第十九話
たとえ、どれだけ変わっていても。
どれだけ醜い姿になっていても構わない。
心が変わって、自分の事なんてどうでもよくなっていても構わない。
それでも、自分は姉に会いたかった。ずっと、ずっとそれだけを夢見てこの十年間を頑張って生きることが出来た。
もう生きていないかもしれない。そう自分に言い聞かせてもなお、それでも心のどこかでは姉が生きていることを信じていた。
そんな彼女が、二度とその姿を見ることがないと思っていた姉が、今目の前にいる。
想像以上に醜い姿で。
「そんな、お姉ちゃん。どうして……その姿は?」
≪ごめんなさい、カナ。私のせいで……≫
「え?」
姉は、口を動かさずにそうカナに謝罪した。どうやら、言葉は直接脳内に届けられているらしいが、何を彼女が謝ることがあるだろう。
確かに十年前、自分は一人あの村に置いてかれた。というよりも生き残ってしまった。けどそれ自体は不可抗力だし、別に謝られる筋合い等ないはずだ。それなのに、何故彼女が謝る必要などあろうか。よく理解できないカナリアは、彼女に返す言葉がなかった。
「ちょっといい、カナ」
「は、はい……」
突然目の前に現れた姿が変わってしまった姉の姿に動揺している彼女の事を気遣ったのだろう。
ティムが、彼女の肩を叩いて、自分が彼女と話すと言って前に出た。
≪あなたは、確か上で≫
「分かるの?」
≪えぇ、私と獣とは一心同体繋がってます。私の目は、獣の目。獣の目は、私の目ですから≫
「そう……」
ティムは、なにか心が曇ったような顔つきを見せる。まるで、姉の現状を嘆いてくれているかのようだ。
けど、どういうことなのか。この獣、とは。それに一心同体とは。今彼女は壁の中に身体の半分程度がめり込んでいる状態であるが、その言葉を簡単に訳すとするのならば、もしやここは。
「お姉ちゃん、もしかしてここ」
「私の名前は、ティム。この子の……カナリアちゃんの保護者みたいなものです」
カナリアが、姉に聞こうとしたその前に、ティムが姉に自分の身分を明かした。
少々食い気味で、せっかく勇気を振り絞って姉と会話をしようとしたというのに水を差された感は否めない。しかし、確かに自己紹介というのは話を進める上で大切な物であるため、先にティムがどういう人間であるかを姉に知ってもらう必要があったのは確かなのかもしれない。
≪それじゃあなたがカナを助けてくれたのね……≫
「助けたのは、私のおばあちゃんだけどね」
≪そう、ありがとうございます≫
きっと、動かせる者なら首と、それから身体も使って深々と頭を下げたかったのだろうと思う。しかし、彼女の身体は全く微動だにしない。いや、動かせない様子。一体いつから彼女がこの状態で放置されているのかは分からないが、もしもあの村から連れ去られた後からだとするのならば、十年間も同じ体勢でここにいたという事なのだろうか。それは、心身的にも辛いものがあったであろう。
「いいのよ。それより、ここがどこなのか教えてもらえるかしら? まぁ、貴方のその様子も含めて、大体の目星はついているけれど……ここは、あの獣の腹の中、ってところでしょ?」
「……」
自分も考えていたことだ。獣の内臓臭い道や、ブヨブヨとした感触。それに、先ほど姉が言った一心同体という言葉。それから導き出される答えはそう多くはないから。
ここは、自分たちが戦った、いや一方的な虐殺を受けたあの獣の内臓なのだ。ティムは、土の中にいたこの獣の皮膚を抉ってこの中に来てくれたのだ。
そして、やはりこの二人の勘は当たっていた。
≪その通り。ここは『テンタールス』の内臓です≫
『テンタールス』。それが自分たちを襲った接触禁止生物の名称なのだろう。
土の中にいたためにその大きさははっきりと分からなかった。しかし、自分たちが歩いてきた道が獣の内臓の中であるとするのならば、とてつもない大きさを持った怪物であるのだろう。そんな獣と自分たちは戦い、そして分隊のみんなは死んでいった。悔しいが、もとから勝ち目なんてなかったのかもしれない。
