第5話 「永琉さん、気づかない振りをしてごめんなさい」
「おはようございます、お義母様」
「おはよう、永琉さん」
汚れひとつない白いエプロンをつけた永琉の向こう、長く高松家で家政婦をしてくれている長嶋美優紀の戸惑う顔に十和は内心でした。彼女の戸惑いの原因は朝の台所に漂う小麦の焼ける匂いやブイヨンの香りに違いない。
この高松家の朝食はいつも和食だった。『喜ぶ』に通じる昆布のお吸い物。財運を呼ぶ象徴と言える黄金色の出し巻き卵。『まめに働く』という願いを込めて豆類の小鉢。松花堂の商売繁盛を願ってゲン担ぎもかねた朝食を作るため、朝の台所に漂うのは出汁や醤油の香りだった。
高松家の朝食が洋食になったきっかけは、一真が朝食に「パンが食べたい」と言ったことだった。その理由は永琉のSNSを見て知った。先代当主との北関東の生活で、彼女はパンの魅力にはまっていた。一真の目論見通り「一真さんの希望なら」と永琉も朝はパンになり、別々に用意するのは大変だろうということで高松家の朝食はパンになった。
十和は、パンは嫌いではないが食べる機会はあまりなかった。ただ生まれたときから朝ごはんは和食で、いつも和装のためか呼ばれる席も和食が多かったからだ。
(最近知ったのだけど、あの人もパンが好きみたいね)
社長職を一真に譲ると決めた伸二は、社長の仕事の引継ぎをしている。引継ぎが順調に進むにつれて仕事は当然減り、増えた自由な時間を持て余すようになった。そして伸二は『散歩を趣味にするため散歩』をしはじめた。卵が先か、鶏が先かみたいな趣味探しだなと十和は呆れた。
伸二のために一真が買った靴は真っ白な運動靴。一真も白いスニーカーを履いていた時期があったはずなのに、真っ白な運動靴は高松家の玄関に違和感があった。
最初は家の周りをぐるりと回る、いかにもな散歩だった。
赤い顔をして帰ってきた伸二が運動不足を嘆くのを十和は偶然見かけた。そんな伸二が今では毎朝二キロも歩いている。伸二の言う『散歩』は十和の中ではすでに『ウォーキング』のレベルだが、伸二はなぜか頑なに『散歩』という。
(それはまあ、どうでもいい話ね)
散歩から赤い顔をせずに帰ってこられるようになった頃、伸二が一真からスマホでのキャッシュレス決済を教わっているところに出くわした。
「アプリをインストールして、バーコードかQRコードを表示して、必要ならスキャンして、残高が足りなくなったらチャージして」
そんな会話を伸二がしていることに十和は驚いた。カタカナが多過ぎた。長嶋美優紀には「聞いていることと理解できていることはイコールではありませんよ」と言われた。
「散歩のときに財布とスマホを両方持ち歩くのは重くてな」
IT難民の伸二がどうしたのかと思えば意外な理由。最初はスマホを置いていこうとしたらしいが、どこにいるのか分からなくなったら困ると一真に言われて財布を置いていくことに決めたらしい。
スマホよりも財布を選んだ理由は、次の日の食卓に見慣れないパンが並んだことで察した。浄蓮寺のご住職から美味しいパン屋の話を聞き、散歩に慣れたら買いにいこうと決めていたらしい。
以来、散歩に出た一真は電子決済でパンを買ってくる。
「あの店は電子決済が使えないんだ。おいしそうなパン屋なのに、あれで商機を逃しているな」
いま十和の前で、伸二は目をつけていたパン屋がスマホ決済を使えなかったことに憤っている。数カ月前までIT難民だったというのに。でもそれが面白かった。
代わりの店で買ってきたというパンがテーブルの真ん中にあるカゴに入っている。特にパンに好みはない十和は悩まず手前からとる。
「今日はこっちにするかな」
「俺はこれかな」
それなりに拘りがある一真と伸二は選んでとる。カゴに残っているのはアンパンが二個と、あとは十和に分からない何かのパン。
「私はこれにします」
配膳を終えて最後に食卓についた永琉は必ずアンパンを必ず選ぶ。伸二に向ける笑顔は『愛琉』だけど十和は愛琉ならアンパンを選ばないことを知っている。「餡子は地味でぼそぼそして美味しくない」と白梅庵の名を背負う娘とは思えないことを愛琉はよく言っていたから。
(お菓子は映えが大事みたいだけど、和菓子も、特に上生菓子など映えるし美味しいと思うのよね)
「今日のお店の餡子も美味しいです」
「気に入ってくれてよかったよ」
今日のお店は駅三つ分離れた街にあるパン屋のもの。最近の長嶋美優紀はどこの店か調べるのにはまっていて、紙袋に印刷されていた店名から調べた店の情報を十和は先ほど聞いた。
駅三つ分。もはや『ウォーキング』のレベルでもない気がするが、ウォーキングの一段先にあるものを何と言うかは分からない。小旅行かと思ったが、そこまででもない。
(……どちらにせよ、アンパンが好きな永琉さんのために買いにいったのよね)
