」はまるで根拠の無い、単なる噂、ひどい思い違いが多分に含むものだと僕は思う。僕たちみたいな人間は、いや、僕たちでなくても人間は、集団行動においては「誰か」一人、或いは二人、単数でも複数でもこの場合は同じだけれど、自分たち「以外」の「誰か」又は「何か」という存在を区別、差別することで自らの正当性、「普通性」を強調してしまうのだと思う。

 例えば瀬川の「異様性」。瀬川の側に居る人間、瀬川に近しい人間は例外なく、死ぬ、または死ぬ目に遭うというもの。

 勿論、こんなの冗談でも言ってはいけない言葉で、最悪とも、最低とも、底辺よりももっと下、ともすれば人間の放つ言葉では、間違っても広めてはいけない類の劣悪な噂だ。今瀬川の側に居る人間、こうして昼休みに一緒に集まってくれているメンバーや、僕。僕たちは現在とてもぴんぴんしているし、何か災難に遭うようなこともない。誰が最初にそんな噂を広めたのか、それを知れたら僕はそいつのことをぶん殴ってやる。

 例えば瀬川の「異質性」。嫌がらせが好き。人が困るような事をするのが好き。人に危害を加えるようなことが好き。ド級のサドでどんな人間でも目を付けられたら地獄に堕ちるというほどの悪魔っぷり。

 勿論根拠がない。というか、人に危害を加えるのが好きな人間だったなら、自分の手首を切るなんて真似は絶対にしないだろう。自分ではなく、他者を傷つけて然るべきである。けれど、僕が見てきた限り、或いは聞いてきた限りにおいて、瀬川に直接的な危害を加えられたり嫌がらせを受けたりという話は聞かない。そういう噂が広がってはいるにせよ、実際にそういうことが起きたという話を全く聞いたことがないのである。単純に僕が聞いたことがないだけなのかもしれないが、それでも、危害を加えられた人が生徒会長である響くんや、学校の治安維持隊長の和久井に告げれば、瀬川は今頃この学校にいない。告げていなくたって、妙にいろいろな情報を握っている響くんの下僕のような欅だって居る事だし、気付かれないはずがないのである。

 和久井も響くんも欅もそんな噂だけで誰かをどうにかしようなどとは思わないだろう。

 瀬川が他者から恐れられ忌み嫌われる謂われは大体のところがこんなものだ。けれど、大半が憶測によって飛び交う噂であり、僕が知る限りにおいて、自傷行為というその一点のみしか当てはまっていないのだ。

 その自傷行為も、生徒たちから迫害を受け続けていた瀬川のストレスによって引き起こされていたものだと、最近の僕は考えている。現に、最近の瀬川の表情は活き活きしていて、どうやらリストカット行為はしていないようだ。真っ当に対話をすれば、真っ当に会話をすれば瀬川はごくごく、ちょっと冗談のきつい、ごくごく普通の女子生徒であり。

 僕の彼女なのだ。

 最後の一言は考えただけで照れるけれど。

「最近、アイドリング・ストップする自動車が増えたわよね」

 そろそろモノローグを終了し、今は昼休み。どうしようもなく昼休みだった。

 千早さん、野中さん、日向さん。それに佐藤くん、和久井、僕。そして瀬川というメンバーで机を合わせて弁当を食べている。いつもならこの場に卯の花さんがいるのだが、あいにくの欠席である。卯の花さんを合わせれば女子五人、男子三人という、男子のメンツが微妙に弱いそれなりの人数が集まっているグループになる。

「アイドリング・ストップ?」

「ええ。エコだとか言って。公営バスとかも信号でアイドリング・ストップしている時があるわ」

 話題を振ったのは瀬川だ。こういう他愛もない会話は結構好きだ。

「それさあ、町中でよくアイドリング・ストップっていう看板見るけど、結局なんなんだ?」

 野中さんが千早さんに聞く。

「自動車とか、停まっているときにエンジンを掛けっぱなしにしないで、エンジンを切ることを言うのよ」

「えー? 停まってるんだからエンジン切ってるのが普通なんじゃないのー?」

 この二人は元気なだけで頭の方はさして良くはないらしい。千早さんも佐藤くんも呆れた顔をしている。和久井は黙々と弁当を食べている。無愛想な男だ。馬鹿なくせに。

「普通はね。けど、一時停車の時とか、エンジン掛けっぱなしにしている人が結構居るのよ。だから例え一時的でもエンジンを切って節約しましょうってことなの」

「へー」

 二人が声をそろえて感嘆の声を漏らす。

「でも、バスが信号でアイドリング・ストップってどういうこと?」

「つまり、信号が赤の間エンジンを切っておくんだ。今のバスはすぐにエンジン掛けれるようなシステムになっている場合が多いらしい。俺はそこまで詳しくは知らんが」

 今度は佐藤くんが解説をする。

「まあ、乗用車だとそういうシステムが、あるにはあるらしいが、やっぱり再始動に時間が掛かるからな。渋滞の元にもなっているらしい」

 信号の度にエンジン切ってたらなあ。そりゃあ渋滞にもなるよ。僕はまだアイドリング・ストップによる渋滞は見たことがないけど。

「まあアイドリング・ストップの話は置いておいて、つまり私が言いたいのは、バスが一時的であれなんであれエンジンを停止している時間というのはどうにも不安になるのよ」

 瀬川が本題に入ったようだ。

「不安?」

「ええ。だって、あの間バスの中がとっても静かなのよ? 誰も喋らないし、ハイジャックされたバスみたいじゃない」

 ハイジャックされたバスは混乱と犯人の罵声のせいでかなり騒がしくなると思うがな。だがまあ確かに。僕もアイドリング・ストップをしているバスに一度だけ乗ったことがあるが、道中にエンジン音すら消えて何事かと思った。そのうち慣れてきたけれど。