と、なると単独で無傷の勝利を収めたに等しいティムがおかしなことになるのだが、それはまたそれである。
「けど、変ね。生き物の内臓なら、胃酸とかが溜まっているはずだけど?」
≪消化器官はこの隣。ここは、消化するための物ではない物をとどめておくための器官≫
「分けてるの?」
≪えぇ……≫
なるほど。人間の内臓にも空気を取り入れる気管と、食物を取り入れる食道という二つの通り道がある。さしずめ、自分たちがいる場所は気管の中という事になるのだろうか。
そう、カナリアは思ったのだがしかし、姉からの返事は何もない。
「お姉ちゃん?」
「もしかして、カナには知られたくないような場所なの……ここ?」
≪はい……≫
自分に知られたくない場所。どういう意味かさっぱり分からない。別に今自分たちがどこにいるのか分かっていない様ではないみたいだし、消化器官でない場所であるのならば、そんな危険な場所でもないから少しくらい教えてもらってもいい気がするのであるが。
「分かった。カナ、少しだけ向こうで待ってて」
「え? はい……」
どうやら二人だけで話をするらしい。カナリアは、自分たちが通ってきた道を遡り、その部屋から出て通路の壁で待つことになった。
「お姉ちゃん……」
フツフツと急に。本当に急にではあるが、突然カナリアの頭で花火が咲き誇ったかのような幸福感を感じ取った。
そう。生きていたのだ。姉は。どんな姿であったとしても、会えたのだ。自分と話をしてくれたのだ。それまでは色々と衝撃なことが積み重なってその喜びを上手く表現することはできなかったが、しかし一人になって考える時間が出来たことによって、一気に頭の中に喜びが舞い降りた。
それから考えるのは今後の事。
自分は、元々姉を助けるためにこの十年間ギルム・リリィアンに所属してきた。そのために、血反吐を吐くほどの訓練に耐え抜いてきた。けど、その姉が今目の前にいる。壁と、いや獣と一心同体になっているという問題点はあり、自分にはソレの解決方法は一切浮かばないが、しかし隊長であったら彼女を救う方法を知っているはず。
自分は、姉と一緒に帰れるかもしれない。どこに。村はもうない。一体どこに帰るというのか。
そう、ギルム・リリィアンだ。あの傭兵組織だ。あそこには姉と同じ年齢程の女性たちもたくさんいる。料理や裁縫が得意な彼女だったら、日常生活班に入れてもらえるかもしれない。そうしたら、また一緒に暮らすことが出来る。
あの十年前にように、とまではいかないかもしれない。でも、また一緒に笑いあうことが出来る。獣を狩ったり、本を読んでもらえたりするかもしれない。
だって、いるんだから。姉が。生きているんだから。死んでないのだから。
だが、頭の中に浮かび上がる妄想にふけっている彼女は知らない。その背後で二人がどんな会話を繰り広げていたのか。
≪…こ………器。………、…………の獣……供……む、……為………生…らされて……の≫
「私…、……の魔……使………」
「失わ……命……………戻せ……」
≪……獣……涯…………二体……………み……≫
≪普通………れ…子……、……女…に寄………子…≫
「私…や…。カナ…命……う………ら」
≪カ………生………供は、…ナ事……ば≫
「私、……ボク…………ピ…ス…ブケ……ってね」
「カナ、いいわよ」
どれくらい時間が経ったであろう。ティムが、通路にいた自分を呼びに来た。
きっと、自分の顔を見た時に何かを悟ってしまったのだろう。多分、その時の自分の顔は気持ちの悪いほどににやけていたから。
ティムは、カナリアの両肩に手を置くと目線を合わせる。この時のカナリアは、子供のころから栄養のある物をたくさん食べていた影響なのか、背は他の同級生よりも高かった。しかし、それ以上にティムの身長が飛びぬけてでかかったために、少ししゃがまなければならなかったのだ。
