3話・馬鹿な真似は止めろ
暗い波がおいでと誘っているような気がする。一歩足を踏み出すと、懐かしいような深く包み込むような、温もりのようなものを感じた。それはまるであの人のようで……。
──メーラさま。
銀髪に菫色の瞳を持つ、美しくも儚い容姿の人が思い出された。その女性は岬にある塔で暮らしていた。その塔は海に囲まれていて、滅多に近づくことは出来なかったけれど、父と時々小舟に乗って会いに行っていた。
彼女は優しかった。毎回会うと、父と抱擁を交わした後で、私を抱きしめてくれた。母親の愛に飢えていた私は、彼女の温もりに包まれると父とは違う安心感があって、「私の可愛いサーラ」と、頭を撫でてくれるたびに、本当の母親だったなら良いのに。と、願っていた。
そこには小さなお友達もいて、そこから出られないお友達に色々なお話をした。目を輝かせて私の話を聞くお友達は、お人形のように綺麗な子だった。彼女といる楽しい時間はあっという間で、別れの時間がとても寂しかった。父は必ず私に約束させていたことがある。
──絶対に、塔に通っていることは誰にも言ってはならないよ。
もしもそのことを誰かに言ったりしたら二度とここには来られなくなる。と言われ、彼女達のことが大好きだった私は、父との約束を守り続けた。今にして思えば、父は既婚者だ。母とは疎遠でも塔に住む女性と噂が立ったなら、いくら母親のことでご近所さん達に同情されていたとはいえ、非難されていただろうと思う。でも、それからしばらくして父は彼女と亡くなった。
──父さん。メーラさま。
恐らく母は何らかの形で、父と私がメーラさまに会っていたことを知ったのかもしれない。それならば恨まれるのは仕方ないように思えた。私は彼女を慕っていたし、父も同じように感じた。もしかしたら二人の間には、それ以上の想いがあったのかも知れない。母にとってそれは裏切りのように感じられたことだろう。
それでも私は二人に会いたかった。そしてあの頃のように二人に抱きしめてもらいたい。あの頃が一番、幸せだった。父娘の暮らしはけして豊かではなかったけれど、心の中は満たされていた。
胸元のペンダントがチクリと肌を擦る。それは父が私に残してくれた一枚の小さな黒い石の破片。それに革紐を通してペンダントにしていた。私にとってそれはお守りであり、いつも肌身離さずそれを身に着けていた。
──もう頑張れないよ。だから良いよね? わたしもそっちの世界に……!
この世にはいない二人に願った。そちら側に行きたいと。生きていてもこの世は辛いことばかり。
私は母親に死を願われている。生きている価値がない。海の中は静かで温かな温もりに満ちていた。私はそれに導かれるように足を踏み入れたはずだった。
「馬鹿なことは止めろ!」
背後から若い男性の声がした。腰まで浸かった私のもとへ、誰かが波を押しのけるようにして近づいてくる。強く腕を引かれる。私は抗った。でも、相手の腕の力の方が強く、浜辺の方へと無理やり引き戻されていく。なぜ、邪魔をするの? 思い通りにならない悔しさに、地団太を踏むことしか出来なかった。
「放して! 邪魔をしないでっ」
「駄目だ。命を粗末にしてはいけない」
「生きていたって、何も良いことなんてないっ。母さんにだって死ねと言われているのに。あなたに私の気持ちの何が分かるのよ!」
怒りをぶつけるように相手を睨みつければ、その顔に見覚えがあった。確か給仕の際にレチノ男爵達に絡まれていたのを助けてくれた人だった。
「あなた……!」
「きみの気持ちは私には分からない。だから同情はしてやれない。でも、そのようにきみの命は失われていいはずがない」
若者のキラリと輝く瞳に射すくめられて、私は何も言い返せなくなった。
「きみがこの世に生まれたということは、きみの生を望んでくれた存在があるはずだ。その人はきみが死ぬのを喜ぶはずがない」
「わたしは望まれて生まれた?」
果たしてそうなのだろうか? 疑問が浮かぶ。でも、少なくとも亡くなった祖母や父、メーラさま、それに下町の人々は私が死んだら悲しむような気がした。瞼が熱い。眦に溢れてきた思いが涙となり頬を伝わる。その雫が転がり落ちた時、彼がハッとした様子を見せた。
「綺麗だ。なんと美しい……」
「えっ?」
彼の反応に驚き聞き返せば、彼は咄嗟に口元を抑え、どこか誤魔化すように言ってきた。
「何があったのか話してみないか? 私ときみは初対面だが、ここで会ったのも何かの縁だ。他の人には言えないことを、私の前で話すことで気が晴れるかもしれないし、どうかな? 私の名前はコ……、ノアール。きみは?」
「わたしはサーラです」
正直、気乗りはしなかったけれど、月のような優しい光を宿したような瞳に促されると、どうにも黙っていられないような気がして口を開いていた。




