第6章 序章
夜。何人にも侵されることのない自然界の自由な時間。
人が通ることも少なく、また立ち止まることも少ないこの時間は、自然界にとって有害な物質の一つである二酸化炭素をまき散らす者が昼間よりも少なくて、自然の貴重な休み時間の一つとして有意義な時間を過ごすことが出来ていた。
とはいえ、この場所はその二酸化炭素を吸うような植物はあまりなく、広大な荒野が広がっているだけだったのだが。
そう、その大地は枯れた土地であった。照り付ける太陽、あまりにも吸水性の高いその大地が、その土地で植物が生育するのを阻害していたのだ。
加えて、地下深くからの熱。まるで、この場所は自分たちの土地だと言わんばかりに生きとし生きる物を拒み続けたその大地。
何も知らない者にとっては夢にも思わないだろう。今から数年前、その大地で戦争があったなんてこと。
この場所は、欲望のはけ口として使われた。欲求を解消するためにこの場所で、多くの命が散っていった。兵士たちの死体は、戦争後すぐ近くの国の国民たちや兵士たちが回収し、その魂を鎮魂する石碑を建ててその下に埋められた。けど、今でも戦争があった痕跡はたくさん残っている。
例えば、兵士が着ていた鎧。死体を回収する時に重くてその場に放置されてしまった物がたくさんあるのだ。だが、それよりももっと目を引く痕跡がある。
それが、大地を隔てるかのように立つ巨大な岩石、そしてその岩石をくりぬいたと思わしき巨大な陥没跡。そして、その遥か手前に位置する大穴。今、その場所に二人の、黒い服に身を包んだ二人の人間が現れた。
その姿は、まさしく喪服。死者を見送るための衣装に身を包んだ二人組は、祈るかのように手を合わせてから、改めてその景色を見た。
「何年ぶりになるのかな……ここに来るのは……」
車椅子に乗る女性は、懐かしき日々を思い起こすかのようにそうつぶやいた。ここに来たのは、自分も参戦したあの戦以来となる。自分は、この場所で大切な物を失った。彼女の心に深く刻み込むには、ただそれだけで十分である。
「もう、ずいぶん昔の事の様……でも、昨日の事のように、思い出せる……」
「あの日、私たちが駆け抜けた戦場、仲間と戦った、あのたった一日の、歴史の闇に消える戦い……」
車椅子の女性の前に立つ女性は決して色あせることのない自分たちが経験したあの戦の事を思い出し、首にかけてある装飾品を握りしめた。
その装飾品は、この戦の中でとても重要な役目をした物。自分たちを苦しみから解放してくれた、どんな宝物よりもかけがえのない物だった。
でも、他人にとってはさほど大切でもない物。きっと、この戦だってそうだ。
自分たちにとってはとても思い出深い物であったとしても、きっと他の他人にとってはどうでもいいような物。放っておけば、この場所であったあの戦いなんてすぐに忘れてしまう。そんな、どこにでもあるような戦。
たくさんの命があったのに、たくさんの思いがあったのに、たくさんの生きたいという願いがあったのに、それが消えてしまうなんて悲しすぎる。
でも、しょうがないのだ。それが記憶という物なのだから。それが思い出という物なのだから。消え去るのが、自然の理であるのだから。
「でも、消させはしない……私が、私たちが……」
でも、自分たちならそれを風化させることなく残すことが出来る。未来に、繋げることが出来る。だから、彼女たちはここまで来た。この戦の記憶を後世に残すために。
女性は車椅子の女性に再度確認する。
「ここでいいのよね?」
「うん……ここが一番、記憶が集まっている……」
「そう」
この場所は、一番人が死んだ場所と、そしてその戦で最後に死んだ人間がいた場所のほぼ中間地点。この場所であれば、アレを作り出すことが出来る。とても繊細で、美しくて、そして悲しい物体を。
女性は、目をつぶるとまるで大地に語り掛けるように、そこで眠っている魂たちに語り掛けるように言魂を紡いでいく。
【我、糸を作りしもの也 この戦場に散った命よ まつろう記憶達よ 今、我の前の現れよ 現出する光 その一つ一つが全て思い ここには存在していなかったはずの記憶達 我、その思いを固定するもの也 我、その願いを記憶せしめんとするもの也 命は繋がっていく しかし記憶は消え去るもの也 されど、我がそれを繋ぎ合わせるもの也】
風が吹く。女性の魔力が作り出した風だ。その風に乗って、戦場に漂っていたすべての、その場で死した者達の記憶が集まっていく。
記憶は、魔力の塊となり女性の身体を包み込む。いや、縛り上げていく。女性は、記憶達があるべき場所に戻りたいから、自らを呼ぶものの元に集まっていくために起こる現象であると考えている。
だが、ソレは決して自分の記憶とあいなれない存在。何故なら、他人の記憶だから。ソレを体の中に取り入れることはできない。だからと言ってこのまま放っておくと、自分はその糸に巻かれ続けて、いつかは記憶の魔力で窒息してしまう。ならばいい方だ。下手をすればそのとてつもない力で身体がはじけ飛ぶかもしれない。死ぬのならまだ構わないが、死体も残らないというのは嫌だ。
だから、彼女は最後にその記憶の魔力をまとめ上げるのだ。無害な、魔力の糸に。
【集え! 今その思いを我の前に示せ!】
【銘記糸作成】
その瞬間、魔力の糸は瞬時にその姿を変えて、この世界に現れた。様々な色をした糸たち。これほどまでに色とりどりであるのは、それだけ記憶の色があるという証拠。それだけ多くの人生があったという何よりの証拠であった。魔力の糸改め記憶の糸、通称《銘記糸》。コレを作る事が、彼女にしか使うことのできない魔法であった。
いつもより、大量にできたな。それが、彼女の最初の感想である。今までも何度も同じような物を作り出す機会があった。でも、その時と比べて二倍、三倍程記憶の糸の量が多いのだ。その分、この場所で多くの人が無くなったという事実を示すものであるという意味なのだが。
とにかく、後はコレを彼女に手渡せば自分たちの、この場所での仕事は終わりだ。女性は、自分の身長ほどもある長さの銘記糸をいつもやっているようにまとめると、車いすの女性が首から下げてある鉄製の箱の中にいれる。ソレは、あたかも葬式で骨壺を抱いている残された家族のようにも見間違うほど。
「皆の記憶……絶対に消させはしない」
女性は、最後の元戦場を一瞥すると、二度と振り返ることは無かった。
今日はもう遅い。明日近くにある国で一泊して戻ろう。彼女の所に、自分たちの今の居場所へと。
一迅の風が吹く。彼女たちに、自分たちの記憶を任せたというかのように、ゆっくりと、そしてはかなげに吹いた風。ソレを背にして、二人の女性はその場から立ち去った。
また、荒野に静けさが戻ってきた。何人にも侵されることのない、悠久のような静けさが。




