第十七話
『嫌、なんで、こんな……』
竜崎綾乃は狼狽していた。あたかも、蛇に丸のみにされた幼き赤ん坊のように。
いや違う。ここは彼女の事をこう呼ぶべきであろう。リュカ、と。
『やめて……こんなの、思い出させないで、やめてよ!!』
あの温泉の中に入った後、彼女の意識は一瞬だけ途切れ、そしてまるで夢を見るかのように前世の記憶が呼び起こされてきた。
それは、あまりにも鮮明で、まるで[テレビ]の映像を見せられているかのように自分の楽しかった思い出を、もう忘れかけている妹や、義母との楽しかった日々を思い出させてくれた。
どれだけ大切な思い出でも、色あせ、人はいつしか忘れてしまう。竜崎綾乃とは違う自分になったとしたら、もっとだ。
でも、そのおぼろげになっていた記憶が、今、自分の中で再び目覚めだした。
本当に、あの頃は楽しかった。もう戻ることはできないと知っていた。もう過去のものであると諦めていた。いや、諦めざるを得なかった。そんな過去の記憶達。
それは、彼女の心を大いに高鳴らせ、そして望郷の念という物を抱かせるほどだった。
けど、それもわずかの時間。
今、自分は、自分の人生、いや竜崎綾乃の人生で最も嫌な記憶を思い出してしまった。もう、過去も過去、思い出すのも身の毛のよだつほどのあの事件の記憶を。
父と母を失った。あの日の事件。
そして、竜崎綾乃に決して消えない傷をつけた、あの事件。
犯人が何者であるのか。今の自分には全くわからない。
けど、少なくともあの男は、何故か自分の妹を、瑠奈を狙っていたのは確かなのだ。
だから、自分はその男を止めようとした。でも、無理だった。わずか四歳の自分の力じゃ、妹を取り返すことなんてできなかった。
だから、私は、あの時。
『やめて、止めて!! やめてよ!!』
火が迫ってくる。自分の身を焦がすとても熱くて、そして恐ろしい火が。
煙が襲ってくる。自分を包んで闇の世界に連れて行こうとする、諸悪の根源が。
そして、死が迫る。あの時の自分じゃ、認識することもできなかったような死。その後に訪れることになる本当の死にも似た絶望、痛み、そして―――。
安らぎ。
『違う! 死は安らぎなんてものじゃない! 今を生きたいと願う人間たちからすべてを奪う最低な終着点……』
なのに、どうして私は生きてるの?
『どうして、私は今、ここにいるの?』
あの時死んでいたはずなのに、あのバスの中で、死んでいたはずなのに、どうして今、ここに自分の命があるの?
あってはならない。あってはならないのだ。こんな矛盾。こんな運命なんて、あっていいわけない。
『私は、ここにいちゃいけない人間なの? ねぇ、答えて……誰でもいいから、答えてよ!!』
彼女は叫んだ。虚空に向かって、炎の向こうに向かって大きな声で、叫んだ。
でも、無駄だった。
だってこの空間には自分と、過去の記憶の自分、妹、そして今まさに私を殺そうとしている人間しか―――。
「ハァッ!」
『え?』
その時だった。あの人が、現れたのは。
そう、か。そうだった。私は、この時絶望と一緒に希望を味わったんだ。
どうして忘れていたんだろう。多分、嫌な記憶と一緒に封じられてしまった淡い初対面の記憶。
そもそも、ここで死んでしまったのならば、あのバスの事故での死もない。ここで自分は生き残ることができたのだ。
誰のおかげで? そう、彼女のおかげで。
「あぁ?」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
後の私たちの義母となってくれる存在、竜崎空の手によって。
ホテルの一室の壁を破壊しながら現れた女性。考えてみれば、いくら火災で脆くなっていたとしても、その壁を破壊して現れている時点で何かおかしい気がしないのでもないが、後の彼女の道場での行動を見れば、それもおかしなものじゃなくなるのだろう。
「はん、まだ息があったらしいな? けど、虫の息じゃねぇか」
男が、私の首根っこを掴みながらそう言っていた。
確かに、よく見るとこの時の空は生きも絶え絶えで、上に来ている[Tシャツ]も自分の血で真っ赤になっていた。
すでに幾人もの死を見てきたリュカにとっては、その光景はまさしく死を前にした人間の姿そのもの。虫の息という表現も正しいものだった。
