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1・理想の恋(桐谷椿の場合)

 山の中で死体が見つかった。

 出版社のオフィスの喧騒の中、私は資料をまとめながらインターネットのニュースを読んでいた。発見されたのは三日前。車に乗った男女が三人、都心から離れた川蝉山で練炭自殺だそうだ。

「自殺……か」

 見出しの単語を繰り返す。目に入るだけでも胸がざわざわする二文字だ。後ろから同期の宮田さんの声がした。

「嫌なニュース。桐谷さん、よくこんなの読む気になるね」

 私、桐谷椿は、この出版社で編集者兼ライターをしている。宮田さんは同い年の同期で、いつも鬱陶しいテンションで話しかけてくる。正直、私は彼女が苦手だ。

 件のニュースが注目を集めているのは、全く接点のないメンバーで構成された集団自殺だった点だ。自殺サイトで集まった他人同士という可能性から、ネット上のサイト規制とかSNS運用とかそういう話にも飛び火して、発見から三日経った今でも、こうして記事になっている。

 宮田さんが画面を覗き込んできた。

「自殺なんかするくらいだもん。きっと心が弱くて暗い奴らだったんだろうね。いじめられてたりしてさ」

 宮田さんは平気でこういうことを言う。

 ぴきっと、こめかみが痛んだ。眉を寄せると皮膚が引っ張られて、ここにできた傷跡が引き攣れるのだ。

 言いたいことはあったが、私は無理やり言葉を呑んだ。口にすれば無駄に話が広がって面倒くさいので、彼女に合わせて「そうだね」と答えておく。宮田さんが気色ばむ。

「自殺する奴って、なに考えてるんだろ。ほんと気が知れない!」

 私は自殺するまで追い詰める人、変わっていかない社会の気が知れない。と言いかけて、これもやめた。そんな私をよそに、宮田さんはさらに喋り続ける。

「どうして死んだんだろう。生きる方法はなかったのかな」

「あのさ、宮田さん」

 私はつい、黙っていられなくなった。

「亡くなった人を責めるんじゃなくて、ご冥福をお祈りするのが先じゃない?」

 途端に、宮田さんの顔からあざとい甘さが消えた。面倒くさそうな顔で私を睨んでいる。私は数秒前の自分の発言を後悔した。言う前に呑み込んでおけばよかった、と。宮田さんがまた、わざとらしい甘え声に戻った。

「当たり前じゃん、テレビで観たときお祈りしたよお。かわいそうーって、真っ先に思ったよ」

 絶対嘘だ。と思ったけれど、これ以上は失言は重ねまいと、私は微笑んで誤魔化した。

「ごめん、そうだよね」

 このままだと、苛つく宮田持論を聞かされ続ける。私はマウスを手にとり、インターネットのウィンドウごと畳んだ。すぐ下に控えていた、デスクトップの画像が表示される。

 木々がしんなり背を伸ばす暗い森。そこから見上げた空が、木々のてっぺんの隙間から丸く切り取られ、星がふわあ、と散りばめられている。都会では全く見えなくなってしまった、粉のような星の空。

「うわ、きれいな写真!」

 画像を見て、宮田さんの話題も切り替わった。

「桐谷さんのデスクトップ、前からこの写真だっけ?」

「ううん。今朝変えたの。夏目翔弥の新作」

「夏目翔弥?」

 宮田さんが繰り返す。私は、彼女を横目に頷いた。

「写真家。すごくきれいな風景写真を撮るんだ」

 この夜空の写真は、彼のホームページにアップされたばかりの最新作だ。

 濃紺の空と霧散するような星、真冬の凍てつく空気まで伝わってくる。ぞっとするような美しさである。ただの星空の写真なのに、どことなくそれ以上の奥行きを感じさせられる。