「不安に……なるかなあ?」

「お前、結構小心者だな」

 和久井がぼそりと言ったのを瀬川が反応する。

「あら。あらあらあら? 和久井くん、今あなたを不安にさせるようなことをこの場でしてもいいのよ?」

 うん。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。これはあれか。例のカッターナイフを使って僕の命を脅しに掛けるんだ。そうだ。絶対そうだ。

「何を逃げようとしているのかしら尾崎くん」

「いやあなんのことだろう。僕は全然分からないなあ、分からないから先生に教えてもらいにいこう」

 既に他のメンバーは傍観モードに入っていた。この僕の命の危機になんて薄情な、なんて、思ったりしないよ? うん。僕は寛大だからね。

「待ちなさいよ尾崎くん。別にあなたをとって食おうというわけじゃないわ」

「とって何する気か教えてもらわないと怖くて行けない。瀬川さん、和久井じゃなくて僕が既に滅茶苦茶不安なのですよ、ええ」

「……尾崎くん。尾崎くんにとって私がそんな程度だったなんて……。見損なったわ。仮にも彼女が、仮にも彼女が。仮にもか・の・じょ、が。あなたにこっちに来てと言っているのにどうしてそんなに不安になることがあるのかしら? 行かないなら私から行こうかな。尾崎くんの側に居ないと寂しくて死んじゃいそうなほど私は兎なの。兎に角、うさぎにつのだなんて面白い日本語だけれど兎に角、兎にも角が生えそうなほど私は寂しがり屋なのよ尾崎くん」

 兎に角という日本語の成り立ちについてはおいおい勉強するとして、兎に角、僕はピンチだった。ええ、ピンチですとも。

「まあまて瀬川。わかった、わかったからその物騒なものを仕舞え……ってあれ?」

「なにを?」

 物騒なものすなわちカッターナイフなど、瀬川の手には握られていないようだった。珍しく瀬川が武装をしていない事に僕は驚いたが、そのおかげで冷静さを取り戻した僕は、どうやら周囲の目、それも驚きを隠せないような、そういえば瀬川が何気ないことを言ったような気もするけど、そのせいか、天変地異でも目の当たりにしたみたいな顔をしている千早さんらとクラスメイトたちだった。

 瀬川と僕が恋仲になったっていうの、そういえば非公開でしたね。欅や響くんにはばれてたけど。

「あーちゃん、今すぐ『ドッキリ大成功』という看板を探すんだ……」

 いつもは元気な野中さんが放心しながら言った。

「ヤヤヤヤヤ。ここここれはいつものいつもの冗談だよ野中っち」

 反面、ものすごく動揺している日向さん。

「あー、なんだその、つまりはどういうことだ、尾崎」

 佐藤くんは冷静に状況確認を開始した。

「えーと言うべきかどうか迷ってはいたんだけど」

「何を迷う事があるのかしら尾崎くん。おめでたいことじゃない?」

 僕が何を言うべきか迷っている間に千早さんが言った。

「私は応援するよ? 他ならぬ尾崎くんと瀬川さんだもんね。……クラスメイトたちの衝撃は私たち以上のようだけど」

 うーん。困った事になった。どう説明すればいいのか。

「瀬川とはまあ、その。これは冗談でもなんでもなく、嘘偽りなく、つまりはカップルというか、お付き合いをしているんだ」

「詳しくは聞かないけれど……。ずいぶん突然じゃない?」

 まあ、クラスメイトたちからはそうみえるか。そうだよなあ。僕からしてみればかなりの葛藤があった訳だけれど。主に勘違い、いや、違うか。自分に課していた下らない制約というのかな。それを解くきっかけもあって、今回の事に関してはまあ、説明するだけ面倒くさいとも言う。

「尾崎くん」

「ん?」

 突然瀬川が僕の側にまでやってきて僕の手を握った。空いた片方の腕を僕の背中に回して、背伸びをして僕の頬に。

「!」

 キスをした。

「な、なにを突然」

 僕は自分の顔が熱くなるのを感じた。瀬川が手を離して俯く。多分照れているのだろう。……いやいや瀬川さん。なにもこんなところでキスなんてしなくたっていいじゃないか。先週の話だが、膝枕をさせられるよりもよっぽど恥ずかしいんだけど。

「あーもう、見せつけてくれんじゃねえかよ!」

 途端に教室内にいた一人の生徒が僕に向けて言った。その生徒は先週、僕たちと瀬川のことで対立した目黒さんという女子生徒だ。またなにか瀬川に対して酷いことを言い出すのかと思い身構えたがそうではなかった。

「……どーぞおしあわせに」

 僕の顔から目をそらして目黒さんは言った。……なんだかなあ。歯がゆい。

「……どうも」

「ふん」

 目黒さんは結局僕の顔を見ないまま自分の昼食に戻った。

「おー、おー、おー。……おめでとうなっちゃん! まーくん!」

 日向さんが爆発した。千早さんや野中さんが僕と瀬川に祝福の拍手をする。するとクラス内からちらほらと、控えめながらも拍手の音が聞こえてきた。……喜んでいいのかなあ。先週クラス内で争いを引き起こした張本人としては素直に喜べない。この事実を反瀬川派の人たちが聞いたらなんて言いだすか……。クラスの治安さえ悪くさえならなければ休戦状態が破られる事はないだろうけれど。それでもちょっとは不安だな。

 というか瀬川、ちょっとは先のことを考えて発言をできないものなのだろうか。未だに瀬川という彼女がどういうときにどういう行動を起こすかというのを把握できないでいる彼氏である。

 ま、それも含めて、か。僕が瀬川の事好きになったのは。

 なんだかなあ?

