第八話
それは、エリスが城に来る数時間前に遡る。
「さて、それじゃしごき……もとい訓練を始めましょうか」
「は、はい」
他の副団長に連れていかれたクラク、ケセラ・セラと別れ、地獄の門かと思えるおどろおどろしい扉を通ったリュカは、何やら前世では拷問道具としか見えないような鉄製の道具であったり、鉄と血の臭いが入り混じったかのような匂いのする部屋に来た。四方に一つずつ置いてある火のついた灯篭だけが光源であるため周りの様子は赤く見えており、まさしく地獄の様相を再現しているかのようで不気味であるため、早くこの部屋から出たいというのが彼女の感想である。
「と、その前に……カナ、あれを持ってきて」
「あいよ」
そう言われてカナリアが持ってきたのは、前世ではダイエットの時に女性が着るようなサウナスーツ、もしくは海深くまで潜っていくために着るダイビングスーツというもののようにぴっちりとした黒い服である。果たして、それが何なのかリュカが考える間もなくセイナは言った。
「リュカ、鎧と服脱ぎなさい」
「え? それって、その服を着ろってことですよね多分……」
「そうよ。流石に全裸で訓練しなさいなんてそんな酷なことまだ言わないから」
「はぁ……」
まだ、という言葉がどことなく不安であるが、しかしもしも全裸で修行しろと言われても羞恥心は―――以下略。
数分後、新しい服を着こんだリュカの姿がそこにはあった。
「やっぱりぴっちりしていて動きにくい……」
服は触ってみるとゴムのような触感がする。しかし、縮みはするものの伸びることはない。少し服の端っこをつまんで伸ばしてみるものの、少しも伸びることなく服に張り付いたままである。これだと動きにかなり制限が出てしまうのではないだろうか。おまけに体のラインもきっちりと出てしまっている。この部屋に女性しかいないのは幸いだ。もし、自分以外の女性がその服を着こんでいるとするならば、羞恥心で恐ろしいことになるであろう。それに何だろうか、少し力が、抜け、ている、よう―――。
「あ、あれ?」
いや、ようなではなかった。確実に力が抜けている。
突然襲われた倦怠感に、リュカは思わず膝をついてしまった。重力が急に増したのだろうかとも思えるほどに辛い。重りを背負った、持ったというような感覚という物ではない。重りを溶かした鉄が血管の中を通っているかのように身体中が重いのだ。この服は、一体なんだ。
「これって……」
「その服はね、着た人の魔力を吸い取る効果があるのよ」
「え?」
その声に顔を上げたリュカ。団長はそう言いながらも自分も鎧等々を脱いでいる。そして、その下からは自分と同じ服が姿を現した。
だが、その身体にくっきりと出ている姿は、自分のソレとは全くと言っていいほどに違う。
腕から足までぴっちりと覆ったその服に描かれているかのように鍛え上げられた肉体。まるで、彫刻か何かを見ているかのようにくっきりと出現した筋肉のリアス式海岸は、彼女の強さを象徴しているかのようにも見えた。
対して自分は真っ平。少しくらいの筋肉はあるものの彼女には全く及ばない。切断した氷の断面のようにきれいで、その上で小人が滑れるんじゃないかというくらいだった。
それにしても妙だ。彼女は自分のように倦怠感には襲われていない様子。ならば、自分と彼女が着ている物は違うというのか。さらにセイナは続ける。
「人ってね、普通に生活していても魔力を自分の身体から放出している物なの」
「放出……」
「起きる、立つ、歩く、物を掴む、持ち上げる、投げる、剣を掴む、斬る、防ぐ、跳ぶ……もちろん主に筋肉を使って行動しているわよ。でも、それと同時に魔力が体の重さを変えたりして筋肉の負担を軽減しているのよ」
「へぇ……」
「でも、そのせいでいざ魔力による補助がなくなると筋肉だけに頼らざるを得なくなる身体はバランスが悪くなって、今のように自分の身体がとてつもなく重くなるのよ」
それは知らなかった。自分で魔力を移動させることくらいでしか身体強化が出来ないと思っていたから、無意識のうちに自分が魔力を放出していたなど考えもしなかった。おそらく、今自分を襲っている倦怠感は、身体から魔力をすべて取られて、その補助がなくなってしまった状態になってしまっているのだ。
そう、確か前世では電気自転車という物があった。電気をため込んだバッテリーという物を、二輪の車輪のついた自転車という乗り物に取り付けることによって、急な坂道など人間の力一つでは上ることのできないような山道を簡単に上ることができる乗り物だ。しかし、それも時間が経つにつれて電気が放出されて、最終的には普通の乗り物となってしまい、坂道を上るのも酷なことになってしまうのだ。
今のリュカはまさしくそれと同じ状況だ。だが、それならばどうして、という疑問が起こる。
「でも、私頻繁に魔力が枯渇しているのに、こんなには……それにどうして団長は……団長も同じ服を……」
「まぁ、魔力が完全にゼロになるなんてめったにないから。だれでも少しずつ魔力を体内に残してるものよ。私がなんともないのは魔力に頼らなくても普通に生活できるくらいに筋力をつけているから」
