第一章・009
土曜日の朝、目が覚めた僕は朝の身支度を手早く済ませ、携帯電話のアドレス帳を開く。そこに登録されている一人の番号を見つめる。
あの占い師はこの時間帯だとまだ寝ているだろう。僕は一瞬、電話をかけるべきかどうか迷ったが、考えるだけ無駄だと思い直し、その番号の持ち主を叩き起こすことにした。あいつの場合、いつ電話をかけても大体寝ているので、電話をかけるタイミングを見計らう意味はない。
数回のコール音の後、眠たそうな声でそいつは言った。
「はあい、こちら大地獄沢~、大地獄沢~」
元気がないバスガイドのような喋り方で大地獄沢雛が応答する。大地獄沢というのは仕事用の名前で、本名は別にある。が、雛の場合、本名のほうをとても嫌っているため、僕は決してその名を口にしない。
「おはよう、雛」
「おや、その声は蒔良ちゃんじゃないか。いきなりどうしたんだいこんな時間に。うちは今とっても眠いのでかけ直してくれるととても助かるよ」
眠い割には結構喋ってくれる雛だった。
「お前の場合、いつかけ直したって同じ反応しか返ってこないだろ。一体どれだけ寝てれば気が済むんだ」
「眠るという行為はうちにとっての至福なんだよ蒔良ちゃん。何にも変えがたい、うちだけの幸福。寝ている間は何にも影響を受けず、どんな負の感情も生まれない。夢の中は怪我もしないし死なないし、辛い事なんて決して起こらない。うちがうちであるために、うちは眠り続けるのさ」
それも何回聞いたことか。確かに寝ている間は何も考える必要もないから楽だし心地よい。けれど、人生において寝てばかりいるのはやはり現実逃避に他ならないはずである。僕は一度、雛にそのことを言ったことがあるが、やはり否定された。
「それで蒔良ちゃん。何用だい? そういえば電話なんてずいぶん久しぶりだけど、うちのことが愛しくなったのかな」
「何言ってるんだ。たまにはこうして電話でもしないと、お前、いつの間に死んでそうだからな」
「死ぬのもまた人生だよ蒔良ちゃん」
まあ、明里姉さんがちょくちょく雛の世話をしに行っているから問題ないとは思うけれど。それでも長年のホームレス生活でその身体はとても貧弱だ。あれでよく病気とかかからないなとある意味感心する。
「で、何の用? うちの安否を確認したいわけじゃ、勿論ないよね」
「ああ。実はお前と色々話したいんだ。今から行きたいと思うんだけど、いいかな」
「……そうやって、うちの都合を聞くのもいつもの蒔良ちゃんじゃないね。アポなんかとらなくても、いつ来てもうちが居るって事は分かっているはずじゃないか」
やっぱり分かるか。……平静を装っていても、僕の心は本当は荒れているのだ。
「何か悩んでいる事があるんだね、蒔良ちゃん。いいよ、うちがその悩みを聞いてあげる。解決してあげられるかどうかは分からないけど、微力ながら力になるよ」
「ありがとう、雛。差し入れ持ってく」
「待ってるよ」
雛は電話を切った。さと、雛に持っていく差し入れは何がいいかな。考えるまでもないか。やはりバナナだろう。あいつはバナナは最高の栄養食だと言ってバナナを買いだめしている。
「さてと」
「や、弟くん」
僕が部屋から出ると姉さんが階段の前に立っていた。昨日は僕が家に帰った後、姉さんは僕の様子を見てひどく心配していたようだった。黙って二階に上がろうとする僕に姉さんはなんらかの言葉をかけてくれたはずだが、よく覚えていない。
「もう平気?」
「心配かけてごめん、姉さん。でもこれは僕の問題だし、自分で何とかするべき事だから、姉さんの力は借りないよ。どうなるかは分からないし、もしかしたら今日僕が帰ってきたら、昨日よりひどい状態になっているかもしれないけど、そうなってたら暫く放っておいてほしい」
「分かってるよ。あたしはあんたの頼れる姉ちゃんだからね。何があったかは分かんないけど、あたしは応援してるからね」
「ありがとう姉さん。じゃ、出かけてくるよ」
