第十六話
「い、たい……」
彼女の目が開かれた時、そこは悪夢のような光景が広がっていた。端的に言えば、地獄のような光景、そういう事なのだろう。
当時、四歳の少女には意味も分からない光景だ。
炎が渦巻き、黒煙があたりを包み、息をするのも憚れるほどの悪臭にむせこんで、少女は本能的に床を這いずり回るように動いていた。
物心ついたばかりの彼女には何もわからなかった。そこがどこで、そして顔中を襲う痛みが何なのか。まったくわからないでいた。
ただできることといったら、やっぱり呼ぶことだろう。少女は、むせこみながらも叫ぶ。
「おとうさん! おかあさん! ルゥ!!」
しかし、当然ながら返事が返ってくることはない。
父も、母も、妹も、みんなどこかに行ってしまった。自分一人残して。
そんな時、彼女はようやく思い出した。自分たち家族が一緒に旅行のために[ホテル]の一室に泊まったという事を。当時の彼女には分からなかったが、久しぶりに長期の休みをもらったという事で出かけることになった自分たち四人。
その初日の事、疲れ果てた自分はホテルの一室のベッドの上に乗った瞬間に睡魔に襲われてぐったりと夢の中に入ったはずだ。
それなのに、どうして自分は廊下に、たった一人でいるのか。
「どこ、どこにいるの!?」
少女は心細そうに叫ぶ。荒れ狂う業火の中にいるかもしれない家族に向けて。
「ねぇ、おとうさん!」
彼女は訴える。私はここにいる。誰か迎えに来て。私を一人にしないでと、心の底から叫びをあげる。
「おかあさん!!」
彼女は心細かった。誰かに傍にいてもらいたかった。
それと同時に、彼女にはやるべきことがあった。それが―――。
「ルゥ!」
姉としての使命感。きっと、彼女は父も母も探していない。それよりもまず、妹のことを探していたのだ。一目散に、ただただ前向きに、探し始めていたのだ。
それが、彼女がお姉ちゃんであるが故の本能。
けど、誰も返事を返してくれない。それだけでも、彼女の心を折るのに十分であった。
「どこ、どこなの、ねぇ……わたしを、ひとりに、しないで……」
煙という物は、天井近くをさまよう物。だから、這いつくばりながら辺りを散策している彼女は、煙を吸わないための最善の行動の一つを取っていたと言える。偶然ではあるが。
だが、幼い彼女の体力はすでに限界に達していた。つぶやくようにしか言葉を発せなくなっている今が、そのよい証拠だ。
自分は、一体どうなってしまうのだろう。当時の彼女には、死という概念はなかった。だからこそ、怖かったと言えるのだろう。自分がどんな末路をたどるのか。自分の中の人間としての心が、どうなってしまうのか。
自分の心の行き先が気になりながらも、彼女はその目を閉じようとした。もう、苦しいのは嫌だから。
彼女は逃げようとした。生という苦しみから、無という偽の安らぎへと。それが、彼女にとっての幸せだと、そう信じていた。
でも、運命は残酷である。彼女の心を目覚めさせる声が、耳に届いたのだ。
「や。やめてぇぇぇぇ!!!」
「え?」
聞こえて来たのは、女性の声だ。間違いない。女の、人の、声。
母とは違う。でも、今の彼女にとってはもはや渡りに船といってもいい。一人になりたくなかった少女にとって、これほどの吉報はないだろう。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
それが、彼女の希望をよみがえらせる。生きる目的を作り出した彼女は、ないはずの体力をよみがえらせると、その声が聞こえて来た方向に向けて走り出した。
走って、走って、走って。一体、いくつの角を曲がったのかなんて把握していない程に曲がったその先に、ミツケタ、人の姿だ。
とても深い帽子をかぶり、季節外れのコートを着た男が、その場には立っていたのだ。その手に、自分にとって大切な存在を抱いて。
