プロローグ 死かあるいは開放か
これは、≪私≫が≪彼女の魂≫から聞いた歴史の始まりの一頁。
身勝手な人間に振り回されることになるたくさんの人間の物語。
これを歴史に残しておくべきなのか。決めるのは、貴方。
貴方は、どう思いますか?
深い深い海のように暗い世界にあった少女の意識。このまま沈んでいくだけしか残されていなかった彼女の心は、鼓膜が破れるかのような大きな音によって奇跡的に蘇った。いや、蘇ってしまったと言ってもいいのかもしれない。
もし、彼女の意識が覚醒することなく死んだのならば、彼女は残酷な光景を見ることなく逝くことが出来たのだから。幸運と不幸は紙一重だ。
警報音、いや違う。車のクラクションだ。それが、ひっきりなしになり続けて耳が痛くなる。しかし、何故クラクションが聞こえるのだろう。いや、それ以前に自分は一体どこにいたのだろうか。どこにいて、そして何をしていたのか。
少女はゆっくりと思い出す。あまりにも突然で、見ることのできなきった走馬灯を追うかのように、必死で頭の中にある記憶を引き摺り出す。
そう、確か自分は修学旅行で京都に来ていた。修学旅行という学生の恒例行事の中ではポピュラーな旅行先だ。
それで、コース毎にバスに乗って、自分たちは紅葉を見に行くために高速道路に乗ったのだ。それで、親友と一緒に笑いあっていた。そんなところまでは覚えているのに、それ以降のこととなると全くと言っていいほどに記憶がない。
眼を開ければ何か分かるだろうか。というより、なんで目を開けなかったのだろう。それが不思議なのだが。
「う……ッう……」
重い。真冬の朝、くるまっていた布団の中から起きなければならない時に似た重さを感じる。瞼が、開いてくれない。なんでだろう。素朴な疑問が脳内を駆け巡る。
眼自体が空かないのであれば、せめて身体を起こそう。そう考えを映した少女は、手を動かそうとする。
が、無理だった。岩でも乗っているのではないかと思わんばかりに手も、足も、身体も動こうとしない。
ここまでくると、言いようのない不安に陥ってしまう。果たして、自分に何が起きているのか。同じバスに乗っていたクラスメイトたちはどうなっているのか。隣に座っていた親友はどうなってしまったのか。心配が心配を呼び、どんどんと彼女の心が濁っていく。
嫌だ、このまま何も知らないままなんて、恐ろしすぎる。せめて、今の自分の状況を一つだけでも知りたくて仕方がない。
人間の身体は知識の欲求にたいして無力なのではないのだ。そんなことを考えていたらば、徐々にではあるが彼女の目は開かれていった。
そして、気が付いた。そうか。自分の身体は拒否していたのだ。この、残酷な光景を見たくないと、見せたくないと頑張ってくれていたのか。
彼女の目が開かれた先、そこにあった物。それは、顔だった。見覚えのある。しかし、見覚えのない赤い顔。つい先ほどまで一緒に笑いあっていたはずの親友が、眼が開かれた状態で倒れていた。
「こと、は……?」
呼びかけてみる。だが、返事がない。いや、もしかしたら聞こえてなかっただけなのかもしれない。
自分の口から出たのは、いつも出している綺麗な、などというと自画自賛になってしまうのだが、直前まではきれいな声だったはずなのに、つい先ほど出たのはあまりにもかすんだ声で、小さくか細い物だった。
いや、だがそれでも声を出せた自分自身をほめてもいいのかもしれない。声を出そうとした瞬間、身体中を激痛が走った。正確に言えば痛みを思い出したと言ってもいいのかもしれない。
