8.箱入り悪女と嘘吐き聖女②
月光に映えるのは白だ。
濃い色は黒にまぎれてしまう。
白に近ければ、それだけ、夜闇に美しい。
純白の夜着に身を包んだ少女は、月夜に舞い降りた妖精と見紛うほど、人間でばなれして見えた。
彼女はなにか隠すように含み笑って、膝を折った。
慣れない動きだ。
だが、そのぎこちないしぐさは周囲の保護欲を一層にかきたてる。
失礼いたします、と侍女たちは高揚する心の内をひた隠し、頭を垂れて、部屋を後にする。
残されたのは純白の夜着に身を包んだ少女と、同じ年頃の少年がひとり。
月は少女の白いうなじの輪郭をくっきりと照らし出していた。申し訳なさそうに後れ毛がひと房、首筋に垂れている。
膝を折っていた少女は重いものを持ち上げるように、もたれていた頭をあげる。床に広がっていた夜着の裾がゆっくり持ち上がる。その光景はまるで地上に降り立った妖精が翅を折りたたんでゆく様だった。
「メリル、いつもすまないね。父さんがうるさくて。たまには一人で休みたいだろうに」
にやりと歯を見せて、少年は笑う。
「いいえ、とんでもないです」
夜着に身を包んだメリルはにっこりとほほ笑む。
「いつも気にかけていただいてありがとうございます、殿下」
「堅苦しい言葉遣いはやめよう」
殿下――ジョセフはため息をつく。
彼の視線の先には天蓋の付いた仰々しい作りの寝台がひとつ。装飾は紅色で統一されていた。
そうね、とメリルも苦笑いを返す。
「王子サマをやるのも、大変ね」
「この国にはふたりしか王子がいないからね。しかももう一人はまだ、四歳だ」
第二王子はまだ、小さい。幼い子供は弱い。
この先の為にも、子孫は多いほうがいい。国王は年齢的にむりがある。
「いつもつきあわせて悪いね」
「いいえ、だいじょっ――ぅ」
メリルの体がくの字に曲がる。 口元を覆い、膝をついた。
ジョセフは傍らを離れ、水差しからコップ一杯、水を注いで差し出した。
かたほうの手で、メリルは受け取り、叩きつけるようにむりやり飲み下した。
「ごめんなさい……」
ジョセフはなにもいわず、背中をさすってくれる。
こうしてくれるのは何度目だろうか。
メリルが咳き込むのも、ジョセフが水を差し出すのも、これがはじめてではない。
初め、メリルは驚いた。
第一王子の婚約者となってからおつきあいで、いろんな令嬢とお茶会をする機会が増えた。彼女たちは生まれながらにして、貴く、敬われて育てられる。本人たちはそれに対し、疑問を抱くことはない。生まれたときからそうだったのだ。自分の体を潔めるのはもちろん、髪を結うのも、服を着るのも、靴を履くのもすべては他人にしてもらうものだと当然のように思っている。自らの手で行うのは卑しい事だと、忌み嫌う令嬢も珍しくはない。それが、この世界の価値観なのだとメリルはすでに宮殿生活で学んでいた。
初めて咳き込んだ時、ジョセフは侍女を呼ぶこともなく、一杯の水をメリルの前に差し出した。
閨だからかと思っていたが、昼間でもジョセフは変わらなかった。
公務の間の三時のおやつのひとときに、ディナーの時間。
従者が控えていようとも、自分が一番近い場所にいて、手許に水差しがあれば、ジョセフは真っ先に水をメリルに差し出した。
この国で最も身分の高い人間の息子とは思えない行動だった。
「一度、医者に診せたほうがいい」
宮殿には腕のいい医者が大勢いる、とジョセフはいう。
「大丈夫よ。ちいさいころから、時々こうなるの。癖みたいなものよ」
このやりとりをするのも何度目だろうか、と咳き込みながら視線を上げると、心配そうにこちらを覗き込むジョセフの顔があった。
熱いと知らずに触れてしまった指先をとっさに引っ込めるように、メリルは伏せた。
胸の奥が揺らぐ。
その感情が形成す前に、喉の奥に痛みがはしった。
血の味が口の中に広がる。
ジョセフに言ったことに偽りはない。幼い時から、こうなるのは慣れている。うるさい咳を何度も吐きだす体とは対称に、メリルの感情はすでに冷めていた。
