第十話
日が落ちようとしている夕暮れ時。多くの獣たちは住処に戻り始め、寒くて孤独な夜を迎えるための準備に入っていた。
日できた影は伸びていき、森中の地面の半分以上を埋め尽くす。あたかもこれからの戦闘の場を作ろうとするかのように、面白くしようとしているかのように、黒く染め上げる。
そんな森の上を、一匹の謎の生物。リュウガが飛び回っていた。
理由はもちろん娘、リュカを探すためである。
彼女と別れた後、彼は蒼髪の少女の仲間であるロウと秘密裏に会っていた。少女本人が決闘という物を理解できているのか不安であったし、悲しみの底にある少女に言ったとしてちゃんと受け止めきれるかどうかも分からなかったからだ。
といっても悲しみに沈んでいたのはその少女だけではない。他のロウたちもまた、親を失った悲しみの中にいた。ただ一匹、彼が話をしたそのロウだけが比較的冷静だったのは、そのロウの親が何年か前にすでに亡くなっていたからというのも一つの理由である。
そのロウと話し合った結果、決まったこと。
ひとつ、決闘は双方の長同士の一対一。
ひとつ、戦いは、日が完全に落ち切った時間に執り行う。
ひとつ、決闘の際自分たちは少女たちの戦いを邪魔しないところから見守り、また手助けは一切しない。
ひとつ、もしその戦いでどちらかの命が失われることになっても相手を恨まない。
大まかな物として、以上のことが決定した。
その話し合いが終わると、リュウガは空高く飛び上がり、風向きと、そしてそれから割り出される雲の動きを計算した。
結果は、彼が予想していた通りだった。恐らく、決闘の時刻になればこの周辺を雲で覆い隠すであろう。それも、分厚く長い雲が。
昨晩は、途切れ途切れで薄かったため、戦闘中に時折月の光が差し込むことが多かった。だが、今晩はそうはいかない。きっと、一度月が隠れてしまえばもう二度とその顔を見せることは無いだろう。
話し合いをしていたロウの元に戻ったリュウガはそう語ると、ロウはリュウガに向けて言った。
≪ならば、勝つのは我が長である≫
と。
それに対してリュウガは言った。
≪で、あろうな≫
と。
この言葉にロウは意外なことを言ったな、という驚きの顔を見せた。当たり前だろう。このような場合には例え不利だと分かっていたとしてもその表情をおくびにも出さない方がいいのだと知っていたから。
リュウガはさらに語った。もとよりこの勝負、不利は承知のうえで戦を申し込んだのだと。
五年間の修行の中で、自分は彼女に様々な戦い方を教えてきたつもりだ。戦闘の仕方も、生き残り方も、全てを教えてきた。いや、教えようとした。しかしやはり限界はあった。己が彼女に教えられたのはほとんどが基礎的なことばかりで、応用技を教えることはほとんどできなかった。
これには、リュカがあまりにも覚えが悪かったことも要因の一つであった。そして、自分の見通しの甘さも要因の一つだとリュウガは語る。
夜戦なんて応用も応用。普段昼間にしか戦わないというのにそんな物を積極的に習得しても無駄になる可能性が高い。
もしそのような場面が訪れるのだとしても、もっともっと先になる物とばかり考えていた。だから、まさかこんなにも早くその時が来るなんて。
すべては、己の考えのなさが招いたこと。もしこれでリュカが負けたとしても、それもまた自然の摂理だ。
ロウは、そんな彼の言葉を聞くとフッ、と笑うかのように息を吐いて言った。
≪馬鹿げたことを言う。この森に来たことすらも修行の一環であろうに≫
と。
でなければ、一日二日で通ることのできないこんな巨大な森の中をわざわざ通ってはいかない。
ロウには確信があった。そもそもこの森の中に訪れるという事自体が夜戦の修行の一つであったのだと。
もちろん、その途中で自分の娘と同じヒトに出会うなんてことは予想はしていなかったであろうが、しかし絶対に彼は心の内でほくそえんでいるに違いない。
そんなロウの言葉に対してリュウガは言った。
≪さて、なんのことかな≫
と。笑って。
そんなやり取りが終わって数時間。リュウガはようやく彼女を見つけることに成功した。
「う、うぅ……」
湖のほとりで、裸になって体育座りをして泣きかけの彼女を。
「なんだ? 裸で何をやっとる?」
「き、聞かないで……」
湖のなかで泳ぐこと数時間。冷静になったリュカは、こっぱずかしい真似をしてしまった自分を心の底から恥じていた。
