7.箱入り悪女と嘘吐き聖女①
こわかった。
その人を見るだけで、胸の奥がチリリと痛んだ。
お腹のちょっと下のあたりに無理矢理、腕を突っ込まれているような嫌悪と恐怖。そんなことをされているわけではないのに視線をあわせれば、裸を見られているような気がして今にも吐きそうになった。
それでも、動けないから目を逸らせない。いいえ、逸らすわけにはいかない。
「お父さま」
気づかれないよう薄く息を吸って声を発した。思ったよりはっきり聞こえた自分の声に内心、安堵する。ちゃんと、言えた。
でも、相手は答えない。
ちらりとこちらを見やっただけで、すぐに机上の書類に視線を戻した。
沈黙の間に、紙面にペンをはしらせる音だけが無常に流れてゆく。
「お父さま」
もう一度、彼を呼んだ。
こんどはぴたりと、彼の手がとまった。
胸の奥に膨れ上がる恐怖を、スカートの裾に隠した拳を握りしめて抑える。
「お父さま、わたし先日行われた国立学院の試験に、首席で合格したんです」
彼の瞳がかすかにこちらを向いたような気がした。
「国王陛下から直々にお祝いの言葉をいただきました。国立学院への入学を許可していただけませんか」
彼はうごかなかった。
なにか考え付いたのか、しばらくしてまたペンをはしらせる。
「お父様」
声をあらげた。
彼の横顔が歪む。
おい誰かいないか、と戸口に言葉を投げた、こちらに視線が向くことはない。
影に控えていた侍女が、しずしずと現れた。
「およびでしょうか、旦那様」
彼は顎先でわたしを指した。
心得ている侍女は、わたしの肩に手を添える。その後に彼女の言う台詞はいつも決まっていた。
“旦那様の御邪魔をしてはいけませんよ”
――もう聞きたくないわ
わたしは侍女の腕を振り払った。
「お父様、お願いです。首席だったんです。合格しました。国立学院に入りたいんです! 入学を許可してください……」
「お嬢様」
ふたたび侍女が肩を掴む。今度は幾分か指に力がこもっているその手を振り払った勢いでよろめいて、わたしは咄嗟に机の端に手をついた。
ガタン、と音を立てて机が揺れる。黒いインクがこぼれて、書きかけの書類の上に広がった。
あぁ、と漏れた声をわたしは初め、自分のものだと思った。
彼がこちらを――ちがう、侍女を睨む。
「申し訳ございません」
床に叩きつけんばかりの勢いで、私の横で侍女は頭を下げた。
「さ、お嬢様。行きましょう」
今度こそがっちりと侍女は小さな肩をつかむ。たくましい腕でくるりとわたしをドアのほうへおしすすめる。
「お父様」
わたしは諦めたくなかった。
国王から祝いの言葉を賜ったところで何の意味もない。それをわたしはよくわかっていた。彼の許しがなければ、国立学院に入学することはできない。
「お父様」
何度も呼んだ。
「お前をなぜ、学院にいれなければならない?」
胸の奥に生じたのはよろこびだった。何も言わない彼が、言葉を返してくれたことがうれしかった。だが、言葉の意味を理解して、わたしは爪が食い込むほど、拳を強く握り締める。
「お前の役割は、次代の国王を産むことだ」
つれてゆけ、と彼はペンを走らせながら言った。視線はまた、机の上に戻る。
「さ、行きましょう。お嬢様」
やさしく侍女が語りかける。
侍女に付き添われて、わたしは部屋を後にした。
廊下の窓からは雲一つない青空がみえた。
晴れているのに邸の廊下は日陰で薄暗い。
手入れされているはずなのにおかしいな、とわたしはぼんやりと思った。
光が行き届かない縁に、カビのような闇が張り付いている。
彼の声が鼓膜の奥で反響する。垂れ落ちたしずくがレンガに染み入るようにゆっくりと、その意味が深く、根を下ろしてゆく。
紙面上にどろりとこぼれたインク。ないもかもが、塗りつぶされてゆく。
今になってようやく、握り締めすぎたてのひらがじんじんと痛んでいることにいまさら気づいた。
「――セティス」
名を呼ばれて、わたしは背後に連れ添う侍女を見上げた。侍女が自分の名前を直に呼ぶことはほとんどない。
「どうしたの?」
なにか悪い事でも起こったのか。急に不安になった。
しかし、侍女は声をかけても、やわらかな笑みを張り付けたまま動かなかった。
一度、戸惑って、わたしは侍女に指先を伸ばしてみるが触れても彼女は眉一つ動かさない。まるで人形になったみたいに、目を見開いて立ち止まっている。ただ、触れた肌のぬくもりだけがあった。思い切って引っ掻いてみたが、顔を顰める様子もない。
「セティス様」
大気に声が響く。
