壊れていた
ついに、マータを捉えていた穴蔵に光が差し込んだ。
夢の中で聞こえていた旋律が、目覚めたばかりのマータの耳をつんざく。蓋はそれに呼応するように粉々に砕け、光がみるみる広がっていく。
マータは、すぐには状況が読み取れなかった。
痛い。耳が、歌が。
耳を塞ぎながら顔を上げると、マータの視線はそのまま天窓に釘付けとなった。
ああ。
淀んだ空気が清められていく。ほのかな風の香り。
外の、外界の眩い光。
マータは胸が一杯になった。
外へ出られる。
外へ、出られる!
マータは勢いよく立ち上がると、そのまま手をかざし、光差す天窓へ近付いた。
ここから出るんだ。
出て、ゾーイに会って。
淡い紫の霞む銀の髪が振り返る。茶掛かった金の瞳が私を捉えて…。
『マータ大好き』
私も、私もよ。
逸る気持ちでマータが天窓へと手を掛けたその時だった。
ふいに気配を感じ手を引く、その際を矢が掠った。
「!」
すでに麻痺した指の痛覚が、おぽろげに蘇る。
先程までの旋律が消える。
ああ、誰か外に――――
「相変わらず体は機敏なのだな、ファティマータ」
それは懐かしい声のはずだった。
マータは呼ばれた事の無い名前に怯んだ。
「…ファティマータ…?」
「貴様の真の名なのだろう。千年が昔、我を誑かした」
硬い声と共に、天窓から矢を番えた男が姿を現す。美しい白い顔に光る金茶の瞳の。
「我が名はゾイオン。貴様を倒す為に転生した」
ゾイオン。
初代王の名前――――
呆然とするマータの心臓を狙い、再び矢が放たれる。だが矢は、マータに達する前に何故か砕けた。
使えぬと判断したのか、すぐに弓を捨て、するりと剣を抜くゾーイに霞がかかる。
ゾーイは、つと目を瞑り歌を歌い出す。それは先程の禍々しい旋律だった。
唸るような。耳をつんざくような。
痛い。体が、切り裂かれる。
マータは再び耳を塞いだ。
周りを囲む土塀が、その調べに呼応するように瓦解していく。あの禍々しい模様が震えるように、壁ごと粉々に砕けていく。そうしてマータの周りは外の光に満たされていった。
マータは苦しみながらも周りを見た。
ああ、共振しているんだ。
この歌と、壁の呪文は対になっている。だから、互いが共振を起こして瓦解していっている。
蓋が崩れたのも、この歌の呪文に呼応したのか。
半壊した穴蔵に立ちすくむマータは、光の中に立つゾーイを改めて見た。
歌を止め、ゾーイもマータを見つめる。
その柔らかな銀の髪は仄かに紫を帯び、茶の煙る金の瞳は変わらず美しい。
いや、違う。
マータに躊躇なく切っ先を向けるゾーイからは殺意を感じる。
そうして振り上げた剣と共に飛び掛かったゾーイは、しかしマータを切る事はなかった。
どこからともなく湧いたかのように、二人の間を霧が阻む。瞬く間に霧は濃くなり、二人は互いの影しか見えなくなった。
ゾーイは再び剣を構え呟いた。
「沼の気配がする」
「沼…」
呆けるマータにゾーイは吐き捨てる。
「化け物め。加勢を呼んだな」
霧の中でもゾーイの敵意は明確だった。それ故にマータは混乱する。
化物。
化物って私の事?
ああ、確かに私はヒトモドキだ。なら私は、化物なのか。
「ゾーイ…」
「卑怯な女だ」
呼びかけるマータにどこまでも冷たい。
どうして?どうして。
ゾーイは目を瞑ると再び歌い出した。
共振するように霧が霞む。
そしてその禍々しい旋律にマータは再び苦しんだ。
耳を塞ぎ蹲るマータを目に捉えると、ゾーイは歌いながら剣を振り上げた。
その時、ボコリとあぶくが立った。
驚くマータを囲むように、見る間に穴蔵の床がぬかるむ。淀む水気を帯びた床からボコリボコリとあぶくが立ち、一際大きなあぶくが少女の形となった。
マータは目を瞠った。
何故かマータを守るような位置で、少女がゾーイに向かって立っていた。
ゾーイは歌を止めると少女を見た。そうして、幼い少女はマータではないと瞬時に見抜いた。
「…貴様は、沼の主だ」
少女は笑みを作ると歌うようにゾーイへ語り掛ける。
「愚かな最後の王の子にして、初代王たる道化ゾイオンよ」
少女とマータに切っ先を合わせたまま、ゾーイは応える。
「ここを、初代王女の霊廟を住処としていたのだな。貴様ら化物は」
キサマラ?