「ルゥ?」
間違いなかった。きっと、アレはルゥ。自分の、最愛の妹だ。
だって、同じだったから服装も、その身体を包み込んでいる[タオルケット]も、そして―――。
「オギャーーーッ!!」
助けを呼ぶ、その幼き声も全部、一緒だった。
目の前の男性が救ってくれたのだろうか。一瞬だけでも、夢を見た自分が悪かったのかもしれない。
男は、物陰から見ていた竜崎綾乃に気が付かないままに言った。
「へへ、殺しはしねぇさ。アンタはクライアントの方から生け捕りにしろって言われてるんだからなぁ」
「ルゥ……!」
正直な話だが、この時彼女はその言葉の意味のほとんどを知ることができなかった。そもそもまだ四歳になる女の子に語彙力を求めても仕方のないことなのは分かっている。
だが、それでも彼女は感じ取っていた。ある種、直感とでも言っていいもので考え出していた。
このままじゃ、妹が危ない。妹が、連れ去られると。
頭の中にソレがよぎったとき、彼女の取る行動はたった一つだった。
「ルゥを、放せ!」
無謀なことに、彼女は物陰から突然現れると、妹を抱え上げている男の足に向けて突進した。
男は、よろけることもなく下を見るとい言う。
「お? なんだ、このガキ?」
「ルゥをはなして!」
彼女としては、精一杯の威嚇のつもりだったのだろう。だが、大人と子供、超えることのできない大きくて分厚い壁が、二人の間には存在していた。
「へへ、まだガキがいたのかあの女? けど悪いなぁ」
「ッ!」
綾乃は、男が足を一度振るっただけで吹き飛ばされ、壁にその身を強打した。
すでに限界に達してた彼女の身体は、まるでぼろ雑巾かのように力なくその床に落ちたのだった。もう、指一本動かす気力もないだろう。そんな彼女に向けて男は言う。
「クライアントから言われてんだよなぁ、物心つく前の赤ん坊なら連れて来いって……そうじゃなければ」
「……」
と、言いながら、男は綾乃の首根っこを掴むと無理やり立たせるかのようにその身を上げた。なんという力だ。自分が子供だから、そんなの理由にならない。男の握力は相当のモノで、たぶん、自分が大人だったとしても逃げ出すことは困難を極めただろう。
そう思わせるくらいの絶妙な力加減を保ったままで、男は綾乃に言った。
「殺せってな」
無慈悲な、その一言を。
綾乃は、必死になってその拘束から逃れようとじたばたを繰り返し、自分の首を苦しめている男の手に腕を伸ばした。
もちろん、これでどうにもできるわけなかった。今の自分に待っているのはただ死までの時間というとてもじゃないが理解することのできない時間だけ。
ただ、彼女の抵抗はそれだけで終わってしまった。
息が苦しく、力の入らない四肢では、男の拘束を、女の子が外すなんてこと、到底不可能だったのだ。もちろん、そんなことは知っていたはずだ。
けど、それでも一度だけでも、奇跡を願いたい。それが、人間の真理なのではないか。
でも、彼女は抵抗を辞めた。それはすなわち、これから自分の身に降りかかるすべてに対して一切の抵抗をしないという事実。
「る、ルゥ……」
「安心しな、今楽にしてやるさ、ヒヒヒ……」
ニタニタと、とても気持ちの悪い笑みを浮かべる男。一方の自分は、あらがい方も何もしらない木偶人形そのものかしていいた。
本当に、本当にこれでいいのだろうか。こんな理不尽なことがあっていいのか。
彼女は自分自身を理解することなく、死を選ぼうとしたのだった。
それは、ほとんど自殺にほど近いものと言ってもいいだろう。
少なくとも言えることといえば、この時すでに彼女の人生は崩壊していたのだ。
そう、すぐ近くにまで迫る炎によって崩壊寸前の壁のように。
そして。
その壁に突き刺さった腕のように。
―――腕のように?
「ハァッ!!」




