第三十一話
塵芥 ウスバカゲロの 断末魔 胸の傷にも ならざる如し
あの時、私は天国の門が硬く閉ざされた音を聞いた気がした。
二度とその門をくぐることが出来ない屑に等しいこの自分をあざけわらうかのように。
ケラケラ、ケラケラ笑ってた。
ケラケラケラケラケララケラ
ケラケラケラケラケララケラ
まるで、歌を歌っているかのように、笑っていた。
うるさい、うるさい、うるさい。
どこから聞こえる。この声は、一体どこから。
ふと、私は後ろを振り向いた。
木があった。とても大きく、大仏のような存在感を持った木だ。
でも、何かがおかしい。何だろう。
あぁ、そうか。葉っぱが付いていないんだ。
その木には葉の一枚もついておらず、真っ裸の枝しかついておらず。まるで、死んだ木であるかのような印象を受ける。
でも、何かがぶら下がっているようだ。何だろう。あの、真っ赤な木の実は。
林檎だ。血の色のように真っ赤な林檎。
大きくて、美しくて、そして暴力的な林檎。
私は、その林檎を一つ手に取ってみる。おいしそうだ。
でも、私はその林檎を食べることはできない。林檎は、突如私に牙を向けた。鋭く、ギロチンの刃のようにとがった牙を向けた林檎を、私は勢いよくその場に捨てる。
助かった。いや、これは始まりだ。
上を見ると、次々と木から林檎が降ってくる。そのすべてが私を殺そうと牙を向く。
頭を狙う。
心臓を狙う。
首を狙う。
私を殺そうとする怨念が混じった林檎の霰。
私は、その林檎から逃げた。逃げたかった。でも、追ってくる。
どうして逃げるの。貴方は殺したのに。どうしてあなたは死から逃げるの。
私を責める声が聞こえる。
ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ。しょうがなかったんじゃないか
しょうがない? そんな言い訳が通用するのか?
いや、しない。分かっている。でも、それでも。
こんな感情になるとは思わなかった。
人殺しというのが、こんな感触だなんて、初めて知った。
最初は、まるで大きな丸太に刃を入れたかのように強靭だった。
でも、いざ刃を進めると、ロールケーキを切っているかのように軟らかく、トマトを切っているかのように血しぶきが舞って、そしてバンジージャンプの紐を斬るかのような快感を感じていた。
あの、言いようのない高揚感は、決して忘れることは無いだろう。これが、人殺し。人を殺すのって、こんなに快感だったんだ。そう思うほどに。
それは、決して考えてはいけないことだ。
だって、人を殺すことは罪なのだから。
その罪は誰が決めた。
他人が決めた。
自分じゃない。
だから許される。
そんなわけない。
人を殺して、自分に何が残った。
快感のほかに何が残った。
罪悪感だ。
後悔だ。
痛みだ苦しみだ辛さだ。
そして、常識を捨ててしまった。
私は、人間として最も常識的なことを捨ててしまった。
こうなってしまえば、私はもう人間ではない。
ただの、鬼。
殺人鬼だ。
もう、私は後戻りすることはできない。
これから、どれだけの善行を積もうとも、どれだけの人の命を救おうとも、私に最後に待っている物は決まっている。そして、その先にある何千何万という責め苦を受け続けながら、絶対に逃れることのできない死の連鎖という罰を受け続けなければならない。
考えるだけでもぞっとする。永久凍土の中に閉じ込められたマンモスが味わったかのような苦痛を今まさに身体に刻み込んでいる。
でも、それでもいい。
それで、誰かの幸せが、護れるのならば、それで構わない。
罪を背負うのは私で十分。他の、多くの子供たちの罪も、私自身が受けつける。
次第に、雨が降ってきた。トマトを押しつぶしたかのような真っ赤な雨。
血だ。
血の雨は、どんどんとその強さを増していき、私の身体を縛り付けていく。
足元には血の水たまりができ、私の行く先を塞いでいく。
一歩一歩、踏み出すのが辛くなる。
けど、それも承知で歩むことになる道だ。
私はすすむ。例えその道が自分をころすことになる道であろうとも。
例え、自分がどうなろうとも進む。
一度命を失わせてしまった。その罪と共に生きるために。
進。進。進。
そして、私は見た。
あれは、考える人だ。前世で、有名な彫刻家が作ったとても著明な作品だ。どうして、こんなところに。それに、その先にあるあの門は一体何なのだ。
あぁ、そうか。あれが例の門か。
いつか、私がくぐることになる、二度と帰ることのできない門。
その門を通る物は、一切の希望を捨てよ。
一切の未来を捨てよ。
一切の夢を捨てよ。
一切の自我を捨てよ。
その先に優しさは待っていない。
あるのは。
己の業を追体験する遊び場だけ。
その時、門が開かれた。
