第二章・001
今も昔もそう変わらないことが一つだけある。一つだけ。
過去は変えられない、という事実。僕こと尾崎蒔良や僕の周りにいる人たちはみな、なんらかの過去を持って生きている。それはこの世に産まれ、この世で生きてきた以上当たり前で、ごく、当たり前のことで、覆しようの無い事実であると共に、何物にも変えがたき真実でもある。
その過去から目を背けようとしたり、過去なんて無かっただなんて言い出す人がいるのなら、僕が自ら、その人のところに行って一発お見舞いしてやろう。ありきたりな言葉で「過去を受け入れろ!」なんて叫んで、青春ドラマよろしくその人の心になんらかのきっかけを与えて、その人が前向きに生きれるようになればいいと思う。
ただまあ、頭で思っているだけで実際の僕にはそんな行動力はないし、僕には荷が重過ぎるというものだ。僕は誰かの未来を築けるほどの出来た人間ではないし、そもそも築こうだなんて思わない。自身の未来は誰かの言葉や誰かから与えられるきっかけで掴むものじゃなく、やっぱり自分で見つけなきゃいけないものだから。それでもやはり、そうしないと生きられないという人も居るだろうけれど、それも一つの生き方だというのであれば仕方ない。
そういえば僕は、自分の人生を語ったようなノンフィクション作品は嫌いだ。芸能人とかが「僕は昔はこんなにも貧乏で、こんなものを食べてました」だとか、「わたしは昔から両親から愛されてなく、こんなことをしてしまいました」という告白。或いは独白を書いた作品をたまに出版するけれど、僕から言わせて見れば、だからどうした、という一言に尽きる。
不幸自慢かっての。
同情貰いたいのかっての。
その上、「自分はこんな人生を乗り越えたから、皆さんもがんばりましょう」と上から目線で言われたって、僕はむかつくだけである。
彼らよりもっと悲惨な、凄惨な人生を歩んできた人間なんて山ほど居るだろう。わざわざ文章にしなくたって、そんな人たちはそんな中でも小さな幸せを見つけて生きているのだろうから、余計なお世話とも言える。
或いはお世話するつもりなんて全く無いのかもしれない。だとしたら尚更文章として起こすべきではないと僕は思う。
一体何のつもりだろう。
とか、書店に並ぶそういった作品の数々を眺めていると、そういう不平不満が零れてくる。やれやれ、だ。まあ、僕みたいなちっぽけな、彼らからすればちっぽけな人間が文句を垂れたところで彼らの耳には届きやしないのだけど。
それで、なんの話だったか。いや、特にこれといった話題は無かったのだったか。
最初に過去は変えられないとか言った気もするが、その後は何について語ったのだったか。
……まあいい。僕なんてそんなもんだ。
自分が頭の中でどんなことを考えていたかなんてすぐにでも忘れてしまう。うん。意味も無く考え、意味も無く忘れるというのも、時として必要だ。
過去も、変えることは出来なくとも、うっかり忘れてしまう事くらいはできるだろう。
だから今は忘れていいさ。
次に思い出すまでに、記憶喪失とかにでもならない限り、完全に頭の中から消えてしまうなんてことは起きないんだからさ。
さてと、気持ちをそろそろ切り替えよう。僕はこれからどこに行くんだったっけ。
今日の日付を確認する。月曜日。即ち平日。
平日といえば、学生の身分である僕にとっては当たり前のように学校がある。平日の朝っぱらから意味の分からない独白を続けていたなんて、ずいぶんと時間の余裕があったものだ。
事実、あるのだけど。
朝食は済ませた。身支度も整えた。となればあとは、僕の姉、人間であるかも怪しい僕の姉であるところの明里姉さんに「行ってきます」を言って、いつもの通いなれた道を歩いて学校へ行くだけだ。途中、僕の通う学校、夢見里高等学校の生徒たちからは単に「十字路」とだけ呼ばれている交差点にて、最近、というかつい昨日ほどから僕の彼女である瀬川奈々実と待ち合わせ、一緒に学校への一本の坂道を登っていくのだ。