一度咳が出てしまえば、治まるのを待つ以外のすべはないのだ。
この夜もメリルの咳がおさまるまで、ジョセフは傍らに寄り添っていた。
◇◇◇
ルイス・ラードナーとしての一日目は、――ルーイント教会での日々は、籠から始まった。
外の世界――俗世は穢れに満ちている、というのが教会の考え方である。外から来たルイスはまず、体を浄めなければならず、教会の離れで三日間の籠――引き籠ることによって穢れを落とすことを命じられた。
普通の人間ならば半日程度で済むのだが、聖女の教育係として直に相対することになるために、期間は三日。
教育係として仕える聖女に会うのは、四日目以降になりそうだ。
ふぅー、と与えられた部屋でルイスはひとつため息をついた。
殺風景な部屋だった。泊まっていた城下の宿と変わらず、寝台と小さな机、そして姿見があるだけの小さな小部屋。
ルイスは膝をかかえて、寝台の上に座る。
セティスとして過ごしてきた宮殿の部屋とは雲泥の差だが、ルイスにはひどく落ち着いた。
ふと、姿見にうつる銀髪の少女と目が合った。
それは紛れもない己の姿であるが、まだ、他人である。
――ルイスになってまだ二日目なんだからあたりまえじゃない
はやる気持ちを、小さく首を振っておさめた。
その時だった。
勢いよく部屋のドアが内側に開き、壁にぶつかった。
ガタン、と大きな音とともに、初夏特有の湿気を含んだ生ぬるい風が室内に吹き込む。
気が緩んでいたルイスはひっ、と声を漏らして飛び上がった。
ドアをあけた《《彼女》》もルイスと同じように、驚いて肩を跳ねあがらせた。と、同時に開いた衝撃で跳ね返ったドアが彼女の額に直撃する。
だが、彼女はルイスから視線をそらさなかった。額にあたって跳ね返り、また閉まろうとするドアを今度は、無意識にのばした手で押さえたまま、ルイスを見つめる。
彼女は、まさかこの部屋に誰がいるとは思っていなかったのだろう。
ノックもなしにドアをあけるなんて、と顔をしかめそうになったが侍女に案内されるまでに、この部屋はもともと物置として使われていたのだと言っていたのを、ルイスは思考の隅に思い出していた。
「びっくり……させないでよ」
彼女の口が動く。
それはこっちの台詞よ、ととっさに喉元まで出かかった言葉をルイスは唇を引き結んで、腹の奥まで押し込んだ。
勢いよく部屋のドアを開けた彼女は、胸元に不自然なほど大きなリボンのついた桃色のワンピースを着ていた。一見、女児が着るようなデザインだが、生地からかなりの値がするものだとルイスは一目でわかる。どこかの令嬢だろうか。
教会にお祈りに来て迷ってしまったのかもしれない。
「申し訳ございません」
ルイスは言いながらも、部屋の鍵はしめたはずだと考える。小剣を使っているとはいえ、姿を隠している身だ。用心には用心を重ねているつもりだ。
「あぁ、ええっとこっちこそ、ごめん。 ……あなた、いつからいるの?」
ルイスは思わず顔をあげた。
彼女の声が驚くほどかすれていたからだ。体調が悪いようにはみえないので地の声なのだろう。彼女は首筋にまとわりついた黒髪を、動揺を隠すように後ろに払う。長さは腰あたりまであるだろうか。
「先ほど来たばかりでございます」
「ああ、ついさっきね……」
彼女は胸をなでおろす。
そんな彼女を、ルイスは失礼だと思いながらもじっと観察する。
どうも落ち着きがない。この世の中に常に背筋を伸ばしていられる人間などいないことをルイスはもちろん知っている。宮殿にいたころ、侍女の目を盗んで友人らと羽目をはずしたことも一度や二度ではない。それでも、身に浸みついた気品は簡単には消えないものだと、ルイスは思う。どんなに泥まみれになろうとも、姿勢を崩そうとも、それは癖のようなもので、挙動の端々で出てしまう。知らず知らずのうちにしてしまうものなのだ。