 タイトルは『見下ろす星々』。まさに、天上の星屑たちが、私たち地上の人間たちを見下ろしているような……そんな世界観だ。

 写真家・夏目翔弥は、私の憧れの人だ。彼の作品を知ったのは、高校時代。祖母と見ていたテレビのドキュメンタリー番組に映ったのだ。映し出された作品の数々は、海や建物、深い深い森の中、大きな桜の木や電車の線路など、テーマは様々でもどれも息を呑むほど美しかった。いや、美しいだけではない。どこか物悲しく、儚げで、それでいて凛としている。

 一体どんな感性をもってしてカメラを向けたら、そんな写真を撮れるのだろうか。本人の姿はテレビには映らなかったが、どうやら私とそう歳が変わらない若い人らしいと知り、さらに心を奪われた。

 それ以来、私は夏目翔弥のファンである。彼のホームページをチェックして、アップされる写真を眺めては心を癒されている。

 宮田さんも感嘆の声を上げた。

「この写真すごく好き。構図とかすごーい」

「宮田さん、写真詳しいの?」

「ううん、全然分かんなーい」

 ああ、やっぱりイライラする。私の心のオアシス、夏目さんの写真を、そんな薄っぺらな感想で分かったふりをしないでほしい。

「宮田さん、そろそろ仕事に戻ろうか。原稿の締め切り、明日だよね?」

 私の小さなため息に気づいたか、宮田さんは甲高い声を上げた。

「えー、桐谷さん、私のことウザがってる? 酷ーい! 折角アイディア持ってきたのに!」

 今度は私を悪者扱いか。彼女の声に、他のライターが顔を上げる。宮田さんはそれを横目で確認してから、続けた。

「桐谷さんは美人だからみんなに愛されてて、私なんかに構ってる暇ないのかもしれないけど、でも私も、桐谷さんのこと大好きなのにー」

 私が宮田さんに冷たく接したみたいな、そんな空気が流れはじめた。私は咳払いして、宮田さんに向き直る。

「アイディア?」

「うん。桐谷さんの記事のお役に立てそうなサイト見つけたから、共有しようと思ってえ」

 宮田さんはそう言うと、私に一枚、ピンクの付箋を手渡してきた。癖の強い丸文字で、URLが書き込まれている。

「最近話題のSNSなんだって。見てみたら?」

 宮田さんがにこにこ笑う。それからまた、よく通る音域でフロアに声を響かせる。

「余計なお世話だった? 桐谷さんって、きれいな上に仕事できるもんね。やっぱ迷惑そう……」

「う、ううん。そんなことないよ! ありがとう」

 ひとまず、負けないくらい大きめの声を出して、私は資料を鞄に詰めて立ち上がった。

「これから取材だから行くね」

 コートを羽織って、マフラーを肩に引っ掛ける。本当は取材の予定なんかなかったが、さっさと出て行くとする。オフィスの空気は、居心地が悪いのだ。



 日常の「ステキ」を発信するカルチャー系ウェブマガジン、『キラメキTODAY』。私が連載枠を持っているのは、今のところ、この三流マガジンだけである。

 主な内容は、手芸作家やイラストレーターなどのクリエイターの紹介、都内のカフェを中心としたお店の宣伝、クライアント企業のキャンペーンの告知など。わりとジャンルにこだわらずなんでも取り扱えるのだが、PVを稼げる記事を書けるかどうかとなるとなかなか手腕が問われるのである。ネタになりそうなものはできるだけ多く拾って、その中から「当たり」を探すのだ。

 十二月の冷たい風が、頬を突き刺す。この寒い中オフィスを出てきてしまったついでに、なにかしらネタを見つけたい。ひとまずコンビニに入り、コーヒーを買った。同じウェブマガジンで記事を書いている宮田さんなら、こういうとき、コンビニで新商品を買ってレビュー記事を書く。私は彼女の真似をしたとは思われたくないので、同じことはしない。

 なんてライバル心を抱えているが、私も宮田さんも、同じ危機感の中にいる。実はこの『キラメキTODAY』、アクセス数の鈍さゆえにサービス終了の瀬戸際なのだ。今どれだけ頑張って記事を書こうが、コンテンツ自体が終了したら、私たちが書いた記事は永遠にネットの海から消える。そう思うと、なんともやりきれない気持ちになる。