もしかしたらその間、僕のクラスメイトたちと合流する事になるかもしれない。学校に行くためにはその坂道を必ず登らなくてはならないため、どんな生徒と一緒になっても不思議ではない。まあそれならそえで、別に構うまい。僕はクラスメイトたちとの交流は大事だと思っているから、たとえ嫌な奴だろうと快く加えてやろう。
ふむ、そろそろいい時間だ。さて、それでは脳内シミュレートした通りに学校へ向かうとしよう。
「姉さん、行ってきます」
玄関から居間に向かって言う。
「おー、いってらー」
居間の中から姉さんの声が返ってくる。その言葉を聞いてから僕は玄関の戸を開け、外に出る。
いい天気だ。こんな日は、何かいいことが起きるといいなあ、なんて、年甲斐も無く思ってしまう。玄関の戸を閉め、駅に向かって歩く。
しばらく歩くとすぐに駅が見える。駅から電車通いの生徒がぞろぞろと出てくる。夢見里の電車は都会ほどしょっちゅう走ってはいないので、この時間帯の電車を逃しただけで遅刻確定だ。
駅を右手に僕は左折する。まっすぐ行くと十字路が見えてきた。
うむ、どうやら瀬川の姿はまだないようだ。腕時計を確認する。まだ余裕はある。となればここは待つのが吉か。
生徒たちの邪魔にならないよう、電柱に寄りかかりながら人の流れを見つめる。ふと、夢見里の生徒ってこんなに居たんだな、とかどうでもいいことを考える。夢見里は割と田舎ではあるが、どうやら少数化という言葉には無縁らしい。
瀬川を待つ間、僕は本日しなければならない事の確認をする。まずはクラスメイトの一人で現生徒会長である立川響くんに個人的に頼まれた依頼、美術部所属の鈴木正時くんの身辺調査の報告。同じくクラスメイトの七海加奈子さんに、これまた個人的に依頼された、クラスメイトの久家千里さんとの関係改善に向けてさりげなく話をしてくるという依頼の報告。先日金曜日、僕と瀬川はそれぞれ、僕が鈴木くんに話を聞き、瀬川が久家さんに話を聞いて、お互いの結果報告だけは済ませている。あとは依頼主に直接報告をすればいい。
ただまあ、直接的な解決なんてまだしていないだろうから、調査自体はまだまだ続きそうだ。特に鈴木くんに関することは、響くんもどうして鈴木くんの身の回りを知りたがっているのか、そこのところは聞いておきたいところだ。
そうして僕が今日の予定を立てていると、駅の方より佐藤くんと河野くんの姿が見えた。佐藤恵、僕たち三年三組の委員長。河野鉄平、同じく三年三組でクラス一友だちが多い男。
「お、やあ尾崎くん」
河野くんが僕に気付き軽く手を振る。
「おはよう佐藤くん、河野くん」
「おう。誰かと待ち合わせか」
「まあね」
そうか、と佐藤くんはそれだけ言い、河野くんと一緒に坂道を歩いていった。彼らの背中を見つめていると背後から不吉な声が聞こえる。
「まーくーらーくーん。クスクスクスクス」
気色の悪い笑い方に背筋がゾクっとする。振り返ればそこには予想通り、欅ナツカの姿があった。
「け、欅……」
「クスクス。おはよう蒔良くん。今日はいい天気だね」
いつも不適に微笑んでいるこの男は、軽くメイクをするだけで道化師と見紛ってしまいそうな顔をしている。
「いい天気過ぎて、今日はいいことが起こらないかなあとか、年甲斐もなく考えてしまった蒔良くん。いい天気だね」
「どこまで見透かしてんだてめえは。あーはいはいいい天気だね。さっさと学校いけよ遅刻するぞ」
「いやいやー。こうして朝会ったのも何かの縁だし一緒に登校するのもボクとしてはやぶさかじゃあないんだけど」
ち、僕が今瀬川と待ち合わせをしているのは知っている癖に。空気読めよ少しは。
「あー、でもあれかー。蒔良くんにしてみれば、彼女を置いて学校なんか行けないもんねー。昨日は二人の記念すべきデートだったんだって? いいなあ、青春だねー」
「なんでそんな事まで知ってんだ。実はストーキングが趣味とか言わないよな?」
「あれ? 図星? いやだな蒔良くん。ボクはカマをかけさせてもらっただけだってのに、そう簡単に認めてもらっちゃあ張り合いもないな」
全部知ってるくせに欲言う。僕は、どうやったらこの男の口を減らせるか本格的に考える必要があるようだ。それこそ瀬川からカッターナイフでも借りて首を掻っ切るくらいしか思いつかないが。……明里姉さんに一度お灸をすえてもらおうかな。