彼女は何かが違う――と、ルイスの直感がつげていた。胸元の大きなリボンも相まって、彼女は一層、幼くみえた。
使用人ではありえない服装と、まるで品のない振舞い。しかし、令嬢でないとすれば、彼女はいったい何者なのだろう。
「なにかご用ですか?」
言いながらルイスはさらに考える。
侍女の給金はおおむね平民からすれば破格だと聞いた。
疑問は残るがもしかしたら、彼女もこの教会の侍女なのかもしれない。服装は彼女の私服だということもありえないだろうか。
ほかの侍女――友人の部屋と間違えたのか、ともルイスは思ったが、子どもならばともかく家に仕える侍女が、ノックもしないでドアをあけたりするのだろうかという別の疑問が浮かぶ。
「……ああ、えと、その、ネズミを追いかけてたの」
「ネズミっ?!」
意外な言葉にルイスの声は裏返る。
しまった、とルイスは咄嗟に口元を覆った。思いのほか、大きな声が出てしまった。
「失礼いたしました」
頭を下げながらも、ルイスは自分の鼓動はどんどん早くなるのを感じた。実際にみたことはないが、随分前に、侍女たちはとんでもない恐ろしい害獣だと言っているのをきいたことがあった。書物では見たことあるが、実際にはない。だから、ルイスには余計に恐ろしい。
「追いかけてて……、この部屋に入っていったとおもったけど、たぶん間違ったみたい。ごめん」
彼女は言いながら、手探りでドアの取手を握り、後ずさりながら閉めた。
カタン、と室内に渇いた音だけが取り残される。
嵐のような少女だ。
彼女の姿がドアの向こうに消えても、ルイスはしばらく動けなかった。
さっと背後を振り返り、姿見に背中をぴったりとつけ、息を殺してルイスはきょろきょろ視線をめぐらせはじめる。
目に入るのは、押し込められた寝台と小さなテーブル。それと、もってきた旅行鞄くらいしかない。生活するうえで、必要最低限度のものしかない侍女の部屋だ。
「……ネズミ」
潜んでいるとしたら、寝台の下あたりだろうか。
ゆっくりと、足音を殺してルイスは床に置いたままの旅行鞄を開く。中から取り出したのは分厚い本だ。しっかりと、右手につかむ。
靴を脱いで、ルイスは寝台の上に乗り、恐る恐る下を覗き見た。
「いぅ……」
声が漏れた。
何かが、いた。
間違いであってほしい。
もう一度、まぶたをひらくと奥のほうに、こんもりと盛り上がった何かがある。
「いるじゃないのぉ……」
泣きそうだ。
しかしもちろん、泣いてなどいられない。自分はもう、貴族ではないのだ。都合よくあらわれて助けてくれる侍女はいない。
一度顔をあげて、呼吸をして覚悟を決める。
「大丈夫よ、ルイス。 ……あなたならできるわ」
だって、右手には分厚い本があるんだから。
意を決して再度、下へと首を伸ばす。寝台の下にいるそれは、隅でうずくまって動かない。
チャンスだ。
思い切って、ルイスは寝台の下に本を投げ入れた。
カツン、と音をたてて、床の上にそれが転がり出る。
ひっ、とルイスが身を縮めたのは一瞬。
よく見れば、それはネズミなどではなかった。
灰色の帆布にくるまれた拳大のつつみ。丁寧に結ばれた紐をとくと、あらわれたのは見覚えのある木箱だった。
――鍵
半ば叩きつけるように木箱を床の上に置き、セティスはドアに駆け寄って、部屋の鍵を閉めた。
覆いかぶさるような勢いで、旅行鞄に飛びつき、中身を確認する。
小剣が入った幾何学模様の木箱はちゃんと、入っていた。
ルイスは背後を振り返る。
同じ模様の木箱がぽつんと、床の上に落ちている。
拾い上げて寝台の上にならべてみると、施された意匠は全く同じである。
ルイスは服の下に隠した鍵をとりだして、拾い上げた《《ほう》》の木箱の鍵穴にさしこんだ。
カチリと音を立てて、木箱の蓋がひとりでにひらいた。
中には人差し指ほどの大きさの、小剣が横たわっていた。
ルイスは咄嗟に目をそらし、ぱちんと木箱の蓋を閉じる。
そして、そっと寝台の下へと戻した。