永琉が心を壊したことについて伸二はかなり責任を感じている。それは十和にも感じられた。深く反省してほしいと思うが長年夫婦だった情があるのか、嬉しそうな永琉の姿に安堵する伸二を見ると「良かった」と思わないでもない。
永琉のことは、十和も後悔していた。
永琉は自分を失う前、一真に向かって「愛琉をちゃんと見ろ」と「どうして嘘が分からないのか」と憤ったと十和は一真から聞いた。それは十和の胸を抉った。
だって、十和は分かっていた。
愛琉が体調が悪くなるときはいつも彼女が嫌がる役目のとき。地域の婦人会の運営、一族の女性たちの集まり、結婚式の準備で起きたトラブルの処理。体調が悪いと言って永琉に押しつけておいて、次の日の華やかなイベントにはケロッとした様子で愛琉が参加していたのを十和は何度も見ていた。
騙されるわけがない。
でも、騙されるほうが楽だった。
永琉が愛琉の代わりにやってくれる。それは永琉を便利屋のように扱っていた梅宮当主夫妻や愛琉と同じこと。
愛琉が「体調が悪い」と言えば永琉が召喚される。そちらのほうが楽。でも召喚される永琉のほうはどうだったのか。永琉にだって生活や仕事があった。それはどうしていたのか。
(愛琉さんの嘘を追求せず、「体調が悪い」を簡単に受け入れた私も永琉さんを追い詰めた一人だわ)
永琉にとって一真は婚約の約束を反故にし、自分を捨てて妹を選んだ男。そんな一真の不義理を許した高松家。永琉が高松家に尽くす道理も義理もない。それなのに、永琉さん高松家に尽くしたのは――。
(私の話を覚えていてくれたのね)
高松家には使命がある。高松家には松花堂で働く従業員とその家族、そして地元の産業品を売ってこの地域の経済を守る責任があると十和は父親から教わった。
梅宮家への融資について十和の父親である先代は妻の「友人を救いたい」という気持ちを汲んだふりをしていたが、商売人で妻とは政略でしかなかった先代がそんな情で契約を結んだなどと十和は信じていない。先代は白梅庵の人脈を狙っていた。梅宮家は伝統の菓子を通じて文化人とのつながりが深い。
一真が小学生のときはその先代の考えを知る者は高松一族のあちこちにいて、梅宮の娘を嫁にという圧力がすごかった。それに十和は永琉が気に入っていた。
(だから永琉さんに期待させてしまった)
高松家の使命を十和が永琉に話したとき、永琉はまだ小学生。いつか一真のお嫁さんになる彼女になんとなく話した。幼い永琉では話の半分は理解できないだろうと思いながら。でも一真との未来を期待していた永琉はその言葉をしっかり胸に刻み、のちに理解していた。
(永琉さんを許嫁にさえしなければ、最初から愛琉さんを婚約者として指名……いいえ、それは無理ね)
十和は高松家の一人娘。父親の言うままに伸二と結婚し、将来高松家と松花堂を背負う後継ぎを産み育てることを考えてきた。子どもが産めなくなる体になる前に一真を産めたことは幸運だと思っていたが、一人っ子だったため一真の嫁候補は慎重に選んだ。
一真の嫁には必ず一真の子どもを産んでもらわなければいけないから、永琉が優秀というのもあったが体が弱いという点で愛琉は最初から候補者から外れていた。
愛琉が大学を卒業したら結婚する予定になっていたが、愛琉が短大に進学したことや松花堂の海外展開などの予想外が重なりほど結婚式は延期した。さらにそこに梅宮の先代当主の死が舞い込み、結婚は更に三年伸びた。
その間も愛琉は「体調が悪い」と言い続けた。嘘だと心のどこかで思っていてもそれは愛琉に一真の子を産めるのかという不安を十和に抱かせた。そして十和に花嫁の変更を考えさせ、十和はそれを実行した。
高松家の嫁に相応しい女性を見つけてはそれとなく一真に紹介したのだ。伸二もそれを止めなかった。ビジネスの嗅覚が鋭く、十和と同じように松花堂を大事にしている伸二も似たようなことを考えているのだと察した。
(だからこそ嫁が愛琉さんでなく永琉さんになったことを喜ぶべきだろうに、なんで永琉さんを責めたのかしら)
他の女性に気を移して八年にも渡る婚約を破棄するなど本来は醜聞でしかない。しかも婚約破棄の理由が「体が弱く後継者を産めるか心配」などでは誹謗中傷される恐れもあった。だからそんな悪い評判も覆せる女性を探し、彼女や彼女たちの家のほうも一真との婚約にかなり乗り気になった。
一真が男性として魅力的であることも功を奏した。ビジネスセンスも先代当主が目をつけた伸二と同等もしくはそれ以上。十和に似て少しきつい顔立ちだが、伸二の柔和な雰囲気が混じったことで人に好意を寄せられやすい容姿をしている。一真を紹介した女性のほとんどが目を輝かせ積極的にアプローチしてくれたのだが一真は一切見向きもしなかった。その生真面目な一途さは素晴らしいが、新たな嫁を探していた十和はもどかしかった。
(その頑なな態度が愛琉さんへの貞節ではなく永琉さんへの恋慕だと知ったのは、いつだったかしら)




