第一話 死 死! 死ッ!
空想上の動物、と聞いて一体何が思い浮かぶだろう。
河童や鬼、ペガサスにグリフォンにユニコーンにと、人によっては際限なく思い浮かぶことだろう。
私の場合は、まずドラゴン。つまり竜が頭に浮かび上がってならない。
大きな翼に、硬い鱗。長いひげや鋭い牙の生えた顔付きをし、時には炎を吐いたりする凶暴な生物。
その勇猛さと見栄えから多くの人間の関心を集め、空想がさらなる空想を呼んで、多くの世界で似たような生物が生まれた。
そのために人間の勝手な妄想によって悪役にされたりペットにされたり、そして強さの象徴として殺されたりするある意味で最も優遇されており、最も不遇な生き物であると言える存在。
今、自分の目の前にいる生物はなんだ。
大きな翼を持って、硬そうな鱗がびっしりと身体に張り付いて、長いひげや鋭い牙の生えた顔。それに加えてなんでも切り裂いてしまいそうな爪やなんでも押しつぶしてしまいそうな足を持っているというおまけ付きではないか。
もう自分じゃない誰が見ても思うことだろう。
これは、≪ドラゴン≫だと。
「あ、あぁ……」
「――、―――――――」
突然のことに恐怖する少女は、竜が何かを話しているのを耳にする。洞窟の壁に反響して聞こえる為か、とても重量感があるように感じる。でも、何語なのだろう。少なくとも日本語ではないことは確かだが、全く聞いたことがない言葉だ。
英語でもない、ロシア語でもない、中国語でもない。けど、語感からいってヨーロッパ辺りで使われている言葉なのかもしれない。でも、やっぱり聞いたことがない。前世にあったほとんどの言語と全く一致しない言語だった。
彼女はふと、地元の駅前によく来ていた民族衣装を着た男性のことを思い出していた。その人物は、ほぼ毎日駅前に現れては、自分の国、おそらくペルーという国の音楽を笛で奏でていた。本当にペルーなのかはよく分からないが、でも音楽性から考えるとたぶんそうなのだろう。この言葉の推理は、その時の自分の推論によく似ている。
雰囲気一つで分かることなんてたくさんある。でも、雰囲気で分かったとしても、実際にどうなんだろうか、と気になることなんていくらでもある。少なくとも、自分が今一番気になっていること、それはこの目の前の竜が自分に向けて、何をしゃべっているのか、そしてなぜしゃべっているのか。
けど、何故だろう。恐怖心しかないはずなのに、言葉の意味も分からないのに、どういうわけか声を聴くととても落ち着いてくる。まるで、その声を何年も聞いていたかのように。
それは、竜がいくつもいくつも言葉を重ねて行けば行くほど顕著になり、次第に彼女の心からは恐怖心という物は失われていた。
「――、―――。―ー? まさか……」
「え?」
空耳か、それとも日本語が聞きたいという自分の望みが脳内で言葉を勝手に変換したのだろうか。今、確かに聞こえてきた。≪まさか≫という日本語が。
けど、何故。そんな風に困惑している彼女に対して、竜は自分が日本語に反応したことに気が付いたように、目を一時だけ閉じると言った。
「貴様、日本人か?」
「え? は、はい」
「やはりな……聞け、貴様は死んだ」
「え?」
死んだ。自分が。死んだ。
けど、あまりショックは受けなかった。当然のことだ。分かっていたのだから、空想上の怪物に言われなかったとしても、自分があの時死を迎えていたということは知っていたから。
むしろ、死んでいなかったとしたらそれはそれで不思議でたまらない出来事になる。
そう、自分はあの時死んだのだ。多分出血多量で。
あの時の感覚は、今でも覚えているからだから徐々に抜かれていく血の感覚。冷たくなる身体。千切れた手足の先から流れ出る命の灯火。
「ッ!?」
そうだ。あの時、死ぬ直前に確かに痛みを感じていなかったはずだ。なのに、なんでその痛みが今になって、怒涛のように身体中を駆け巡っているのか。
痛い、痛い、痛い。そう、これが死の痛み。人は死ぬときこんなに痛いんだ。
耐えきれない。発狂しそう。今にも叫び出したい。いやその前に身体の中にある物を吐きだしそうだ。
痛い痛い痛い。ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ、もうこれ以上私の身体を蝕まないで。
出て行け、キエロ。弄ぶな。
去レ、去レ、去レ!!