「そ、それで、尾崎くん」

「ん?」

 まだ照れているのか瀬川が顔を突っ伏したまま僕に言った。

「あのね」

「なんだ」

「アイドリング・ストップがアイドリンク・ストップだったら恐ろしいわよね」

 最後だけ平静な顔で言った瀬川だった。クラス内ががっかりしていた。いままでの騒ぎは一体なんだったのか、そんな疑問が浮かんでくる瀬川の問いだった。

「I Drink Stop」

「言い直してどうする」

「ファミレスでアイドリンク・ストップと言ったらドリンクバーをストップしますとか言われるのよ」

「割とどうでもいいぞ瀬川」

「私、飲むのやめるわ」

「勝手にやめろよ」

「ワタシ、ノムのヤメルネ」

「インチキ中国人にしたところで結果は同じだ!」

 瀬川の思考をアイドリング・ストップしたい僕だった。

 という阿呆な会話をしながら昼休みの時間は過ぎていく。本日の衝撃発言というか衝撃告白は、瀬川に膝枕をされる、瀬川に膝枕する、という二大恥辱に匹敵する恥ずかしさなため、一生涯封印したい。くそ、どうせあとで欅とかに馬鹿にというかしつこく迫られるんだ。僕の今日の命運は決まった。案の定、昼休みが終わって欅が教室に帰ってきて、あの場に欅は居なかったはずであるにも関わらず昼休みに何が起きたか完全把握している欅が早速僕に話しかけてきたが全力で無視し、故に特に描写する必要性もないまま現在掃除が終わって放課後。

「さてと、瀬川。今日はまずは響くんと七海さんに報告だな」

 クラスメイトたちの大半が下校及び部活動に行ってしまい、現在教室に居残っているのは僕と瀬川と、読書をしている七海さんだけだった。

「うん。だけれど尾崎くん。立川くんがどこかへ行ってしまったわ」

「そうだな。もしかしたら生徒会の仕事をしているのかもしれない。響くんのことだからすぐに帰ってしまったということはないだろう」

 となればまずは七海さんへの報告を先に済ませておこう。

「七海さん」

「なあに? と、一応聞いてみるけれど、大体用件は分かってるわ」

 七海さんは小柄な女子生徒だ。声量も小さいけれどよく響く、透き通った声をしているため聞き取りやすい。しかしながらその可愛らしい見た目に反して意思が強く頑固であるようだ。確固たる自分の意思でもって他者と接していく。そういう性格をしている。

「うん。えーっと、久家さんはどうやら、七海さんとの関係を改善したいという気持ちはあるようだよ。『今はまだ自分の気持ちを整理できないけれど、いつかちゃんと加奈子ちゃんと向き合うから大丈夫』だそうだ」

 僕は瀬川から聞いた、久家さんが言っていた言葉をそのまま七海さんに伝えた。だが七海さんはなんだか難しそうな言葉をして僕たちのことを見ていた。

「どうしたの?」

「ねえ、尾崎くん。瀬川さん。どうして私とあの子との間に溝ができてしまったか、わかる? あの子はそのことを話したかしら」

「いいえ。私は聞いていないわ」

 瀬川がそう答えた。うん、僕が瀬川から聞いた話だとそうだ。久家さん曰く、僕たちに話したってしょうがないこと、だそうだ。

「そう。……あなたたちがもしもそれを聞いていたら、そんなにも簡単に納得するわけはないわよね」

「どういうことだ?」

「ご存知の通り、私は千里と、もう一度仲良くしたいと思っているわ。勿論、千里も同じことを考えているでしょう。それは正しいわ、聞いた通りよ。気持ちが整理できたら、というのも正しいでしょうけれどでも、それしか正しくないわ」

 どういうことだろう。お互いに仲直りの意思があるのなら簡単なのではないだろうか。それとも、二人の間に溝を作ってしまった原因、それは僕たちが予想するよりもずっと深刻なのだろうか。

「正確には本当のことを言っていない、だけどね。言っていないことがあるだけなんだけどね。そういうことも全部、あなたたちには分からないでしょうね」

 ……。

「あなたたちにお願いをしたのは私だし、いい機会だから話しておこうと思うの。あなたたちには知る権利がある。けれど、やっぱりこれはあくまでも私たちの問題だから、もしもあなたたちが聞きたくないというのであれば話さないわ」

 願ってもいないことだ。だけど、これは素直に聞いておくべきなのだろうか。七海さんのこの様子は、聞いて欲しくない訳でもないけれど、別段聞いて欲しいわけでもないという様子だ。……あくまで部外者、関係のない僕たちが話を聞く権利が、本当にあるのだろうか。

「迷っているわね。当然でしょう。けれど、迷っているくらいなら聞かないほうが楽かもしれないわね。けれど、聞かなくても一度関わってしまった手前責任を感じてしまって楽じゃないのかもしれないわね。それでも聞くだけ聞いて抱いている疑問を解消しても楽かもしれないわね。けれど聞くだけ聞いて後に引けなくなって楽じゃなくなるのかもしれないわね」

 言われて余計に迷う僕だった。

 七海さんと久家さんとの間にどれほどに深刻な問題があるのか僕は分からない。それを七海さんが話してくれると言っているけれど、それを聞いたところで僕にできることなどあるのだろうか。そもそも七海さんとしては、僕や瀬川のように、今年知り合ったばかりのクラスメイトにそういう大事な話をしてもいいのだろうか。聞かれたいのだろうか? それを喋って、七海さんにとってはそれで気が晴れるのだろうか。問題解決の糸口に繋がると言うのだろうか。僕は、聞くべきじゃない?