それを皮切りとして身体のいたるところから痛みを感じ取った少女は、ついに思い出した。
そう、自分は、自分たちは事故に遭遇したのだ。自分が最後に見た光景を信じるのであらば、恐らく前を走っていた大型のトラックが転倒して、乗っていたバスの運転手は急ブレーキをかけたが間に合わず、激突してしまったのだろう。
あたりが赤い、オレンジ色の景色であるところを見ると、その後ガソリンに火花か何かが引火して、爆発、炎上してて―――。
やめよう。これ以上自分に襲い掛かった悲劇を思い返すのは。
あれほど開けるのに苦労していた目を、今度はあっさりと閉じてしまう少女。
彼女は気が付いてしまったのだ。親友が既に絶命しているということ、そして自分自身ももうじき親友と同じく躯となってしまうということに。
例え火がバスの中に入ってこなかったとしても、煙を吸わなかったとしても関係はなかった。この激痛、恐らく体のどこかが大怪我を負っている。もしかすると、親友の手があった場所のようにどこかから大量に出血しているのかもしれない。そう、例えば事故の前に親友の手を握りしめていた右腕があった場所から、とか。
だとすると、自分に待っているのは紛れもない死。立ち上がることも、床を這うこともできない少女に待っていたのは、明確な死。逃げることも、立ち向かうこともできない、死。
死が待っているのなら、こんな残酷な光景ではない。血にまみれた親友の顔ではない。親友たちとの思い出を瞼の裏に見ながら死にたい。そう願うのは間違っていることだろうか。いや、間違っていない。
自分は、自分が愛する人たちの顔を見ながら死にたいのだ。
だから、だから―――。
自分は、幸せ者だ。幸せであると思おうと心に決めた。
一番好きな人と一緒に死ぬことが出来るんだから。
一瞬だけ目を開けた時、彼女は見た。親友の左手が、自分の身体から離れた右手を握って離さないでいるのを。
それは、自分と彼女との友情の証のようにも思えた。思いたかった。
死してなお、決して離さない。離したくない。死んでもなお、一緒にいよう。そんな彼女の愛を感じながら、≪竜崎綾乃≫の意識は今度こそ完全に途絶えたのだ。
ーその時、懐かしい声を聴いたー
ここは何処、貴方は、誰。
私は竜崎、綾乃。いや違う、私の名前は―――何だっけ。
―――。
あれは誰。
あれはパパ。
パパ、あんな怪物が。
うん、でも優しい。あ、そっか―――。
どうしたの。
私、死んじゃうんだ。
え、どういう事。
私は貴方になる。貴方は私になる。だけど、私は死ぬ。貴方は生きる。
どういうことなの。私があなたになるって、どういうことなの。
よく聞いて。私は貴方。貴方は私。私の人生は貴方の物。貴方の人生は貴方だけの物。
分からない。分からないよ。貴方は一体、誰なの。
私の名前は、《リュカ》。
リュカ、それって私の名前。
そう、貴方の名前。私の全部が、貴方の物。私の名前も、貴方の物。私の人生も、貴方の物。
私は、竜崎綾乃。私は、リュカ。二つの名前、二つの人間。でも、一人は死人。一人は、生者。
そう、だから、私は死ななくちゃならない。貴方のために。
一つの身体に、二人も生者はいらない。いらない方は、出て行かなくちゃならない。
そう、だから私は離れるの。貴方のために。私の身体のために。私の人生は、もう私のための物じゃない。
え?
