赤い苺 1
その晩、ゾーイは夢を見た。
…霧が煙る不毛の――――
…見たような気がする。
…思い出せないけれど。
翌朝からゾーイは熱を出した。
熱の下がるまでに一週間、落ち着くまでさらに1ヶ月も掛かった。その間、うなされるような悪夢が続いた。
悪夢だと思う。
…思い出せないが。
熱を出してから、何故かゾーイの警護が強化された。マータは窓辺に近づく事も叶わなかった。
やっと熱が下がり、警護も落ち着き、マータが会いに行くと、その晩にはまた夢を見る。
そうしてまた熱を出す。
ゾーイはおのが身の弱さを呪った。早く元気になって、もっと、ずっとマータに会いたいのに。
悔しいと泣くゾーイの涙を、マータはそっと指の腹で拭いながら考えた。
頻繁に会いに行くのがいけないのかもしれない。
大切な弟を守らなくちゃ。
「…一月に一度、会いに来るわ私。きっとそれなら大丈夫」
そう言ってマータは微笑みかけた。
約束通りマータは一月に一度、月夜の晩に会いに来るようになった。選りすぐったお土産を持って。
「今日はね、金縁のキレイなボタンを見つけたの」
「今日は桶に張った、まあるい氷よキレイでしょう」
「今日はピカピカな石よ、一生懸命磨いたの」
月に一度のお土産は、彼女なりに美しいと思うものばかりとなった。といっても『お姫様の宝物』としてはどうかという品ばかりだったが。
でもゾーイは嬉しかった。引きちぎれたボタンも、溶けていく氷も、いびつな小石も。一つ一つみんな、形になったマータの気持ち。
愛されているという証だった。
今まで誰からも得られなかった大切な宝物。ベッドの下に隠したゾーイの宝物は、彼の気持ちと一緒に増えていった。
彼の調子が良い時、マータはゾーイをひょいと背負ってお城の屋根へと連れてってくれた。ゾーイの所へ忍んでくる事さえスゴいと思うのに、マータの身体能力にゾーイは驚くばかりだった。
部屋に閉じ込められてばかりのゾーイにとって、屋根の上はまさに冒険だった。その道中を女の子におぶわれるのはちょっと恥ずかしいけど、マータに存分に触れられる。ほのかな甘い香りを満喫できる夢のひとときでもあった。
そうしてたどり着いた屋根の上、月の光の下でマータと二人きり。それは、幼いゾーイにとって一番の幸せだった。
「酸っぱい」
今夜の手土産は野苺だった。促されて食べて、思わず顔をしかめるゾーイにマータは屈託なく笑う。
「ナワシロイチゴだもの。甘い方が良いならバライチゴを探してくるよ」
「バライチゴ?」
「バラ色でとっても甘いの。きっとゾーイも気に入るわ」
笑いながらそっとゾーイを撫でる。月の光にほの白く浮かぶゾーイの姿は、幻のように美しいけれど不安になる。この少年は実在する?それとも妖精?消えてしまわない?
不安になってついつい触れてしまう。本当にここにいると確かめたくて、肌の温かさを求めてしまう。そうしてそっと触れると、ゾーイは恥ずかしがりながらもうっとりとした表情をする。この美しい生き物はマータを受け入れてくれる、喜んでくれている。その恍惚とした表情を見るのがたまらなく好きで、マータは今夜もゾーイを連れ出してしまうのだ。
今も、そうっと柔らかい頬を指の腹で味わう。少し赤らんだ顔をしてそっとゾーイは睫毛を臥せる。
マータは、ほうと溜息をついた。
「ゾーイはキレイ。羨ましい」
「羨ましい?」
ゾーイの瞳が瞬く。
「私はゾーイの姉なのに、一つもゾーイと似た所がないもの。お妃様と似てないのは仕方ないけれど、もう少しゾーイと似ていても良いと思うの」
例えば月に淡く輝くこの銀の髪とか、茶色が霞んだ金色の瞳とか、この滑らかな肌とか…等とマータが繁々見つめると、ゾーイはつと目を逸らす。
「…マータの方がずっと美しい」
「そう?10人いたら10人がゾーイの方を選ぶわ」
「10人が10人でもマータがいい」
「じゃあ10人の中にゾーイを入れたら、1人は私を美しいと言ってくれるのね」
嬉しいわ、とまたマータは笑った。
マータは良く笑う。お日様みたいとゾーイは思った。温かくて眩しい。でもマータはお日様と違う。お日様にほのかな甘い香りはない。それはマータだけのもの。
そうしてマータの言う通り、自分達は似ていない。
『似ていない』という不協和音はゾーイに不安と期待を持たらせた。
今も、下臣や侍女の間で囁かれる『ゾーイは王の子ではない』という噂。
母が異なるとは、出会って程なくマータから聞いた。という事は、少なくとも半分は血が繋がっていない。
また、王様が亡くなったお妃様を記録から抹消した為、公式に二人が『姉弟』と認められていない事も、噂の後押しとなっていた。
ゾーイの母が王様を誑し込み、連れ子を世継ぎに据えたのではないか。
口さがない噂に当初ゾーイは怯えた。
王様の本当の子でないなら『王子様』ではない。
『王子様』でないなら、本物の『王女様』であるマータとこうして会えない。
幼いゾーイはそれが怖かった。
だがいつからか、心の奥のほの暗い期待が、ゾーイの不安を覆していった。
――――もし姉弟でないなら、いつかマータを我が物にできるのではないか。
笑うマータを独占する。ほのかな甘い香りを満喫する。昼となく夜となく忍び会う事なく、いつでもマータを堪能する。いつかマータを花嫁と迎え入れる。
姉弟でなければ、それができる?
そう考えただけでゾーイは痺れるような感覚に襲われた。
それは幼いゾーイが初めて知った欲望だった。
ゾーイは、来るべき日へのまず一歩として、マータを『姉』と呼ばなかった。
それは随分とマータに詰られたが、ゾーイは頑として譲らなかった。
姉弟以上に仲良くなりたいから、といういわくありげな理由に、マータは深く考えず渋々受け入れた。
「とっても仲良くなりたいって事よね?私もゾーイともっと仲良くなりたい。『姉上』って呼ばれたかったけど、ゾーイが嫌なら我慢す…うわぁ」
「マータ大好き」
嬉しくて思わずゾーイはマータを抱き締めた。
驚いたけれど、喜んでくれたのが嬉しくて、そうっとマータも抱き締め返した。
友達のような幼い恋人のような、二人を月は静かに照らしていた。