第十五話
その日、私はついに脱走することに成功した。
きっかけは、扉の鍵がかかっていないことだった。
前日までは、いつもこの部屋に私が作った料理を食べに来ていた―後々冷静になって考えてみると、どうして彼女の分まで料理を作っていたのか、自分でも不思議になる―女性は、この部屋の鍵を必ずかけて、自分をその部屋から逃がさないようにしていた。
けど、その日は違った。急いで私の部屋にやってきたいつもの女性。その女性は、いつもだったらもう少しだけゆっくりと自分の作った料理を食べるはずだった。しかし、その日はまるで火のついた矢のように素早くやってくると、黙々とご飯を食べ進め、そしていつもの扉から出て行った。
そんな事、今まで一度たりともなかった事。一体、彼女に何があったのだろう。そう私が考えていた時だった。
気が付いたのである。扉が、少しだけ開いているのに。そう、彼女が出て行く時、鍵を閉め忘れたのである。
これは好機だと思った。今が、今だけが、逃げ出す絶好の[チャンス]。私は、今まで決して開くことのなかった扉を開けた。部屋の外には、長く続く広い廊下があった。床は、赤い絨毯で敷き詰められ、天井には幾重にも[シャンデリア]のような照明が飾られているため、とても明るかった。
まるでさっきの部屋とは違う。自分がこの数週間閉じ込められた部屋は、小屋のようにこじんまりとし、そして木製の壁だったというのに、その惨めさと比較すると、何と豪華絢爛であろうことか。
私は、周囲に人がいないことを確認すると、すぐさま、そのくらい部屋から飛び出した。
{この絨毯、フカフカだ……}
裸足である私は、その床の絨毯の感覚を足で直に感じ取ることができる。靴は、あの部屋に入れられる時に奪い去られていたが、しかしだからこそこの感覚を味わうことができると考えると、少しだけ悔しい気持ちになる。
ともかく、私はすぐ、自分が今いる場所がどこなのか、そして出口がどこにあるのかを確認するために外に出るために歩き出した。
本当は走り出したい気分だった。こんな場所から、早く出たいという思いがあった。でも、それは自重した。この屋敷のような場所に一体何人の人間がいるかなんてわかりっこないが、少なくとも、見つかってしまえば、良ければ、あの部屋に逆戻り、悪ければ、あの女性が持っていたような大きな剣で―――。
{ッ!}
そんな事、考えたくなかった。そんな、現代の世界ではあり得ない事、そもそもあんな剣をいつも携える国があるなんて思っても見なかった事だ。
恐らく、彼女は何か違法なことに手を出している人間なのだろう。だからこそ武装している。私はそう考えていた。
{ここは、一体どこなんだろう}
そうだ。彼女の姿を見た時いつも思っていた。
あの姿。甲冑を着た様子、そして金髪の綺麗な髪色からして、恐らく日本人ではないことは、まず間違いない。という事は、{ヨーロッパ}の人間か。いや、だからと言って、どうして甲冑姿なのか。何らかの{コスプレ}なのか。いや、だとしたらどうして毎日毎日同じ{コスプレ}なんかで自分に会いに来たのだろう。
分からない。
分からないことが多すぎる。でも、分かることはあった。
ここにいたら危険だ。あんな大きな剣を腰に差して歩く人間が許されているような場所、長くとどまっていてはいけない。
早くここから逃げ出して、警察に駆け込もう。
そう、彼女が考えていた時だった。
{え?}
少女はいくつもの扉の中に一つだけ、開かれている扉を見つけた。
好奇心がなせる業だったのか、それとも何も考えていなかったのか、彼女は何の疑問も持たずにその部屋の中を覗き見ることにした。
後に、その行動を後悔することになるとも知らないで。
{ッ!!?}
後の取材で、少女はこう語っている。
私が見た物、それは、大きな部屋に並べられた、≪肉の塊≫でした。皮膚を剥がされ、四肢の先を失った肉の塊。赤く、幾重にも連なる糸のように太い血管と筋肉が浮き出て、白い脂肪が少しだけ見える肉の塊。
何よりも、私が見たその肉の塊の形が、衝撃的でした。
そう、その形は、どう見繕っても、どう考えても、ニ―――。
{ウッ、オ゛ェ……}
瞬間、少女は身体の中にあった食べた物全てを吐き出した。綺麗で赤い絨毯が、茶色に染め上がるくらいに大量に嘔吐した少女。無理もない。それと同じものを何体も見て来たリュカやエイミーですらも吐いてしまったのだから、耐性のついていない人間がその姿を見てしまったら、それ以上に吐き出すに決まっている。
どうして、どうして。どうして?