私は沼の主と同じなの?
固まるマータを後ろ手に、少女は笑みを深めた。
「よく気付いたと言うべきか」
「女の匂いを辿った。容易い事だ」
「良い匂いであろう?お前が靡くようよく練り込んでおいた」
嘲るような笑みを前に、ゾーイはたじろぎもせず答える。
「女にまんまと誑かされた」
女の匂い?女に誑かされた?
マータは震えた。
私は、ゾーイを誑かしていたの?
ゾーイは騙されただけで、本当は、私を望んでいなかった?
「化物とな」
少女は面白そうにゾーイを眺めた。
「私を神霊と崇めたはお前だが」
「崇めた貴様に呪いを掛けられた。それ故転生も叶わなかった。今世、本懐を遂げに来た」
「本懐とは」
ゾーイは鋭い視線をマータに向けた。
「ファティマータを討ち果たす」
私を、討つ?
衝撃を受けるマータの前で、少女は鼻を鳴らした。
「王の入れ知恵か。自分の失言を妃や息子に償わせ、おのれは城で震えているのか」
「その女を討つのは我しか出来ぬ故」
少女の挑発にゾーイはたじろがない。
冷たい視線でマータを見据えると切って捨てるように吐いた。
「縁を作ったは、沼よ貴様だ。我が本懐を遂げたなら、我が身を喰らうがいい」
少女の顔から笑みが消える。
「喰らいたいのはファティマータのみ」
虚ろな瞳をゾーイに据え、少女は続けた。
「お前は要らない。お前は見るだに不味い。だからあの時も望まなかった」
少女の言葉にマータは驚いた。
あの時?
あの時とは。遠い昔、ファティマータを沼に捧げた時?
「不味いとは」
眉一つ動かさず問うゾーイに少女は事も無げに答える。
「お前から腐臭がした」
腐臭?
ゾーイが?
マータは混乱した。状況がわからない。そんなマータの脳裏に、星屑で見た灰色の男が過ぎった。
荒野の彼方から煙るように現れた、灰色の髪の男。
あの時、微かに笑んだ気がして…。
「ファティマータは美味かった。だからまた喰らいたい。今度は望みを叶えたファティマータをな。お前はファティマータの望みを叶える餌に過ぎない。あの時も――――」
一旦区切ると少女は再び笑んだ。
「お前に授けたは呪いではない」
あの時。
千年も前の、あの時。
ゾーイの向けた剣の切っ先が、微かに震えた。
それに気付いてか、少女はゾーイへ一歩踏み込んだ。
「私はお前に、娘の名前を教えただけ。知った途端勝手にお前は壊れた。いや」
少女はゾーイの瞳を覗き込む。
「とうに壊れていたのだな。娘に無情のつもりでいた…本当は乞うていたのに」
本当は。本当は?
風が、風が吹き荒ぶ。
今やゾーイの動揺は、マータにもはっきりとわかった。
切っ先の震えが止まらない。
それに呼応するように、マータの心も掻き乱されていった。
乞うていた?
ファティマータを望んでいた?
本当はあの流浪の男は…。
「名前さえ知らぬ」
「お前は知るのが怖かった」
「拾っただけだ…」
「情が湧くのが、お前は怖かったのだ」
「知らない…」
「おのが心から逃げていた。娘の名前を知り、お前は逃げられなくなった」
「知らない」
「自分の行いと思いの矛盾から」
「知らない!止めろ!」
激昂するゾーイへ静かに少女は言った。
「お前は自ら壊れた。喰えたものではなかった」
『愛など無意味だ。私も、お前も』
お日様みたいに笑うマータが塗りつぶされていく。
やめろ!やめてくれ!
剣が落ちる音と共にゾーイは膝をついた。
マータ。
ファティマータ。
ゾーイの心に嵐が荒れ狂う。
餌。
仕組まれた事。
思いも、切なさも。
違う。千年の時より使命は一つ。
命も、心も、その道具に過ぎない、
過ぎない…はずなのに。
焦点の合わなくなったゾーイの顔をまじまじと眺めた少女は、くるりとマータへ振り返った。
「さあ、ファティマータ」
少女の声は微かに弾んでいた。
マータはゆるゆると少女を見上げた。
「望みを果たす時だ」
声掛ける少女の顔は笑っていた。