けど、身体はあまりにも正直だ。そのことを思い出さないようにしても、いや思い出さないと思ったとしても。逆にそれが引き金となって身体の細部にまで痛みを巡らせる。
身体が震える。止めようとして手で押さえつけようとも、なおその手も含めて振動し始める。
寒い、寒い、寒い。身体が、寒い。まるで、あの時の心を再現するかのように。
ヤメテ、ダレカ、タスケテ。
「こ、とは……」
≪琴葉≫。そうだ、親友はどうした。彼女がいれば、自分はすぐに元気になれる。立ち直れる。痛みから解放される。
あの時、親友はどうなっていたっけ。確か、手がちぎれて、目は半開きになったままで、それから口からは血が流れ落ちてて、頭はパックリと割れてて、それから―――。
「ヤメテッ!!!」
思い出させないで。嫌だよ、自分が死んだだけじゃなくて親友まで死んじゃったなんて。それを認識するなんて嫌だ。
あんなに元気だった。笑ってた。自分の感覚ではつい十分ほど前まで楽しくしゃべっていたのに。紅葉狩りの後は何処に行くとか、何をお土産に買うとか、いっぱい、いっぱい近い未来のことについて語り合っていたのに。
もう彼女の声は聞こえないんだ。もう、彼女と一緒に生きれないんだ。もう、あの世界に帰れないんだ。そんな絶望が身体の隅々にまで浸透する。
≪世界≫。そうだ、世界だ。無意識に、しかし彼女は既に実感していた。ここが、自分がいたあの世界ではない。地球ではないと。何故だか知らなかったが、そう感じていた。
「あなたは誰!? ここは何処!? なんで、私は生きているの!!?」
彼女は竜に対して今出るだけの大声で叫んだ。それで答えが返ってくるか分からない。もしかしたら激昂されて大きな口で喰われてしまうかもしれない。でも、それでも知りたかった。今、自分がどうなっているのかを。
「騒ぐな」
「なんでよ!? 騒いで何が悪いの!? 今、私が、私自身がどうなっているのか分からないのに……友達が死んだのを目の前で見て、私が死んで! その痛みを思い出して、狂いそうになっているのに!? なんで騒いじゃいけないの!!?」
「騒いでも何も変わらん」
「ッ!?」
「貴様が死に、この世界にワシの娘として生まれ変わった。そのことに、何の違いもない。それと同時に、どれだけ貴様自身が騒いだところで、死んだという事実は覆らん。元の世界に帰ることなどできん。そして、死の痛みを忘れることはできない。なら、あるべき今を受け入れ、そして今後のためにどうするべきなのか。それを考えたほうがまだ有意義な時間となる。ワシは、そうした」
「……」
淡々と、実に冷酷なほどに淡々とした言葉だ。しかし、何故か胸を打つ。いや、というよりこれ以上騒いではならないという気分にさせる。なんだこの圧力は、何だこの威圧感は。怖い、でも頼もしい。
あれだけ騒いで、落ち着けとか言われると思っていた。でも違う。この竜は自分に対して無理やり落ち着かせるということはしない。ただただ、自分に今の状況を伝え、その結果自分がどうしたいのかををゆだねているのだ。自分の人生経験をもとに。
≪人生経験をもとに?≫何故そう思ったのだろう。
そう、たぶんそれは竜の最後の言葉。≪ワシは、そうした≫という言葉から。それは、自分も同じ状況になったから、そして同じ状況になった時にそうして落ち着くことが出来たという経験をもとにしたから。なら、彼もまた―――。
「ね、ねぇ……貴方、は……」
「ムッ?」
「え?」
その時、竜が何かに気が付いたかのように洞窟の暗闇を見据えた。彼女には何故彼がそのようにしたのかわからなかったが、目を凝らしてみると何かが迫ってくる気配を感じた。それも複数だ。暗闇の中にあるかすかな気配、それは人間であったら絶対にわからないことであっただろうと、後の少女は思い返している。
「賊か……」
「え? 賊?」
耳を澄ませると足音が聞こえてきた。それも一人や二人ではない。もっと大勢の足音が、だ。いや、洞窟内に反響しているからそう聞こえているだけなのかもしれない。そういう聞き分けが出来ないから分からないが、きっと大勢の人間が迫ってきているのだと思う、としか考えられない。
「―――!!!」
「―――!!?」
少しして、その全容が見えてきた。やはり集団のようだ。一人一人が重厚な鎧を装着し、手には槍や剣を握っている。自分たちを、主に竜を見据えて何かを叫んでいる。それは友好な間柄とは思えず。明らかにこちらに敵意をむき出しにしていた。
「え、なに?」
「見つかったか……この場所も潮時だな……」
そういうと竜は自分の後ろにいろと言ってきた。その言葉に従い彼女は彼の後ろにある小さな穴の中に隠れる。竜はそれを確認するとその背にある翼を大きく広げ、乱入者を見つめる。
「―――!!!」
「「「「!!!!」」」」
彼女は集団のリーダーであろう人物が声を上げたのを聞いた。するとそれを合図に多くの人間が声を上げた。地響きのようなこちらにかけてくる足音が洞窟の壁に反響して、まるでオーケストラの演奏のように耳に入ってくる。
それは騒々しく、不協和音のようなものだった。しかし、それはすぐに収まった。周りが急に明るくなったと思ったら。次の瞬間集団の悲鳴が聞こえる。中には何かがはじける音や、液体がぶちまけられたかのような音まで聞こえてくる。彼女はそれが何か想像しようとした。しかし、想像できなかった、したくなかった。たぶんそんなことを思い浮かべたら、もう眠れなくなるから。
前世でのバスの事故、あの様子だとおそらく全員死んだのだろう。その時はおよそ数分で二十数人が死に、そして今回はたった数秒でそれ以上の人間が死んでいく。
人間なんて、死ぬときはそんな物なのか。そんなにあっけない物なのか。泣きそうになりながら少女は耳を塞ぐ。もう、人が死ぬ音は聞きたくないと。