頑張って、生き切って……私。
「……あれ?」
何か、夢を見ていたような気がする。それもとても、とても長い夢だ。
一体何だったのだろう。彼女は、自分の身体を起こす。そして、気が付く。
「ここ、どこ?」
目の前にあるのはただただ真っ黒い岩肌だけ。それもかなり遠くまで続き、奥へ行けば行くほどその暗闇は続いているようだ。その様子は幼いころに家族と一緒に行った鍾乳洞によく似ていた。自分は確か補整されたトンネルの中にいたはずなのに、それも死ぬのをただ待つだけの死刑囚のようなものだったのに、なぜこのようなところにいるのだろうか。
「そうだ、私……」
確か、自分は事故を起こしたバスの中にいたはずなのだ。親友も死んで、自分自身も傷ついてて、人生の終わりのカウントダウンが聞こえてくる、そんな瀬戸際だったはず。なのに、自分は生きている。どういうことなのだろう。
走馬灯、というのも考えたがしかし、ソレにしてもあまり見覚えのない光景が走馬灯として出てくるであろうか。
ふと、身体に奇妙な感覚を覚えたため下を見るとこれまた不思議なことに気が付いた。服装が違う。
先ほどまでは普通のTシャツにスカートだったのが、質素な服、といって片付けていいのかと疑問に思うほどに簡素な服に変わっている。そもそも服と言っていいのだろうか。なんだか、藁をただ編み込んだだけのワンピース、と言えば聞こえばいいが、原始人の服を着させてもらっているかのように簡易な作りで、おしゃれに気を使っている人間なら、こんな格好で外に出たくないと声高々に言いたくなるものを自分は着ていた。
それに、である。
「え、腕も……足、もある」
あの時、自分の右手が損失していた事実は自分の目で見た真実のはずだ。あの時の激痛から考えるに、左足も切断されていた可能性も考えていた。だが、見ると今の自分は五体満足。それにどこにも傷は見当たらない。
おかしなことはそれだけではない。足も手も、なんだかさっきよりも大分小さくなっているように思えるのだ。
それに何だろう、少し感覚がおぼつかない。自分の身体を動かしているはずなのにまるで他人の身体を動かしているかのような感覚。使い慣れていない操り人形を持った時の感覚に極めて類似していて、少し違和感がある。
あと、胸も心なしか大きくなっている気がする。ブラジャーという締め付ける物がない分その増大差分がよくわかる。
「って! なんで私下着履いてないの!?」
少女は、自分でも気にするところが違う気がするなと思いながらそうツッコミを入れた。
ブラジャーも、パンツもつけていない。こんな状態で外に出たなんて恥ずかしいにもほどがある。もし下から誰かが覗こうものなら自分の誰にも見せたことのない秘部があらわになってしまう。幸いにも岩の上に座っているために下からその誰かが覗くということはあり得ないし、そもそもその誰かは辺りにはいないため己の羞恥心は守られるというのは幸いである。
「!」
と、思ったのは彼女の勘違いである。他人は下ではなく上に、ひいては後ろに存在したのだ。
突如として感じるただならぬ気配。周囲の空気が薄く、重くなったかのように肺に入るのを拒み、彼女は身体を硬直させた。
これまでの人生で感じたことのないほどの圧力、プレッシャーだ。親や先生に怒られている時ですら感じなかったほどのとてつもない威圧感。バーベルをいきなり背中に乗せられたかのような重みを感じる。
ゆっくりとであれば首と上半身も少しだけ動かせるようなのでそのプレッシャーが飛んできているであろう背後へと振り向いた。
恐る恐るという言葉がこれほどまで似あう場面なんてそうそうないだろう、などと考えられる当たり、どうでもいいことを考える余裕はまだあるらしい。
「あ、あぁ……」
瞬間、生暖かい水の感触が股を伝った。彼女は、恐怖で無意識に漏らしてしまったということにまったく気がつかない。それどころじゃなかったから。
振り向いたことに後悔した。そこにいたのは、はるか高くにある天井にも迫るほどの大きさを持ち、ただ存在しているだけでその示威を感じさせ、こちらにいざとなったら殺してやるとでも言わんばかりに目線を自分に向け続けるソレ。
碧のうろこに包まれ、巨大な羽と尻尾を持つソレの正体、彼女は実は知っていた。
知っていたのだが、まさか本当にそんな存在がいるなんて。まるで夢心地の中にいるかのように信じることが出来ない存在。伝説の中だけと思い込んでいたその存在が彼女の目の前にその威厳ある体勢を崩すことなく厳存していた。
「竜……ドラ……ゴン……」
彼女自身はまだ気が付いていない、自分の髪の色が黒色から煌びやかな碧色になっていることに。
彼女はまだ知らない、そこは自分が生まれ育った地球ではないことに。
彼女はまだ知らない、これから自分に何が起こるのかを。
それは死を始まりとした物語。拒絶から生まれた物語。
大うつけの、物語。