裸で、あんな奇声を発しながら森の中を駆け巡って。もし前世で同じことをやっていればすぐに警察に逮捕されて病院行きとなる大珍事だ。
そんな行動をして、気持ちよかったなんて感想を持っている自分が無性に腹が立つ。やはり、自分は痴女だったのかもしれない。服も装飾品も何もつけずに生まれたままの姿で野原を駆け巡ることに興奮する、どうしようもない人間だったのかも。
そんな自分の知りたくもなかった性癖を再認識させられて心の底から落ち込んでいたのだ。というか、この時の彼女、実は一つとんでもない過ちを犯してしまっていた。だが、それすらも認識できないほどに興奮が勝ってしまっていたのだ。
「ソレで、何とかできるのか?」
何とか、それはつまり夜戦の事。
結局のところ自分はこの半日の間ただただ裸で森の中を走り回っていただけにすぎず、修行らしい修行は一切しなかった。当然夜戦の方法を考える暇なんてなかったはずなのだが。
「うん、なんとなくつかめたかなって……」
「なんとなく……か」
そう、そのどうしようもないほど阿呆な時間の中でもなにかが見えたのだ。でも、その何かが全く見えてこない。羞恥心に隠れてしまったのか、それともそのコツを考えれば自分のやってきた奇行にも目を向けなければならないからか。
どちらにしろ、あともう少しで何がつかめるような気がするのだ。何か、何かあともう一つだけきっかけさえあれば。
「心配?」
「そんなわけない。だが……」
リュウガはその後一分近く黙り込む。
何故突然黙り込んだのか、はっきり言えば不気味だ。何故なら、父が黙り込むとき、それは何かよからぬことを考えている時であることが多いから。
そして、ようやく口を開いた彼の発した言葉はこれであった。
「用心しろ、あの娘はいうなれば人間の知性と自然がもたらした獣の獰猛さを併せ持った強敵だぞ」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、リュカは頭の中から何か汁のようなものが飛び出してきた感覚に陥る。なんだろう。今、彼は重要な言葉を発していたような気がする。自分が見つけられなかった。自分が欲していた情報を提供してくれたような。そんな気が。
まだ、その答えは分かったものではない。しかし、きっと見つけることが出来るはずだ。この先に待つ彼女との戦いの中で。
「ありがとう、お父さん……」
リュカは、微笑んでただそれだけつぶやくと立ち上がり、リュウガに決闘の場所まで案内するように頼み込んだ。
それを聞いたリュウガは、不思議な顔をして言う。
「ん? 鎧や服は着て行かんのか?」
「え……あッ」
「あッ?」
その時彼女は気が付いた。そうだ。服と鎧。どこに置いてきた。アレは確か穴の中に入った時に地震が起こって崩れてきて、それで汚れたからその場に鎧を置いた。それでその後服、と言っていいのか分からないような質素な物を奇行を始める際に脱ぎ捨てて―――。刀も、その場に、置いてきた。
そう。全部この森のどこかに置いてきたのだ。それも悪いことにこの時彼女はその置いてきた場所を完全に忘れてしまっていた。闇雲に走ってきたわけだからしょうがないとは言え、あまりにも迂闊である。
冷静に考えてみると、文字通り丸腰の状態でよく獣等に襲われなかった物である。もしも昨日の大蛇のような巨大な獣に遭遇していたならば、自分は何の抵抗もすることが出来ずに丸のみにされていたことだろう。
「あ、相手が野生で生きてきた人間なら、私も、一度野生に戻ってみてもいいかもって思ってね……アハハ」
「うつけめ……」
奇行をやった挙句に大事な装備品をどこかに失くしましたなんて口が裂けても言えない。リュカは、そんな感じでごまかした物の、恐らく彼にはお見通しなのだろう。
これは、決闘に勝っても褒めてはもらえないだろうなと思いながら、その場から立ち去る。
まぁ、彼がほめないことはいつもの事か、そう考えながら。
彼女は、傷一つない素肌を揺らしながら、森の中へと消えていった。
月明り煌めく夜。神秘的で、なんとも幻想的な世界であろうか。
白い光に照らし出された森は、青い光を纏い、踏まれた花から出た種子は、宝石のように一瞬の輝きを演じる。
まるで舞台装置かのように整然とし、全ての客が後を去ったかのように静かなそんな夜。二人の少女は再びその顔を見せた。
