第六話 哀叫
森は、いつもの朝を迎えた。
昨夜大火事があったことなんてこと、まったく気にもとめることなく、森中に吹く風。涼やかで気持ちのいい物なのだろう。自分以外の他の獣たちにとっては。
「ふ、フワァァァアァ……眠い……」
大あくびをするリュカは、再びゆっくりと森の中を進んでいた。
あの後、彼女はなんとか寝ることが出来そうな場所を見つけることに成功し、そこで一夜を明かした。もっとも、あんな出来事の後だったために寝るに寝ることが出来ず、ほとんど徹夜したと言ってもいいのかもしれない。疲れも全く取れず、本当はもう少し寝ていたかったというのが本音だ。
けど、彼女にはどうしても探さなければならない物が二つあった。それを見つけない限り次の国に向かえない。
「おかしいな、この辺りだった気がするするのに……」
しかし一向に見つからない。一体、何故。
彼女が探している物。それは、あの戦いの中で落した籠手だった。昨夜、確かにこの辺りに落したはずであったのに、全然見つからない。
森の中の景色はとても似たり寄ったりであり、またあの時は光源の少なさもあったり焦っていたりしてよく見えてなかったから、そもそも場所を勘違いしてしまったのか。
そうとなれば、この森の大きさに比べればコメ粒ほどに小さい籠手なんて物を目印もなく探すなんて不可能に近い。これは骨が折れる。
それに、もう一つある。
「お父さんも一体どこに行ったんだろう……」
そう、リュウガが行方不明になってしまっているのだ。
蒼髪の少女と戦う時までは確かに一緒にいたはず。それなのに、戦い始めてからは彼の気配が一切なくなってしまった。
彼の事なのだから、あの少女に倒されたとか迷ったとか、そんなくだらない理由でいなくなったわけではないと思いたいが。
「……」
ふと、そこまで考えを巡らせてからリュカは立ち止まった。思い出してしまったのである。あの蒼髪の少女の怒りに満ちた、しかしその奥に見えた悲しい顔を。
「あの子、女の子、だよね……」
あの顔、あんな憎しみと苦しみで塗りつぶされた顔、女の子がしていい物じゃない。何が彼女を変えてしまったのか。何が彼女の顔をそこまで歪ませてしまったのか。いや、そもそもどうしてこの森にあんな人間の女の子が暮らしていたというのだろうか。
この周辺に人里がないというのは重々承知。つまり、自分と同じようにどこからか遠出をしてきたと考えるのが自然だ。けど、あまりにも自然すぎる。あの格好、暗くてよくわからなかったが触れた時にふんわりと、そして暖かみを感じる。あれは、きっと毛皮なのだろう。
それにあの爪、何週間、何か月放置していたらあんな長く鋭い爪になるのか。もしかしたら、本当に自然と一緒に暮らしてきた少女であるというのだろうか。あの、獣が徘徊する危険な森の中で一人で生きてきた女の子だと、言うのだろうか。
彼女が自分の事を殺そうとしたいた理由は、自然が生んだ獣の一人だから。だから、生きるために例え相手が自分と同じ人間であっても殺さなければならなかった。そう考えれば辻褄が合うような気もする。しかし、何か釈然としない。
自然の中で生きる者に対して敵を殺そうとする理由なんて問うても意味のないことだとは思う。しかし、それなら何故あんなに怒りや悲しみで満ちた表情をしていたのか。それが、彼女には理解できなかったのだ。
本当、理解できないことばかりがある世界だ。元よりここは自分の人生の半分もいなかった世界。まだまだ常識と非常識の差なんて分からないし、そもそもこの世界の人間がどのように生きているのかも把握できていない。そんな自分が、この世界で純粋に生きてきた人間の子供の心を知ろうとするなんて、無理な話なのかもしれない。
「こんなところにいたのか、リュカ」
懐かしい声だ。彼の声にこんなに里心を持ってしまうなんて、自分は着実にリュカの心に浸食されてきたのだろう。
リュカは、うつむいていた顔を上げる空中を飛んでいる彼に向けて言った。
「お父さん、今までどこに行ってたの?」
「情報を集めにな」
「情報?」
