ファティマータ
遠い昔、荒野の果て。
女の子が独りで泣いていた。
周りには女の子と同じくらいの子供が数人ほど。しかしいまだ元気に泣き続けられているのは女の子のみ。他はもう泣く力もなくグッタリしている。
どうして自分達がここにいるのか、女の子にはわからない。雨の降らない日が続き、だんだんと食べるものがなくなって、ある日、大人にこの荒野へと連れてこられた。ついていったら食べ物がもらえると言われたのだ。そうして申し訳程度の菓子をもらい皆で奪うよう食べている内、いつの間にか大人は消えた。それきりだった。
今や女の子の周りに、息をしている子供はいない。虫が沢山寄ってくる。何処からか獣の声もする。
女の子も、もう声も涙も枯れていたが、それでも半ば意地で泣いていた。
このままでは嫌だったのだ。何もかも理不尽な気がして、泣いて泣いて泣いた。そして女の子はふと、気配を感じた。
顔を上げてみる。すると、彼方から人がやってくるのが見えた。上背からすると男だろうか。蜃気楼に煙るように、その男は長い灰色の髪をしていた。見知らぬ顔だった。その面差しが幻のように美しい気がして、女の子は泣くのを止めぼんやり眺めた。
―――キレイ。
ただそれだけ。正直助かるとも、助けて欲しいとさえ思わなかった。
男はこちらに近づいてくる。そうして男の造形が繊細だと改めて認識できるようになった。あの灰色の長い髪は、香油で丁寧に櫛けずれば銀色に輝きそう。そうして引き込まれそうな、茶の煙る金の瞳。こんな絶望的な所でこんなにキレイな男だなんて、もしや人ではない?あるいは死神かも?女の子は見つめながらぼんやりと思った。こんなに美しい死神なら、連れていかれても構わないかも。
周囲の状況を見やりながら、女の子に近づいてきた男は、何がしか声を掛けた。
「…………?」
女の子は、男の言葉がわからなかった。困惑する女の子に、男は手を差し延べた。それは今やひとりぼっちとなった女の子を求めてくれるようで、女の子はその手にしがみつく。
その束の間だった。
男は女の子に、微かに笑った。
それは、ただ顔の筋肉が動いたのを、女の子がそうであれと思い込んだだけかもしれない。
―――ああキレイ。
そして女の子は身も心も男の奴隷となった。
何処かでボコリとあぶくが立った。
気付くとマータは、幼いマータと二人、暗闇に閉ざされていた。
ここが夢だとわかる理由は、二人の周りに大小さまざまな星屑が瞬いているからだ。
まるで雲一つない夜のよう。
風もなく、星も動かないけれど。
幼いマータが闇の空から銀に輝く星屑をすくい取る。そうして若いマータへ向け手を差し出すと、掌からキラキラと星屑が溢れる。その瞬きの中に見えたのが、『あの男』との出会いの記憶だった。
少女にとってとてもキラキラした、胸が疼くような記憶。
星屑を掌に乗せると自然と輝きを増し、閉じ込められた物語を再現するらしい。
幼いマータが夢見るように星屑を眺める。
ああ、キレイ。
月の光に乱反射するガラスの欠片のよう。
きっと男の笑顔が見たかったのだろうな。
その男はゾイオンという名前だと、それだけは言葉が通じない少女にもなんとかわかった。
だから、美しいゾイオンがいつかちゃんと笑ってくれるように、祈るように世話していたのだろうな。
再び少女が星屑をすくい取る。
赤く鈍い煌めきを放つその星屑は、輝き出すと共に幼いマータの最後を見せた。
唐突に沼へ差し出される。
女の子は憤怒と共に男を見る。
裏切られた。裏切られたのだ。
男の目が見開く。
その瞬間、暗転する。
女の子の最後の気持ちは『許さない』だった。
少女の手にあった星屑はするすると光を失う、この欠片の記憶はここまでなのだろう。
藻屑となってしまったものを手で払いながら、少女はマータに目を向けた。
ほら、酷いでしょう?