一人の女性が、その門の中に入っていこうとしている。
ゆっくりと、しかし微笑みながら。彼女も分かっていたのだろう。いつか、自分がその門をくぐることになると。
それくらい大きな罪を犯してきたのだから当然だ。そう、自覚しているのだろう。
私は、その女性に声をかけた。
≪いつまでも、待っていてください。私も、いつかそこに行きますから≫
と。
女性は、その声が聞こえたかのように、振り向くといつもの凛々しい表情を崩さないで言った。
≪あぁ、私もお姉ちゃんと待っている≫
と。
ただ、その言葉だけを残して女性は門をくぐる。瞬間、門は閉じていった。二度と開くことのない、開かずの門。
私は、それを見送ると、踵を返した。
その瞬間だった。
一人の女の子が、私の横を走り去った。
そして、向かったのは私が決して潜ることのできない門の方向。
あぁ、そうか。貴方は潜れるんだ。その門を。
あなたは、まだ罪を犯してなかったんだ。
行ってらっしゃい、いい旅を。
もしも、生まれ変わったらまた会いましょう。
私は、そう彼女に声をかけた。
でも、聞こえていないようだ。
当然だ。私は、もう彼女とは住んでいる世界が違うのだから。
彼女の、これからの新しい人生に私は邪魔なだけなのだから。
私は、ただただ彼女が生きることになる新しい人生が、幸あらんことを願いながら再び別の道を歩いた。
先に逝った者達とは違う。私自身が歩くことになる、地獄への道を。
≪あなたも、くぐれると思うよ≫
え?
私は、突然聞こえてきたその言葉に急に振り返った。すると、あの子が私に向けて笑顔を向けて立っていた。
決してありえないことだ。生きる世界が違う私たちの声が交じり合うなんて。決して。
あの子はさらに言う。光に包まれながら。
≪私も、貴方の中で生き続ける。私があなたの中にいる限り、その門も必ず開くよ≫
どういう意味なのか、まったく分からない。でも、何故かその言葉にはとても説得力がある。そんな気がした。
最後に、女の子は私に大きく手を振ると言った。
≪だから、私も待ってる! いつか、一緒に逝こう……リュカちゃん!≫
これは、ご都合主義の夢か。私の中の弱い自分が見せる幻想か。いや、幻想かそうじゃないかと言われれば、それらすべてが幻想。私があの人を殺した一瞬の間に見る夢。
でも、まるで心地の良い湯たんぽを抱いていたかのような温かい気持ちになれる。そんな夢。
これを、幻想であるの一言で終わらせていいのか。
いや、ダメだ。
都合のいい夢の一言で終わらせていいのだろうか。
当然だ。
だって、どう見繕って私はソッチにはいけないのだから。
でも、例え都合のいい夢でも。
≪うん、待っててね。リコ≫
最後に、あの子の笑顔が見れて良かった。
そして、物語は現実に帰る。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
「雨が、上がった……」
「魔法の効果が、切れたのね……」
降り続いていた雨は、すっかり止み、山火事も収まろうとしていた。
元々あの雨は騎士団の人間の魔法で作り出した雨なのだから、長続きはしないだろなと思っていたから、kろえは予想通りだ。
けど、もう一つの雨の方は予想外だった。
「カナリアさん……」
リュカの背後から降り続く赤い雨。いや、天に上る滝と表現していいだろう。彼女の背中には、先ほどまで戦っていた女性の身体があった。
そう、カナリアだ。でも、そこには生き物として一番大切な物が無くなっている。当然だろう、今まさに自分が切り落としたのだから。ソレは、自分の足元に転がっているのだから。
「さようなら、カナリアさん……」
リュカは、自分の足元にあるソレの凸凹している方を自分の方に向ける。
そして、半開きとなっていた物を一つずつ指で閉じるとソレに向けて手を合わせて言った。
「命、頂きました」
初めて命を奪わせてくれたカナリアに、感謝を込めて、そして≪地獄≫へと落ちたカナリアの魂が少しでも安らぐように。
ソレをみたケセラ・セラやクラクたちもまた、カナリアに手を合わせるためにリュカのすぐ隣に来た。
最後には、殺し合うことになった。でも、貴方は自分たちの騎士団の、かけがえのない仲間であった。それに敬意を表するかのように。
合わせた手をほどいたリュカは、ふと空を見上げた。血が口の中に入ることなんてお構いなしに。
その先にいるはずの≪二人≫の女の子の魂が、無事に≪天国≫にまでたどり着けるように。空に浮かぶ星に祈り続ける。
マダンフィフ歴3170年 6月1日 2時3分
マハリ騎士団所属特殊任務工作部隊リィナ中隊所属中枢攻撃専門前衛部隊カナリア分隊隊長 カナリア 失血死 二十八歳
いつしか、雨は上がっていた。