どうやら、リュウガは昨晩から今日にかけて何かしらの情報を集めていたらしい。しかし、一体何のだろうか。
この森の抜け道、危険な道、近道。色々な考えが思い浮かぶ。だが、どれにしてもあの籠手が見つからなければ次に進むことはできないのだが。
リュカがそう考えた時、リュウガは口を継続して開くと言った。
「そうだ。貴様が昨日戦った少女のことを突き止めたぞ。その少女の怒りの原因もな」
「え……」
そしてリュカは聞いた。改めて感じた。自分の罪の重さを。
「ウウゥゥゥ……」
とある巨大な樹木の目の前。そこに似十匹ほどの狼―この世界での名称に合わせて≪ロウ≫と呼称する―たちが群れを成してやってきた。
一人の、蒼髪の女の子を先頭にして。
「アオォォォォン!!」
皆が、樹木の前に並んだ時、一匹のロウが遠吠えを発した。遠く、空高くにいる≪親≫に聞こえるように願って、長く、太く、そして悲し気に。
「アオォォォォン!!」
「アオアオォォォォン!」
「ワオーーーーン!!」
その一匹の声を皮切りとして、周りにいたロウ達もまた遠吠えを上げていく。それぞれに、違った遠吠えを。空高くにいる≪親≫に捧げていく。まるで、弔っているかのように。悲しみをそれでしか晴らせないと感じているかのように、どこまでも響く声を発していった。
「……」
その中で、先頭の少女は黙り込んでいた。人間の少女は、耐えていた。この悲しみ、苦しみ、そして重くのしかかる責任感に。
これから、自分は後ろにいる仔たちを導いていかなければならない。≪長≫の娘として、新しい≪長≫として。
彼女の背後にいるロウたちは、皆対格差はあれども子どもだ。大人は一匹もいない。殺されたのだ。あの、忌々しい翠の髪を持つ≪自分の元の種族≫であるヒトに。
物心ついた時から、自分はロウの長の娘だった。最初はヒトとして生まれた自分だったけれど、この森に捨てられていたらしい。
ほんとうなら、すぐに獣たちの餌になってその生涯に幕を閉じるはずだった。でも、そんな自分をロウ達は助けてくれ、そして他のロウ達と同じように育ててくれた。
最初は、種族の違いから身体能力が違いすぎて、狩りの訓練の時にも他の仔ロウ達に劣ってしまっていた。生肉も満足に食べることが出来ずにお腹を下したり、皆の足手まといになることが多かった。
それに、問題だったのは毛皮だ。他のロウ達は皆蒼いふさふさの毛皮を纏っていたから、雨が降っても、雪が降ってもとても何不自由なく過ごしていた。
でも自分は違う。自分はヒトだから、毛皮なんて物ない。確かに少しくらいの毛は生えてはいたけど、それじゃ身体を守ることはできない。
長であり、親代わりだったロウが後に言っていた。ヒトという獣は、フクと呼ばれる物を着ることによって寒さや暑さをしのいでいるのだと。
けど、ヒトから捨てられた自分はそんな物、当然持っているわけがない。
あの時も、何週間も森に雨が降り続いた時にも、もう少しで凍え死んでしまいそうだった。
身体が濡れ、土や葉を使って何とか乾かそうとしても無駄。本物のロウだったら身体を振るわせるだけで乾くというのに、ヒトという種族に生まれた自分をとても恨んだ。
体温が奪われ、身体が震え、このまま死んでしまうのではないかと思うほどに心がやせ細っていった。
そんな時だった、仲間のロウ達が身体を寄せてくれて、自分の身体を温めてくれたのは。
あの時の温もりは、決して忘れることのない。心も体も陽だまりの中にいるようにポカポカして、とても満たされた気持ちになった。
こんな温もり、もしヒトのまま生きていたのならば味わえなかったはず。フクなんて無機質な物に包まれていたのならば決して感じることのなかったはずの、これ以上のないほどの暖かみ。
それまで、ヒトというものに少しは未練があった。もし、ヒトとして生きていたのなら、ご飯でお腹を下したり、獣に追いかけられたりなんてしなかったのかもしれない。安心して家という物の中で暮らすことが出来、なおかつ寒さに凍えることは無いのだろうなと、何度も何度も思っていた。
