第十三話
家に入るとすぐ手に取るように分かる。昨日と全く違う、嗅いだことのない奇妙な匂いが辺りに充満している。
ところどころの部屋を除くと、本棚からは全ての本がなだれ落ちて、イスや机と言った家具のほとんどが壊されて見る影もなかった。タンスもそうだ。傷だらけで、いくつかの引き出しが引かれたまま。
ただ、不思議なことに自分と母、それから姉の服やズボンと言った物は残されていなかったというのに、父の服やズボンは残されたままであった。この家に押し入った人間が持っていたのかもしれないが、何故そのようなおかしな真似をするのかよくわからない。
ふと立ち寄ったのは台所のすぐ横にある部屋。そこにある木片がまだ机とイスだったころはそこで食事を取ったりしていた。明日はどの服を着ようかと父にたずねたり、何処に狩りをしに行こうかと姉や母に尋ねたりして、そんな日常があった場所とは、到底思えないような惨状となっている。
この光景を見たカナリアはしかし、ただただ冷静であった。というのも、家が無茶苦茶になる光景というのを見るのは初めてではなかったからだ。何年に一度、雨季の時期になるとこの地域を大雨が何日も襲う。そのせいで村は水没してしまい、家々のほとんどが流されていってしまうのだ。だから、流されてもすぐに立て直せるようにこの村の家はかなり簡単なつくりの建物となっているのだとか。
また、流されないようにと重たいレンガで建てられた家もあるのだが、それはごく少数であると言ってもいいだろう。それに、レンガ造りの家と言っても昨日自分がいた崖から大きな岩が流されてきて当たったら壊れてしまうことには変わりない。という事であるため、どの家も家具はすぐに運びだせるものか、壊れても構わないような物ばかりが置いてあるのだ。
カナリアは、物心ついてから雨季を経験し、家が現状よりも壊された様子も見たことがあった。だから、家の中が多少ボロボロになっていたとしてもそれは見慣れた光景だったために泣き騒ぎもすることはなかった。だが、この先は違うかもしれない。彼女の考え、そしてソーシエの言葉通りであったのならばこの先で彼女を待っているのは。カナリアは一度深呼吸してからゆっくりと母の寝室へと向かった。
そして寝室の前、カナリアはいつもと同じように中にいるであろう母に語り掛けた。
「お母さん……入ってもいい?」
何も音はしない。だが、それはよくあることだった。母の就寝中に尋ねることもしばしばあったし、なによりもカナリアの声が小さいことも要因であっただろう。なにも返事がないとき、いつもの彼女だったらそのまま立ち去っていた。
だが、今日は違う。最初から返事がないことなど分かっていたのだから。そう、この村を姉と一緒に見たあの時にはすでに覚悟をしていたことだった。だから、彼女は勇気を振り絞って中に入っていった。カナリアは、泣く準備ができていた。
「……」
母の部屋にあるのはベッドと机とイスぐらいだった。ベッドもまた簡単に運び出せるようなもので、父の手作りの物だ。そのベッドの上で、怖い夢を見た時は一緒に母と寝て、姉と一緒に絵本を読み聞かせてもらっていたこともあった。そのベッドの上に、ソレはあった。
「お母さん……」
ベッドが低かったこともあって、カナリアの身長でも十分に母の身体をその眼でとらえることができる。カナリアは、母に近づいた。いつも思う、綺麗な顔だと。いつか、自分もこんなふうな顔になりたいと何度思ったことか。そして、今日も母の顔は綺麗その物であった。
目をつぶり、まるでただ眠っているだけのようにも見える。手を胸の上に置いて、まるで何かに祈りを奉げているかのように手と手を合わせている。一縷の望みとはこのことかもしれない。もしかしたら、本当にただ眠っているだけで、いつものように揺さぶったりしたら目を開けて、いつものように優しい声で語り掛けてくれるのかもしれない。カナリアは、ゆっくりとその手を取った。
「お母さん?」
いつものように手を握るために。あの暖かく、自分の頭を撫でてくれるあのおおらかで小さくて、でも自分の全てを包み込んでくれる手を取ろうとした。
「お母さん……」
でも、その日彼女が取った手は、氷の棒を握ったように冷たくて、ほどけた手は頭を撫でてくれることなく力なくベッドの横にひものようにぶら下がるだけだった。
「……」
