王女は眠る
あれから、どのくらい経っただろう。
暗闇の中、マータは粗末な毛布にくるまり縮こまっていた。
お腹空いたなぁ…。
マータはぼんやりと思った。
手が痛い。マータの両の手は、指先は裂け、手首はおろか肘まで腫れ上がっていた。
それでもマータは何度も、天窓の蓋を取ろうと試みていた。
その度に指は傷付いて。
しかしこれ以上はもう無理だろう。
もう指がなくなくなってしまう。
寒い。
マータは、くたびれた毛布を巻き直した。
ここは地中だから案外冷えこまないはずなのだが、マータは酷く寒い気がした。
お腹が空いてるからかもしれない。
温かいものが食べたいなぁ。
たとえば…玉葱の丸ごと煮とか。
マータはホカホカのコンソメスープに鎮座する、ドーム状の玉葱を思い起こす。ああ、この部屋が玉葱なら食べちゃうのになぁ。ああ、サツマイモのポタージュとかもあったら良いなぁ。トロトロのスープに、スライスして揚げたサツマイモを浮かべて…。
幸せな想像をするのはマータは得意だった。
幸せな想像は温かい。
たとえ叶わなくても。
閉じ込められてからどれくらい時が経ったか、マータはもう測らなかった。
光がなくともある程度なら、時は測る事ができる。地上に近い壁に手を当て、温かさを測る。温かい時が昼で冷えた時は夜である。気の向いた時にしばしば手を当て、温度の波を測り、寒暖を1日と数えれば日にちを数えられる。母から教わった方法だ。
母からは色々教わった。教わった気がする。あまり母を思い出せないけれど。
でももう無理。手を酷く傷つけてしまって、痛覚以外がわからなくなってしまった。
マータはウトウトと微睡んでいく。
辛い事や悲しい事、深く考えようとする事柄全てが、マータを眠くさせる。
そういえば母が亡くなるまで、本当によく寝ていた気がする。
眠って眠って、そうして…どうしていたんだっけ。
ふいにマータは、金茶に瞬く瞳を思い出した。
「ゾーイ」
会いたい。
ゾーイに会いたい。
体は凍えているのに、ゾーイを思うと締め付けられるように胸が熱くなる。
痛む指をそっと胸に置き、マータは自分に言い聞かせる。
「…大丈夫」
きっと、またゾーイに会える。
そう思うと胸がほんのり温かくなった。
幸せな想像は温かい。
マータはまやかしの希望を胸に、再び微睡んでいった。
夢を見た。
霧煙る沼地だった。
目の前には美しく成長したゾーイが佇む。
ああゾーイ。やっと会えた。
「会いたかった」
自然と笑むマータに、少し不安そうな表情をゾーイは返す。
やっぱりゾーイも心細いのだろうか。
「大好きよ」
大丈夫、安心してと伝えたくてマータはゾーイの手を掴んだ。
「行こう」
するとゾーイは、一瞬置いてうっとりと微笑んだ。
「マータと一緒なら何処へでも」
夢の中のマータは震えた。
それは『大好き』より欲しかった言葉。
ずっとずっと一緒にいたい。たとえ死んでしまう事となっても、その時さえ一緒に――――
――――違う。私はそう思わない。
何処かでボコリとあぶくが立った。
ふいにマータは目を覚ました。
いつもの暗闇。淀んだ空気。
藻掻いても外へは出られない。ネズミ捕りに掛かったかのような、そこは、閉じ込められたままの世界だった。
壁一面の絡めとられるような模様。母が死んでから誰も来る事のない部屋。
「ゾーイ」
ゾーイは、いない。
当たり前だ。あれは夢だ。まやかしの希望が見せた夢だ。わかってる。
夢で良かった。
一瞬ホッとして、そう思う自分にマータは驚いた。
どうして安堵するの?会いたかったのではないの?そう思う自分の中で叫び声が聞こえた。
――――次に会ったら、私はあの男をを殺す―――
マータはギョッとした。
この声は知っている。
沼の畔で憎悪をたぎらす、幼い自分の声だ。
あの男って?
ゾーイ?
マータは自分の思考に混乱した。
なんだか自分がわからない。なんだか自分が二人いるような感じだ。
自分は目覚めているはずなのに、夢の中の小さなマータが、自分に向かって叫んでいる。
――――あの男と一緒に死にたいの。
一緒に死にたいって。
幼い私が憎んでいたのは、ゾーイなの?
マータはますますわからなくなる。
死にたい?どうして?何故?
――――復讐するの。千年前の復讐。そうして、ずっと一緒…。
千年前の復讐…?
――――そう千年前の。ずっと一緒にいたいから、殺す。
マータは幼い自分がまるで理解できなかった。
ずっと一緒にいたいから殺すの?
『一緒にいたい』と『死』は同じなの?
マータの違和感は拒絶感へと変わる。目の前の幼い自分へマータは反論した。
私…私はそうは思えない!
ずっと一緒にいたいけど、ゾーイの死は望まない!