「いってらっしゃい」
姉さんは僕を快く送り出してくれた。全く姉さんには敵わない。いろいろな意味で、姉さんは僕が知る中で一番の姉さんだ。
僕は雛が住む川原の防空壕跡へと向かう。この街を東西で二分する川はその昔、戦国の時代に戦争が起こったときに東西の両軍の衝突を押さえ込んだと謂われている。詳しくは分からないが、東西の軍隊が川を挟んで対峙したとき、名乗りを上げていた両将たちが突如発生した高波にのまれ、川に落ちたらしい。まぬけな話だが、そのおかげで戦争は中断されたのだそうだ。どこまでが本当なのか分からないが、この街には他にもよく分からない伝説がたくさんある。
自転車をこいで約三十分。川の土手に到着。雛が住んでいる防空壕跡は土手を降りたところにある。自転車は降りられないので、土手に自転車を停めて急斜面を降りる。歩けば階段があるが、そこまで行くのは面倒だ。
「あれだな」
降りるとその防空壕跡はすぐに見つかった。この地形条件からすると子供たちなどの秘密基地にされていてもおかしくはないが、奥のほうに行くと決まって雛が寝ているので遊ぶに遊べないのだろう。
僕もその防空壕跡に入る。中は非常に狭い。僕くらいの背格好になると屈んで入らなくてはならない。しかし奥に行くと少し広くなり、雛くらいの体格なら確かに住めそうだ。
奥にダンボールと毛布、多少の食料が置いてある。本業である占いをするときはあのダンボールを引っ張って外に出るらしい。ダンボールには大きく大地獄沢と書かれているが、よく考えると人の未来を占う職業で地獄を名乗るというのはいかがなものか。それでも物好きな常連がいるらしく、雛の基本的な生活費はほとんどその人のおかげだそうだ。しかも雛の占いはほぼ百発百中らしい。らしい、というのは、実は僕自身占いというものをあまり信じていないからだ。
雛は毛布を被って眠りこけている。予想していた事なので驚かない。
「雛。来たぞ」
眠っていると言っても雛の睡眠は結構浅い。こうして一言声をかけるだけで雛はもぞもぞと動き出し、身体を起こす。僕は腰を曲げて頭も下げているが、雛は背筋をぴんと伸ばしてもその頭は天井に届かない。
「あ~その声は蒔良ちゃんじゃないかあ。どうしたんだいいきなり」
「寝ぼけたふりしてんじゃねえよ」
そして雛は決して寝ぼける事がない。なんでも睡眠自体をコントロールできるとかできないとかで、思い切り熟睡したいときはできるし、別に適当に寝ていたいだけならこうして浅く眠っているのだ。
「冗談だよ蒔良ちゃん。それじゃ、外にベンチがあるからそこまで移動しようか。うちはこのままで全然平気なんだけど、蒔良ちゃんは疲れるだろうからね」
「ああ。既に背中と首が痛い。お前よくこんなところに住めるな」
「住めば都さ蒔良ちゃん」
僕は頭をぶつけないように方向転換し、姿勢を低くして出口へと向かう。外に出ると僕は思い切り背伸びをした。短時間居るだけだったのに、体が痛い。
続いて雛が外に出てくる。同じく背伸びするが、腕を伸ばしても僕の頭のてっぺんに届かない。寝る子は育つと言うが、雛は成長することもやめたようなもんなので、中学の頃既に小柄だった雛の背は、今見るともっと小さく見える。一見小学生と違わない。
「相変わらず背が高いね蒔良ちゃんは」
「お前が小さすぎるんだよ雛。僕は男子の中では平均ぐらいしかないぞ」
「あー、そういえばそうだねえ」
僕たちは近くのベンチに腰掛けた。雛がその時、久しぶりに歩いて疲れたとか言ったけれど、聞かなかったことにする。
「ほれ、差し入れのバナナだ」
「おー! ありがとう蒔良ちゃん!」
雛はそれを受け取ると嬉しそうに一本目を頬張る。そんなにバナナが大好物なのか、雛は。
「うまいか」
「ああ、うまいよ蒔良ちゃん。バナナが一房あれば一週間暮らせるからな」
どんな食生活だよ。