「やだなー、そんな顔をしないでくれよ」
クスクスと笑う欅。と、僕はその背後に近づいてくる男の姿を見た。
「ああ眠い眠い。眠いぞ欅。欅? おー欅。こんなところで何してる欅。そうだ欅。お前に話があるんだ欅。こんなところで電柱に向かって独り言をぶつぶつ喋ってるぐらいならその減らず口をおれに存分に向けるがいい欅。なんならお前に仕事を与えてやろうか欅。おれは仕事すんの面倒だからな、お前にやってもらおうか欅。うむ、そうしよう欅」
無闇やたらに欅の名を連呼する立川響生徒会長その人である。現在の響くんは眼鏡をかけている。周囲から恐れられている人物であるはずの欅の襟元を掴んで引っ張っていこうとする。さすが響くん。怖いもの知らずというより、怖いものがなさすぎる人である。
「いやー待ってくれよ会長殿。そこに蒔良くんがいるから一緒にお話をしていただけなんだよ」
「尾崎くん? それは同じクラスの尾崎蒔良くんのことを言っているのか? だとするならお前は相当に目が悪いなあ。そこには電信柱が立っているようにしか見えない。ああ、見えない。おれの頭がおかしいとか、仮にもお前にそんな度胸があるなら言うがいいさ。だが、眼鏡をかけているおれの今の視力は最高値で、見間違うわけが無い」
基本響くんは誰に対しても呼び捨てにする事が少ないらしいが、どうやら欅は別らしい。というか、かなり目を付けられているらしい欅である。
「ああ、そういえば、おれは電信柱に挨拶をする習慣があるのを忘れていた。やあそこの電信柱さんおはようさん。ほれ、とっとと歩け欅」
「アハハ……またね蒔良くん……」
「また意味のわからない事を。とっとと歩かんか」
どうやら響くんは、瀬川と待ち合わせをしている僕に気を遣ってくれたらしい。正直助かった。欅を朝っぱらから相手にするのはどうも疲れる。まあ、響くんが相手でもそれは同じことだけど。
それはいいとして、僕は再び腕時計を見る。そろそろ瀬川も到着する頃だろう。
僕が商店街の方角を見遣ると、案の定瀬川の姿が見えた。瀬川が僕の姿を視認する。僕は瀬川に言葉を投げかける。
「おはよう、瀬川」
僕の目の前でぴたりと止まる瀬川。
「変ね。私の目の前にある電信柱から声が聞こえたわ」
「お前まで響くんみたいなこと言うなよ」
「まただわ、どうしよう、浮かれすぎて尾崎くんの幻聴を聞いてしまうようになってしまったのかしら。あらやだどうしよう」
それはなんだ、僕と恋仲になったことで嬉しすぎるということなのか、それとも、僕なんてそれこそ電信柱レベルとでもいいたいのかどっちなんだ。
「あのなあ瀬川。お前こそ電信柱に向かって何独り言言ってるんだよ」
「はっ! 電信柱に気付かされてしまうなんて、私もう駄目だわ。頭がどうにかなってしまったようよ」
ふう、やれやれ、瀬川は相変わらずである。僕は瀬川の両肩を掴んで軽く揺さぶってやった。
「ほらー、瀬川さん瀬川さん、朝ですよー、寝ぼけていないでねー」
「あうあうあー」
これ以上やると、道行く生徒たちに不審な目で見られそうなので自重する。というかもう手遅れなきもする。
「ふう。あ、尾崎くんおはよう。遅いわよ」
あくまでもボケ通すつもりの瀬川だった。
「僕はさっきからここにいたぞ。そこの電信柱によっかかってお前を待ってたってのに」
「ああ、通りで尾崎くんの声が聞こえたのね。気付かなかったわ。……でも尾崎くん。尾崎くんは気付いていないかもしれないけれど、あなた、そこに立ってると本当に電信柱のようよ」
そこまで同化してただろうか。別に学校の制服が電信柱と同じ色をしているわけでもないってのに。
「まあいいさ。じゃあ行くか」
「ええ」
気を取り直して僕たちは学校への坂道を登る。
「さあ尾崎くん。私の手を握りなさい」
突然に瀬川が右手を僕に差し出す。
「カップルなんだから、それくらい……」
「ものすごく恥ずかしいんだけど。人一杯居るし」
本音である。今の時間帯、この坂道の混み具合は相当なものだ。上から誰かが転がり落ちてきたら下の人間はみんな犠牲になるだろうな。
「彼女の要望を聞けないだなんて、あなたさては私の事嫌いね?」