ぐわん、と視界が歪む。水の中にいるようにありとあらゆる線が滲んだ。足元の感覚がきえる。膝がわらう。平衡感覚が失われ、自分が立っているのか、倒れているのかさえわからない。はたまた、水の中か。周囲の色彩が瞬く間に溶け、漂白されて、目を開けていることすらできない。
「セティスさま!」
――眩しい
「セティスさま!」
セティスは、目をあけた。
視界が滲んでいる。
とっさに袖の先で拭おうとして、指先に生温かいなにかが触れた。
目からこめかみへと、熱いものが零れ落ちる。それでようやく、視野がすこしはっきりした。
「セティス様」
「……ルディ」
「はい。ルディでございます。セティス様。三日も寝ていらしたんですよ」
「三日? ……つう」
セティスの意識は一気に浮上する。寝台から上半身を起こし――急に動いたためにこめかみに痛みがはしる。無意識に手を伸ばすと、目元が濡れていた。
どうやら自分は泣いていたらしい。
傍らに座っているのは二十代半ばの女性――ルディだった。彼女は表向き宮殿の侍女だが、本来の役目はジョセフの裏の側近だ。宮殿内の情報収集役として、セティスも重宝していた。
気軽に話せる友人のひとりでもある。
「教会に倒れていらっしゃったところを、お連れしたのです」
目を覚まされないので心配しました、とルディは安堵の息をもらした。
差し出された手巾で目元を拭うと視界が明瞭になる。息をつくとセティスの脳裏にこれまでの出来事がゆっくりと湧き上がってきた。
小剣をひきぬいたら、突風に包まれて何も分からなくなった。最後にみたあの、雪原にたたずむ少女の光景はきっと、幻覚だろう。身に覚えがない景色だった。
そして、ついさっきまで見ていた無口な彼とのやりとりは、ルディの言うとおり悪夢だ。 何年も前の幼い記憶が、夢となって現れた。思い出したくもないのに。
また視界が滲んできた。
これ以上涙を流すまいと、セティスはぐっと唇を引き結ぶ。
感傷的になっている場合ではない。
「ここはどこ?」
気をそらすために、セティスは顔をあげる。
「城下の宿でございます。もうすぐ日がしずみます」
セティスは胸をなでおろした。
気絶してしまったことをのぞけば、筋書き通りだ。
パーティで着ていたドレスを脱ぎ捨て、宮殿――白百合宮から抜け出し、教会で小剣を使う。その後、ジョセフの配下の人間――ルディと教会で落ち合い、手配した城下の宿まで送ってもらう手筈だった。おそらく自分はここまで運ばれてきたのだろう。
「……ルディ、鏡はある?」
セティスの言葉に穏やかだったルディの表情が一瞬、強ばる。ややためらって、ルディは机の上にあった手鏡を差し出した。セティスが求めるとわかって事前に用意していたのだろう。
震える指先に動けと命じながら、唇を引き結んでセティスは手鏡の蓋をあけた。
セティスではなかった。
鏡の中にあったのは別の少女の顔だった。同じ年ごろの少女が驚愕の表情でこちらをみつめている。
――ちがうわ
一度、目を逸らすが鏡の中の少女も同じようにうつむいた。胸の内を読み取ったかのように、鏡の中の少女もまた動揺している。
教会の女神像の前でセティスが手にとった小剣は、ただの剣ではない。王家に代々伝わる宝物のひとつで、刀身にうつした者の顔を変える魔力を宿した剣。元の姿に戻るためには小剣を折るか、もう一度その者の顔を映すしかない。今回の作戦のために、第一王子からセティスに貸し出されていた。
セティス・マグフォードはもう、この世から消えた存在だ。第一王子の婚約者でも、マグフォード家の令嬢でもない。
セティスの金色の髪は銀に変わり、くっきりとした目は垂れて、随分柔らかい印象になっている
「……セティス様」
友人に、セティスは薄く笑みを返した。
「もう、その名前で呼んじゃだめよ。わたしの名は――ルイス・ラードナーよ」
◇◇◇
「やっとだわ……」
ひとりでにくちびるが、うごいた。
はっ、と我に返って少女は背後を振り返る。
部屋には窓から差し込む月の光のほかに、灯はみあたらない。
部屋の奥に、見慣れた黒色が横たわっているだけだ。すでに暮らし慣れた部屋、暗くともどこに何があるかは覚えている。ゆえに少女からすれば、それは何も見えない闇ではなく、ただ、暗いだけでしかなかった。
人はいない。
それを確認して、少女はふうとため息をつく。
窓辺に頬杖をついて、左手の指先で窓の縁を撫でた。
指先にはなにもつかない。親指と擦り合わせても、ざらついた感触もない。
――さすが、国一番のお邸だわ
ふん、と少女は鼻で嗤った。
◇◇◇
眩しいほどに白い煉瓦の壁と、紺碧色の屋根が遠くに見えた。
あの屋根の下には、この国で最も尊い身分の一族が暮らしている。
つい昨日まで自分もあの場所に身を置いていた。