もし、もしできるならゾーイと一緒に野苺を食べたいし、一緒に笑いたいし、一緒に…。
幼い少女は笑った。
――――それは同じ事。一緒にいたい。だから殺す。
マータは強い拒絶感から叫んだ。
「違う!」
ゾーイは生きて欲しい!死ぬなんて嫌だ!
――――同じだ。私もお前も、あの男に執着している。
同じ?
マータはハッとした。
ゾーイと死にたい幼い私。
ゾーイと生きていきたい今の私。
到底同じとは思えない。
なのに。
まさしくどちらも『一緒にいたい』なのだ。
違いはゾーイの生死だけ。
どちらも、ゾーイに深く執着している。
執着。
私、ゾーイに執着している?
マータはそう思い至って身震いした。
執着。
それは潤う事のない渇きのようだ。
いくらでも欲する。満たされる日は来ない。
執着する対象を、相手を壊してさえなおも欲する。
「私…」
私、人を壊した事がある。
ふいにマータは母を思い出した。
母様に会う度、母様は具合が悪くなっていった。
不思議だった。
まるで母の命を吸い取っているようで。
どうして母様はなくなったんだっけ。
最後に母様と会った次の日、母様はなくなった。
そうして、ゾーイに会った。
ゾーイと会うと、今度はゾーイが熱を出した。
元気になるまで待って、それから会いに行っても次の日必ず体調を崩す。
不思議だった。
それは、私の。
顔を青くするマータに、幼い少女の声が響く。
――――私の呪い。私の怨念。
「違う!」
マータは耳を塞いだ。
「私は望んでなんかない!」
母様も、ゾーイも、死んで欲しい訳じゃない。なかった。
ただ好きだっただけ。
だけの、はず。
マータは痛む腕で頭を抱えグルグルと考える。
思考を邪魔するように、壁一面のおびただしい模様が赤黒く浮かび上がる。いつもそうだ。考えようとすると模様が邪魔する。
マータは目を閉じてみた。あの忌々しい模様に思考を遮られないように。
すると瞼の奥、暗闇に幼いマータが浮かぶ。
マータは、叫ぼうとする幼いマータを遮った。
「…わかってるわ」
貴方の言いたい事は、わかってる。
本当はわかってる。
目を閉じたまま、マータは思い巡らした。
私、本当は、気付いてる。
幼い少女はマータを見つめた。
――――私は、人では、ない。
突拍子もない発想なのに、するすると腑に落ちていくのをマータは感じた。
ねえ私、どのくらい閉じ込められてる?
どのくらい、食べてない?
人はどのくらい食べてないと、死ぬの?
私は、どうしてこうしているの?
初めてじゃない。
マータはこの感覚を覚えていた。
私、母様が亡くなるまで、ろくに食事を取らなかった。
母様は怒っていた。
貴方は人なのだから、ちゃんと食事をしなきゃいけないと。
食べると体が大きくなるから嫌だと言えば、それが人なのだと。
貴方は人になってほしいの。
そうしてゾーイと会ってほしいの。
異母弟を知らされたのは、なくなる直前の母からだった。
不思議だ。
こうやって思い巡らすと、全て母が仕組んだように思える。
この閉じ込められる仕掛けにマータを住まわせたのも。ゾーイと巡り会わせたのも。
そうして今、閉じ込められているのも。
その全ては、どうして?
少女が責めるようにマータを見つめる。
わかってる。たどり着かなきゃいけない。
マータは唇を噛んだ。
母様がしたかった事。それって。
『人』でない私が『人』として成長し、ゾーイを愛する事。
ゾーイを愛する事。
そう思い至ったマータは目を開けた。
暗闇に浮かぶおびただしい模様が、マータの瞳に向かって一斉に侵入してくる。
ああ思い出した。
この模様、この呪縛、作り出したのは母だ。
私の肉体と魂魄が離れないようにと、この呪いを施したのだ。
それは母の命を削る行為で、結果母はなくなった。
どうして忘れてた?
それは母の最期の呪いだからだ。
呪いを施された私は、そうであると知らずゾーイに会いに行き、愛するようになる。
私が、作られた、命と知らず。
容赦なく侵入してくる模様にマータの頭は、はちきれそうだった。
だが、一つ気付いた事は全てに波及していった。
そうだ。私は母によって作られた。
母が命懸けで私を作った。
まるで、王国の建国の為に命を投げ出した初代王女のように。
マータは、自分の名が初代王女からくるのを知ってはいた。母が初代王女にあやかって付けたのだと思っていた。
だが、献身と自己犠牲。
そこまでして母様が私にさせたかった事は――――。
視界が涙でぼやける。
「母様…」
心の中の小さなマータが叫んでいる。
マータは、自分が周囲の呪文に深く絡めとられていくのをぼんやり感じた。
ああ、とても眠い。
悲しくなると、辛くなると、堪らなく眠くなる。
マータは抗うのを止めて静かに目を閉じた。
暗闇に再び幼い少女が現れる。
ああ私。
今ままで自|分を忘れていたのね。
少女はマータへ近付くと、その傷ついた手を掴んだ。
そうして導かれるままに、マータは夢の闇へと飲まれていった。
ボコリ。
あぶくの爆ぜる音を、マータは聞いた気がした。