カナリアは泣かなかった。もう、母が笑いかけてくれることはない。それが分かっても彼女が泣くことはなかった。それを指して、カナリアが強い女の子であると考えるのか、かわいそうな女の子であると考えるのかは人それぞれであろうが、間違いなく私はかわいそうな女の子であると断言できる。
「あっ……」
そしてカナリアは壁にもたれかかって座っている父を見つけた。あの様子であるのならば、父もまた死んでしまっているのであろう。本当ならば確認しなければならないのではあるが、しかしたくさんの獣の死体を見てきた彼女はその様子を見ただけですでに父の命がそこにはないという事が分かってしまった。
なのに、母は実際に触らなければ生きているのか死んでいるのか分からなかったことから見ても、カナリアの父と母との愛情の差が無意識のうちに現れていたと言えるだろう。それでもカナリアは泣かなかった。父と母は死に、姉は消息不明となって生きているのか死んでいるのか、そしてもし生きていたとしてもどんなヒドイ目にあっているのか全く分からない。
これから先、この村で一人生き残ってしまった自分がどう生きて行けばいいのか分からない。
けど、カナリアは泣かなかった。
「……」
「あなたがカナリアちゃん?」
「え?」
その突然の声にカナリアはドアの方を向いた。そこにいたのは一人の女性。姉と同い年ぐらいであろうか。腰の後ろに剣を横に刺した女性。お団子頭二つを乗せた黒髪の女性がそこには立っていた。女性は、剣をその場に置くと言う。
「ごめん、驚かせちゃったかな? 私はティム。ソーシエおばあちゃんの孫よ」
「あのおばあさんの……」
そう言われてみたら、ソーシエのかぶっていたフードの下に少しだけ見えた顔とちょっとだけ似ている気がする。
「にしても、ひどい匂い……男の匂いと血の匂いが混ざり合ってて、気分が悪くなるわ」
「え?」
確かに、この部屋はよく嗅ぐ機会のある血の匂いが充満している。ただ、それ自体は別に気持ち悪くはない。獣を狩ったらよく嗅ぐ匂いであるからだ。しかし、問題はもう一つ混じっている匂いだ。
ティムは男の匂いと表現したが、しかし父の匂いとは似ても似つかない全く嗅いだことのない気持ち悪い匂いだ。いや、ちょっと遠くの山、この周辺よりも木々が生い茂っている山に入った時に嗅いだことがあったような気がする。しかしそれよりもきつくて、頭がクラクラするような匂いだ。それと、おしっこの匂いと言わないのは自分に気を使ってくれているのかもしれない。
「ほら、カナリアちゃんもこんなところにいると気持ち悪くなっちゃう。とりあえずこの部屋から出よう」
「でも、お母さんとお父さんが……」
「そっか……こんなところって言ってゴメン……ここも、貴方にとっては思い出のたくさんある部屋だったわね」
「うん……」
「それじゃ、窓を開けて換気しようか」
「うん……」
そう言って、ティムは二つある窓を開けた。だが、外から来る風には今度は火事で焼けた香ばしい肉の匂いや灰混じりの木の匂いが乗っており、それもまた部屋の匂いと混ざり合って別の、いろんな獣の血が混ざったかのような匂いを産み出していた。
「あっちゃぁ……逆効果になっちゃったかな?」
「いい、この匂いがする方が落ち着くから」
「そうなの?」
「うん。狩りをするとよく嗅ぐ匂い……血の臭いも、肉の臭いも、それから……生き物が死ぬっていうのもみんな同じ……」
「……」
ティムは、その言葉に少しだけ顔をしかめる。
後にティムにこの時の彼女が感じたことについて聞いたことがある。
この子の死生観は少し歪んでいる。いや違う。まだ物心がついて極僅かであろうというのに、もうこの世界に順応していると言ってもいいのかもしれない、そう思ったそうだ。
生きている者なのだから、いつかは死が訪れる。それは明日かもしれないし、今日かもしれない、そして今すぐなのかも。そんな生き物という種類に対しての真理を理解しているのか。普通の人間であったとしても、十歳を超えたあたりには理解し始め、遅くても十五の歳になるであろう時ほどになってようやく達することができるその結論に、この目の前にいる女の子は小さいながらもすでに達しているのだ。
達しているからこそ、両親の死であっても、仲のいい村の住人たちの死ですらも、獣のソレと同一視してしまっているのかもしれない。
それは、ともすれば素晴らしいという人間もいるかもしれない。しかし、あまりにも悲しいことではないのだろうかとも思う。確かに生き物の死、生物としての死であるというのならば、それはどちらも同じことだ。
しかし、人間は動物とは違う。話すことができるし、一緒に笑い合うことも、泣くことも怒ることも一緒にできる。