――後悔なんて、していないわ
ルイスは小さく頭を振って、窓から目を背けた。
いまはもう、遠い場所だ。
姿見の前に立つと、銀髪をシニヨンに結いまとめた碧眼の少女があらわれる。
ぬっ、とセティス――否、ルイスは首をのばして鏡面に顔を近づけた。
みればみるほど他人の顔だ。
前の顔が気に入っていたわけではないが、どうも違和感がある。髪をシニヨンにする単純な作業でさえ顔に気を取られて、かなり時間をくってしまった。
慣れない他人の身支度をするのは思ったよりも大変だ。
ルイスは真新しい靴のつま先を立てて、くるりとまわる。
ふわりと、黒いロングスカートが広がった。
襟元まで黒一色に塗りつぶされたこの服は、俗に侍女服と呼ばれる。襟元も袖口にも装飾は一切なく、すべて使われている糸も黒色だ。まるで喪服のようだという者もいるが、市井の女子たちにとっては憧れの服なのだと、セティスだったころに宮殿の侍女たちから聞かされていた。
宮殿をはじめ、貴族の邸などに仕える『侍女』と呼ばれる女性のほとんどは詰襟でロングスカートの黒一色の服に身を包む。表立って、貴族の子息や令嬢の傍にいなければならない侍女には、相応の立ち居振る舞いと高い教養が求められた。たとえ着飾ることができなくとも、令嬢らの背後に凛と控える立ち姿に憧れ、市井の女子には志す者も多い。
まだ織り目がくっきりとついた黒い侍女服の裾からは、染めた生地特有の真新しい匂いがする。窓の外には晴れ空がひろがっている。木々は真新しい黄緑色の葉をここちよさげに、ゆらしている。
ルイスは姿見にうつる黒侍女服を着た自分をみつめたまま、深く呼吸をした。
一層濃い、侍女服の匂いが鼻腔の奥に広がる。
「準備できたわ」
ルイスは部屋の扉をひらいた。
廊下で待っていたのはルディである。
「では参りましょう、ルイス様」
「様、はよして」
「では、参りましょう。ルイスさん」
芝居がかった口調で律儀に言いなおすルディに、ルイスは苦笑した。
そんなルイスを見て、ルディもまた歯をにかっ、と見せた。
城下の宿を出た二人が向かったのは、王都の中央に位置するルーイント教会である。
ルイスはここで、侍女――とある聖女の教育係として働く。
教会の役割の一つに、聖女の育成がある。
聖女は基本的に一つの教会に十数人置かれる。そのほとんどが代々聖女を輩出する家系の人間から選ばれ、“聖女候補”として五歳で教会に入り修練を積む。一生のほとんどを教会で過ごし、外に出ることは稀だ。しかし、近年そのことに対して異を唱える声が出始めた。
聖女は教会の奥深くで、絹にくるまれて過ごす。自由はないが食べ物にも、着るものにも困ることがない。ゆえに、祈りを捧げに来た民らに対して“パンがなければお菓子を食べればいいじゃない”という様な発言をしてしまう聖女が後を絶たなくなった。
外に出たことがない彼女たちからすれば、貧困は本の中だけの話であり、想像の域をでない。民と聖女では価値観が違いすぎる。しかし、俗世で聖女候補を育てるのは神聖さが保たれないとして、教会は首を縦にはふらない。
そこで民と教会の間で出された折衷案は聖女候補の者を国立学院に入学させることだった。
国立学院は、元は王族の子息子女を教育するために造られた学び舎である。宮殿に隣接しているため、護衛の騎士や、高い城壁が築かれており、護りは強固だ。王族以外の者も試験に合格すれば入学を許される。
セティスの、――否、ルイスの狙いは、それだ。
王族も通う学び舎とあって、国立学院の学力の水準は高い。ゆえに、十分に教育を受けられる環境にある貴族が生徒の大半を占めていた。
貴族に付き人は必須である。聖女でもそれは同じだ。
ルイスの狙いは聖女の教育係となり、付き人として、国立学院に入学することである。
学院で学ぶためには相応の教養はもちろんのこと、学費が要る。
付き人となれば当然、学費は雇い主から出される。これならば、平民であるルイスにも国立学院への道が開ける。もともと学ぶことは好きだったルイスだ。セティスだったころに身に着けた知識も生かせる。
そのうえ、セティスは幼いころに一度、入学試験に合格している。結局、実家マグフォード家が許さず、第一王子の婚約者にされたため入学できなかったが、あきらめてはいなかった。
セティス・マグフォードではなくなった今、国立学院への障害はすくない。
「ではルイスさん、お元気で」
ルディとは、教会の前で別れた。
裏門の前で待っていた侍女に連れられ、ルイスは教会に足を踏み入れる。
ここからは一人だ。
――わたしは、ルイスよ
もう、令嬢じゃない。
もう何度目か、自分自身にルイスは言い聞かせた。