第二話
夜の隊舎。一日の仕事が終了して定時で帰宅する兵士たちの姿が、この窓から多く見て取れる。
ある者は訓練の厳しさにクタクタになっている。
ある者は帰ってきて早々から街中に出て酒を飲もうと上機嫌になっている。
そして、ある者たちはある一人の人間のいる部屋に向かって歩いていく。まさしく、誰もが思い思いに寝るまでの短い時間を有益に使う方法を考えていた。
けど、ここにいる少女はそんな有益な物なんて考えてすらいない。怒りに震え、寝るに寝ることのできない彼女、エリスは、いまだにその部屋の外に見える街の夜景をボーと見つめていた。
虚ろな目というわけじゃない。でも、何かに絶望したかのような、失望したかのようなやるせのない感情を持ったその顔に、同室の少女が声をかけた。
「まだ怒っているんですかエリスさん」
「ミコさん……」
ミコである。彼女は足が不自由となった日から、エリスの部屋に間借りさせてもらっているのだ。これは、日常生活が変わるうえで何かと不自由なことになることを懸念したエリス自身からの提案だ。
おかげで、その日から日常生活で苦労する場面という物はほとんどなく、徐々に足のない生活というのにも慣れ始めてきたらしい。
最初は、もう自分の足がないという事に絶望しそうになっていたミコ。しかし、こうして暮らしている間に足がなくても大丈夫なのだと、日常生活は送れるのだと自信がついてきた。これならば、もうしばらくすれば一人暮らしも可能であろう。
彼女は、まさしく希望にあふれていた。
そんなミコが心配するほどに、エリスはとても落ち込んでいるというのが目に見えているのだろう。その通り、実はエリスは昼にあったとある事件で心を痛めていたのだ。
それは、その日の昼ごろまで話を遡らなければならない。
「ッ! なるほどこれが本来のリストバンドの力ってわけね……」
ヴァーティーはエリスから手渡されたリストバンドを手にはめる。その瞬間、膝から崩れ落ち、片膝立ちの状態となった。体内の全ての魔力がリストバンドに吸収されたことによって魔力による補助で支えられていた身体が重力に負けてしまったのだ。
確かに、ついこの前まで付けていた粗悪品とは全く違う吸収力だ。あの時は、何とか歩けるほどにしか魔力は吸収されなかった。だから、リストバンドを外してたら一度くらいは防御魔法を使用することが出来ていた。
しかし、今回の物は全くと言って別物だ。魔力が、完全に吸収されてしまった。恐らくあの山の時と同じような方法を取ろうとしても無駄であろう。
リュカが言うには、この後自分の中にある鍵となる物を見つけ出せば、吸収された魔力が質のいい魔力となって帰ってきて、自分たちの魔法の力を高めてくれるらしいのだが、本当だろか。
いや、事実なのは間違いないだろう。少なくとも、彼女たちの魔力の質を見れば、特に。
「この力を使いこなすことが出来れば、妹たちを……」
彼女は常に高みを目指していた。今の状態であったとしても十分妹たち、それどころかこの国の人間すらも守ることはたやすいだろう。でも、それでも彼女は強さを求めた。
妹たちを守りたい。自分にできた新しい仲間を助けたい。そして、≪彼女たち≫を助けたい。
ヴァーティーには、幼き頃からとある人間たちの姿が脳裏に焼き付いていた。
顔も、性別も全く分からない。でも、絶対に守る。守りたいと心に決めているそんな人たち。
いつ出逢うのかもわからない。もしかして出逢わないかもしれない。いや、そもそも存在すらしていないのかもしれない。そんな人たちの影を追い続けて十数年。
リュカと出会い、騎士団の人間たちと出会い、この二週間は自分が体験してきた十数年の時間どれもを凌駕するほどのとても素晴らしい時間だった。
これは、もしかしたら好機なのかもしれない。自分が、本当に心の底から守りたいと願う人間に出会う。そんなめったにない好機。
そして、もし出会った時にその人たちを守ることができるように。
ヴァーティーはひたすら強さを求めていた。人間が持つにはあまりにも不相応なほどに強大な強さを。
例え、その身を滅ぼしたとしても、手に入れたかったのだ。
「ありがとう、エリス」
「いいえ、私たちやこの国を守ってくれた……そのお礼でもありますから」
彼女は知っていた。この国が今あるのはリュカやケセラ・セラ、フランソワーズ。そして彼女ヴァーティーがいてくれたからと。そんな恩人のために作るのだ。何を迷惑なことがあろうか。
「それじゃ、また何かあったら……」
「はい! その時はよろしくお願いします!」
ヴァーティーは、これから魔力のない自分の身体に慣れるための特訓をするらしい。
そんな彼女を店先でお辞儀をして見送ったエリス。やはり、常連が一人でも多くできると言うのは、商売人にとって嬉しい限りだ。例え、それが仮で置かせてもらっている店であったとしてもである。
そう、こうして自分が作った商品を売っているとはいえ、実はまだ彼女自身が店を持ったと言うわけではない。ここは、この国に来た時、ローラから勧められていたお店の一つの防具屋である。彼女はそんな防具屋の一画を間借りさせてもらっているだけに過ぎない。
マハリで自分の店を持っていた時に比べればかなり縮こまってしまったと言えるだろう。だが、それでも店は店。彼女はそんな小さな一画で、一つでも物が売れるたびにちゃんとした店を持っているのだというれっきとした誇りを持っていた。
でも、そんな彼女の誇りを傷つける人間が、あろうことか身近に言おうとはこの直前まで、彼女は気づきもしていなかった。
「なぁ、エリス」