僕と姉さんは一度、雛のあまりにも食べなさ過ぎる食生活を見兼ねて、飯くらいは作ってやろうかと言ったのだが、毎日世話をされるわけにはいかないからと言って聞かなかった。それでもこうしてたまに食べ物を持っていく分には許してくれるため、僕と姉さんは、適当な理由をつけて食べ物を持っていこうと考えたのだが、しばらくするとそれも見破られたのだった。
「おなかいっぱい。眠くなったから寝てくる」
「せめて僕の話を聞いてくれよ」
それに、眠いのはいつもの事だろう。
「悩みがあるんだったね」
「悩みというか、なんというか。まあ、そうなんだ」
「ふうん。それで、どうしたんだい?」
僕は雛に、昨日までのことを話した。雛がひたすら黙って聞いているので、話しているうちに眠ってしまったのではないかと思ったが、そうではない。
「……それで蒔良ちゃんは、自分の気持ちに整理が付かないからと、うちを頼ってきたというのかい?」
「……」
雛は深い溜息をついた。
「蒔良ちゃん、君は馬鹿だよ。うん、馬鹿だ、とっても馬鹿だ。占い師であるうちが言うのだから間違いはない」
一度に馬鹿と三回も言われて流石にショックだが、僕は否定する事はできなかった。
「なんだよ蒔良ちゃん。それって僕に相談するべき内容かな? もう答えは出ているんじゃないの? その、瀬川奈々実ちゃんのことでそこまで悩めるのであれば、君の心の中では結果は出ているんじゃないの?」
そう、なのだろうか。
おそらく、そうなのだろう。瀬川の事でここまで悩めるのだ。彼女のことが好きでないというのなら、その旨をはっきりと彼女に伝えて然るべきであり、そうしなかったということは、僕はきっと瀬川の事が好きなのだろう。
でも、この気持ちを彼女に伝えて、彼女を傷付けてしまわないかと僕は恐れている。自分の気持ちに素直になれない。
「雛。僕はどうしたらいいんだろう」
僕がそう言うと、雛は呆れた顔で応えた。
「うちは蒔良ちゃんのことを過大評価していたみたいだね。そんな簡単な事も分からないなんて、うちはがっかりだよ」
「……」
僕は沈黙する。
「どうやら今回の事に関して、うちが力になれることはひとつも無いよ。いくら蒔良ちゃんがうちに助けを求めたところで、うちを頼ったところで、うちの占いを信用していたって、自分の言葉が分からなくたって、自分の気持ちが分からなくたって、自分が頼りないからって、うちは蒔良ちゃんを甘やかす術を知らない。手段を知らない。言葉を知らない」
雛は続ける。
「うちには荷が重過ぎるんだよ蒔良ちゃん。うちは占い師であっても預言者じゃない。君にどんな言葉を投げかけたところでうちの言葉は妄想で想像で虚言でしかないのさ。君の人生を決定付けてしまえるほどの力はないし、うちほど非力な人間はこの世にいないからね」
僕は雛の言葉を黙って聞く。
「蒔良ちゃん。君は、うちがどんな方法で占いをするか分かるよね? うちはただ、夢を見るだけ。幸せな夢を見るだけ。残酷な夢を見るだけ。平和な夢を見るだけ。殺伐な夢を見るだけ。夢を見て、夢のような世界だったって感想を述べて、それはまさしく、夢のごとく次の瞬間には忘れてしまうほどの儚い夢でしかないんだよ。君はそんなモノを信じて頼るというのかい?」
「……僕は、夢を見たいわけじゃないんだ、雛。今ここで、現実に直面する問題をどうやって解決すればいいのか悩んでいるんだ」
「それこそうちの出る幕じゃないだろ? うちは夢の専門家なんだ。現実から目を背けているだけの引きこもりだよ」
ホームレスだから引きこもる家もないんだけどね、と雛。
確かに今の僕は、雛に頼るべきではなかったのかもしれない。だからといって、それじゃあ解決にはならないのだ。
「知っているだろう、雛。僕は昔、君の事が好きだった」
「知っているよ蒔良ちゃん。うちも君のことが好きだった」
なんともなしに返してくる雛。
「好きだから、君のことを傷つけた」
「知っているよ蒔良ちゃん。君がそんな勘違いをしていた事は」
勘違い?