どうして、あんなひどいことができる。どうして、あんな非人道的な行為ができる。どうして、何故。
もしかしたら、私はとんでもないところに囚われてしまったのかもしれない。今更ながらの真っ当な疑問と至極当然の考えを持った少女は考えた。
このままでは、自分も―――。
{ッ!}
その瞬間だった。部屋の中に見た。彼女の姿を。
自分のところに、いつも料理を食べに来ていた、そして意味不明の言葉を投げかけ続けていた、あの女性。
そして、その女性は。ゆっくりと私の方を見た。
{!}
刹那、私は逃げ出した。もう、誰かに見つかることを恐れたりなんかしない。
もう、見つかった時の事を考える暇なんてない。
もう、その必要もない。
間違いなく、自分は殺される。そう確信に近いものがあった。
だから彼女は一目散に走った。どういうわけか、≪誰一人として姿を見ない≫廊下の中を、無我夢中で走り回ったのである。
一体どれ程走ったことだろう。一体、どれくらい、長い道のりを走ったことだろう。
私はついに、一つの出口を見つけた。
窓、である。
外を見ると、地面が、今自分が付けている地と同じくらいの高さにある。つまり、ここが一階である事が分かった。
という事は、その窓から飛び降りれば、逃げ出すことができるはずだ。
私は、上に押し上げる{タイプ}の窓を開くと、窓の淵を乗り越えて外に出た。実に数週間ぶりの外だ。
でも、その感動に打ち震えている場合じゃない。私は何としても、その屋敷から逃げ出さなくてはならなかった。
できるだけ遠い場所に、できるだけ隠れられる場所に。
幸運なことに、その門柱は開かれていて、屋敷の外に出ること自体は簡単だった。ふと逃げる時に後ろを見て見ると、自分がいた屋敷、と形容していた家がどれほど大きなものであったのかが分かる。が、そんな事を考えている余裕や時間なんて私にはなかった。
私は走る。石畳でできた長い道を。走る。走って、走って、走って。
走って、走って、走って。
走って。
走って。
走って。
そして気が付いたのだ。
やっぱり、ここは日本じゃないと。
いや、それどころかもしかするとここは自分がいた地球でもないんじゃないかと。
看板の文字は今まで見たことがないような字で書かれているし、道行く人たちが使っている言葉だって、―それは、ほとんどが自分を隔離していたあの女性と似たような言葉遣いだったが―自分は聞いたことがないような言葉。
そして何よりも、だ。
{月が、青い……}
そして大きい。まるで海の色を思わせるくらいに青い月。リュカの前世の世界、つまり彼女が元居た世界の月は、白くて、小さい物というのが常識だった。
しかし、この世界の月は、その月の十倍ほどに大きく、さらにその色が青い、それは彼女にとってここが自分のいた地球のある世界ではないという事を思い知らさせるのに十分だった。
{いや、そんなの……}
少女は絶望する。自分が、日本から遠く離れた別世界に来てしまったと、理解してしまったから。
故郷に帰れないかもしれない。そんな、覚悟もできていなかった少女にとって、異世界と言う場所がいかに恐ろしい事か、考えるのも酷な話だ。
そして、彼女は―――。
「――――――」
{え?}
背後に現れた女性に、気が付かなかった。