何よりも思い出があるのだ。だから、ここで泣かないというのは絶対に違う。今ならまだ間に合う。まだ子供で、未来のあるこの子供であるならば、その心理を変える事ができるかもしれない。
しかし、本当に変えてもいい物かとも彼女は考えていた。人一人の考えを無理やり変える。そんな事、独裁者がよくやるような方法だ。他人の意見を尊重しようとしない醜い人間のやる行為だ。彼女は自分で気が付かなければならない。彼女が心の奥底に隠している、自分自身の本当の気持ちを、本当に出すべき感情を、思い出さなければならないのだ。
けど、その方法が何なのか分からない。当時のティムはそう考えていたらしい。
その時、家の外から声がした。
「おーいティム!」
「あら、来たわね……こっちよー!」
ティムがそう声をかけると、一人の女性が現れた。いや、一人だけじゃない。二人、三人、いやもっと、十、二十、三十人はいるだろうか。それから、赤ちゃんを抱いている人や、自分と同じくらいの年齢の子供も混ざっている。なにより、一番気になったところが、全員が女性であるという事だ。その内の一人、恐らく先ほどティムに声をかけたであろう人間が窓の近くまで寄ってきて言う。
「うわ、ひどい悪臭……」
「パフィ、そんな事言わないの。この子の家なんだから」
「あっ、ゴメンね。私はパフィ。ティムの親友よ」
「カナリア……」
「よろしく……状況はオーナーから聞いているわ」
「おぉなぁ?」
「おばあちゃんの事よ」
その内、他の女性たちもまた窓の近くにやってくる。皆、ティムが着ているのと同じような鎧を着ている。ティムの仲間なのだろうか。
「あの……」
「あぁ、ごめんね。私達の事教えてなかったわよね。とりあえず、外に出ようか」
「うん」
そして、自分はティムに抱えあげられて窓から一緒に出た。そして、地面に降ろしてもらうとその瞬間に自分と同じ年齢の子供達5、6人が寄ってくる。
「こんにちは! 貴方名前はなんていうの?」
「こ、こんにちは……私……カナリア……」
思えば、この村の子供は自分ぐらいで、他に同い年かそれに近い年齢の子供など皆無だった。だから、こうやって自分と同い年の子供と話をするのはほとんど初めてだ。
「私はセリン! 貴方ちょっとオシッコ臭いよ、あっ分かった漏らしたんだ!」
「あ、うん……」
さすがに先ほどまでだったら他の匂いに混じったり、相手が色々と遠慮してくれて言わないでおいてくれていたが、しかし流石にこの年齢の子供は正直に何でも遠慮なしに言ってしまう。カナリアの頬は次第に赤くなって、下を向いてしまった。
「セリンちゃん? カナリアちゃんに失礼でしょ?」
「あ、ごめんなさい」
「いいよ、漏らしたのは事実だし……」
ティムの言葉ですぐさまに謝ってくれるセリンもまた優しくて誠実なのだという事が分かる。本当に自分の事を辱めるために言ったのではなく、ただ単に好奇心から質問をしてしまったのだろう。しかし漏らしたのは事実だし、正直もうそろそろ足に付着している尿が固まってきているようだ。その時ティムが言った。
「カナリアちゃん。お風呂ってこの村にあるのかな?」
「え? うん、あっちの方に村の人達皆で使っているお風呂がある……」
「誰か、ちょっと見てきてくれる?」
「はい!」
そう言われて一人の女性がカナリアの指さした方向へと向かって行った。そして、膝を折ったティムは言う。
「カナリアちゃん。この村って、死んだ人はどうやって埋葬しているの?」
「えっと……身体を箱の中に入れて、火をつけて燃やして……それから骨を埋めて……」
「火葬ね、ありがとう。それじゃカナリアは子供達皆でお風呂に入っておいで。その間に私達で……この村の人達を埋葬する準備をするから」
このまま野ざらしにして、獣たちのエサとなるか、腐り落ちて行くのかを待つのか。その前にこのお姉さんたちはこの村の人達を埋葬してくれる。その言葉に、カナリアは嬉しくなった。唯一生き残った村の代表として、それだけは嬉しかった。ここまで親切にしてくれるという事は、このお姉さんたちはそう言ったことを商いにしている人たちなのだろうか。
「埋葬って……お姉さんたちは、葬儀屋さん?」
「ううん……私たちは傭兵組織≪ギルム・リリィアン≫。女の子だけで組織された最強の乙女軍団よ」
「ギルム・リリィアン……」
これが、カナリアが後に所属することになる傭兵組織との出会いだった。
回想編、残り七話。