そして、彼女は言う。残酷な、真実を。
「カナ、最初に言っておくわ。彼女は、貴方のお姉さんは、既に死んでいるも同然なの」
「え?」
死んでいる。それって一体どういうことだ。だって、生きているじゃないか。姉は、自分と会話をしてくれたじゃないか。
カナリアは、頭の中に描いていた未来予想図が儚くも崩壊していく感覚がした。代わりにそんなものを思い描いていた自分を馬鹿にするかのごとく、黒いモヤモヤとした影が自分をあざ笑う。
そう、自分は大バカ者だ。あんな状態の姉をティムが何とかしてくれるなんて、本気で思っていたなんて。彼女だって完璧じゃない。何でもできるわけじゃない。彼女にだってできないことの一つや二つはあるんだ。それなのに、彼女に希望を託していたなんて、他力本願になっていたなんて、自分が恥ずかしくなってくる。
話を戻す。姉が既に死んでいる。もしもそれが本当だとするのならば、自分たちが話をしていたあの姉のような姿をした物体は何だ。自分は一体、何と話をしていたというのだ。何に感激していたというのだ。姉は、どうなったというのだ。
そんなことを考えながらも、いつしかカナリアは再び姉だと思っていた物の前に姿を現した。
≪カナ、私の内臓、五感は全部この獣に飲み込まれて心臓も存在しない。今ここにあるのは、貴方の姉、マリーンの記憶がある脳と同期した獣の身体の一部なのよ≫
「そんな……」
つまり、今自分の目の前にいるのは獣の内部が隆起した存在であるというのか。
今自分は、獣の身体からできた老廃物としゃべっているという事なのか。
滑稽な話だ。昨晩自分の仲間たちを惨殺した獣の一部とこうして仲良く話しているなんて。まったくもって、滑稽だ。カナリアは、顔を手で覆って笑うしかない。笑ってごまかしたかった。少しでも希望を持ってしまった自分を、どこかに追いやりたかった。
そんな、どこか壊れかけのカナリアを優しく包み込む女性がいた。それが、彼女にとって幸運なことだったのかもしれない。
ティムは、カナリアの身体を生卵を掴むかのように優しく包み込むと涙声で言った。
「カナ。貴方の目の前にいるのはあなたのお姉さんよ。例え身体の九十九%が獣と同化したとしても、貴方の姉として、貴方と話をしている……カナのお姉さんなのよ」
何故あなたが泣く必要がある。どうして、泣きたいのは。泣かなければならないのは、自分のはずなのに。
こんな、大泣きまでして、なにをそこまで嘆き悲しむ必要が。
あぁ、違う。この涙は、自分のだ。ポタポタと彼女の手に落ちているほうの涙は、自分の物なのだ。
そうか。自分は、泣きながら笑っていたのか。全然気が付かなかった。
≪カナ、泣いているの?≫
「うん……そうだよ。私、泣けるようになったんだよ……」
泣いている自分を不思議がる姉に対して、カナリアは言った。
そうだ。自分は泣けるようになったんだ。あの村から出て、たくさんの仲間たちと暮らすことによって、自分の心は人間らしくなったのだ。
もう、あの村で暮らしていた時のカナリアはいない。そこにいたのは、人間として当たり前の感情を持つことが出来たことに喜ぶ一人の少女だけ。
≪ごめんなさい、もうあなたと一緒に暮らすことは出来ない。貴方と、帰ることはできない。でも、貴方と最後に出会えてよかった。ただそれだけは、私がこの獣の獲物になって一番よかったことよ≫
「最後?」
悲しみの底にいる中、かろうじて聞くことが出来たその言葉に、カナリアは顔を上げて姉の顔、のように作られた物を見た。
そんな彼女に対して、姉らしきものは念を押すかのように言った。
≪そう、最後よ≫
「カナ……」
「え?」
そしてティムも言う。顔を上げ、その目にこべりついた涙を拭きながらよく理解できないことを言う。
「私が……貴方のお姉さんを殺す。違う……この獣と一緒に、彼女の意識を消す」
その時の自分の表情なんて、もう思い出すことはできない。
次回、回想編終了。




