ハードボイルドの神髄
たまに、無性にハードボイルドが読みたくなる時がある。
でもじゃあ、ハードボイルドって結局何なんだ、という分類論は、今なお続いて結論が出ていない模様である。それでも一般的に「ハードボイルド」というジャンルがあって、それを他ジャンルと分けて考えることが(文壇の分類論的な厳密さは無いにせよ)できるのだから、私たちの中には、ぼんやりとしつつもある程度明確な、そして共通の、「ハードボイルド」像と言うものがあるのだと思う。
しかしこんなことを言って、今回のエッセイでは、一般的な「ハードボイルド」像とは何なのか、と言う話を主題に取り上げるわけでは無い。むしろ一般的なその像には、ちょっと誤解があるんじゃないか、表層しか見ていないんじゃないか、という話をしたいと思う。
ハードボイルドの一般的なイメージは、暴力的だとか、描写が直接的だとか、アウトローの世界を題材にしているとか、そう言うのがあると思う。つまりそれらの要件を満たしていれば、それは、「ハードボイルド」と呼ばれているのではないか。その中には、「男の生きざま」「男の美学」が描かれているらしい、というテーマの部分も、ぼんやりと含まれている。
書く側も、ハードボイルドの文体には特徴があって、それを勉強するところから入ると思う。前述した「描写が直接的」とかいうのは、厳密にはもっと詳細がある。ハードボイルドの文体研究という、それだけの本があるくらいだ。例えば、ある瞬間では、「煙草」を「煙草」と書かず銘柄で書いて、その灰の部分の長さをセンチとかミリとかの単位で、神経質なまでに物質的に描写する、そういうやり方がある。これはたぶん、童話における書き方――「桜」とか「一輪の白い花」とかではなく、「ソメイヨシノ」とか「白菊」といった具合に書くべきですよ、と言うのと同じ描写論だろう。(とはいえこの描写論は、その奥の本質論と繋がっているため、全く侮れない話!)
描写と本質、ここが今回大事な部分だ。
文体はその本質(伝えたいこと)によって変わる。その必然として、童話は童話の、そしてハードボイルドはハードボイルドの文体になっていく。そこで一つの問いがある。伝えたいことがハードボイルドのそれと一致していないのに、文体だけハードボイルドにしたハードボイルドは、ハードボイルドと呼べるのだろうか。
いや、分類論の話ではない。要するに、童話で不倫の話が扱うようなテーマを打ち出すというコンセプトが全くナンセンスなように、しかしそれと同じようなことが、(無論アマチュアの世界においてだが)ハードボイルドにもあるのではないだろうか。
暴力、直接的な描写、アウトロー。こういった用件を満たしながらも、「ハードボイルドではない」と思うもの。やはりその本質、「男の生きざまはこうあるべきだ」という精神の方向性がアウトローのそれとは違うものがある。じゃあそのハードボイルドの精神って何だよ、と言う話がある。偉そうに、お前なんかがそれを見抜いているとでもいうのか、と言うのはもっともは批判である。けれど、あるものはあるのだからしょうがない。
ハードボイルドの本質的に大事な要素は「誰にも知られずにことを成し、誰にも知られずに死んでいく(去っていく)」なのだ。これが、ハードボイルドの精神に繋がって来る。特に、「誰にも知られずに死んでいく」は大事だ。主人公が、ある女のために死んだ。その女もそのことを知らないかもしれない。そして世界も、そんな男の死など無かったことのように、当たり前に動いていく。でもその世界には、男の成したことによって助かった女がいる。死んだ男だけがそのことを知り、そしてその「女が生きている」という事実だけが、(やはり誰にも知られずに)男がこの世界に唯一残した痕跡である――的な。
これの何が良いのか、説明しろと言われても説明できない。ただこれは、男の本来持っている孤独性からくる美的表現なのだと思う。群れを離れた・追われた雄狼の最後の意地、とでも言おうか。だからこれが、ハードボイルドの神髄なのだ。これを伝えたいから、その逆算から描写は必然、ハードボイルドの描写になる。だから暴力的であるとか、描写だけが物質的であるとか、題材がアウトローであるとか、その表層の要素だけではハードボイルド足り得ないのだ。
と、勢いだけで押し通すような話になってしまったが、もう一つ、なぜ今「ハードボイルドか?」と言う話も最後に付け加えたい。ライトノベルも少し前は、もうちょっとその美学の要素があったように思う。別に昔の方が良かったという懐古趣味のつもりはないが、今のライトノベルは、全くその要素が消えてしまっているように思う。表層の暴力描写とか、アウトローとかいう社会的立場のことばかりで、その奥が空っぽだ。皆、小手先の技術で満足なのだろうか。
「いやいやラノベなんだから、それでいいじゃん」という声もあると思う。だけど逆に、ラノベで奥のギュッと詰まったものを出してもいいじゃん、と思う。それじゃあラノベじゃなくなるという批判に対してはこう答えたい。そのヘビーなものをライト(読みやすく)に仕上げるのが文章の腕じゃないのか、と。いつからラノベが子供だましになったのだろう。はっきり言わせてもらうと、「なろう」の童話企画でもそうなのだが、子供だましが多すぎる。アマチュアだから文句言うな、無料で読ませてもらって文句言うな――確かに一面ではもっともだと思う。だけどその考えに私は与しない。
だから、悪いけど実写映画の『次元大介』には正直がっかりなのだ。あんなのはハードボイルドじゃない。私にとっての次元はハードボイルドで、子どもの前に感情なんか出さないし、協力関係はあっても味方はいない。『夕陽のガンマン』のリー・ヴァン・クリーフだ。アウトローで、ただ銃の腕が立つ、なんてのは表層の話。生き様の美学を伝えてこそ、というのは別にハードボイルドだけに限った話では無いだろうに、最近どこもかしこも表面的だと思う。
辛い過去の表現としての「いじめ」や「レイプ」がありふれているが、私はそういう作品を、軽蔑している。登場人物に対しての敬意が無さすぎる。確かに作品は作者の世界だから、登場人物は作者の筆一本だ。だけど私は、だからと言って、平気で登場人物を好き勝手出来る様な神経を理解できない。「ラノベ」の「ライト」はそういう意味での軽さじゃない。あまりこういった批判を見ないけれど、同じように思っている方、いないのだろうか……。
最後取っ散らかってしまったが、つまるところ、小手先でハードボイルドはできないぞ、と言う話だった。逆に、生き様を見せてもらえるようなハードボイルド作品を書ける作者は尊敬するし、それに向かっている作家の皆さんには、リスペクトがあります。たぶん、根底には、現代の「ライト」な考え方への「怒り」があるんだと思うんだけど、どうだろうか。