第十七話
私の名前はアサカ、浅香零。前の世界では、普通の中学2年生だった。
そう、もう前の世界なのだ。ここが、自分が元いた世界ではないことに気がついた時から、私はどこかで諦めていたのかもしれない。この、地獄の様に生きるのが難い世界で、その道を歩み続けるという現実に目を逸らし続けて、そして、そのまま死んでしまいたかったのかもしれない。
彼女に、出会うその時まで。
{う、んん……}
涼やかな地面の上、いや、石の上なのかもしれない。骨のづいまで凍てつくような冷たい何かの上に寝かせられていた私は、ゆっくりとその目を開いた。
{ここ、は……}
そして、目を擦りながらゆっくりと起き上がると、まず自分の状況把握から始まる。まず持って、最初に分かることは、そこは昨日まで自分が生活させられていたあの薄暗い部屋ではなかったということ。
とても広くて、天井が高い。それに、たくさんの声がこだまする大広間だ。声、そう、その部屋の中には自分以外にも人がたくさんいた。こうしてたくさんの人間の近くにいるということは、先ほどーと言っても気絶する前だからいつのことか分からないがー一瞬だけ体験したけれど、こうして立ち止まってその声を聞くのは初めてのこと。と言っても、そこにいる誰も彼もが悲痛な声を出しているのだが。
そこにいるのは、自分と同じ女の子ばかりだった。どの子もまるでボロ布のような服を着させられていて、正直見るに耐えないような、外にも出ることができないような見窄らしい格好をしていた。彼女たちの姿を見ると、一枚とはいえ、綺麗な布で作られた[ワンピース]服を着せてもらっていた自分が幸運なのではないかと思えてしまう。
でも、やっぱりどの子も喋っている言葉は自分には理解できないような言語だった。なのでその言葉の意味が、頭の中に入ってくることはなかった。
けど、これだけはわかる。
これから、ここで、何か悲しいことが起こるのだと。
みんな、泣いていたから。
まるで、一番最初に森の中に投げ出された時の自分のようにみんな、泣いていたから。
言葉なんて必要はない。ただ表情だけで十分だった。
{ここ、どこ、なの?}
私、アサカはもう一度同じ疑問を空に投げかけた。と言っても、そこはどこかの施設の中であるため、空なんて見えるはずがないのだが。
「気がついた?」
{?}
と、その時だ。私に声をかけてきた女の子がいた。黒髪、長髪の女の子だ。年齢は、自分より少し上くらいだろうか。しかし、端麗な顔立ちと、すらっとしたその体型、そしてその豊満なボディは同じ女性として羨ましいとさえ思ってしまうような女の子。
「大丈夫? 怪我はない?」
女の子は、何か言葉をかけながら私の身体に触ってくる。でも、嫌じゃなかった。普通だったら突然身体を触られるなんて行為されれば、否が応でも拒絶してしまうところだ。けど、なぜかはわからないが、私はそんな彼女の行為を受け入れていた。さも、それが当たり前かのように。
表情からして、どうやら、自分のことを心配してくれているようだ。私は、無駄と知っていながらも言葉を投げかける。
{あの、くすぐったいです。もう少し穏便に……}
なんて言っても伝わるわけないか。そう自嘲気味に笑った女の子。しかし、その次に黒髪の女性が発した言葉は、彼女の驚きを表すのに十分すぎるものだった。
「日本語?」
{え……}
今、なんて言った。日本語、ニホンゴと言ったのか。自分の出身する国の人間だけが使うことができる、日本語と、そう、彼女は言ったのか。
{日本語、分かるの?}
私は、期待半分、そして怖さ半分で彼女に問うた。すると、女性は少しだけ考え込むような表情をして言う。
{少し……教えてもらった……}
{ッ!}
その瞬間だった。アサカは、頭から溢れる感情を、心から高鳴る鼓動を抑えきれなかった。日本語。日本の、言葉。私たちの、言葉。それを使える人間に、自分の言葉を理解してくれる人間に出会えた。その押し寄せる感動に耐えきれず、彼女は涙を流しながら女性の胸に飛び込んで言う。
