5. 演劇 題名〈悪女 セティス・マグフォード〉④
セティスは七歳で宮殿へあがり、その一角――白百合宮に居を構えていた。
実家から白百合宮に移り住んで、今年で十年になる。
白百合宮の侍女たちは非常に優秀だ。
事の次第はセティスを乗せた馬車が到着するまえに、既に伝わっていたのだろう。
裏口には侍女が馬車の到着を密かに待ち構えていた。侍女の数は三人。決して多くはないが全員、セティスが宮殿にあがったころから傍に仕えている――彼女の気心を知る者達である。
数人の騎士たちに護衛された馬車が着くと侍女たちは、何も言わずに手際よくセティスを引きずりおろした。侍女の二人がセティスの腕を肩にまわして両側から支え、一人が長いドレスの裾を後ろから抱え上げる。侍女がドレスの裾を抱えるのは、もちろん長年にわたって仕える主が転ばぬためであるが、脚の膝までが露わとなってしまう。この国では女性が足を出すことは下品とされる。
セティスは邸の奥へと運ばれてゆく。
数か月前まで第一王子の婚約者とされた少女の無惨な光景である。
まるで大きな幼子だな、と馬車の護衛についた騎士たちは、鎧の下でセティスの後姿を嗤った。
セティスの涙は止まることなく、頬を伝い顎先へとしたたり落ちる。廊下の絨毯にはぽたぽたと、彼女の通った跡がつづいた。
それは、セティスの自室の前まで続いていた。
両脇を支えた侍女二人は、部屋の椅子にセティスを座らせようとしたが、彼女は首をふる。しかたなく侍女たちはセティスを床の上に、降ろした。
涙は途絶えることなく、両目から流れ落ちてゆく。
「お嬢様、着きましたよ」
はじめて、侍女の一人が口を開いた。豊かなグレーの髪をシニヨンに纏め結った初老の侍女である。
だがセティスは膝をついて、顔を伏せたままだ。
ふと、なにかに気がついたのか初老の侍女は振り返り背後を睨む。
そこにはドレスの裾を抱えたままの、もう一人の侍女がいた。彼女ははっ、とドレスの裾を手から離し、開きっぱなしだった背後の部屋のドアを慌ててしめた。
カチャリと鍵を掛ける音が、やけに大きく部屋に響く。
その音を合図に、セティスは顔を上げた。
「何なのよ……、この薬っ……」
別の侍女が差し出した手巾を受け取り、顔をぬぐう。
「全然、涙がとまらないじゃないのっ……」
「――うまくいきましたか?」「――いかがでしたか?」
後の侍女二人が、セティスの許にさっと膝をよせて、そろって口をひらいた。
彼女たちの問いかけにセティスは涙を拭いながら頷いた。
「ええ。全部、うまくいったわ。作戦は成功よ。もう、第二王妃候補でもないし、貴族でもないわ」
「では……」
「わたしはもう、平民よ。だから、この白百合宮の主でもないわ」
セティスは微笑んだ。心からにじみ出た、安堵の笑みだ。
鏡に映したように、二人の侍女もセティスと同じ顔をしている。
「よかったと申し上げるべきでしょうが……」
侍女の一人が、袖口で涙を拭う。
「これでお別れかと思うと寂しいです」
別の侍女が言葉を続けた。
「わたしもよ……」
セティスは両目を乱暴に拭う。ちゃんと二人の顔がみたいのに、涙が邪魔でみえない。
「……もぅ」
苛立った声が漏れた。
その時だ。
セティスの部屋のドアを、ノックする音が響く。
緩んでいた部屋の空気が、瞬時に強ばる。
「そのままお待ちを」
言ったのは、初めにセティスに声をかけた――初老の侍女である。
いつのまにか手にしていた旅行鞄――セティスと侍女二人が話している間にとりにいっていたのだろう――をさりげなく、部屋のソファーの裏に置き、なにごともなかったかのように部屋のドアへと向かう。
のぞき穴を見、セティスを振り返る。
「お嬢様、殿下(ジョセフ王子)とメリル様がお越しです」
「メリルが……?」
「ええ。いかがしましょう」
「いいわ、あけてちょうだい」
セティスは引き絞るように手巾を顔に押し付けてからすっと立ち上がり、侍女二人は部屋の隅へと移動する。
ドアが開くと同時に、ジョセフとメリルが折り重なるようにして部屋へ駆けこんできた。
ジョセフとセティスの視線が交わる。
一拍の沈黙が三人の間におちた。
「二人とも抜け出して来て大丈夫だったの?」
その重い空気を破ったのはセティスだ。
「気分が悪いから部屋に戻ると言って抜け出してきました。ジョセフ様は私を介抱していることになっていますから、気づかれてはいないはずです」
