第八話 覚悟を待った少女
こんな、氷のように冷たい場所に来ることになるなんて、思いもしなかった。
一人寂しく座っていると。なんなく切ない気持ちになってくる。窓もないこの場所では外の様子も見えなければ、光も入ることはない。あるのは湿っている薄い毛布と、藁で形作られた同じく薄い座布団。牢屋の外から隠れてもいない丸見えの、人権を無視した小汚い便器だけ。そして、自分と外とのつながりを絶っているのは、この鉄格子。
冷たい。寂しい。この時の自分は、後の≪あの人≫と同じ気持ちになっていた。
あの子は大丈夫だろうか。自分が守ったあの幼い男の子は。エリス自身、まだ幼いと言ってもいい年齢であるというのに、他人の事を心配している暇などないというのに、ただそのことが気になっていた。
動物を傷つければ牢屋に入れられるということは分かっていた。でも、それでも私はあの子の事を助けたかった。守りたかった。
だが、そんな勇気を出したおかげで、処刑されるなんて、そんな恐ろしいことになるなんて思いもよらなかった。
今、何時だろう。あとどれくらいで、その時が来るのだろうか。処刑されるというのならば、自分は喜んでその運命を受け入れる覚悟がある。だが、少しだけ心残りがある。できれば時が止まってほしい。せめて、その心残りを解決する時間が欲しい。せめて、あの子に私の服を、私が作ったあの子のためだけの服を着てもらいたかった。ただ、それだけを、考えていたとき、一人の女の子がやってきた。
ゆっくりと、ゆっくりと降りていく。自分が降りたことのないその一段一段を、重しが乗っているような足取りで一つずつ降りる。
できれば、もうこれ以上降りたくない。ずっと、永遠にこの長い暗闇の列が続いていればいいのにとさえ思ってしまう。
でも、ついに彼女はたどり着いてしまった。牢屋へと続く扉の前に。刑場は、この牢屋のある部屋の隣にある。彼女はもうあの階段を登らないのだ。もう、陽の光を浴びることはないのだ。もう、あの店で一緒に暮らすことはない。それを思うと、とても心が苦しくなる。今にも、泣きたくなる。
分かっている。勇気がどうとか関係ない、自分だって彼女のことを助けたい。本当なら、ここで周りにいる4人の兵士たちを殺してでも牢屋のカギを奪い取って、あの子を助け出したい。でも、自分にそんな力がないことは分かっている。そんなことをしようものなら、即座に首をはねられるのは自分だ。どうしようもない。そう、どうしようもないことだと言い訳して自分を守ろうとする。浅ましい女なのだよ、自分は。
その時、重い鉄の扉が開かれた。
牢屋に現れたのは、真赤なドレスをその手に持ったクラクだ。クラクは近くの兵士に剣を渡し、ドアの前で待ってもらえるように話しているようだ。剣を渡すのは、罪人がそれを奪って反撃するもしくは、自決するのを防ぐためだろうが、もちろんエリス自身そのようなことをしようなどみじんにも思っていない。
そして、兵士たちは部屋の外に出て扉を閉めた。その場にいるのはクラクと鉄格子を挟んで中にいるエリスだけとなった。
「……」
「……」
気まずい、まるで流砂の中に沈むような重い時間が流れ始める。
あと数十分後には殺されるものと、殺すものの関係となってしまった二人の間を、氷の結晶を抱いているように冷たい時間が流れた。とにもかくにも話を始めなければ進まない。まず、口を開いたのはエリスだった。
「服……ちゃんと取ってきてくれたんですね」
「うん……エリスちゃん……手と足、重くない?」
「はい、どうせこれは動きを制限するものではありませんから」
エリスの両手首、両足首にはそれぞれ4つずつの石で作られた枷がかけられていた。エリスの言う通りそれは、罪人の動きを封じるものではない。その枷は特別な石で作られた枷であり、罪人の魔法使用を封じる効果を持っている。とはいえ、自分が使える魔法なんてたかが知れているので、無駄なのであるが。
「……さっき、リュカさんに会いました」
「リュカさんにですか……私のことについて、何か言ってましたか?」