{私、アサカレイです! 日本から来た、日本人です!}
と。
一方で、ヴァーティーもまた驚きを隠せなかった、まさか、こんな場所で、リュカやエイミーが使用することができる{日本語}なるものを使用する人間と出会うことができるなんて。
いや、それ以上に驚くべきことは彼女の名前だろう。アサカ、それは、自分が彼女のことを一目見た瞬間につぶやいた名前。そう呟いてしまった理由も、その時の感情も刹那的なものであったためにまるで覚えていないが、しかし今はもうそんなことどうでもいい。
もしも、この子が言うように日本人。つまり、彼女たちと同じ世界から来た人間だと仮定するのならば、この世界はどれだけ恐ろしい世界だっただろうか。この子がこの世界にやってきて、どれくらい経っているのかはわからない。でも、どれだけ心細かったことか、どれだけ助けを求めたことか。そして、どれだけ、話し相手を求めていたことか。
それを考えると、居た堪れなくなって、つい日本語で話しかけてしまった。そう、エイミーと円滑に話をすることができるようにとリュカから教えてもらった、拙い日本語で。
彼女は自己紹介をした。ならば、自分も自分の名を名乗らなければならない。
{私、ヴァーティー……伝わってる?}
{ヴァーティーさん、ですか。よろしくお願いします!}
どうやら、ちゃんと伝わっているらしい。よかった。だが、自分が使える日本語、そして理解できる日本語には限りがある。一体、どこまで彼女との会話を続けることができるであろうか。
{でも良かった! 日本語があるなら、ここは異世界じゃないんですよね!}
まずい。知らない単語を使われてしまった。リュカからは、あまり日常生活で使わないようなことは教えないようにしておくからと言われていた。それは、さも当たり前の対応である。日常において使用頻度が低い言葉を教えられても、脳の容量を圧迫するだけで、あまり価値なんてものないのだから。しかし、こと今回はそれが裏目にでたようだ。
でも、前後の文脈から予測するに、彼女が言いたいことはーーー。
{残念……ココ……日本じゃない}
{わかってます。お店の看板の文字を見て、ーーーーーやーーーの言語じゃないのは分かりましたから。でも、それ以外の国なんですよね?}
あぁ、そうか。この言葉を聞いて、ようやく分かった、彼女が自分に望んでいた答えがなんであるのかを。やっぱり分からない単語があったものの、しかしそれ以外の言葉で、自ずと察しがついた。
{世界、違う}
{え?}
{ここは、あなたの住んでいた、世界、違う}
{世界が、違うって……でも、ヴァーティーさん日本語が……}
{教えてもらった。ただ、それだけ}
{ッ……!}
その言葉を聞いた瞬間に、アサカは膝から崩れ落ちた。
その姿を見て、ヴァーティーは無理もない、と思っていた。少しでも希望を持った。持たせてしまった。そんな自分もまた悪いのかもしれない。なんて二人は思っているのかもしれない。
違う。彼女に余計な希望を与えてしまったのは自分だ。自分が、彼女の中に、ありもしないはずの希望を作り出してしまった。そう、これは全て、自分の責任。
{そんな、私、私……}
自分のせいで、彼女はこれから絶望したまま、死んでいくことになる。一度持った希望のせいで、一度は覚悟した絶望に引き戻されて、彼女は、これから、人生で一度しかないはずの死を、経験することになる。
その前に助けられたとしても、その後一体誰が彼女のことを≪守れる≫のだろう。見ず知らずの人間を、暖かく受け入れてくれる場所、誠に信じられる人間に出会うまで、一体どのくらいの時間、彼女は苦しめられるのか。
そんなの。
そんなの。
「私が、嫌だ」
「え?」
その瞬間だった、ヴァーティーの腕輪が、消え去ったのは。