 そうはいっても、七海さんから頼まれた立場として、さらには、響くんからもよろしく言われた身として中途半端に投げ出すというのもいかがなものか。無責任な男だと、七海さんから罵られるかもしれない。響くんから幻滅されるかもしれない。もしかしたら七海さんは、僕たちのような、ともすればクラスメイトではなく、ただの他人にでもその理由を打ち明けてしまえるほど切羽詰っている状況なのだろうか。助けを、求めているのだろうか。僕が瀬川を救えた人間だと思い込んで、自分も救って欲しいなどと間違っても考えているのだろうか。僕は、聞くべきなのだろうか。

「ふふ。冗談よ」

 七海さんはそういって微笑んだ。けれどその微笑みはどこか子悪魔的で意地悪だった。

「冗談というのが冗談ということもあるかもしれないわね。或いはこれこそが冗談なのかもしれない。そもそも本当は私と千里は喧嘩なんてしていなくて、あなたたちにこうして頼んだ事も全部冗談かもしれないし、千里が仲直りしたいと思っているのも冗談かもしれない。だとしたら私も本当は千里と仲直りしたいなんて冗談を仄めかしたりしたかもしれないわね」

 永遠に続き、永遠に続かず、永遠に始まり、永遠に始まらず、永遠に終わり、永遠に終わらず、永遠につながり、永遠につながらず、永遠に巡り、永遠に巡らない。

 そんな冗談みたいな永久が、冗談じゃなく存在している。

 そんな冗談みたいな連鎖が、冗談じゃなく存在している。

 そんな冗談みたいな輪廻が、冗談じゃなく存在している。

 そんな冗談みたいな冗談が、冗談じゃなく存在している。

 なんて、冗談じゃなく冗談めいてるじゃないか。

 メビウスの環なんてものを考え出した人間は全く、なかなかどうして頭が廻っていたのだろう。それこそ環のように。終わらない思考を繰り返して。

 一体僕にどうしろっていうだ。一体僕に何を信じろというんだ。一体僕はどうすればいいっていうんだ。

 僕の思考も輪廻する。輪廻し連鎖し永久に巡り巡って、巡らない。

 まとまらない。

 どうしてだろう。こんなにも考えてしまうなんてどうかしている。僕は哲学者にでもなったつもりか。七海さんの単純な問いにも答えらずに。イエスかノーか、たった二択しかない問題にどうしてここまで頭を悩ませているのだろう。難しい事を考える必要なんてないじゃないか。いつも通りに、僕は僕の考えを喋って、喋って。

 喋ってどうするというのだろう。

 そもそもなにを喋るのだろう。喋るのは七海さんじゃないか。

 僕はそれを聞こうとしているんじゃないのか。

 或いは聞きたくないんじゃないのか。

 だから僕が出すべき答えはイエスかノーか。聞くか、聞かないか。その二つだけのはずだ。そうだ。なにを迷っているんだ僕は。

 なにもこの問いが自分の命を左右する重大な問いというわけでもなし。究極的にどちらかを選ばなくてはいけないような、そんな意地悪な問題では、ないはずだ。

「僕は……」

「面白いわね」

「え?」

 七海さんが微笑んでいる。

「面白い?」

「ええ。そして興味深いわ。どうしてそこまで悩めるのかしらね。普通なら適当に断るか、適当に聞くか。それだけでしょう? 何も難しいことも考えないで、私たちのことなんてどうでもいいな、そんな風に答えてくれるだけでいいのよ」

 そんなこと。どうでもいいだなんて僕は思っちゃあいない。

「……けれどね。それがあなたのいいところなのかもね。瀬川さんが惚れるのも無理はないかもしれない」

 僕は思考を切り替えて瀬川の方を向く。瀬川は考えているのか考えていないのか。或いは今の七海さんの発言に対して思うところがあるのかよく分からない表情をしている。

「ね、瀬川さん」

「……そう、ね」

 どういうことだ? と、僕は今日何度目かの同じ疑問を頭の中で繰り返す。

「尾崎くん。だから改めて、あなただから、あなたたちだからお願いするわ。私の話を聞いて、そして、それを聞いた上で千里と話をしてきて」

「七海さん……」

「勿論、あなたたちがどうにかできる問題では勿論ないでしょう。それでもいい。私はあなたたちに聞いて欲しい。これはお願いよ」

 七海さんの表情は本気だった。どうやら今度は冗談で言っているわけでは無さそうだ。或いはこれが冗談なのかもしれないけれど、それはもう考えるだけ無駄であると思った。

「尾崎くん」

「ああ。……じゃあ、七海さん、話してくれるかな。その、七海さんと久家さんの間に溝ができてしまった原因を」

 七海さんは頷いて話し始める。

「……私と千里は幼い頃から一緒だった。家がご近所さん同士で、産まれたときからずっと一緒に育ってきた。私たちはそれこそ本当の姉妹のように、血の繋がっている姉妹のように、私のお母さんからも、千里のお母さんからも、勿論お父さんたちからも目一杯の愛情を受けて育ってきた。お互いに一人っ子だったから、尚更二人で育ってきた」

 …………。

「同じ保育所に入って同じ小学校に通って、私たちはずっと一緒に居るものだと、それが当たり前だと思ってた。

 けどそうじゃなかった。中学に入ってから千里は演劇部に入った。私も勿論、一緒に演劇部に入った」

 久家さんが演劇部?