「……友達なのに、助けないのはおかしいって……私も分かってるよ……そんなこと」
「……」
エリスも、リュカの気持ちが痛いほど分かる。もし自分がクラク相手に同じ事をしろと言われたら、拒否したくなる。そして、どうにかして彼女の事を助けたいと願うだろう。だが、自分にもクラクにもどうにもできないのも分かる。そして、エリスは心残りについて話し始めた。
「リュカさんに……私の作った服着てもらいたかったな……」
「……」
「あの人、私といる時ずっと鎧姿だったじゃないですか……あんなに素材がいい人なのに、それを生かすことができないなんて……本当に残念です」
「エリス、ちゃん……」
まるで、朝焼けの中で映える湖のように透き通ってて、もしも自分が男であったらすぐに恋に落ちてしまうのではないかと思うほどの顔つきとスタイルの良さ。あの子にどんな服を着せてあげたら似合うだろう。どんな刺繍をしたら喜んでくれるだろう。リュカの仲間はどんな子なのだったのだろう。服を作る人間としては、彼女のその素材を生かせないなんて、すごく残念に思う。
クラクは、その時やっと押し殺してきた涙があふれ出る。二年前の大戦で、エリスの両親が死んで、子供一人きりとなってしまったからと、クラクが派遣されてきて、それからの二人きりの共同生活。
当初は、親を亡くしたエリスにどう接していいのか分からなかったが、寝食を共にしている間に、保護者という立場から段々と友達になっていった。この二年間の大切な思い出たち、それがクラクの胸をずっと締め付けて、苦しくなってくる。
「ご、めん……涙が……」
「いいんです。私の代わりに思う存分泣いてください」
「エリスちゃんは、どうして泣かないの……?」
「……泣きたいですよ。まだまだやりたいことがあったんです。いろんな人に出会って、いろんな人の服を創って……好きな人ができて結婚してその人との間に子供ができて、その子の成長を見守って。いろいろなことがしたかった……」
「だったら……」
「でも、嫌だ死にたくないってみっともない姿を他人に晒したくないんです。せめて、最期の時くらい……かっこよく死にたいじゃないですか」
「ッ!」
やはり、彼女は自分とは違う。自分に迫る死をちゃんと見て、もはや何か悟りの境地に達しているのではないかと思われるほどだ。だが、せめて、自分の前だけでは泣いてもらいたかった。生きたいと思うのは、全人類共通の考えなのだ。それを願うことがみっともないなんて、そんなはずがない。
「クラクさん……私の、お姉さん代わりになってくれてありがとうございました」
「エリ……ッ」
姉、心ではその言葉がうれしかった。たとえ、血がつながっていない、赤の他人であったとしても、同じ屋根の下で暮らしてきたのだから。
家族である、他人であるなんてものは関係なかった。エリスは自分の事を姉であると認識している。それが、うれしかった。
「天国で一人、待っています。クラクさんが来るまで、待っています」
「だめだよ……人を殺すんだよ。あなたの人生を奪うんだよ……私は地獄に落ちなくちゃいけない」
「だったら、そちらには父と母がいるかもしれませんね」
「そうだね……」
「……パパと、ママの分まで生きれなくてごめんなさいって……言ってくれますか?」
「ちゃんと……伝える……」
初めてだ、エリスがパパ、ママという言葉で両親を呼ぶのを。彼女の年齢からすると、当然なように聞こえるが、だが今までは無理をして自分を形作っていたのだろうと思う。それにどんな意味があったのか、クラクには分からなかった。ただ、これだけは言える。彼女がもう大人びる必要はないのだと。
「……着替えるのを、手伝ってくれますかクラク姉さん?」
「……うん」
あともう少しの間だけ。けど、その少しの間だけでも、自分たちは姉妹としていよう。たったの数十分の間だけでも、姉らしいことをしよう。それが、少女達が心の中で決めたことであった。
刑執行まで、残り四十分。