殺したくなるでしょう?
だがマータは、胸に煙る違和感が拭えなかった。
それは、今まで繰り返し見させられた夢の中でも同じだった。
どんなに理由を聞かされても、訳はわかっても、腑には落ちない。
「私…」
マータは少女に目を合わせた。
「私…ゾーイを憎めない」
幼い少女は一瞬目を見開き、口の形を笑みに歪めた。
マータはゆっくりと、自分に言い聞かせるよう続ける。
「…ゾーイを、愛しているの…大切な、弟、として」
「弟ではないのに?」
切り返す少女にマータはギクリとした。
そうだ。
自分は母に作られた。作り物だから、人であるゾーイと姉弟の訳がない。
勝手に弟と思い込んでいただけ。そうして勝手に慈しんだ。
「弟でない……」
だが、不思議とマータは傷つかなかった。
淡やかな紫に煙る銀の髪を揺らし、金茶の瞳が瞬く。
『マータ大好き』
――――私も、私もよ。
マータは少女を見返した。
「…関係ない。大切に、思うの。それだけ」
少女は笑みを深める。
「それはお前が愛されているから、そう思うだけ」
なんだろう。
やはり違和感が拭えない。マータはまじまじと幼い自分を眺める。
ガリガリに痩せた少女は、それでも自分と瓜二つではある。
本当に私達は同一のものなの?
私は前世の酷い記憶を知らない貴方で、全てを思い出した今、ゾーイを前世の仇として殺さねばならないの?
「…私は貴方じゃない」
自然と口に出した言葉は確信となった。
「貴方は私じゃない」
そうだ。どれだけ夢に見せられても、こうして始まりの物語を教えられても、自分の事のように思えない。
思う必要なんかない。
だって、私は私だ。
「お前と私の違い」
幼い少女は笑みを深めた。
「ゾイオンに愛されているか、いないかだけ。心は同じ」
「違う」
少女は続ける。
「同じだ。ファティマータの復讐が行えるのは、ファティマータだけ」
違う。
私は復讐なんかしたくない。あの可哀想なファティマータもきっとそう。
ファティマータはあの男を愛していた。愛されていなくとも愛していた。そして私――――
「同じだ。同じファティマータ」
何処かからボコリと音がした。
違う。そもそも私は。
私は、殺されたファティマータではない。
母に作られたヒトモドキ。
私とこの女の子が同じなら、この子もファティマータではないのでは?
そもそも、沼の主に取り込まれたファティマータはどうなったの?
ボコリ。
マータは気付いた。
この、あぶくが弾けるような音は、幼い少女から聞こえる。
「違う」
否定し続けるマータを、少女は面白そうに眺めた。
「…貴方はファティマータじゃない!」
「なら私は何?」
歌うように問う少女にマータは慄いた。
千年の昔、少女を貪ったのは。
あの時、ファティマータは体も心も、魂の限りまで喰らい尽くされた。最後の激情をさえ美味だと。
最後まで味わった者以外、少女の最後の思いを知れる者などいない。
ファティマータを再現できる者は?母様を焚き付け私を作らせた者は?
少女からボコリと音がした。
これは、水面に浮かぶ瘴気が弾ける…沼の音。
何度も。
何度も何度も夢に見た。
霧煙る淀んだ水面の――――
「沼…なの?」
マータの問いに少女は顔を歪める。
「ファティマータは美味かった。煮えたぎるようだった」
ボコリ、ボコリと少女からあぶくが立つ。
「もう一度味わいたい。だから、男と契約した」
「契約…」
少女は歪んだまま続けた。
「男の願いを叶える代わりに、男の魂を縛り付ける。いずれ転生する男と娘を関係づかせ、また味わおうと。それまでの間、人質として男の民は生かしておいた」
少女の体があぶく立つ。
沼の主は、ファティマータのふりをする気はもうないようだった。