レジ横で新聞が売られている。丸まっているが、「山中の集団自殺、彼らになにが」と大きな見出しが入っているのは見て取れる。

 自殺。その単語がまた、私の胸の奥をぞわりとさせる。

 コンビニを出て、私は店の外壁に凭れてポケットに手を突っ込んだ。と、中でくしゃっと紙の折れる感触があった。引っ張り出してみると、宮田さんから渡されていたピンクの付箋だ。私はコーヒーを片手にため息をつき、付箋をカップに貼って、鞄から携帯を取り出した。書かれているURLを打ち込み、宮田さんから勧められたそのサイトにアクセスする。

『今日のスイッチ』

 サイトのタイトルが、大きく表示された。

 白を基調としたシンプルなデザインに、「日記」や「掲示板」などコンテンツのリンクが並ぶ。試しに「日記」をクリックしてみたら、会員登録画面に飛ばされた。

 どうも、よくある会員制SNSのようだ。そういえば宮田さんも、どこだかのSNSで遊んでいて、かわいいアバターアイテムがなんだとかと話していた気がする。もしかして私も、そのSNSに招待されたのだろうか。となれば、私に拒否権はない。あの子の誘いを断ったら、陰であることないこと言われてしまう。

 会員登録画面で、メールアドレスとサイト上でのハンドルネームを登録する。ハンドルネームは、面倒なので本名からそのまま、「椿」にした。登録完了し、早速、サイトの中のバナーをクリックする。そして私は、目を疑った。

「日記」コーナーに投稿されていた新着記事は、どれもこれもいじめや借金苦などの悲鳴、怨念のような恨み辛みを綴った文章。「掲示板」はなるべく苦しまない死に方の相談、遺書の書き方教室、懺悔の間。住人はいじめにあう学生、ニート、借金まみれのギャンブラーなど。

 しばし、思考が止まった。いわゆる自殺系サイトだ、これ。

 この国には、数え切れないほどの自殺志願者がいる。ただ、自殺を志願していても、ひとりでは上手く死にきれない者も多い。そこで扱われるのが、自殺系サイトだ。インターネットを介して見ず知らずの人々が集まり、集団自殺する。この手の事件は、日本の各地で見られ、社会問題となっている。

 サイトの中の掲示板では、サイトの会員たちが死にたいけれど死にたくない葛藤を匿名で慰め合っていた。日常から隔離された死の世界が、そこにある。

 呆然としたあと、だんだん腹が立ってきた。宮田さんは、これを分かっていて私にこのサイトに登録させたのだ。なんて陰湿な。

 宮田さんは愛嬌があって気立てもよく、いつでも笑顔である。それだけなら本当にいい人なのだが、彼女の場合、とにかく要領がいいのだ。愛される自分でいるために、ごく自然に人を踏み台にする。そして踏み台にされた同期が私だった。

 入社当初、私は上司を含め男性社員の間でちょっと話題になっていた。どうも容姿が気に入られたらしく、彼らからちやほやされたのである。宮田さんはそれが気に入らなかったのだろう。彼女は私から冷たくされているかのような振る舞いをしだし、私が悪者になるように仕向けてきたのである。あたかも私がちやほやされて調子に乗り、宮田さんを見下している……かのように、上司に見せかけているのだ。さらには私のミスを過大に騒ぎ、大ごとにする。

 やがて上司は私と宮田さんを比べるわりに私の努力は見なくなり、優しくしてくれた先輩社員も私を嫌煙するようになった。要領のいい宮田さんは、わざわざそんな私にも構う「イイ子」なキャラクターを演出する。そんなこんなで、私は現在、オフィスで居心地の悪さを感じている。

 そして極め付けがこれだ。まさかの、自殺サイトへの招待。宮田さんは私に「死ね」と言いたいのだ。

 私はサイトの画面を閉じて、携帯を鞄に突っ込んだ。コーヒーをひと口飲んで短く息をつく。この寒さのせいだ、すっかり温くなっている。まったく、自分たちのウェブマガジンが死にかけているというのに、一応仲間である私へ嫌がらせとは。コンテンツを盛り上げるためにも、少しくらい協力しようとは思わないものか。

