第四話 逃げ出した先
自分は、一体どこに行こうというのか。どこに向かっているのか。
全く分からない。水中に漂う硬貨を掴もうとするかのように難しく、どうすれば掴めるのか、まったく分からないあれと同じだ。
ただ、自分は逃げたかったのかもしれない。自分自身が起こした惨状から。自分自身がしでかしたことから。
自分自身の罪から、逃げたかったのかもしれない。
森の中は、洞窟に入った時とは打って変わって明るかった。この世界にも月、と言ってもいいのか分からないが、月に似た天体がある。そこから発せられる明かりはとても神々しくて、暗闇の中にも目の前にある木を照らしていた。
そのおかげもあり、今のところリュカは巨大な木々に当たることもなく走ることが出来ている。
「ッ!?」
だが、例え木を避けることはできても、土の中に隠れた小さな木の根っこを避けることは難しかった。
リュカは、ソレに躓いて勢いよく転倒。走る速度が速かったためか、彼女は転倒した場所からさらに数十cmにわたって進行方向へと転がっていき、最後にはうつ伏せとなって止まった。
全身を強打した少女。身体も、心も、ボロボロになりながらも、地面に手を付きなんとか立ち上がろうと踏ん張る。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
だが、ダメだった。できた事と言えば、かろうじて一番近くの木に背を持たれかけて座るという事だけ。疲れたからとか、筋肉の使い過ぎで力が出ないというわけではない。
普段の精神状態であったのならば、そんなことをするのも、そもそも木の根っこを避けるのも容易かった。そう、今の彼女は普通ではなかったのだ。
心の底からの興奮。オオカミたちの断末魔を聞いてから心臓がとてもざわつくのだ。耳が欲しているのだ。もっと、もっとその声を聴かせて、もっと。もっと。もっと。と。
分かっていたはずだった。
そんな自分になったのだと、前の自分とは違うのだと割り切ったはずだった。それなのに、その惨劇を見て笑えている自分に、まだまだ衝撃を受けている自分がいるのだ。
前世という足かせを背負ったまま、この先戦っていくことが出来るのか、弱点を抱えたままで戦うことが出来るのか、リュカの中に自分自身に対する疑心のような物が沸きだす。
「ッ!!」
だが、その疑惑を払拭する前にまずは自分の身体を何とかしなければならない。
「治さないと……病気とかになったら危ないし……」
転倒した際についた傷もそうだが、先ほど狼によってついた傷の方がもっと深刻。
確かに傷自体は大した深さではない。しかし、もしもその傷からバイ菌のようなものが入ったらどうなってしまうのか。また、狂犬病という怖い病気だってある。野生の狼なのだから、ワクチンのような人工的なものを打っているわけないし、そもそもこの世界にそのワクチンがあるのか自体も不明。
はやくこの傷を治療しなければならない。という事で、少女は≪アレ≫を使用することにした。
【我は竜の名を継ぎし者 今その本当の姿を外に出せ 我の内にある龍の心よ 魂よ 我の敵を切り裂き道を開け 我は竜 我は刃 我は人の心を捨てて竜を宿す者なり 冥府に戻った魂よ 今一時だけ力を貸せ 我は人 我は夢 我が欲望を晒し出せ 命を解放せよ 聞け 我は天下を統一する者也】
【龍才開花】
「ッ、うう……」
龍才開花。一週間前にゴラムを倒したその魔法には、強力な治癒効果がある。それを使用することによって体にできた細かな≪新しい≫傷を治すことが出来、さらに体の中に入った毒をも解毒する効果があるのだ。傷を治すときにちょっとばかしの痛みがある物の、それを乗り越えさえすれば完全修復が可能となる。
数秒後、リュカは実に一週間ぶりにその姿になった。その姿、通称≪リュウ形態≫と呼ぶことにしよう。リュウ形態となった彼女の身体には、一切の傷が存在していなかった。
やはり、この魔法はとても便利である。一度変身するだけでそれまで受けた傷を完全回復できるだけでなく、たとえ自身の魔力が枯渇していたとしても周囲から魔力を貰うため、変身することが出来るのだから。
しかし、その力には当然のように欠点も存在していた。どんな便利な物であったとしても万能ではない。ある条件を満たせば、変身は解除されてしまうのだ。
もしも戦闘途中に変身が解除でもされようものならたちまち大ピンチに陥ってしまう。だから、その欠点を補うための技術や、仲間という物が今後必要となってしまうのだ。