「そんなわけないだろ。……分かったよ」
僕は渋々瀬川の手を握る。……瀬川の手を握ったのはもしかして初めてだろうか。意外とちっちゃいんだな、瀬川の手。
「……恥ずかしいわ、尾崎くん」
「お前が言い出したんじゃねえか」
そして意外にシャイな瀬川であった。
「そうそう」
瀬川が思い出したように僕に言う。
「登下校というのは学生にとって退屈なイベントであると思うのよね」
またもや突然に、それも今度は訳の分からないことを言い出した瀬川である。
「別にイベントってわけじゃあないだろ」
「いいえ、イベントよ。儀式と言ってもいいわね。私たちが学校に着くまでの間に、或いは家に帰るまでの間に必ずしなければならない行事なのよ」
行事というほどのことでもまた、やはり無いのだった。
「刺激が足りなさ過ぎると思うのよ。こうして毎日同じ道を同じ時間に歩くというのはやっぱり飽きるのよ。それこそなにかイベントたりえる何かが必要だと思うの」
ただの登下校でそんなことを考える辺り瀬川らしいとも言えるが。
「こうして適当に会話をするだけじゃ駄目なのか?」
「それも含めて、やっぱり刺激が必要だと思わない? 登下校中になにか面白い事が起これば、それを話題にして楽しめるじゃない」
一理あるように聞こえるが、どうだろう。嫌な予感しかしない。
「それで、じゃあ瀬川はどうしたいんだ?」
「たとえば、誰かがこの坂道を転がり落ちていくというのは?」
「ただ危ねえだけだろそれ。刺激云々の前に」
死者が出そうなことを平気で言う瀬川だった。
「この場合、面白いかどうかは関係ないわ。つまりは、滅多に無い事に遭遇するという事が大切な事なの」
「滅多にないことを求めてたって仕方が無いだろ。だったら何か自分で刺激を作れよ。僕に面白いことをやってみせてくれ」
ふーむ、と考え込む瀬川。こいつのことだ、ろくな事を考えないに違いない。まだ一週間かそこらの付き合いしかないはずだが、僕は瀬川の事をよく知っているような気分だ。
「私がやるより、尾崎くんにやってもらうほうが面白いかも。というわけで尾崎くん。この坂道を転がり落ちてみなさい」
「却下だ」
もちろん即答する。
「お前は彼氏を殺したいのか。ありがちな少女漫画や恋愛小説よろしくな感じで彼氏を大怪我させたいのか。そうはいくか、僕はああいう展開嫌いなんだよ」
「別に尾崎くんの好みは聞いてないわよ。何よ少女漫画って。もしかして尾崎くん、あんなの読んでるの?」
ものの例えだっつの。読んでなくたって最近やたらとそういうもののドラマ化が多いし、嫌でも耳に入ってしまう。
「とにかく、登下校で刺激を求めるな」
「求めるかどうかはまた別として、尾崎くんが転がり落ちる必要はなかったわね」
「誰にとっても必要はねえよ」
刺激イコール犠牲という公式を頭の中で持っていそうな瀬川である。というより、犠牲者候補として常に名を挙げている僕の寿命は短いのかもしれない。
「今日はもう学校に着いてしまうわね」
瀬川の言うとおり、阿呆な会話をしている内に校門が目の前だ。風紀委員会の人が生徒たちの服装チェックをしている。
「でもね尾崎くん。明日はこうして面倒な登校をしなくてすむ方法を思いついたわ」
「ろくなアイデアを期待しないが一応聞こうか」
「学校に泊まる」
「却下だ」
予想通り過ぎるので、これも即答だった。
正面玄関より入って左に行くと三学年の教室が並んでいる。一組から五組まで、総数にして約百九十人。僕たちの三年三組は丁度真ん中の教室で、教室に入るとそこには勿論のこと、クラスメイトたちが居た。
新学期早々、僕たちは瀬川奈々実というクラスメイトの待遇をどのようなものにするかという、非常に下らないことで争ってしまった。元々生徒たちから異常、異端と呼ばれていた瀬川奈々実をクラスメイトとして扱うか否か、否というのは即ち、瀬川一人だけを孤立させるかということである。くだらない、非常にくだらない。争いを引き起こした僕自身が後になって気付いた事だ。あの争いはするべきではなかった。
いや、して正解だったのだろうか。現に、あの争いの後からクラスメイトたちは瀬川に良くしてくれる。勿論、未だ関わりを絶っている生徒も何人かいるけれど。
