破滅を歌う2
白い闇の中、ゾーイは震えた。
そっとゾーイの手を握るマータは、お日様みたいに笑って。
そのゾーイの手は、マータに深々と刺さる剣から離せず、ずっと震えている。
違う。こんなはずじゃない。
マータの周りを赤い水溜りが広がる。遠からずマータは果てるだろう。
その事実がゾーイを戦慄させた。
違う。こんなはずじゃなかった。
宿命を断ち切り、王国を救い、自らも自由となる。
たとえ相打ちになっても本懐を遂げれば全て終ると。
そのはずだ。
そのはずなのに。
震えるゾーイの手をマータは優しく握る。
視界がぼやけていく。霧のせいだろうか。
それとも私、もうすぐ終わるから?
マータはぼんやり思った。
もっともっと美しいゾーイを見ていたいのにな。
ああでも、笑ってるゾーイがいいな。
初めて会った時もそう思った。
とっておきの宝物をあげたら喜んでくれるかな。
薄れゆく意識のなかった、マータは月の光に浮かぶ少年を思い出していた。
銀の髪に金茶の瞳の、幻のように美しい男の子。
私の大切な、大切なゾーイ。
マータは震える手を伸ばしゾーイを探すと、その頬にそっと触れた。
濡れているようにも感じたが、もうよくわからなかった。
ああ母様。
私、愛されなくてもいい。
ゾーイを大切に思う気持ちが嘘でも、仕組まれたものでもいい。
「貴方が、幸せに、なります、ように」
上手く声が出せず、掠れた言葉は途切れ途切れになった。
私、もうすぐ死ぬのね。
でも。
マータは命の消えていく自分に、達成感を感じていた。
ああ。
私・の・望・み・は・叶・っ・た・気・が・す・る・。・
だから沼の主は、今の私を、食べれば良いんだ。
そうして全てが終わる。
王国は滅亡しないし、ゾーイは死なない。沼の主の願いも叶う。
ぼんやりと目を閉じたマータは、ふと、頬に触れた手が掴まれている事に気付いた。
刺された胸も抑えられている気がする。
次第に濃くなっていく霧がマータに纏付く。あぶくが立ってマータに掛かると、それはマータに溶け込んでいく。
だがそれより、マータは囁くような掠れ声に再び目を開けた。
「…駄目だ」
…駄目?
何が、駄目、なの?
「…許さない」
囁く声が顔に掛かる。
ぼやけた視界に次第に近付く白い顔は、茶の煙る金の瞳の――――
それがゾーイと気付く前に、マータの唇は温かいものに塞がれた。
触れた部分が熱くなり、鈍っていた感覚が戻っていく。命が注がれていくように。
ゾーイに抱きしめられているとにようやく気付いた。
その途端、マータの中の何かか弾けた。
ゾーイ。
ゾーイ。ゾーイ!
込み上げてくるこの気持ちは何なのだろう。
いいや知っている。
好きという気持ちだ。
愛してる。愛されているという気持ち。
貪るように合わさる唇、支えるように抱かれる体。おずおずと触れた頬を撫でると、本当に濡れている事にマータは気付いた。
長く塞がれ、熱いものを注ぎ込まれ、ようやく離れたその唇から、掠れた声が溢れる。
「…マータ」
私の名前。
私は、マータ。
「…愛してる」
私も、私もよ。
「私も…」
言葉を続けようとして、マータはゾーイの異変に気付いた。
ゾーイの胸には剣が突き立てられていた。
突き立てられた剣から仄かな光が放たれていた。
だが、それは次第にゾーイの体を覆う赤い色に鈍っていき、やがて失われた。
「ゾーイ!」
マータの叫び声に、ゾーイは微笑んだ。
到底同情できない前世の自分、マータへの思いを掻き消した父の呪い。千年の安寧を貪る王国の行く末。
自分の使命、運命。
全部まとめても叶わない。
黒い髪に黒い瞳、濃い肌の色は霧に隠れて。
…お日様の下で見てみたいのにな。
「マータ」
赤い匂いでマータの甘やかな香りがわからない。でも良いか。作られたものらしいし。それより。
それより…。
微笑む顔のまま、ゾーイはゆっくりと動きを止めた。
ゾーイを抱きかかえたままのマータの前に少女が浮かび立った。
その顔は腑に落ちないといった表情を湛えていた。
少女は、望んでいたはずの事を気不味そうに聞いた。
「…お前が殺したのだな」
ゾーイを抱きしめたままマータは頷いた。
少女は続けた。
「お前が欺いたように見えたがな」
マータは静かに頭を振った。
欺いたつもりだった。
ゾーイに躊躇はなかった。そうしてマータも迷いはなかった。
マータが避けると予想し僅かに急所外したが、ただ死が遅くなるだけのはずだった。
霧がマータを包み、治癒しようとするようだったが、間に合わないだろうと思った。
実際間に合ってなかった。
間に合わなくて良かった。
ゾーイは驚いた顔をして――――
「ゾーイ」
そっとゾーイの唇に触れる。
ゾーイの唇は微笑んだ形のままの、ほのかに弓なりに反っていた。
熱い、迸るようだった。
呪文が乗っていた。それはゾーイが掴む剣に注がれ。
魔物封じだったであろう剣は、ゾーイによって逆転したのだ。
唇を通じてゾーイは失われる命を代えた。
私は私を殺させようとした。それを反転してゾーイは。
「私が殺した…」
涙が止まらない。
こんなの、ちっとも望んでなかった。
何の為に生まれてきたの。
私も。
この国も。
女の子は喰われ、初代王は狂い、王様は怯え、母様は捧げ。
そうして何を得たの。
何処かで何かが崩れていく音が、霧の中で聞こえてきた。
最初は羽音のように細やかに、しかし鳴り止まないそれは、次第に周りを包んでいく。
「契約は果たされた」
少女は呟いた。
「全ては沼へ戻るだろう」
喰らう気配のない少女を、泣いたままのマータは見上げた。
「…何もかも叶わないのね」
鼻白む少女へ、マータは続けた。
「私の願いは叶わない…だから貴方の望みも叶わない」
望みを叶えた娘を喰らう事はできない。
ただ千年の約束が果たされるだけ。
初代王を生贄の娘が殺し、王国は沼の言葉通り滅ぶ。
全てが沼へ戻る。全てなかったかのように。
マータは涙を流し続けた。
ゾーイ、愛しているわ。
ファティマータの焦がれた前世の貴方じゃない。私が出会った貴方が大好きだった。
ただ貴方が良かった。
たとえ愛されなくても、ただ貴方がいてくれれば良かった。
ゾーイ。
そっと触れると、はにかむように、それでいてうっとりとした表情を浮かべた白い顔。
『マータ大好き』
私。私は。
冷たくなっていくゾイオンを抱いたまま、マータはぼんやり呟いた。
「…民も王様もお妃様も脱出できますように」
少女はフンと鼻を鳴らした。
「新たな契約か」
「…この国は破滅するのでしょう?…消えてしまえばいい」
マータは焦点の合わない瞳で少女を見つめた。
「命の贖いは要らない。一つも欲しくない。これが、私の」
今の望み――――
ボコリ。
少女からあぶくが立った。
静かに涙を流すマータを少女はしばらく眺め、やがて霧の中へ紛れた。