「ふふ、信じられないでしょうね。けれどね、昔はむしろ私の方が人見知りだったのよ。千里は元気があって明るくて人当たりもよくて、クラスのみんなとも、演劇部のみんなとも仲がよかった。千里は私が持っていないものを一杯持っている。私にない、私がずっと欲しいと思っていた『才能』の全てをを、千里は余すことなく持っていた。それでもよかった。例え私が手に入れることが出来ない『才能』を持ってたって、私はそんな千里のことを誇りに思ってたから。とても羨ましくて、羨ましかったけれど、自慢の出来る私の片割れ。そう思っていた。それまでは、そう思っているだけで満足だった。千里が側にいるだけで、私自身が満たされていた」

 そう、それまでは、と、七海さんはもう一度繰り返した。

「演劇部に入ってからの千里は、それはもうすごかった。先輩たちや同級生たちに後押しされて、それまで持っていた才能の全てを費やして、僅か数ヶ月で演劇部のエースになった。……それからだった。人見知りの私は演技をするなんて到底無理で、千里や他のみんなの足を引っ張ってばかりだった。それでも私は千里の側に居続けて、千里の行く場所行くところ全てに付いていった。そう、『付いていった』のよ。今まで当たり前のように『一緒に居た』んじゃなく、『付いていった』の。それから、私は一個人としての『七海加奈子という私』じゃなく、『久家千里の友だち』と呼ばれるようになった。分かる? 今まで同じ場所に二人揃っていたのに、その時から何かあれば私は千里と比べられた。同じように育ってきた二人なのに、姉妹でもないのに双子でもないのに比べられて、その度に私は千里よりも低い位置で見られていた」

 それはなんというか。どう表現すればいいのだろう。今の僕には言葉がない。

「それでも私は笑ってた。それでも千里は千里で、私は私だってずっと思ってきた。千里が三年生になって演劇部を引退するまでの間ずっと我慢してきた。……我慢、してきたのに、とうとう千里が引退して、これでまた二人で一緒に生きていけると思っていたのに、千里が、高校でも演劇部を一緒にやろうって言い出して、千里やみんなの足を引っ張ってばかりいた私をそれでも誘ってくれる千里が眩しくて、眩しすぎて」

「嬉しかった?」

「いいえ、何も見えなかった。眩しすぎて、その眩しさから目を閉じたらその先は暗闇しかなかった。せっかく誘ってくれているのに、全然嬉しくなかった。演劇部に入ったらどうせ私は今までと同じように千里と比べられて、千里たちの足を引っ張って、相変わらず私は千里にひっ付いてくるだけの『友だち』で、心の中では千里も私の事を馬鹿にしているんだって思った。そんなはずないと分かっていても、そう感じているんだって思った。私が側に居れば、千里の輝きが増すから。だから私はその時に、言ってしまった。嫉妬の渦にまみれた言葉を。積み重なってきた穢れを一気に放出するように」

 僕は、聞きたくなかった。けれど、七海さんはまるで抵抗する様子も無しに続けた。

「あんたなんか喋れなくなればいいのに。話せなくなればいいのに。笑えなくなればいいのに。友だちなんていなければいいのに。あんたには下賎な私さえいればいいのに。他には何もいらないのに。どうして全部もってるの? あんたが持ってる才能も、あんたが持ってる名誉も、全部全部無くなってしまえばいいのに。無くなってしまえばいいのに」

「無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ無くなれ」

「全部無くなってしまえ!」

 衝撃だった。

 七海さんがそういう言葉を放ってしまった事実もそうだが、千里さんが現にあんな風に喋る事をやめた今でも、七海さんの心の中には昔のような感情の醜い渦が存在しているのだ。

 僕は人の心の中なんて覗けないから分からないけれど、七海さんの今の表情がそうであると物語っている。七海さんと同じクラスになって僅か一週間。たった一週間で何が分かるんだと誰かに言われそうではあるけれど、少なくとも僕が一週間で七海さんに感じた印象に、こんな表情をする女の子だなんて認識は一切、ない。

 それほどの、笑顔。

 狂気の、笑顔。

 瀬川がカッターナイフをちらつかせれば、今にも誰かに切りかかっていきそうな殺人的な笑顔。狂おしく愛しい者に向けられた笑顔。いまそこに彼女の姿はない。

「アハハ。そう言ったら千里、本当に声を出せなくなっちゃった。次の日から学校に来なくなって、私は毎日お見舞いに行ったわ。でも千里、私には姿を見せてくれなかった。その内千里のお母さんから、娘があんな風になってしまったのはあなたのせいだって言われて、もう二度とあの子と関わらないで、とも言われた。うちのお母さんと一緒に私を育ててくれた優しい千里のお母さんがよ?