それはいい。だから、今こうして、教室に入ってきた僕たちに対しても快く挨拶を交わしてくれるクラスメイトたちのことが僕は好きだ。
なんていいクラスなんだろう。
そう思った。
「やっほー、まーくん。なっちゃん」
教室で荷物を降ろし一息ついた僕たちは、とても明るいクラスメイトの野中潤さんと日向彩音さんの歓迎を受けた。
「おはようお二人さん」
彼女たちはこのクラスのムードメーカーと言ってもいい存在で、クラスの騒がしい部分を探せば必ず二人が紛れ込んでいる。
「今日は一緒の登校なんだな!」
「そうだね。というか、最近はよく一緒に帰ったりしてるけどね」
「あー、そうだったね」
土日を挟んじゃってるからだろうか、日向さんは頭を傾けて思い出そうとしている。別に今すぐ必要な記憶じゃあないし、考え込む必要なんてないんだけどね。
「ところで日向さん、野中さん。宿題はやったかい?」
なんだか能天気そうな二人なので、僕はそんな言葉を投げかけてやる。
「え? 宿題なんて……あったっけ?」
うんごめん。本当は宿題なんて出てないんだ。それでも二人はそれに気付くことなくあたふたし始める。
「あらあら日向さん。いいこと? 宿題っていうのは家でやってくるものであって、ここやるものじゃないのよ? もしも先生が家でやる以外の、それこそ学校でやるような課題をだすのであれば、それは学題というのよ」
僕の意地悪に乗ってくる瀬川だった。ちなみに学題なんて日本語なんて存在しない。
「ど、どうしよう野中っち」
「お、お、お、落ち着けあーちゃん。宿題なんてない宿題なんてない!」
うん。野中さんは正しいよ。宿題なんてありません。
「どうしたのかしらお二人さん。現実から目を逸らさないで。ちゃんと、目の前にある課題にぶつかっていくのよ」
うん。嘘に気付くっていう課題だな。
「これは一大事だよ野中っち。かつてない衝撃、いままでにない大問題がうちらの目の前に立ちはだかっているぅ!」
「センター試験真っ青な問題だ! 助けてくれまーくん!」
「いやあ、僕に助けを求められても出来る事なんて限られてるしねえ?」
限られすぎている。うん。
「それでもいい! その限られた力をあたしらに与えてくれ!」
「何馬鹿みたいなことやってるのよ」
と、元気な二人に反して冷静なつっこみが入る。常に肩に大きなヘッドホンを掛けているクラスメイト、千早なつきさんだ。彼女的にはあのヘッドホンはファッションらしい。暴走しがちな野中さんや日向さんのブレーキ役といったところか。
「おお、救世主現る!」
「たすけてくれちーちゃん、あたしら、宿題やってないんだ!」
まだ気付いてないのかよ。いい加減鈍感すぎるぞ。というか勢いだけで生きているだろこの二人。
「安心しなよ。宿題なんて出てないから。……さては尾崎くん、この子らになんか言った?」
「別に。宿題やった? って聞いただけ」
「なるほど。……騙されるほうも騙されるほうだけど、君ってそんな簡単に嘘つけるのね」
「嘘じゃないさ。僕は、宿題をやったかどうかを聞いただけで、宿題が出た、なんて言ってないさ」
ただの屁理屈だよ、と千早さんは呆れていた。まあ、それを言われるとそれまでなんだけどね。あながち嘘と言っても過言じゃないし。あんな簡単に騙されるとは思わなかったから騙す気は無かったんだけどね。
「なんという罠。うちらは騙されたのだ!」
「おそるべしまーくんアンドなっちゃんコンビ。そのコンビネーションは洗練された動き! あたしらも見習うぞあーちゃん!」
意味分からん。無駄にテンション高すぎるだろこの二人。
おりゃーという掛け声と共にどこかへ去っていくムードメーカー共。その場に残されたのは千早さんだけだった。
「……改めて、おはよう尾崎くん。瀬川さん」
「おはよう」
ふう、と一息つく千早さん。
「朝からよくあんな元気がでるわね、あの子たち」
瀬川が最もなことを言った。
「昔から、元気だけが取り柄、みたいな子たちだからね。あの子たちに付き合っていると、私でも疲れることってよくあるよ」
「そうみたいね」