最初にその場所に来たのは蒼髪の少女のほうだった。
今日、これから自分は昨日の敵と決闘をする。仲間のロウから決闘の申し出を相手から受けたと聞いた時には驚いたが、しかし彼女と決着をつける時が来るなど願ってもない幸運であった。
自然の世界において事前に示し合わせての決闘を行うなんてこと決してありえないこと。あるとするのなら、森を歩いている途中に偶然鉢合わせしてそのまま戦闘を行うというくらい。
ましてや、親や仲間の仇と戦えるなんて、少女は言いようのない興奮に包まれていた。
昼間までは仲間を失った衝撃や、残った仲間たちを率いる使命感に押しつぶされてどうしようもなかった。しかし、今晩の決闘の事を聞かされてからは、敵と戦うことが出来るという嬉しさで、ただそれだけを考えるしかなかった。
すると、驚くことに自分の中にあったはずの怒りや悲しみ、そして復讐心という物は一切なくなってしまったのだ。いや、もとよりあってはならぬものだったのかもしれない。
頭が冷静になるにつれて、父の教えの意味を考える時間ももてた。
いつ命を失うか分からない自然の中。己だってその自然の中で多くの命を奪って生きてきた。そんな自分が仇うちなんて物を考えてはならない。そういう事が言いたかったのだろうと、そう思うのだ。
仲間のロウたちも、それを分かっていた。分かっていないのは自分だけ。自然の事を何も知らなかった自分だから、昨晩は冷静さを欠き、あと一歩のところで敵を逃すことになったのだ。
やはり、自分もまた元はヒトだった存在。ヒトらしい感情が心の中に少しでも残っていたのかもしれない。けど、そんな感情、自然の世界で生きるには不必要な物だ。
この決闘。自分は勝つ。きっと、そうすれば怒りの感情も捨てられるから。真の意味で、ヒトである自分を殺すことに繋がると思うから。
そして、ついにその時がきた。
「お待たせ」
「……」
目の前に現れた翠髪のヒトは、昼間とは全然見た目が変わっていた。
まず、フクを着ていない。あのゴツゴツとして硬く、鋭い爪も通さなかったフクを彼女は来ていなかった。これでは急所に一撃を与えるだけで彼女を殺せてしまうのではないだろうか。
いや、侮ってならない。自分が持ち帰ったあのフクの一部ですらずっしりとした感覚があったくらいだから。きっと、あのフクはとても重い物だったのだろう。
昨日の戦いのとき、自分の速さは彼女を大きく上回っていたことは分かる。彼女は自分自身のフクを捨て去り、身体を軽くして自分の速さについて来ようと思っているのかもしれない。
変わっているところと言えばもう二つ。刀を持っていないこと。
あの巨大な刀で斬られればひとたまりもなかったであろうことから、こちらとしては願ったりかなったり。けど、昨晩はあの刀のおかげで死角が作られて、そこを突いて攻撃することが出来ていたから、手放しているのはそれも理由にあるのかもしれない。
そして、もう一つ違うところ。
同じだ。自分と。
けど、何だ。何が同じだというのだ。その恰好か。確かに、フクも何も着ていないのは今着ている仲間の毛皮を着る前の自分とまるっきり同じだ。
でも、だからと言ってそれで自分と同じと考えるのは筋違いじゃないのか。でも、同じなのだ。野生の直感がそう指し示している。
「貴方、言葉分かる?」
「……」
翠髪の少女は、恐らく言葉を話しているのだろう。聞いたことのない言葉。けど、きっとそれはヒトが使う言語なのだろう。
あいにく、自分は物心ついたころからすでにロウたちと一緒に暮らしていたためヒトの言葉を理解することはできない。彼女もソレを理解していたのか。やんわりとした笑顔で言った。
「分からない……よね」
もちろん、何を言ったのか分からない。だが、彼女はただそれだけを言うと両手の拳を上げた。
もしかしたら、先ほどの言葉は宣戦布告だったのかもしれない。一体何を言ったのか、そんなことはもう関係ないのだが。
今自分がすること。それは、目の前にいる少女を殺す。ただ、それだけ。もう、自分に怒りや憎しみはない。あるのはただ、自然の摂理に任せ、目の前にいる獣を殺すという当たり前の事。
「それじゃ、勝負!」
「……」
もう二度と、怒りを持って戦わない。改めて夜空に浮かぶ月に願った少女と、そしてリュカはぶつかる。生涯忘れることは無い初めての命を賭けた喧嘩を。