答えたのはメリルだった。その表情は強張ったままだ。
厳密には〈気づかれていない〉のではなく、〈一部の事情を知る従者以外には知られていない〉の間違いであり、一国の王子がパーティの夜に数人の従者だけを連れて宮殿を抜け出すなど言語道断なのだが、それは今指摘すべき事ではないと、セティスは言葉を飲み込む。
「――名演技だったでしょう」
涙を拭って、ニヤリと深い赤色の唇を二人の前でセティスは吊り上げてみせた。
「本当にこれでいいのか?」
「いまさら、どうにもならないわよ」
問いかけるジョセフに向かい、吐き捨てる。その口調に棘はない。流れ続ける涙のせいで声まで潤んでしまうが、本意ではない。
「私が望んだことよ。一生、マグフォード家の駒でいるなんてお断りだもの」
第二王妃にならないためにはどうするか。
王子の力でも、セティスを宮殿から逃がすのは難しい。背後には大貴族マグフォード家がある。唯一考えついた方法は、自ら破滅することだった。
セティスは視線を、ジョセフから隣のメリルへと移す。
「セティス様……」
メリルは今にも泣きそうだ。
「あなたは何も悪くないわ。人の気持ちはだれにも変えられないんだから。まあ、次代の王妃候補として育てられた私からすれば、王妃になれないのは少し残念だけど。でも、あなたたちの間にはいる隙なんてなさそうだしぃ」
セティスはわざと、口を尖らせる。
ジョセフとメリルは顔を見合わせて、苦笑した。
相思相愛。比翼連理。
ほほえましい光景だと、セティスはただ思った。互いに想いあう一国の王子と、その妻となり、いずれ王妃の座に就く平民の少女。おとぎ話をみているようだ。
「――それに、第二王妃はおことわりだもの。マグフォード家から抜け出すいい機会だとおもっているわ。いろいろ大変だろうけど、ジョセフとしあわせにね」
薄絹のベールをかぶせるように、涙を拭いながらメリルに語りかける。
「はい、セティス様」
「様、はよして。わたしはもう、ただのセティスよ」
ジョセフに向きなおる。
「メリルは平民出身よ。きっと、これから私みたいなご令嬢サマがたくさん現れるはずだから、《《護ってあげてね》》」
ああ、とジョセフはうなづいた。
「お嬢様、そろそろ」
侍女が声を掛ける。
「わかっているわ」
セティスは頷いた。
作戦はここで終わりではない。
すぐに怒り狂ったセティスの父――マグフォード家当主がこの部屋に殴りこんでくるはずだ。そのまえに、セティスは王子様に嫌われたショックで姿を消さなければならない。
「セティス……」
不意に名前を呼んだジョセフのかすれた声に、セティスはドキリとした。胸が波立つ。とっさに目元を手巾で拭うふりをして動揺を隠した。メリルがいる。
この時初めて、セティスはこの溢れ出て止まらない涙に感謝した。
――ああそうだわ
ずびっ、とセティスは鼻をすする。
「……この薬、すごいわね。涙が、ぜんぜんとまらないわ。解毒薬とかないのかしら」
問いかける口調は、一変して明るい。
「……二時間後にはとまっているはずだ」
答えたジョセフの表情は暗いままだ。
そんなにかかるのか……、とセティスは絶望する。この涙のせいで、なにもみえない。もうしばらくは、会えない人たちばかりなのに最悪だ。
あふれ出る涙を搾り取るように強く瞼を抑えた後、握っていた手巾を侍女に渡した。
ドレスその裾をつまみあげ、流れるようにセティスは膝を折り曲げる。
「――このセティス・マグフォード ささやかながらお二人のご多幸をこころから祈念申し上げます」
王子と、次代王妃に対し、セティスは最上の礼をとった。
◇◇◇
足音をけたたましく鳴らしながら、激怒したマグフォード家当主がセティスの部屋にやってきたのは、それから一時間後のことである。その形相は、いまにも拳で頭蓋骨をたたき割らんとするばかりの憤怒に満ちたものだったらしい。
しかし、白百合宮の主は不在。御付きの侍女たちは、セティスがいつのまにか部屋から消えていたのだと、おいおい泣き喚くばかりで話にならない。
――窓からぬけだしたのか?
当主はありったけの人間を使い周辺を探させたが、セティスの姿はなかった。
かわりに無惨に引き裂かれ、血糊が染みついた深紅色のドレスが白百合宮ほど近い雑木林で見つかった。
時は既に、すっかり夜が明けきった正午を過ぎた頃である。