第五話
『はぁ、今日も疲れたぁ……』
少女は、緑に生えた草の上にその身を投げ、大の字に手を広げた。
人に気遣いをするということ、それ自体は慣れていると思っていた。けど、それも遠い昔の話。
自分は、いつのまにか、人に合わせることが苦手になっていたようだ。
ある、特定の人物を除けば、の話であるが。
『でも、私は楽しいですよ! お師匠様!』
『そうなの?』
キンはいつも通りの能天気な声色でエイミーに語りかける。
時刻は、体感もう真夜中に入ろうとしているというのに、元気なもので羨ましい。
『はい! まだ、リュカさんやケセラ・セラちゃんとしかちゃんと話すことできないですけど』
『そっか』
それだけ聞くと、エイミーはまるで犬を愛でるかのように、彼女の頭を撫で回す。別に人として下に見ているというわけじゃなく、こうすることで彼女が喜ぶからとやっていること。
やはり今日も、彼女は煮豆に描かれた模様の様な笑みを浮かべてくれる。それを見ているだけで、エイミーもまた同じく、微笑むことができた。
まるで心と、そして身体が癒されているようである。
この数日、自分とキンはリュカたちが連れてくる騎士団員に協力して山の調査というものをしていた。
この役割についたのはさも当然のことであろう。この山についてよく知っているのは自分達なのだから。
だが、その調査に関してはかなり手間と時間をようすることになってしまった。山の大きさというものは元より、自分が使える言葉、獣語を扱うことができる人間が、リュカやケセラ・セラという二人に限られているから。結果的に、その二人への負担が大きなものとなってしまった。
リュカたちも、何とかして自分たち二人にこの世界の言葉を教えようと必死になってくれたが、自分たち二人の知力が劣っていることが災いし、結果挨拶程度の言葉しか使うことができないでいた。
聞くところによると、ケセラ・セラも少し前までは獣語しか使えなかったのに、それが少し教えただけで流暢に喋れるようになったらしい。全く、天才のそれとは恐ろしいものだ。本人が気づいていないというのも相まって。
ともかく、言語の壁、というのはこの先、この世界で生きていくには重大な課題である。
『そういえば、お師匠様?』
『何?』
『お師匠様は、本当にリュカさんについていくんですか?』
『……』
ふと、キンが切り出してきた。
確かに自分は、リュカの天下取りの話に乗って、ついていきたいと願ったが。言われてみれば、このことについてキンと真剣に話を交わしたこともなかったように思える。
エイミーは、持ち上げられるかのようにその体を起こすと、おぼろげに遠くの方を見ながらつぶやいた。
『私は、そのつもりだよ』
『そうなんですか……』
その声色は、どこか失望にも、そして不安にも似た物だった。きっと、心配しているのだろう。自分がこの山を離れるということ。何年も一緒に暮らしてきた人間が離れてしまうということに。
『キンも、来ていいんだよ?』
『……私は、行けないです……』
キンは、ゆっくりと首を振りながら立ち上がる。
『私にとっての家は、この山です。だから、私はこの山から離れたくない。自分の居場所を失うのは、もう嫌なんです……』
おかしなことをいう物だと、エイミーは思った。
≪失うのがもう嫌≫という言葉は、一度失ったことがある人間が使う言葉だ。彼女は、まだ何も失っていないはずじゃないか。いや、これから失うことになるのかもしれない。リュカの思惑が、外れてしまえば、きっとそうなる。
『リュカも、そう思ってるから頑張ってるんだよ』
『え?』
そういうと、エイミーもまた立ち上がってから言った。
『この山、不定期で動いているでしょ? でも、いつ動くのかわからないし、速度もマチマチ。なぜ? どうして? どうやって? その全部が分かっていない』
確かに、とキンは思った。