もう、彼女からは生気という物を感じ取ることができない。それほどまでにズタボロだった。
けど、失われていない物も確かにあった。
「見たくない……」
「あん?」
それは―――。
「もう二度と、子供が、誰かが、死ぬところなんて、見たくない!」
これは、まさか。
「なに!?」
その時だった。男の手から私、そして妹が離れたのは。気が付いたら、私は空の腕の中に抱かれ、男から五メートルは離れている地点に立っていた。
間違いない。今、空から魔力に似た何かを感じた。けど、使っている人間が言うのも何であるが、魔力のように嫌な物じゃない。むしろ、とても心地いいと言ってもいい、≪気力≫。魔力が、悪であるとするのならば、彼女から発せられたそれは、善。それほどまでにすがすがしい気持ちにさせる物だ。
『空、貴方……』
あなたは、いったい何者だったの。今になって疑問に思う、彼女の正体。現実の世界にいるにもかかわらず、魔力と正反対の力を行使できるその正体は、一体。
「馬鹿ね……こんな時になってようやくあの頃の私を思い出すなんて……本当……私って……大バカ者ね……」
「てめぇ!」
「ッ!」
その瞬間だった。男の腕が飛んだ。文字通り。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!!」
その腕が、男の身体から離れ、炎の中に飛び込んだのだった。
なんだ、今、一体、何をしたの。何を。
いや、違う。分かる。今なら分かる。彼女は、魔力に似た力を行使したのだ。
それによって、男の手を吹き飛ばしたのだ。
なんという事だ。自分が、すでに、前世の時点でこのとんでもない力に巡り合っていたなんて。
「てめ……」
男は、吹き飛ばされた右腕のあった部分を押さえつけながら呪言を残そうとした。
しかし、そのような呪い、彼女が許すわけがなかった。
「せ〝い〝やぁぁぁぁ!!!」
「グおっ!?」
その瞬間。文字通りすべてが吹き飛んでいった。男の身体は、木っ端みじんに消し飛び、空気中の塵となったのだ。
当然だ。今のリュカの身体があるこの世界でも、魔力を十分纏った攻撃で岩盤の一つを削り取ることができるのだから。それを、生身の肉体にぶち当てればどうなることか、想像するに難くない。
「ふぅぅぅぅぅぅ……」
空は、まるで自分の体の中に宿った邪なる心を吐き出すかのように息を十数秒間にわたって吐く。
そして、とびっきりの笑顔で振り向くと言った。
「あなた、大丈夫? じゃないわね、こんなにやけどを負って……」
空は、その時、私の顔に付いたやけどを見たのだろう。
その優し気な微笑み、そして悲しい表情は、こうして絵で見せられなかったとしても鮮明に思い出せるほどだ。
「ううん、大丈夫。ルゥが平気だから……」
「え?」
その時、空が不思議な顔をした。私は、そのことに気が付かずに言うのだ。
「ルゥ、わたしのいもうと……わたしが、守らないと……いけ、ない……から……」
そこで、私の意識は完全に消失。気が付いたら、病院でルゥと一緒に入院していた。
それから数日後には父や母のお葬式、というよりもその[ホテル]火災によって亡くなった人たちの合同葬式のようなものがあった。
そこで、私は、私たちは空から一緒に住まないかと提案され、私と瑠奈は、竜崎綾乃と竜崎瑠奈となった。
これは空に後から聞いたことだが、空の旦那は警察の、いわゆる公安の人間であったらしく、あの[ホテル]にも実は一緒に来ていたそうだ。
私を殺そうとしていたのは、その空の夫がかつて潰した組織の残党からの刺客で、火災もその男が引き起こしたものだったらしい。
つまり、私たちの両親や、それ以外の被害者たちも、ただ巻き込まれただけに過ぎなかったのだ。空は、そのことをとても後悔していた。
けど、今となってはもうそんな事どうでもいいのだ。
確かに、自分たちは父と、母を失った。でも、自分と妹の命だけは残ったのだから。それだけが嬉しかった。
そして、空との生活も楽しかった。もちろん、全てが順風満帆ではなかった。顔にできたやけどの跡でいじめられたり、仲間外れにされたり、友達ができなかったりした。
けど、琴葉や、それに夏澄という親友を手に入れることができた。あの人生に後悔なんてない。
そう、後悔なんてないのだ。
なのに、どうして?
『どうして、私は転生者になったんだろう?』