千早さんは野中さんと日向さんとは昔からの馴染みなのか。そういえば昔馴染みといえば、千早さんって確か佐藤くんとも幼馴染だったって言ってたな。
「まあいいわ。あの子たちが元気なだけで、私も救われるから」
「え?」
「なんでもないわ」
千早さんはそう言って自分の席へ戻った。
なんだろう。何か悩み事でもあるのだろうか。……まあ、立ち入ってはならない領域かもしれないし、放っておくしかあるまい。
「……気になるわね」
「まあ、な。けれど、僕たちが気にしたってしょうがない。あんまり変な事に首突っ込まないでくれよ?」
「そんなことしそうに見える?」
見える。うん、見えますとも。一見大人しそうに見えて、お前って結構強引なところあるからな。一度何かを始めたら、僕を始めとした誰かが犠牲になるに違いない。
「さてと、もう席に戻るわね」
始業が近づいてきたので瀬川はそういって席に戻る。教室もだんだんと人が増えてきた。
瀬川が僕から離れていくのを確認してか、欅が僕の元へやってきた。
「クスクス。甘々だね君たち」
「お前な……」
欅はそうやって人の機嫌損ねるようなこと言って楽しいのかよ。
「まあボクとしては、君がああやって瀬川さんと仲がいいと嫉妬を覚えるんだ」
「なんだって?」
「……フフ、勿論冗談さ。ボクは嫉妬される側で、嫉妬する側じゃあないからね」
意味の分からないことを言う。欅が一体誰に、どんな分野で嫉妬されるというのだろう。
「だけど、サ」
欅が何かを言おうとして口ごもる。……前にもこんなことが無かったか? そう、初めて欅と会話をしたとき、なんだか意味深な事を言っていたような気がする。
「おやおや欅。なあ欅。どうしてお前の名前は欅なんだろうな。なあ、欅」
またもや欅の背後に現れる生徒会長立川響。響くん、あんたが人の背後に立つと冗談じゃなく怖いから。
「……やあ会長殿」
「殊勝だな欅。お前がおれに挨拶だなんて」
この二人、一体どういった関係なんだろう。なんというか、目には見えない強力な何かで結ばれているんじゃないだろうか。……主に主従関係的な意味でだが。
「響くん。さっきは言いそびれたけどおはよう」
「ああ、言いそびれたって何をだ? おれは今日、きみとこうして話すのは初めてじゃあないか。ともあれおはよう尾崎くん」
あくまであの時の響くんは電信柱に話しかけていたということか。ならばそれでいいだろう。
「これは大きな声では言えないが」
響くんは僕に顔を寄せて小さな声で言う。
「瀬川くんと恋仲になったそうじゃないか。おめでとう。……うむ、君なら彼女の事を任せられるよ」
「……どういうこと?」
「別に。彼女は今まで孤立していたからね。腐っても生徒会長であるおれは、その辺の事も気に掛けてはいたわけだ」
そういうことか。……だが、生徒会長、それも、単なる生徒会長じゃあない立川響ともあろう者が、今の今まで瀬川の孤立をどうにかできなかったのは、何か理由があるのだろうか。
「きみの疑問も最もだ」
声に出してもいないのに響くんはその疑問に答えてくれた。
「前にも言ったとおり、生徒会長ひいては生徒会の力で一人の生徒を保護するというのには問題があるんだ。分かるだろ? おれは単なる生徒会長であって、王や神ではない。瀬川くんと関わりを持ちたくない人間が多数の状況で、少数派の人間の味方をするというわけにもいかないのだ」
「……わかるけどさ」
「勿論その逆も然りだがね。生徒会というのは中立で在らなければならない。だから、何もすることができなかったのだ」
おれ一個人としても同様にね、と響くんはそう言った。確かにそうだろう。その通りだ。響くんは個人レベルなら、瀬川の味方をしたかったらしい。だが、響くんほどの人間が、生徒会長というイスに座っている限り、個人レベルで瀬川の味方をしても、それはやはり、生徒会長の行為として見られてしまうのだ。多数の意見をまるで無視し、少数にまわった、生徒たちに仇なす生徒会長の行為として。
立川響という男は、そういう男なのだ。苦労の耐えない、心労の耐えない、完璧に見えてひどくもろい、生徒会長、立川響。
