第一話 迷いの森
森の中、というものは不思議な気分にさせてくれる。
どれだけストレスが溜まっても、どれだけ身体が疲れても、鼻に抜ける香ばしい匂いの前には全てが癒されてしまう。
そんな匂いを嗅ぐと、身体全体が洗浄されるかのような気持ちになれる。実際にはそんなことはない。匂いを嗅いだだけで身体が綺麗になるわけないし、単なる自己満足だ。
でも、こうして自然の中に足を踏み入れると毎回のように思う。
自分はなんともちっぽけな存在なのだろうかと。
人工的なものの中で生活していく中は決して見ることのできない緑の生い茂った自然の風景。巨大なビルとは全く違う生きている巨体。
そんな景色を見るだけで、前世の自分は満足していた。それだけでよかった。
だが、こと今回においてはそんな事を考えている暇なんて一切ない。いや違う。考える時間がありすぎるから別の事を考えるしかなかったのだ。
なんとも贅沢な事だ。
「ねぇ、お父さん……」
「なんだ?」
巨大な肉、先程遭遇して倒した大蛇から採取した物を背負った少女リュカ。
ちょっと前に少しだけ味見したが、とても油の乗った生でも十分美味しいと思える肉だった。その皮も厚く丈夫で、自分が向かっている国で、それを使った家具等を作ってもらうのもいいかもしれないと思ってる。まぁ、辿り着けたらの話だが。
「さっきから、同じ場所グルグル回っているだけなんじゃない?」
「そうだな……」
だだっ広かった渓谷を一両日中に踏破した彼女達がこの森に足を踏み入れて今日で一週間、だと思う。もはや時間の感覚が無くなるほど歩いているため正確な時間がよく分からないのだ。いまだに目的地には辿り着かない。というか、同じような景色ばかりだと思っていたのだが、冷静に考えると本当に同じ景色ばかりを見ていたのだ。
つい十分前に、その可能性に気がついた彼女は通り道にある木に少しだけ傷をつけた。そしたら、どうだろう。先程その傷をつけた木があるではないか。つまり、その場所はその時に立ち寄った場所であるという意味だ。
「あのさ、もしかして私たち……迷ったの?」
「……」
リュウガの沈黙、それが答えである。
「ハァ、嫌な予感はしてたんだよね……森って大体同じ景色だし……」
「そうボヤいてばかりいては目的地にはつかんぞ」
「そうだけど、ここ最近寝不足で……ゆっくり熟睡したいなぁ……」
と、言いながらリュカは大きなあくびをする。よく見たら、目の周囲にはクマが出来ているようだ。
彼女がそこまで眠そうである理由、それはこの森の特徴に起因している。
「フン、こんな獣がうじゃうじゃといる森でそんなことすれば、餌となって終わりだな」
リュウガの言う通り、この森には多種多様の木々があるのだがそれに伴い、森の中を棲家にしている生物も多岐にわたる。先ほど遭遇した大蛇もその一つである。
そのせいで夜中も。いや、夜中だからこそ狂暴な獣がたくさん出歩いている。そんな場所でのんきに寝るなんて危険極まりないこと。
そのため、日が沈み始めたらその都度木の上に上りそこを寝床にして休んでいるのだ。だが、あまり高いところで寝ると、巨大な鳥の格好の餌食となってしまうため、木の中ぐらいで休んでいるのだが。それでもいつ襲われるか分かったものではない。
そのため、常に気を張っていなければならないのだが、ほれが彼女の安眠を妨げた。
結果、ここ最近はあまり熟眠感というものを感じることはなく、朝目が覚めるとすぐに寝ぼけ眼をこすっているという光景がお決まりとなってしまっているのだ。
「だから、早く目的地に着きたいのに……この調子じゃいつになるのか……」
「フン、文句を言う前に歩け。グダグダ言っているだけでは先には進まん」
「分かってるって……」
こんな危なっかしいところはやくおさらばしたい。そう願ってしょうがのないリュカではあるが、絶賛遭難中の身、次の国に着くのはいったいいつのことかと、気を落としながらも歩を進める。
結論から言えば、結局この日も国に到着することはなかった。日は沈み始め、ただでさえ葉が生い茂って日光が遮られている森が、より一層暗闇を増していく。もうこれ以上先に進むのは今日のところはあきらめ、また木の上に新しい寝床を探すべきだ。そう考えたその時である。
「……ん?」
「どうしたの……あ」
一人と一匹は気が付いた。自分たちの頬に落ちる水滴に。
「雨?」
「そうだな」
道理で昨日までよりも暗いきがすると思ったと、まさしく今更なことをつぶやくリュカ。
次第に雨脚はどんどんと強まっていき、いずれは本降りとなってしまうだろう。さて困った。いくら木々が生い茂っていても、あまりに強い雨が降ってしまえば天然の傘はなんの効果も持つことはない。
水は夜中ずっと自分に当たり続けて寝苦しいことこの上ないだろう。そうなれば、ただでさえ熟睡できていないというのにより一層寝不足となってしまう。第一、寝不足はお肌の天敵ではないか。どこかに雨を凌げる寝床はないだろうか。
「あれ?」
「なんだ?」
その時リュカはある物を見つけた。もうそろそろ自分の手すらも見えなくなってくる頃合いだ。リュカは、急いで自分が見つけたある物の場所へと駆け足で近づいた。
途中、木の根っこに足を引っかけて転びそうになる危ない場面もあったものの、なんとか彼女はその場所へとたどり着いた。
「洞窟だ……」
「そうだな……」
それは、巨木の一番下。根っこを入口としたかのような洞窟があった。暗さも相まって、どのくらいの広さ、奥がどこまで続いているのかはさっぱりわからないが、少なくとも雨風を防ぐには十分であろう。
リュカは、その中に入る事をリュウガに提案する。しかし、反応はかんばしく無い。
「うつけめ、こんな洞穴を獣たちが見逃していると思うか?」
「うぅん……」
彼の言う通りだ。ここなら雨風も防げて、寒さも凌げる。人間だって快適に過ごすことができるはずだ。
ならば、きっとここを棲家にしている獣がいるはずだ。そんなところで雨宿りするなんて危険極まりない事だと、彼女も承知している。
だが、雨は更に激しさを増して、ここ以外の雨宿り場所を探し回っていたら風邪を引くだろう。例え危険が承知の上であったとしても、他に選択肢はない。
「一応中だけは見てみよう。それで何もいなかったら、雨が上がるまでの短い時間だけとか」
「貴様がそう決めるのなら、ワシはついていくだけだ」
「ありがとう、お父さん」
なんとかリュウガに許可をもらったリュカ。こんな時の自分の提案には納得はしてくれないものの理解は示してくれる。そんな父のことがリュカは好きだった。
洞穴の中にゆっくりと入ったリュカ、その入り口はやや坂となっているため滑り落ちないように慎重に歩を進める。どうやらかなり奥まで続いているようだが、暗くてよく見えない。
まずは灯りを手に入れなければ。と、背後の大蛇の肉から若干の油を、森の中で拾った何かの動物の頭蓋骨の中に入れると、そこに魔法で火をつける。あっという間に即席のランプの出来上がりだ。
火が苦手の自分であってもこれくらいなら平気である。リュカは背後にも警戒を払いながらゆっくりと洞穴の中を進む。
やがて、彼女の姿は暗闇に塗れて消えてしまった。その場に残ったのは、大蛇の生肉の匂いと獣の匂い。
そして、彼女の進んだ洞穴の中を真っ直ぐと見る複数個の目だけであった。
雨は既に上がり始めていた事に、彼女が気がつくことはなかった。