でも、その出来事のおかげで吹っ切れることが出来た。自分は、ヒトを捨ててロウとして生きようと、心の底から決めることが出来た。
そうと決めてからは、彼女の人生は大きく変わった。まず、病気で死んでしまったロウの毛皮を組み合わせたりして疑似的な毛皮を作った。生肉を食べるのにも慣れ、いつしかお腹を下すこともなく食べることが出来、また身体能力に関してもどういうわけか他の仔ロウと同じように動くことが出来るようになった。
爪や牙も同じ。他のロウと寸分たがわぬほどに長くのび、いつしか自分は仔のロウ達の中では一番狩りを上手にできるようになっていた。
そして、一番驚いたのは言葉だった。それまで、仲間たちの声はただの鳴き声に過ぎなった。でも、あの出来事を境として、獣の言葉が理解できるようになって、普通に会話をすることが出来るようになったのだ。おかげで、より一層仲間たちとの距離を縮めることが出来たし、褒められた時にはとても嬉しかった。何年かして大人になった時仲間たちを導くことが出来るのは自分しかいないと言われた時はとても、とても嬉しかった。
けど、まさか、その時がこんなに早く来るなんて思ってもみなかった。
昨晩は、大人の狩り。自分たち子供はそれの補助として得物を罠のある洞窟に誘い込むことになった。
余談だが、その罠は元ヒトである自分が考え、そして作り出した罠で、個人的にはとても満足のいく出来だった。
そんな罠を最初に使う相手がヒトだった時にはビックリしたのだが、これも経験と考えて両親や大人のロウ達のいる方向へといつものように得物を誘い込んだ。
後は、逆方向から洞窟の中に入った仲間たちが得物を仕留め、これまたいつも通りのご馳走が待ち構えているはずだった。ヒトの肉が上手いのかは定かではないし、もう捨てたとはいえ同じ人間が食べてもいい物なのかという素朴な疑問はあったのだが、しかし生きるためには仕方のないことだと腹をくくった。
けど、洞窟の外で待っていた彼女が見たのは仲間たちの姿ではない。とんでもない速さで駆け出して行ったヒトの姿だった。
一方、洞窟の中は炎、と呼ばれる物で満たされていた。自分が見た時、仲間たちはもう全員死に絶えていた。
その瞬間、彼女の中で何かが吹っ切れた。気が付いた時には、自分は木に爪を差し込んでて、仲間たちを殺したヒトが逃げようとしているところ。
ダメだった。殺せなかった。逃げられた。打ち取ることが出来なかった。ただ、それだけは分かっていた。
できたのは、あのヒトのフクをはぎ取ることくらい。けど、こんなものその辺にいる獣たちと同じようにすぐに再生されてしまうという事知っている。
何もできなかった。仇を目の前にして、逃がしてしまった。
でも、それ以上に悔しいこと。それは、自分は一族の掟を、教えを守ることが出来なかったという事。
父は言っていた。≪自然の中では強き者が生き残り、弱きものが死ぬ。弱きものが死んだからと言って、強き者には何もいう権利はない≫と。
母も言っていた。≪もし自分たちが死んでも仇を撃とうとは考えるなと。もしそんなことを許してしまえば、お前は二度と自然の中で生きることはできなくなる≫と。
自分は、仲間たちを殺した強き者に復讐をしようとした。自分は、怒りを抑えることが出来なかった。ただただ復讐のためだけに動いてしまった。
一族の掟も守れない、仔しか残らないこの一族を、これから自分が率いる。そんな不条理なことをしてしまってもいいのか。
こんな弱い自分が率いて、この子たちを守ることが出来るのだろうか。これから、自分はどうなっていくのか。
教えてもらいたい。あの時のように、狩りのコツを教えてくれた時のように、優しく、厳しく、教えてもらいたい。
でも、無理だった。
自分に優しかった仲間は。
自分に厳しかった仲間は。
頼りにすることが出来る大人たちは。
「ワォォォォォォォォォン!!」
もう、誰も残っていないのだから。
その時響いた鳴き声。それが、彼女の物だったのか。それとも他のロウの物だったのか、彼女自身にも分からないことであった。