 千里が声を出せなくなったのは精神的な理由なんだって。失ったものは声だけじゃない。感情の一切も表にあらわす事が無くなった。暫くして学校に復帰してから千里の友だちがこぞって心配をしていたけれど、千里はなんの反応も見せることなくついには孤立していった。……私が千里に向けて言った言葉が本当になっちゃった」

 七海さんは続ける。

「千里がこの学校に入るらしいという話を聞いて、私はこの学校を選んだ。勿論、あの子が全てを失ったのは、あの子から全てを奪ったのは私だから。千里に償いをしなくちゃいけない。そのためにはいつまでも気弱な私じゃいけないと思って、あの子の側に居られるような私にならなくちゃいけないと思っていたのだけれど……。うまくいかないまま、とうとう三年生になっちゃった」

 ……話はここまでと言わないばかりに七海さんは首を振った。

「どう? ここまで聞いて、あの子と私の関係を元通りに出来そう?」

 正直に言えば難しい話だろう。久家さんと長年一緒に生きてきた七海さんで無理だったというなら、それこそ最近知り合ったばかりの僕らではどうしようもできないほどの難しさだと思う。

「……ねえ七海さん」

 瀬川が溜息まじりで口を開いた。

「どうしてあなたは私たちに、私たちなんかに、そんなことを頼んだの?」

「それは……私じゃどうにもできなくなったから」

「どうにもできなくなったから? それって諦めたってこと? 他でもないあなたが? 久家さんと一番近い位置にいたあなたが?」

 きついものの言いようだ。……まあ瀬川に任せておこう。

「そんな気持ちで、あなたは本当に久家さんと仲直りしたいの?」

「……ええそうよ。それは勿論。ずっと一緒に居れたあの頃のように」

「それは無理ね」

「え?」

 おいおい。

「無理だわ。一生涯無理よ。無理を千回貫いたって、一万一億一兆回貫いたって無理ね。無の理と書いて無理よ。この場に熱血な主人公がいるのであれば可能性はゼロじゃないとか言いそうだけれど残念ね、そんな主人公はここには居ないし、もし居たとしても可能性はゼロよ。成功する倍率は常にゼロだわ。蟻一匹が巨像を倒すくらい無理よ。一発で踏み潰されて終わり。無理無理。ぜったい無理」

 無理無理言い過ぎだ瀬川。おまえ、さっきみたいな七海さんの狂気で刺されても知らないぞ。

「どうして無理なのよ……?」

「当たり前じゃない。今の状態から『あの頃』に戻るなんて考える時点で間違っている」

「それでも、私は、千里と、『あの頃』の私たちに戻りたい」

「あのねえ七海さん。今のこの状態はあなたが望んだ結果なのよ。あなたが望んだ通り久家さんは声を発する事も、感情を表現する事もできなくなった」

「私は望んでなんかない!」

「そうかしら。あなたがこの学校に来たのも、本当は久家さんを見下すためだったんじゃないかしら。久家さんを哀れみの目で、今の自分は久家さんよりも優れていると思い込んで見せ付けるために。中学時代にあなたが感じた痛みを久家さんに同じように味わわせているだけなのかもしれない。否、かもしれないじゃなく、味わわせているのよ」

 それは極論ってものだろう。いや、そうでもないのか。その可能性も大いにあり得るのかもしれない。少なくとも、さっき瀬川が言ったような、かつての二人に戻れる可能性よりは現実的な数字なのかもしれない。少なくとも、ゼロではないのだろう。

 でなければ、あんな笑顔を見せたりはしないだろう。

「……知った風な事を言わないで! 私がなんでそんなことをしなくちゃいけないって言うのよ!」

「理由が無いわけではないでしょう? あなたは才能にまみれた久家さんに嫉妬し、嫉妬し続けていたんだから」

「それ以上言うと怒るわよ」

「怒ればいいじゃない。けれどそれは私にじゃなくて……久家さんにね」

「どうして千里に怒らなくちゃいけないのよ」

「……今でも心の中に恨み妬みが残っているのでしょう? ならぶつけなさいよ、彼女に。全部全部なくなるまで彼女とぶつかり合いなさいよ。喧嘩の一つもしてみせなさいよ。どうせ向こうだって怒っているわ。久家さんはあなたと仲直りしたいだなんて言っていたけれど、あなたと仲直りなんてできるはずない。久家さんの人生を狂わせたのは他でもないあなただものね。あなただけが久家さんの人生を狂わせて、あなただからこそ、久家さんの人生を狂わせたのだわ。きっと久家さんもあなたのことを恨んでいるでしょうね。少なくともあなた以上にあなたの事を恨んでいるでしょうね。教室ではそうは見えないけれど、久家さんから負のオーラが常に漏れ出しているのが私には見えるわ」

 いい加減な事を言いつつ瀬川が言っていることは決して的を外れているとは言えなかった。話を聞いている限りでは、確かに久家さんが七海さんを恨んでいてもおかしくはない。自分の精神に大打撃を与えた人間を、声も表情も表に出せないような精神状態に追い込んだ張本人をニ、三年で許せるほどの人格者がいる訳がない。仲直りをしたいだなんて思っていても、その気持ちは限りなく、嘘に近く、限りなく真実に近く、脆く曖昧な気持ちなのだろう。ともすれば、ちょっとの一言で崩壊してしまえるほどの、脆さ。久家さんは一度精神を壊している。一度壊れたものは、同じ場所からならいとも簡単に壊れるものだ。

「千里と喧嘩だって? そんなことしたら余計に仲が悪くなるじゃないの」

「なあに? 姉妹同然のように過ごしてきたあなたが今更喧嘩を恐れるというの? それともあなたは久家さんと一度も喧嘩したことなどないとでも言うの? そんな程度の関係だったの?」

 喧嘩するほど仲がいい、とはよく言ったもので、例えば僕と姉さんは仲はそこそこいいが、喧嘩なんてしょっちゅうしている。和久井も然り。あいつとはいつ知り合ったのだか知らないけれど、いつの間にか和久井は僕の側にいて、僕は和久井の側に居た。が、お互い譲り合いの精神など皆無だったため、主にモノの取り合いで喧嘩をしまくった。僕の幼馴染であるところの大地獄沢雛だって例外ではない。まああいつは喧嘩をしたところで次の日には忘れてしまうやつだ。主に口喧嘩だったけれど、姉さんや和久井とやるような喧嘩とは違って後腐れがなくて楽だった。