「今はきみが瀬川くんの側に居てやれる。勿論、君だけでなく、佐藤くんや河野くん。千早くんや卯の花くん。委員長の長島くんなんかもね」
「……響くん。きみは、瀬川の味方なのかい?」
「……残念ながら。完全に味方をする事はできないさ。やはり、生徒会長という肩書きが邪魔をする。まあ、あと数ヶ月もすれば任期満了だ。そうなれば、おれはおれ個人で成し得なかったことができるようになる」
生徒会長という枷が無くなった響くん、か。どうなのだろう。生徒会長としてできたことが出来なくなるのだから、やはりプラスマイナスなのではないか。
「まあ、何か困った事があるのならば、欅に言いたまえ。こいつのことはあごで使ってもいい」
やっぱり欅との間に主従関係があるのだろうか。
「やだなあ会長殿。ボクは最初から最後まで、蒔良くんの味方だよ。……だけどさ会長」
「なんだ欅、なにか文句でもあるか」
「……いや、いいさ」
さっきからなんなのだろう、欅は。どうにも歯切れが悪い気がする。何か言いたそうだけれど、響くんに釘を刺されて言えない、ようにも見える。
「ともあれ、ボクはいつでも力になるからね、蒔良くん」
「あ、ああ」
「おっと、時間だな」
響くんが言うと始業を知らせる鐘が鳴った。それじゃ、と響くんは自分の席へと戻っていく。その後、他クラスに行っていたらしい河野くんや佐藤くんが戻ってきた。河野くんは僕の隣の席で、佐藤くんはその後ろだ。欅は河野くんの前。僕の後ろには鹿児島さんという女子生徒が座る。
クラス全員がそろい、クラス担任である足立智成先生が教室に入ってくる。最近子供が産まれた国語教師で、生徒受けのいい、人気のある先生だ。
「おーし、ショートホームルームはじめっぞ。まずは出席確認だな。今日は珍しく、卯の花が休みだ。どうやら風邪らしい」
卯の花さん、卯の花つぼみさん。生徒の怪我を治すのが趣味らしい優しい女子生徒で、多くの男子のファンを獲得している。
その卯の花さんが休み、か。いろいろな意味で一大事だな。まず、怪我をした男子生徒が卯の花さんの不在に気付いて暴動を起こすかもしれない。さらには人を治す事を生業としている自らが病気に掛かるだなんて、その病原体はかなり強力と見える。
まあ、大げさだが。
「それと……三ツ星も今日は学校には来れないらしい。理由は不明。出席確認は以上だ」
三ツ星くんか。あの童顔の。まあ、僕は彼とはほとんど話したことは無いし、これは大したことじゃあないだろう。
「じゃあ連絡事項だ。……うーん、職員会議じゃあなんか言ってたような気がするが、お前らに関係あるようなことは特にないな。ま、いつも通り適当にやれ」
僕ら三年生だし、適当というわけにはいかないんじゃないだろうか。まあ、そういういい加減な雰囲気が人気あるゆえんでもある。足立先生は「じゃあ授業はちゃんと受けろよ」とだけ念を押して教室を出て行った。さっきは適当に、とか言っていたくせに。ちゃっかりしている。
さて授業だ。
大抵の授業についてはなんの面白みも無い話をしているだけなので省略し、今は四時限目の体育の時間。この時間は、四月末に行われる毎年恒例の競歩大会のための走りこみをする。競歩大会とは言っても、本格的なルールによる競歩ではなく、普通に走ったり歩いたりしながら制限時間内にゴールするばいいという単純なものだ。ただし、時間内にゴールできなかったり途中リタイアしたりすると、後日マラソンというペナルティが課せられるのだが。
距離にして、男子二十七キロメートル、女子二十キロメートルと、おい女子と男子の差がいくらなんでも開きすぎじゃねえのかと嘆いた事もあるが、そんなことお構いも無くとにかく二十七キロだ。
まあ僕は今年で三回目の競歩大会となるわけで、体力もそれなりにあるつもりだから余裕だろうけれど、一年制や、運動に疎い生徒にとっては二十七キロという長さは苦痛である。
制限時間は六時間。人間が普通に歩く早さを時速四キロだと仮定するならば、四掛ける六イコール二十四キロ。つまり三キロ足りない。ということは即ち、必ずどこかで三キロ分を稼がなければならないため、結局は最初の方で走る人が大半だ。バテる後半はゆっくり歩いてゴールできるぐらいには走る。それが普通である。