「なるほど……」
「ちなみに、私は昨晩貴方が部屋から帰った後にすぐにこれを着た。もう私の中の魔力量はゼロよ」
というか、それが普通のはずなのだ。前世の自分だって筋肉だけで生きていたというのに、この世界では魔力に頼りすぎた結果のこれだ。機械文明に頼りすぎた愚かな人類を自分一人で背負っているかのようだった。
セイナは続けて言う。
「確かに、魔力による補助で速く走れるし、高くまで跳ぶことができるわ。でも、貴方にとっては特に魔力の無駄遣いは致命的。だから、基礎の基礎である筋肉の量を増やすことによって、一定に得られる魔力の補助を抑え込むこと。今日からはそれを目指して、午前中はこれを着て筋トレをするわよ」
「えっ、てことは……毎日筋トレすると……」
「そう言う事ね」
「あぁ、そうですか……」
と、ここで一つ余談だが。エリスが処刑される寸前まで手枷足枷になっていた石枷の効果と、現在リュカの着ている服の効果がほとんど同じものであると思った者も多いかもしれない。後に判明したことであるが、実は、両方とも元々原料となっている素材は同じ魔法石であるのだ。正確に言えば服の方はその魔法石の魔力を映したものと言った方がいいのかもしれないが、少なくともかなり巧みな技術が必要になってくるのは間違いない。
「さぁ、おしゃべりはこのぐらいにして、訓練を始めましょうか。ほら、まず立ち上がって」
「は、はい……」
そう言われて、リュカはゆっくりと立ち上がる。だが、この世界にたどり着いて五年。魔力に頼りすぎていたこともあるのだろうが、気持ち悪くて、身体が重く。宇宙から帰還したての宇宙飛行士のようだ。
ふと、彼女は前世で四十度もの高熱を出した時を思い出した。あの時も、義理の母や妹にかなり迷惑をかけて、治すのに一週間以上かかってしまった。だが、立ち上がれないほどというわけではないため、難なくとまでは行かないが、彼女はセイナやカナリアが想像していたよりも早くに立ち上がることができた。
「へぇ、男ですら立ち上がることもできない奴もいるのにやるじゃん」
「えへへまぁね……とはいっても、ちょっときついかな」
魔力のない世界で暮らしていたことが功を奏したのだとは思う。しかし、それでもまだふらふらするし、今にも倒れそうであるという事に変わりはない。そう思っている所、セイナが言った。
「まぁ、しばらくしたら慣れるわよ。本当は、一ヶ月くらいかけて基礎のメニューの反復だけをしないといけないけど……時間が時間だし、午後からは応用の実践訓練もするわね」
「……」
「もうそんな絶望的な顔しないの。それに、魔力が全くない状態で戦えれば、イイこともあるのよ」
「……例えば何ですか?」
「そうね、例えば互角に戦っている相手に対して、持久戦に持ち込んで相手の魔力量をゼロにしたら、今の貴方みたいな状態になる。でも、貴方は変わらない動きをする。さて、有利なのはどちらでしょうか?」
「それって、持久戦が前提じゃないといけませんよね」
「戦法の一つってことよ。わかるでしょ」
「はぁ……」
確かに、セイナの言い分も一理ある。それに、確かに時間がかかる方法ではあるが一対一だとかなり有力な戦闘方法となってくるだろう。そういえば、父との修行時代に自分はある魔法を考えていた。結局は完成にまで至らなかった物の、今後その魔法が役に立つ時が来るのではないだろうか。この修行に耐えて、魔法が完成すればの話ではあるが。
「とにかく、この訓練が終わった時あなたは自分で思っていた以上の力を手に入れることができるかもしれないわよ。……それじゃ、まずは軽く腕立て千回、腹筋千回、背筋千回、スクワット千回、それをお昼時まで繰り返しましょうか」
「……はい」
「声が小さい!」
「はいッ!!」
リュカはこの時、前世にもあった筋トレのメニューをこの世界にまで持ってきた何者かがいるのではないかと思った。そして、その何者かをこの手で締め上げたいと強く念じた。そんなリュカの様子をケラケラとみていたカナリアは言う。
「まっ、頑張んなよ」
もはや他人事である。他人なのだから当たり前だが。その時だった。
「カナ、貴方もよ」
「はっ!? なんで!?」
「昨日のリュカとの一騎打ちの時の怠慢の懲罰」
「いや、あれはその……」
「私もリュカの訓練に付き合うんだから、あなた一人がやらないのはおかしいわよね」
「ッ……はぁ、分かったよ……この子を危険な目に合わせようとしたのは確かなんだからな」
「え?」
「あぁ、こっちの事よ気にしないで」
「?」
そのやり取りに、リュカは底知れぬほどの嫌な予感を感じたが、ともかく、その筋トレは本当にお昼時まで続き、さらには昼ご飯を抜きにして午後の訓練にまで至ったのだった。エリスが来たのは、その午後の訓練の時の一コマであった。因みに、後々計算してみると、エリスが来たのは訓練開始から五時間と四十八分程の頃だったらしい。その間に、腕立て、腹筋、背筋、スクワット、それぞれを三千回ずつ行うというリュカの前世でのその手の世界記録保持者もびっくりなほどの回数を行っていたそうだ。そりゃ、午後の訓練の時に足腰が立たなくて当然であろう。