 というような感じで、僕も僕で結構な喧嘩をしてきているのだった。それを七海さんや久家さんに当てはめるとなると多少の無理はあるのだが。

「喧嘩はもちろんしたわよ。何度だってした」

「昔のように戻りたいのなら、だったら昔のように喧嘩をすればいいんじゃないかしら?」

 それは思い出がほとんど喧嘩で埋め尽くされている場合に有効な手段だ。

「でもさっき、昔には戻れないってあなたも言っていたじゃない」

「確かに言ったわね。でも、そんなことを一々確認してくるということはやっぱり恐れているのね? 怖いんだ。昔に戻るのが。本当は知っているのよね? 昔には戻れないって。そりゃそうよ。昔になんて誰も戻れない。過去は絶対に変えられないし戻れない。これはいつだったか尾崎くんが提唱していた、世界の法則の一つよ」

 そういえば今朝方そんなことを考えていたような気がする。あれはこのための伏線だったのだろうか。いやいや、そんなはずはない。いくらなんでも自分が知らない未来への伏線など張れるはずもないし、そもそも僕は瀬川の前でそんな法則を提唱した覚えなど全くない。

「だったら喧嘩する意味なんてないじゃない」

「意味なんてなくて当たり前よ。喧嘩するのにいちいち意味なんて考えていられますか。でもね七海さん。確かに昔には戻れないけれど、昔のようには戻れても、今のあなたじゃ絶対に無理だけれど、今のあなたなら、今には戻れるのよ」

 今には戻れるってどういう表現の仕方だろう。ありがちな台詞を使えば、「俺たちは前を向いて生きればいい! 俺たちの人生はこれから始まるんだ!」というような感じだろうか。いや、ニュアンスがちょっと違うか。

 ところで僕って今、結構呑気に構えているけれど大丈夫だろうか。いけないいけない、集中せねば。

「自分で言っておいてなんだけれど、安っぽい台詞だわ。安くすぎて十円ガムが帰るレベルよ」

 瀬川も瀬川で冗談を言うほど呑気であった。

「けれど、あなたたちの関係はその程度の安さで解決できるのよ。十円ガムよ十円ガム。私だったらそんなもの買うくらいなら自動販売機の百十円で使うけれどね」

 微妙だよ。

「けれど十円って結構便利よね」

「あなたふざけてるの?」

 とうとう突っ込まれた瀬川だった。だが、突っ込みを入れられるほど七海さんの気持ちは落ち着いてきたようだ。いや、今のは「てめえ舐めてんのか」的はニュアンスだったかもしれないが、それは気にするまい。

「私はいつだって大真面目。大真面目すぎて真面目さを一周するくらい真面目よ。うんうん真面目真面目」

 本当に真面目な人はそんなに連呼はしないだろう。

「それはともかく。私はあなたたちに協力できる事なんて何一つないと結論付けたのだけれどどうかしら? 喧嘩の仲裁ならお断りだけれど」

「なんで喧嘩することが前提になっているのよ。あなた全然人の話聞いてないわね」

「そういえばあなたの言い分を全く聞こうとなんてしていなかったわね。今からでも話してくれて構わないけれど、聞く気はないので独り言にしてね」

「あなたね……。まあいいわ。……私たちは今には戻れる、か。それが十円ほどの価値しかないかどうかは別だけれど、或いは喧嘩をするかどうかもべつな話だけれど、それが本当だとしたら、今更、なんてことはないのかしら。遅すぎたということはないのかしら?」

「尾崎くん、七海さんが独り言を喋っているわ。どうしよう、かわいそうな子」

「な!?」

 阿呆なことを言うな瀬川。七海さんがもうそらすごい剣幕で怒ってらっしゃるよ?

「まあまあ七海さん落ち着いて」

 とりあえず七海さんをたしなめておく。

「冗談よ。七海さん、私は『今に戻れる』と言ったのだから遅すぎるなんてことは無いわ。むしろ、今しかないんじゃないかしらね。あなたが私たちに打ち明けて、多少なりとも心のストレスが晴れた今しか」

 だったら余計に余計な事を言うなよさっきから。

「……確かにね。少しはすっきりしたかもしれない。けど、私だけ心の準備が出来ていても、千里の方はなんにも準備できてないわよ?」

「それもそうね。それじゃあちょっくら久家さんを怒らせてきましょう」

「どうやってだよ。大体瀬川、怒らせても意味無いだろ。心の整理どころかいらんストレスを与えかねない。例え彼女が感情を表に表せなくとも、感情が全く無くなったという訳じゃあ無さそうなのはお前も知っているだろ? むしろそんな状態ならよりストレスを感じやすいはずだよ」

 感情の逃げ場が無いからな。感情を溜め込むと、いざ暴発したときの爆発力は凄まじいのはエネルギーの蓄積を考えれば当然の事だ。静かな奴ほどキレると怖いと言われているのもその辺りが原因なのではないかと僕は思う。

「それもそうね。じゃあ七海さん。どうやら私たちにできそうなことはもう無さそうだから帰るわね」

「ちょっと待ってよ。なんでそうなるのよ。あなたたちにはまでやれる事があるわ」

「何かしら。これはあなたと久家さんの問題だし、私たちがどうこうできるものじゃないと思うのだけれど。そもそも、七海さんのお願いを私たちが聞く必要あったのかしらね。それこそ立川生徒会長に頼めば有効な手を考えてくれそうなものよね?」