自分たちが住んでいるこの山は、動くことは動く。しかし、その時間や原理も不明で、ただそういった山なのだという漠然とした考えしかなかった。それどころか、エイミーに至ってはそう言った山がこの世界のいたるところにある物であると思ってたりもした。
でも、違う。そう、調査中にリュカから聞かされ、自分たちはたいそう驚かされたものだ。
『リュカは、その仕組みを解き明かすために何度もこの山に仲間たちと一緒に来て、調査しているの。もしもその仕組みが分かったら、この山ごと旅に出られるようにって。この山が、私たちの家だから』
『リュカさんが……』
そんなこと、思いもよらなかった。自分は、ただ彼女たちが興味本位で山の調査をしているとばかり思っていた。しかし、その裏に、自分たちという他人のためという思惑があろうとは。
だったら、とキンは話を続ける。
『もしも、その仕組みが分からなかったら……?』
もしもこの山を、自分たちの家を自由に動かすことができないと、その仕組みが分からなかったら、エイミーを連れて行くのをやめてくれるのだろうか。それが、彼女の聞きたかったことなのかもしれない。だが、それはエイミーにもわからないことだった。
『……さぁ』
とだけつぶやいた少女。
実際、自分もそれを思ったことがある。でも、エイミーは聞くことをしなかった。きっと、怖かったのかもしれない。
『置いていく』といわれる自分が。
『行かないで』と泣きすがるキンが。
そして『行きたくない』と彼女を突き放してしまう自分が。
恐ろしかったのかもしれない。
『もうこれで、人殺しをしなくて済む』と、安堵してしまう自分が。
「ッ!」
その時、彼女は思い出した。あの時の、あの感覚を。
人を殺したときの感覚じゃない。自分が、死んだときの感覚だ。
あの、修学旅行での事故。一瞬のうちに刈り取られた意識。でも、その直前に感じた死の痛み、恐怖、絶望、そして後悔。
齢17の身空で死ぬ自分がかわいそうだ。そう思ってしまった自分に深い恐怖を覚えた。
もう、夢をかなえることができない自分に絶望した。
そして、もっともっと友達と遊んでおくべきだったなと後悔を何度も何度も重ねた。
たった、一瞬のうちで、人生六十年の未来が脆くも崩れ去る音が聞こえてきた。
これが死の痛みかと、つぶやく時間もないほどに刹那的に壊れた自分の意識と身体。でも、その時の痛みは確実に今の自分の身にはっきりと覚えている。あれは、二度と味わいたくないものだ。
この前、自分はその二度と味わいたくない感覚を他人に与えることになってしまった。
自分が殺さなかったら、リュカが危なかった。だから、殺さざるを得なかった。そんなもの言い訳にならない。
自分は取り返しのない罪を犯してしまったのだ。人殺しという、この世で最も人間が犯してはならない大罪を。
その感覚は、腕にネットリと絡みつく血の感触は、何度洗い流そうとしても決して消えることはない。血の匂いは、絶対に鼻の奥から取り除かれることもなく残っている。
リュカについていくと決めたあの決心に間違いはないと思っている。でも、それから時間がたてばたつほどに考えてしまうのだ。
本当に、彼女についていくと決めた自分は間違っていなかったのだろうかと。
『お師匠様……』
『本当、私って、自分勝手だなぁ……』
あの時笑顔で彼女の手を取った。その手がこんなにも震えている。
友と手をつないだこの手が、血に真っ赤に染まる。
友―――。
『え?』
なぜだろう。友達の顔を思い出そうとした、その瞬間。リュカの顔が浮かんでしまった。
理由はわからない。でも、もしかしたらこの時、心のどこかで感じていたのかもしれない。
自分自身の出自も踏まえた、その憶測。
でも、想像もしたくなかった。その考え。
だって、もしも『あの子』と『リュカ』が同一人物だとしたら―――。
誰かを、人殺しに誘うなんて決してしないのだから。
誰かを不幸にしたいとは、決して願わないのだから。
もう彼女の手の震えは止まっていた。




