35 ミズキの選択
「まぁ、今日急いで結論を出す必要は無いですよ」
記憶を消すべきか、残すべきか。
そんなにすぐに決められる事でも無いだろう。
俺は黙り込んでしまったミズキにそう声を掛ける。
「消した後の経過観察の事を考えると、早いに越したことは無いんですが、そもそも消さないと言う選択肢もミズキさんにはありますので」
マシロに関しては、もう残り時間が半分も無いので、正直気まずいからと悠長にしている暇は無いのだけど、ミズキはまだ半年以上も期間が残っていて、幸福度にも余裕があるので、慌てなくても取れる選択肢はいくつもあった。
「ここまで話しておいてなんですが、記憶を消すと言うのは、あくまで今出来る対処の1つと言うだけで、絶対にそれをしなければならない。という訳ではありません」
「そうですか…」
なので俺は、今考えているものが唯一の選択肢ではない事を、伝えておく。
「はい。だだ、一応記憶を消すことを選ぶ方の意見を、幾つか紹介させてもらうとすると、こう言うのがあります」
それでも、現状それが1番良さそうだという判断ではあるので、俺が前に担当した相談者や、先輩から聞いた内容のいくつかをミズキに話す。
例えば、こんなのがあった。
『どうせ来世には記憶を持ち越せないんだ。だったら、今多少消えようが対して変わらねぇ』
『辛い思い出が無くなって、嬉しいことだけ覚えて次に行けるならその方が良いな』
『記憶が無くなるのは嫌だけど、このまま終わりを待つのはもっと嫌だから』
人によって事情や理由は様々だったが、おおむねこう言った内容が多かっただろうか。
中には、前世の記憶を持ったまま転生したものや、転生後に記憶を取り戻した者も居たそうだが、そんな事が起きるのはめったにないので、期待しない方が良いだろう。
「………はぁ。決断、するべきなんでしょうか…」
「俺の方からは何とも…」
話を聞き終わると、ミズキは散々考え込んだ末に、大きくため息を吐いて俺の方を見る。
それに対して俺は、あくまで提案するだけだという態度を崩さない。
「あら、一緒に悩んでくれないの?」
「選択するのはミズキさんですから。我々の仕事は、相談者の皆様が転生の許可を得るのに、自分達が出来る出来る事を伝えて、その手伝いをすることなので」
「そう…」
ミズキの問いに俺はそう返しながら、似たような言葉が、マシロとの不和が生じた一因になっていた事を思い出して、その沈黙を少し不安に感じる。
「…消す記憶は、自分で選べるのよね」
「そうですね。我々が一方的に決定して、記憶が消されると言う事はありません」
次に口を開けた時、ミズキは確認するようにそう聞いてくる。
「分かったわ」
「では…」
「えぇ、あなたの言う方法で転生を目指そうと思うわ」
「承知しました。ご決断、ありがとうございます」
記憶を消す。
散々考え悩み込んだ末、その決断を下した彼女に、その覚悟に俺は感謝を告げる。
「それで、その消したい記憶を選ぶのは、今から出来るのかしら?」
「えぇ。可能ですが、日を置かなくて大丈夫ですか?」
そして、彼女は決断するやいなや、そのまま記憶の選定に入ろうとするので、俺は一応確認の意味も込めて、気遣いの言葉を掛けておく。
「大丈夫よ。それに、早めに決めておかないと、せっかくついた決心が鈍ってしまうかもしれませんし」
「強い人ですね、ミズキさんは」
さっきまであんなに悩んでいたというのに、決断した後はそれが嘘だったかのように、穏やかな笑みを浮かべる姿に、俺は思わずそう言ってしまう。
「では、今回はこの記憶を消していくと言うことでよろしいですか?」
記憶の選定に関しては、彼女が持ってきているライフイベントノートの内容を参考に、恐らく期待値がマイナスになっている1番の要因であると思われる、夫についての記憶を中心に選ぶことにした。
いくら幸福度に余裕があるとは言え、あまり多くの記憶を消したくは無いだろうと俺は考え、彼女にそう提案したのだ。
「はい。それで大丈夫です」
そして今、最終確認を終えて、彼女の消す予定の記憶が決定する。
「ありがとうございます。旦那さまとのお約束の記憶も中には含まれていたと思いますが、先程と比べると随分と早く決断なされましたね」
俺は、記憶を選び終わるまでにはそれなりの時間、少なくもと数日間は掛かると思っていただけに、彼女が最後の確認まですんなりと了承した事に驚く。
「えぇ。確かに記憶を消すなんて聞いて、だいぶ悩みましたけど、このノートを読んで懐かしい記憶を振り返って、それよりも大事なものを色々と思い出せたので…」
その言葉は本当なのだろう。
彼女は幸福度がマイナスの方よりも、プラスの方の記憶を多めに選んだというのに、とても落ち着いた様子でいる。
「それに、大切なものは、記憶じゃなくて心に残ると思うので。わたしは、そんなものにこだわって、2度と戻れない過去に縋るんじゃなくて、またあの人に会えるかもしれない未来を選ぶことにしたのよ」
「……やはり、ミズキさんは強い人ですね」
そう言って、憑き物が落ちたように穏やかな表情を見せる彼女に、俺は数回ほど瞬きをして、そうこぼすのだった。
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