「今更そんなことを言っても私はあなたたちにお願いをするわ。というか、ここまで話しておきながらいきなり無視を決め込まないでよね」

 まあ勿論瀬川にそんな気はないだろう。ほとんど他人に近い僕たちに過去を打ち明けたんだ、それを聞いてどうしようもないからはいさようならでは虫が良すぎる。

「わかったわよ。一体何?」

「とりあえず、私、千里と話し合うことに決めたから。でも、いきなり私が千里と会ってもあの子はなんの反応も示さないでしょうから、ここはやっぱりあなた達が千里を説得して欲しいの」

「説得と言われてもどうしろと?」

「だからまあ、その。とりあえずなんでもいいから、やりかたはあなたたちに任せるから、とにかく千里を私のところに連れてきて」

 連れてきて、か。なんだかなあ。自分から行けよと思わなくも無い僕であった。いや、思うだけで言うべきじゃあないけれど。

「自分で行けばいいじゃない」

 言いやがった。

「自分でどうにか、どんな方法を使ってもいいから梃子でも動かせばいいじゃない」

「そんなことをして、図書室で喧嘩にでもなったらどうするの?」

 喧嘩をする気があるのかないのか、そんなことを言う七海さんだが、瀬川はその言葉で納得したようだった。

「それは困るわね。図書室にはまだ読んでいない本があるわ。あなたたちにそれを破らせるわけにはいかないわ」

「どんな壮絶な喧嘩を想像しているの」

「最悪、図書室の本が燃えかねない」

「燃やさないわよ」

「図書室……図書室……。うん、図書室と言ったらやっぱりあれよね。魔法少女たちの戦い。図書室に保管されている魔道書を巡って争う二人だった」

「趣旨変わってるわよ!?」

「結局その魔道書も一緒に燃やしてしまう二人だった」

「本末転倒じゃない!」

「司書の先生に怒られる魔法少女たちだった」

「ショボ!」

 瀬川のボケ全てにツッコミを入れる七海さんだった。今度から瀬川のボケは全部七海さんに受けてもらおうかな、とか悠長に考えている僕だった。というか七海さん、突っ込みもできたのか。うんうん。今日は七海さんの意外な一面を見れたな。最初のアレは思い出したくも無いが。

「とにかく、久家さんに話をつけてくればいいのね」

「ええ、そうよ。別に今日すぐにで無くても構わないから」

「日にちと場所が決まったら果たし状を使って久家さんをおびき寄せればいいのね?」

「ええ、そうよ。そうしたら私たち三人で千里を囲って……ってなんでよ!」

 見事なノリ突っ込みを見せてくれる七海さんだった。だんだん僕の頭の中で構成された七海さんのイメージが崩壊していくようだった。

「とにかくまあそんな感じで。じゃあ七海さん。早ければ今日中に決着がつくかもしれないから心の準備だけはしておいてね」

 今日って……いくらなんでもそう簡単にはいくまい。僕らにはもうひとつ、響くんより頼まれた仕事もあるのだから。まあそれは暫くは保留という形にはなるだろうけれど、とりあえず報告だけでも済ませておきたいところだし。

「はあ、面倒だわ。ねえ尾崎くん、立川くんの依頼は無視してもいいんじゃないかしら。別段、七海さんたちの問題よりも深刻そうじゃないし」

「そういうわけにもいかないだろ。依頼主はかの響くんだぜ? あんまり無碍にしていたら何をするか分からない」

 そうそう何をするもんでもないだろうが。何をするかわからないという事は、突き詰めても何をするか分からないのだから、それが響くんが全生徒から畏怖される所以でもあるのだ。

「まあ、ね」

「……ふう。やっと話がまとまったわね」

 まとまったとも言えないような気もするけれど。今日僕たちがしたことといえば、単に七海さんに報告をし、七海さんから話を聞いたくらいだ。瀬川は何かした気にでもなっているのかもしれないが、結局改めて、七海さんと久家さんの関係改善に向けての橋渡し。大本の趣旨は変わってはいない。

「それじゃあ七海さん。今日のところはこれで。また後でになるかまた明日になるかは分からないけれど、とりあえずさようなら」

「ええ。二人も。……今日はありがとう」

「……どういたしまして」

 七海さんは僕たちを教室に残して足早に去っていった。……ふむ、ならば僕たちも動くとするか。

「さて、これからどうする? 直接久家さんのところにいくか、響くんを探すか」

「そうね……。どうしようかしらね。でも、ねえ尾崎くん、私思ったんだけれど」

 瀬川が曖昧な返事をし、続けた。

「例えば七海さんと久家さんが話し合いの結果喧嘩をする事になったとしましょう。でもね、久家さんって、どうやって喧嘩するのかしらね」

 ものすごくどうでもいい質問だった。なあ瀬川。まずは当面の問題に目を向けようぜ。久家さんがどうやって喧嘩をするかなんて本当、そんな事考えるのは後にしよう。きっと久家さん、表に出せない感情が爆発して、それこそ魔法少女かって位の超能力とか発揮して喧嘩するんだろうぜ。まあそれだと七海さんも同等の力を持っていないと喧嘩にはならないけれど、まあ未だに嫉妬の念が残っているみたいだし、大丈夫だろう。盛大な姉妹喧嘩になるに違いない。

「……いこうぜ、瀬川」

「ええ」

 僕たちは結局、後先の事も考えずに教室を後にした。

 僕は呑気に、冗談じゃなく久家さんってどうやって喧嘩するんだろうとか考えていた。

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