「勘違い。うちは君に傷つけられただなんて、いついかなるときも考えた事なんてなかったよ」
「そうなのか?」
僕としては、てっきりそうだと思っていたのだが。
「当たり前じゃないか。人から好きだ、なんて言われて傷付くくらいなら、うちは君との縁をとっくに切っているよ」
そうだろうか。僕にはそうは思えない。
「……なんだ、そんなことを悩んでいたのか蒔良ちゃん。それで、同じ事を瀬川奈々実ちゃんにしたくないというわけだ」
「ああ、ありていに言えばそうだ」
「やっぱり君は馬鹿だよ蒔良ちゃん」
すっぱりと言い切る雛。その表情には先ほどから変化が見られない。いつもの眠そうな顔。気が付けば眠っていそうな、そんな顔。
「確かに、うちはあの頃、とても心が荒れていた。崩壊しそうなほど狂ってた。けど、それはうちの問題で、どこまで突き進んだってうちの問題なんだ。蒔良ちゃんには一切関係の無い事」
関係、ない。
「それに、過ぎた事でもあるしね。知ってるかい蒔良ちゃん? 占い師というのは、過去など目にも触れない人種なんだよ」
未来を見る職業だから当たり前だ、と雛。
そうは言っても、僕の心は釈然としない。すっきりとしない。こんなとき、雛のようにすっぱりと、昔のことなど切り離せればいいのに、とも思う。
けれど、雛はああ言ったけれど、僕には大事な過去だと思う。雛と出会い、雛を好きになり、そして、雛を……傷つけた。雛は、傷ついてなんか居ないと言っていたけれど、果たしてそうだろうか。やっぱり僕は雛を追い詰めていたと思う。これは僕の勘違いでは絶対に、ない。その過去は、確かにあったと断言できる。過去を忘れてはいけない。
「雛。僕は……。やっぱり君を傷つけたんだと思う」
「傷ついてなんかないよ」
「きっと、君を狂わせたのは僕だ」
「狂わされてなんかないよ」
「僕は目を逸らさない。だから雛、一つだけ教えてくれ」
雛は僕の言葉を、やはり眠たそうな表情で聞いていた。
「僕のこと、今でも好きか?」
「うちは蒔良ちゃんのことなんて大嫌いだよ」
即答だった。即答された。けれど、僕の心はなぜか清清しくなっていた。
「だけど、同じくらい蒔良ちゃんのことが大好きだよ」
「……」
「プラスとマイナスで、ゼロ、とまでは行かないまでも、君のことが嫌いで好きだ。うちは嘘なんて言わないからね、蒔良ちゃん。蒔良ちゃん……君も、そうだろう?」
雛は僕の顔をじっと見つめた。僕はその瞳を見つめ返して悟った。……簡単な事だ。雛は、昔から何も変わっていない。僕のことを好きと言った彼女。同じぐらい、僕のことが嫌いだった彼女。雛が嘘を吐かない事だって知っていた。だから雛は僕に傷つけられただなんて微塵も思っていないし、狂わされたなど夢にも思わないのだろう。それは、僕と雛の単純な認識の違い。
だから僕は、迷わず答えた。
「そうだな。僕は君の事を、傷つけたくなるほど好きだったし、それを悔いてしまえるほど君の事が嫌いだった」
「行き着けば簡単な事だろ蒔良ちゃん。想うだけなら人の勝手。うちはこれからも君のことが嫌いだし好きなんだろう。そこに付け入る権利なんて蒔良ちゃんにはないのさ」
「なら、僕が今、瀬川のことが好きになって、瀬川が僕のことを好きでも」
「お互いがどうであるかなんて関係ない。大事なのは自分の気持ちだけ、だよ」
結論として、僕が迷う事など一つもなかった。迷うだけ無駄。むしろおろかな行為だったと言えるのだ。
例え僕が雛のことを傷つけたとしても、それは雛を傷つけたというだけで、ただ、それだけで、瀬川を好きになってはならない理由には、全くならない。
その事に気付かずにいたなんて、我ながら、馬鹿すぎる。
「蒔良ちゃん。結論は出たかい?」
「ああ。すまなかったな、雛」
「なにも謝る事なんて無いじゃないか。蒔良ちゃんは、ただ勘違いをしただけ。勘違いをして、迷っただけ。迷って、間違っただけ。間違って、見つけただけだよ。自分の力でね」
「うん。ありがとう、雛」
「謝る必要も、ないじゃないか。どうしても例がしたいなら、一週間分のバナナを持ってきてくれればいいさ」
「ははは。そうだな。いずれ、僕の気持ちが固まったときに、そうさせてもらうさ」
例え、バナナでなくとも。
僕は雛に感謝しなくてはならないのかもしれない。
いや、謝罪をしなければならない。
どちらも必要はないと雛は言うだろうけれど、僕には必要なだけで。それもまた、単なる認識の違いなのだ。認識の、違いだけ。
勘違い、迷い、間違い。
ただ、それだけのことなのだ。