「やれやれ、競歩大会なんて疲れるな」
「そうだね」
体育の走りこみの途中、佐藤くんが僕にぼやいてきた。僕は佐藤くんと並んで走る。
「毎年のことだししょうがないさ」
「……なあ、尾崎。お前って意外に体力があるよな」
「そうかな? まあ、人並みよりはあるつもりだよ。昔から体力ある和久井とか姉とかと遊んでたから自然についたのかな?」
和久井というのは和久井和彦といい、僕の親友の一人だ。とにかく喧嘩が強く、夢見里高校内では和久井に勝てる奴はいない。和久井もガラは悪いが、他の不良たちが一般生徒たちの迷惑にかかるようなことをしていた場合、そいつらを成敗してしまうような正義感の持ち主なため、和久井に勝てないような不良はこの学校に存在できず、すなわち和久井はこの学校の治安を、知らずよくしているのだった。姉さんは姉さんで、本当に人間なのかどうか疑わしくなるような事も平気でやってのけるような変人で、喧嘩の腕、というより、武術の腕なら和久井よりも上である。単純な筋力だけなら和久井の方が完全に上だ。それでも和久井が姉さんに勝てない理由は、単純に技術力の違いである。僕はそんな二人とはよく取っ組み合いをしていたから、自然と体力がついたのだろう。うん、僕は普通を装っているけれど、本当は素人程度には負けないぐらいの実力はあると思う。喧嘩にしろ体力にしろ技術にしろ。まあ、それはこの際どうだっていいんだけど。
「けど、佐藤くんだって相当体力あるだろ? 全然バテてない」
「この程度なら楽勝だろう」
楽勝っていうけどね、僕たち以外の体力ない人たちが余裕でギブアップするくらいには走ってるんだけど。先生は無理するなと言っていたからその人たちは休憩をしているが、生き残っている生徒は僕含め、数人だ。
「まあ、お前は変な奴とばかり知り合いだから、体力があったところで不思議じゃないさ。だが、俺が不思議に思っているのはだな、あの生徒会長がなんで俺たち以上に走れているのかということだ」
佐藤くんの疑問は至極もっともだ。僕もそれは気になっていたところだし、気にしたら負け、くらいの気持ちがあった。
なんせ響くん、陸上部エースの木村くんと並んでるもんな。一介の生徒会長が陸上部の、短距離走者といえど陸上部のエースである木村くんと同じ体力ってどういう原理だ。あの人はプライベートで陸上部並の走り込みをしているっていうのか。
「……まあ、気にするなよ佐藤くん」
案外響くんと和久井あたりを勝負させたら互角かもしれない。変人度合いで言えば姉さんにも勝るとも劣らない響くんだ、もしかしたら、姉さん以上の実力者なのかもしれない。いや、もしそうだったとしたら、姉さんが今以上に強くなってしまうだけだが。負けたら強くなるってどこの異星人だよ。
「この学校は変人ぞろい、という噂は本当だったのか」
「さてね。少なくとも僕をその枠にいれないでくれよ?」
「気付いていないのか? 尾崎、お前はもうとっくに、少なくともうちのクラス内では変人リストの仲間入りだぞ」
なんだそのブラックリストは。僕はそのリスト存在を寡聞にして知らない。勿論冗談だとは思うが、僕が変人たちと知り合いだからといって、一般生徒よりほんの少し体力があったり喧嘩が強かったりする程度で、瀬川を始めとする、響くんや和久井、欅らと同列に見られるいうのは僕では実力が不足している。見られたいわけではないけれど、見られる程度の、それほどの謂われが僕にはないはず、だ。
誰が決めたんだよその基準。
「ふう、やれやれだね。僕は僕らしく、僕らしい生きかたで学校生活を楽しんでいるというのに」
「ふん。どうだか」
なんだか疑われているなあ。僕なにかしたっけ。まあ、僕は僕がどう思われていようが気にしないタイプだからいいけれど。変人呼ばわりは、いつまでたっても慣れない、な。
あとは適当な雑談をしながら走っている内に体育の授業が終わった。四時限目が終わったということは即ち昼休みが始まるという事だ。
また、いつものメンバーで集まって弁当を食うのだろう。今日は卯の花さんが休みだが、基本は変わらない。
今日はどんな話をするのだろう。