「何ですか?」
ヴァーティーを見送った直後、新しい衣服の図面を描こうと机の前に立ったエリスに対し声をかけたのは、その防具屋の店主だ。かなり大柄な男性で、巨木よりも太そうな手で頭をかきながら彼は言う。
「困るんだよなぁ、あんなのと仲良くなられると」
「はい?」
思うに、きっとあの時の自分は普通の人間であったのならば凍らせられるほどに冷たい言葉で言い放っていたのかもしれない。
それくらいに、既にその言葉に静かに怒りの炎をともしていたのだ。
「あいつ、元敵国の人間だろ? それなのに、わがまま顔で国の中を歩き回って、国の連中も関わるのを嫌がってんだ」
つまり、ヴァーティーは自分達の国を滅ぼそうとした人間の仲間だから関わらなくてもいい、そう言うことなのか。
「こっちも客への信頼関係があってこその商売だからなぁ、周りの店の奴ら裏切ってひとつだけ味方してるのも、周りの人間の目があるし」
なるほどなるほど、かなり遠回しに、そしてさりげなく言っているつもりなのかもしれない。けど、彼女には分かった。
つまるところ、国中でヴァーティー達を村八分状態にしたいのに、勝手に物を彼女に売ったりしたらいい迷惑だと、そう言いたいのか。
本当に。
そんなの、クソくらえだ。
その言葉が脳裏に浮かんできたその瞬間だった。まるで、自分の体内にあった休火山が突然活性化したかのような憤怒の炎がわいたかのようにエリスは静かに叫ぶ。
「周りの目があるからって、何だって言うんですか……」
「何?」
それは、二週間店の一画を貸してくれていた恩人にかける言葉としてはあまりにも適したものではなかった。でも、それでも言いたかったのだ。
「彼女の出自がどうであれ、彼女は私の大事なお客様の一人です。そんな人をおざなりにするなんて、そんなこと、できるわけありません」
「しかし、なぁ」
「それに! 彼女はこの国を救ってくれた人の一人です……いわばこの国の、私たちの恩人ですよ! それをないがしろにするなんてことして、この国の民度を下げることしてどうしろっていうんですか!」
「なっ」
「私は、私が自分の商品を売りたいと心の底から願う人間に自由に私の服や装飾品を売るんです……その自由をとやかく言うのなら、私の方からこのお店から出て行きます!」
「お、おいエリス!」
今思えば、完全に自分の言いたいことを吐露しているだけの独り善がりの行為に過ぎない。のべつ幕無しに彼の事を、いや下手をすればあの場所で商業をしているすべての人間に喧嘩を売るような発言だ。
自分は、その後そのお店に置いてあった自分の商品を全て回収。挨拶もお礼も言うことなく、自分の憤激に集まってきた野次馬の間を縫うように隊舎へと帰ってきた。そして、夜に至るまで何もすることなくただただ窓の外をぼおっと眺めていたのだ。
「私がこんなに怒りやすい人間だったなんて、知りませんでした」
エリスは今まで自分が感じたことのない性格を知って愕然としていた。
というよりもそんな言葉をぶつけられる人間に今まで接してこなかったからなのかもしれない。クラクやリュカやケセラ・セラ。誰もが自分に優しく、またお客さんとしてもとても礼儀正しい人間ばかりだった。だからこそ、自分は自らの怒りを表出することなんてなく今の今まで生きることが出来ていたのかも。
でも、多くの環境の変化にさらされてしまったからなのだろう。自分の内側にあったはずの裏の顔がついに本性を現してしまった。
あの、獣か何かが憑依したかのような醜い表情、今思い出しただけでも身震いがする。
一瞬だけ、自分が自分じゃなかったかのような、沸騰した感情が襲ってきて、まったく止めることもなく彼に罵詈雑言を浴びせてしまった。今となっては反省している。しかし謝るつもりなんてない。だって、自分の言葉は正論なのだから。
そして、不安になった。こんな、裏に何かを飼育しているような人間が仕立て屋なんてものを、商売なんて物を始めてよいのだろうかと。
こんな自分が人様に物を売る仕事を続けていいのだろうかと。
もしも今日みたいに自分の感情を抑えきれないことになってしまったら。そんなの、とてもじゃないが想像するのも嫌になる。
エリスは人生で数えるくらいしかないほどの悩みに突入していた。
「エリスさん。そんな感情を持ったエリスさんも、好きですよ」
「え?」
そんな彼女に対して、ミコは気晴らしの紅茶を差し出しながら言う。
「人間ですから、時に自分の感情を制御できなくてひどいことを言ってしまうかもしれません。でも、それも個性の一つ……それに、エリスさんは、ヴァーティーさんがのけ者にされることについて怒ったんですよね?」
「は、はい……」
「私、誰かのために怒りを露にできる人って……人間として素晴らしいのだと思うんです」
「人間として、素晴らしい……」
「はい」
人は誰だって怒りをその内に隠して生きている生き物。
例え、温厚そうな人間に見えてもその脳裏にいったいどんな怒りを抱えているのか分かった物じゃない人間だっている。
その怒りを自分の憎しみを晴らすために使うか、それとも他人のために使うのか。果たして、そのどちらが価値がある物であるというのか。
分からない。この時の自分にはまだ分からないでいた。そして、今の自分にだって。
分かっていたのは、怒りに良いも悪いもない。あるのは、その怒りをぶつけられて良い思いをする人間なんていないという事だけ。
そう、きっと誰も得をしない。誰も怒りを向けられて笑顔になんてならない。もしもいるとしたら、それは。
それは、人の心の痛みも分からない怪物のみ。




