4. 演劇 題名〈悪女 セティス・マグフォード〉③
トン、と庭を眺めるメリルの背中を指先で突いたのは、当のセティスだ。
不意をつかれたメリルは簡単に、足を滑らせ池にどぼん。
池の深さは足首ほどでよほど運が悪くなければ大事には至らない。せいぜい、ドレスの裾に素敵な水玉模様ができるくらいだろう。そして、メリルは連日のセティスと侍女たちからの嫌がらせで相当参っているはずである。
セティスの予想通り、堤が決壊したようにメリルは半狂乱で唯一の確かな味方であるジョセフの元に生足あらわに走り寄り、周囲も気にせず、腕にすがりついて、大声で泣き出した。
そんな彼女から、事の次第を知ったジョセフは、パーティの最中にも関わらず大声で、かつての婚約者の名を叫んだ。
――セティス・マグフォードはどこだ!?
その怒り具合からして、メリルはこれまでのセティスの悪行を、全てジョセフに吐き出したのだろう。メリルからすれば、婚約者の座を奪ってしまった罪悪感と、立場に差はあれど同じ〈妃〉と呼ばれ、将来宮殿で共に暮らす者として、セティスとはなんとか仲良くなりたかった。
噂を小耳に挟んだジョセフに声をかけられても、大丈夫だと、断った。どんな嫌がらせにも耐え、良き仲になりたいと、自分なりに努力してきたようである。
だが、そんな想いは池に突き落とされた瞬間、潰えたのだろう。
こうして、今に至るわけである。
「御靴も履きこなせない方に、次代の王妃が務まるとは思えませんわ」
セティスは指先で髪の毛をいじくりながら、口先を尖らせた。
「……妃にふさわしくないのはお前だ」
ジョセフの声は地響きのようだ。
「…………え?」
小首をかしげる。
「……お前を妃の座に据えることはできない」
「そんな!」
盛大に、ヒステリックに、セティスは声を張り上げる。
――あぁ、なんてかわいそうな、わたくし
そして、数拍の沈黙ののち、ぱっ、と両手で顔を覆った。その勢いのまま膝を折り、大理石の床の上に身を沈める。
「わたくしが次の王妃となるはずでしたのに! そこにいる女が横取りしたんですわ! わたくしの、ぜんぶわたくしのモノだったのに!」
珀乳色の大理石の上に、セティスの深紅のドレスの裾が、ワインを垂らしたように、円形にひろがった。
セティスは声を、肩を震わせた。
しかし、手を差し伸べる者はだれもない。同情的な視線もない。
中には、無意識に後ずさりする者さえもいる。
あまりの振る舞い。メリルならばともかく、セティスは次代の王妃として育てられた淑女ではないのか。
「……セティス。お前には第二王妃の座ですらふさわしくない」
はた、とセティスは顔を上げた。同時に大粒の涙が頬に零れる。
セティスはわらった。
何かを期待するような、けれど指先が触れてしまえば壊れそうな、口元だけつりあがった薄皮の笑み。潤んだ瞳はクリリとして、小動物を思わせる奇妙な眼光が宿っている。
「いかなる事情があろうとも、私の婚約者であるメリルを虐げた罪は重い」
広間のささやきがいつの間にか止んでいる。
みな、王子の言葉を待っている。
「お前を平民に落とす。メリルの前に二度と姿をみせるな。私の前から消え去れ」
「お待ちを、それはあまりに――」
言葉を発したのはセティスの父――マグフォード家当主である。貴族らしくない筋張った針を思わせる体型の神経質そうな男だ。どこからかとって貼り付けたように、目玉だけが大きく潤んでいる。
来ていたのね、とセティスは思うだけで一瞥することすらしない。
父であるが、自分を駒としか見ていない人間だ。
「わたしの決定に文句があるのか。この者は、メリルを殺そうとしたのだぞ」
ジョセフの声色には、湧きだしそうな怒りを必死に抑えようとする理性がみえた。
「ですが――」
マグフォード家当主は、本能的に途中で言葉を切った。そうさせる怒気が、いまのジョセフにはある。
「殺すだなんてとんでもない。ただ、……ちょっとぉ」
けれども、セティスの態度も変わらない。ジョセフから目をそらし、再び真っ赤な唇をさらに尖らせる。その仕草は駄々をこねる子どものそれだ。
「だまれ、王子である私の婚約者を虐げた罪――本来なら処刑すべきところだ」
その言葉で、ようやくこれまで椅子に深く腰掛けいただけの、国王が片眉を上げた。
「だが、セティスは仮にも私の元婚約者だ。これまでのこともある。平民に身分を落とすだけで許す」
「ま って……」
セティスは虚空に手を伸ばす。
その白い、指先に触れるものはなにもない。
「――宮殿から出て行け、セティス。二度と立ち入ることは許さん。次にわたしの目の前に現れたのならば、その時命はないと思え」
「そんなあ……ぁ……」
セティスはドレスの裾に顔を埋めた。
か細い肩がまた、小刻みに震えはじめる。
「誰か、セティス・マグフォードをつまみ出せ」
セティスを取り囲む人だかりが割れ、揃いの鎧を着た騎士たちが現れ、彼女を両脇から抱え上げる。
地面がぐわんとゆれたような気がした。
抵抗する気は失せていた。立ち上がるのさえ億劫だった。
騎士たちに引きずられ、用意されていた馬車にセティスは投げ入れられる。
受け身をとることはない。肩を床にうちつけて、鈍い音を立てたがセティスは痛む素振りさえしなかった。彼女の動いている部分は、両目からは絶え間なく流れ出る涙だけだ。口はうすく開き、目は焦点が合わず、虚空を意味もなく見つめている。
塗り込められた口紅だけが蝋燭の微弱な光を照り返して、血のように生々しい。
ガタン、と勢いよく音を立てて馬車のドアが閉められた。まるで監獄のドアを閉じるような乱暴な動作だ。
外で、やりとりしていた従者の声が途絶え、馬車はゆっくりと動き出す。
馬車の中にあかりはない。
闇に、馬のひづめの音だけが虚しく、規則的になる。
一歩一歩、宮殿から遠ざかり、馬車はセティスを運んでゆく。
ふと、目玉だけをうごかして、セティスは窓の外をみた。
馬車の窓からみえる空は紺青色に塗りつぶされ、星の瞬きすらこちらを向いてはくれない。
セティスは瞼を落とした。
視界が完全な闇に、おちた。