早く、仲間が欲しい。ひとりぼっちで戦うのは寂しすぎる。
「リュカ」
「お父さん……」
と、その時だ。リュウガが声をかけてきたのは。いつの間にか自分のすぐ近くにまで来ていたらしい。自分が鈍感で気が付かなかっただけか、あるいは彼が気配を消していたのか。どちらかというと前者なのかもしれない。
あれだけの大火事の中にいたというのに、その身体には傷一つないのはさすがである。自分にもリュウガのような危機察知能力というか、どんな状況でも無傷で切り抜ける技術を持っていたのならば、この魔法も使わなくて済んだというのに。
「私、戦闘じゃ火の魔法なんて絶対に使わないって決めてたのにね……」
リュカは、地面をうつろに見ながらそう言った。
そう、実は彼女はこの旅が始まる直前に、火系統の魔法は日常生活以外では使わないと心に決めていたのだ。先ほど洞窟の中を探索するために使った照明。実はあれを造った時でさえ彼女は心の底では嫌な顔をしていた。すべては、火が嫌いだから。
「前世の死の原因になったからか?」
リュカの前世での死因は自動車事故にあって負った傷からの大量出血による失血死、だと思う。だが、その際に発生した火災もまた、自分自身の寿命を縮めた原因の一つなのではないかと言われれば、確かにそうなのかもしれない。
だが、事はそう浅い物ではなかった。彼女が火を嫌いになった原因はもっと前から、つまり彼女が前世で普通に学校生活を送っていた時にも関係していたことなのだ。
だから、彼女は前世から火が嫌いだった。火を使う食べ物すらも、他人が作った物ならいい、けど自分が火を使うのだけは嫌だった。だから、前世でも、今世でも、彼女が食べる物は全部生。
例え腹を下しても、周りからよく焼いて食べるように言われても、そして病気になったとしても全部生で食べてきた。
「それもあるけど……あのね、私の……」
その理由は、全て自身の幼少期のあるトラウマが関係していた。その、トラウマとは―――。
「うぅぅぅぅぅぅ……」
「ん?」
「え?」
たしかに聞こえてきた。リュカは微かに耳の奥に侵入した声に耳を澄ます。
風に乗り、自分の身体を通り抜けるかのように響く重い高温の唸り声。狼の鳴き声じゃない、でも普通の獣の声のように野生動物の感じはしない声だ。
そう、まるでこの声は≪人間≫のような。
どこだ、どこから聞こえるこの声は。
右を見る。いない。
左を見る。いない。
前を見る。いない。
ならば、背後。いない。
見渡す限りを探してみた物の、その声の主は何処にもいないのである。不気味だ。まるで幽霊か何かを見つけようとしているかのようで不気味だ。
一体どこから声がする。一体どこに相手はいる。耳を澄ましても分からない。分からない。分からない。分からない。
「ううううぅぅぅ……!」
「上、か……」
「え!?」
リュウガはつぶやいた。上、とはどういうことなのか。だって、自分の上には綺麗な月が。いや、まさか、もしかすると。
己は今、大きな一つの木にもたれかかっていた。葉が隙間なくうっそうと茂っており、そこからできる木陰はとても濃くなっている。
つまり、自分はこの木の上を視認することはできないのだ。いうなれば、死角、である。
「ッ!!」
それに気が付いたリュカは、すぐさまその場から立ち上がりながら飛びのいた、瞬間であった。
「ガァァァァア!!!」
獰猛な獣のような叫び声をあげながら、≪人間≫が落ちてきたのは。
そう、人間である。獣じゃない、狼でもない。自分と同じ人間が、鋭い爪を立てながら襲ってきたのだ。間一髪避けることが出来たが、あと一秒でも直感が働くことがなかったなら、場合によっては命すらもなかったであろう。
そんな自分を襲ってきた人間には、ある特徴があった。鋭い爪も、射殺すような目つきも、毛皮で作られた服もかすんでしまうほどに大きな特徴。
「蒼い髪……」
超高温の炎のように青く、光る髪の色。それは、≪自分と同じく≫普通じゃありえないような色の毛髪であった。
果たして、この出会いが偶然であったのか、それとも必然であったのか。この時の彼女たちには全く分からなかった。
だが、彼女たちは後に文字通り死ぬほど思い知らされることとなる。
「ワオォォォォ!!!!!」
「ッ!?」
これは、この先に多々訪れる狂気に至るための、必然の出会いであったのだと。




