ウチハタセ 1
16歳の誕生日の夜、ゾーイは大切なマータと再会できた。
月の光を背に照らされるしなやかな黒。懐かしい優しい声、ほのかに立ち上る甘い香り。
それは、ゾーイにとって至福の時だった。抱きしめた体は柔らかくて…。
束の間だった気がする。
引き留めようとするゾーイの腕を掻い潜り、マータはさらりと姿を消した。
だが夜明けを前にマータが去った後も、ゾーイは胸一杯で屋根に残っていた。
『また来るね』
そうマータは微笑んでくれた。
ずっとずっと見たかった、マータの笑顔。
東の空がだいぶ明るくなるまで、ゾーイは我に戻らなかった。そうして気もそぞろに自室へ戻ったゾーイは、しかしそのまま、病に倒れた。
この3年間、不調で倒れ込む事は一度もなかった。その反動なのか、ゾーイは高熱となり前後不覚に陥った。朝の用意をしに入室した侍女が叫んだ気がする。そしてそのまま、暗闇に飲み込まれた。
そうしてゾーイは夢を見た。
霧深い沼の畔だった。
ゾーイは誰かを高々と掲げていた。
幼い子供のようだ。ボサボサの黒髪をお下げにしている。
女の子だろうか。
ゾーイに背を向けた状態で掲げているので、顔はわからない。
ゾーイは、何故か口を大きく開けていた。何かを叫んでいたのだろうか?喉がヒリヒリと痛む。
こんな場所で幼い子供を掲げ、自分は何をしている?
女の子がゆっくり振り返る。
目を剥き出し憎悪に彩られたその顔は――――
マータだった。
「!!」
衝撃にゾーイは夢から覚めた。
急に意識が戻ったせいか、ゾーイの体に激痛が走る。頭が割れるように痛い。目を開けていられない。
それでも、ゾーイは考えずにはいられなかった。
どうしてマータが?
憎悪を?
自分に?
ゾーイは混乱した。
それからは地獄のようだった。
目覚めれば熱にうなされ、意識を失うと沼の夢を見続ける。
幼いマータを掲げる自分。憎悪に振り返るマータ。
そして目覚める、繰り返し。
体中に走る激痛や悪寒、幻覚にゾーイは苦しんだ。
違う。マータは自分を憎んでなんかいない。再会できて喜んでいた。抱き締めたら抱き締め返してくれた。
しかし、夢の中のマータの表情は、まごうことなき憎悪。
目を剥き出し睨み付ける。見たこともない激しい感情。
違う。あれは幻覚。夢なのだ。
――――違う。あれは、夢ではない。
ゾーイは、何故か見覚えのある気がした。この恐ろしい情景を。まるで思い出させるかのように、繰り返し夢に見ている?
違う。マータに憎悪を向けられた事など一度もない。
――――本当に?
…違う?遠い昔に一度見た…ような。
――――遠い昔とは?
初めて会った時からマータは笑っていた。お日様みたいに。怒った顔など見た事もない。まして憎悪など。
なのに、自分は、知っている?
ゾーイは繰り返す悪夢に混乱を深めていった。
視界がぼやける。暗闇に飲まれる。ああまた、あの霧煙る沼がやってくる。
ゾーイは思った。
それでも、毎日マータに会えるのは、嬉しいかもしれない。
幼いマータを掲げるのでなく、抱き締められたら良いのにな。
そうしたら、これは幸せな夢。
激痛の中ふわりと酔うような心持ちで、ゾーイは意識を手離した。
霧深い湿地に、ゾーイは佇んでいた。
「…?」
どこか様子が違う。
気付くとゾーイは、幼いマータを掲げてはいなかった。
霧の中、ゾーイの両の手は誰かに引っ張られている。
自分の両の手の先へとゾーイは目を向ける。すると、片方の手は若い娘に、もう片方は幼い少女に握られているのが見えた。
「…!」
若いマータと幼いマータだった。
若いマータは明るく笑う。ああやっぱり、お日様みたい。
幼いマータは憎悪をたぎらせる。悪夢の通りに。
全く別の様相の二人はゾーイを湿地の奥、底なしの沼へ連れ込もうとしていた。両の手を、二人のマータが強く引く。
「会いたかった」
「許さない」
「大好きよ」
「絶対許さない」
別々の事を口にする二人のマータにぐいぐいと両手を引かれ、ゾーイは沼に嵌る。ぬかるみに足を取られて身動きができない。ずぶずぶとこのまま沈んで、死を、望まれているのだろうか。マータに。
「行こう」
「来るのよ」
片方は明るく、片方は暗く。
どちらのマータも瞳に熱を帯びる。真逆の二人の様相は、しかし同じくらい強くゾーイを乞うていると感じられた。
―――マータはゾーイを欲している。
それは甘い痺れとなってゾーイを貫いた。
マータに乞われるなら、連れていかれる先が何でも構わない。ずっと…ずっとマータと一緒。
それはとても幸せな夢。
強く引かれる両の手を、ゾーイからそっと握り返した。二人のマータは同時に驚く。その反応が嬉しくてゾーイは口ずさんだ。
「マータと一緒なら何処へでも」
「…あ…」
呼応するように二人のマータは同時に掻き消えてしまった。
そこでゾーイは目覚めた。
目覚めたはずだった。
そう思ったのに、ゾーイは暗闇にいた。
ここは?何処かわからない。
沼?自室?
にわかに判断ができない。
見回しても何も見えない。人の気配がしない。
「マータ」
両の手にマータはいない。
ゾーイは急に孤独に襲われた。
マータを、マータを探さないと。
「マータ…マー」
――――違う。あれはマータじゃない。
ゾーイの奥底で声がした。ゾーイの中の何かがそう確信した。
あの娘は大切な――――
――――マータでない大切な?
ゾーイは戸惑った。
大切なのはマータだけだ。マータだけの、はず。
それなのに心の奥が何かを叫んでいる。
そんな時だった。
『ウチハタセ』
耳元で低く命じる声が聞こえた。
ゾーイの知っている声だった。
ウチハタセ? 討ち果たせ?
何を?
ゾーイは混乱した。
それより彼女を探さないと。
やっと会えた大切な―――
「ファティマータ…」
ゾーイは自身が口ずさんだ言葉に驚く。混乱する意識が再び混濁していった。
――――ファティマータ。
これは、名前。知っている。この国の者なら誰でも。
でもどうして自分が口ずさむ?
ファティマータ。
――――初代王の娘。
千年の昔、不毛の湿地に王国を建てる時、沼に命を捧げ礎となった――――
それ以上を考える前に、ゾーイは再び闇に飲まれた。
マータ。
ファティマータ。
ウチハタセ。何を――――
悪夢の内容が変わった翌日、ゾーイの熱は下った。
倒れてから1ヶ月が経っていた。