 宮田さんからの嫌がらせに腹が立つのはもちろんだが、同時に、目にしてしまったサイト内の重たい言葉が脳裏を渦巻く。「死にたい」「もう消えたい」――あの書き込みたちが、頭から離れない。あれを書き込んだ画面の向こうの誰かは、死にたいほどの苦痛を抱えて、今日を生きているのだろうか。

 世間は自殺を忌み嫌う。当然だ。死んでいい人間などいないというのが、一般的な教えである。

 でも、本当にそうなのだろうか。

死んでいい人間は山程いるのではないか。あのサイトの会員らもそう。社会に上手く適応できない彼らは、無理して生きたくなんかないのだ。だったらもう、これ以上苦しまなくてもいいのではないか……そういう考え方をしている私自身もまた、社会の方向性に馴染めていないのだろう。

 馴染めていないのかもしれないが。少なくとも私は死にたいとまでは思わない。私は、宮田さんからこんな嫌がらせをされたって、負けない、絶対見返してやる、と反骨精神を燃やすだけ。決して、死にたがりではない。そう自分自身に言い聞かせた。

 気持ちを切り替えて、街へネタ探しに行こう。鞄を肩に引っ掛け直して、街道へと繰り出す。クリスマスモードに飾られた街並みがきらきらと広がっている。息が白い。

 なんだかもう、浮かれた景色にも苛立ってくる。これではだめだ、リフレッシュしたい。夏目さんの写真でも見て、気持ちを落ち着かせよう。と歩みを速めた、そのときだった。

「うわっ!」

 どんっと、人にぶつかった。向かいから歩いてきていたスーツの男性だ。私は慌てて、頭を下げる。

「あっ、す、すみませ……」

 途中まで謝って、息を止めた。私が左手に持っていたコーヒーは、男性のスーツに巨大なシミを作っていたのだ。頭が真っ白になる。体が石のように固まって、動けなくなった。

 コーヒーを被った男性は、二十代くらいだろうか。細身の体に斜め掛けの鞄を引っ掛け、マフラーを巻いている。この鞄とマフラーも、コーヒーを浴びて黒ずんでいた。

 彼もまた、私と同じく絶句している。自身の胸から腹にかけてのコーヒーのシミを見下ろして、石化していた。やがて突然動き出し、真っ先に、鞄を開けた。

 そこから彼が取り出したのは、黒い一眼レフカメラだった。太いストラップをぶら下げたそれを、青年が掲げる。

「カメラ! 濡れ……てない」

 彼はカメラを数秒いじってから、思い出したようにこちらを見た。

「よかったあ、カメラ壊れてなかった! いやあ、流石に焦っちゃった」

 向けられたのは、ほわんと穏やかな笑顔だった。その優しげな表情に、私の緊張も緩む。

「その鞄、カメラバッグだったんですね。中身が無事でひとまず安心しましたが……その……」

 カメラは動いても、スーツとワイシャツ、マフラー、鞄はコーヒーまみれだ。しかし彼はやはり自分の身より先に、鞄の中ばかり確認している。中から取り出された封筒を開け、中身を見る。

「これも大丈夫、と」

 封筒の中身は、どうやら写真のようだ。スーツの男性がくるりと返したその一枚が目に止まり、私はあっと口をつく。

暗闇の森の、星空。

「夏目翔弥……さん」

思わずその名前を口にすると、男性は大きな瞳を私に向けた。

「僕のこと、知ってるの?」



 夏目翔弥、三十一歳。写真家。彗星のごとく現れた、経歴不明の天才。とある風景写真のコンテストで注目を集め、写真界を震撼させた。フリーカメラマンとして、全国各地の風景を撮っている。

 喫茶店のテーブルで、私は大好きな写真家のプロフィールを頭の中で反芻していた。

「驚いたなあ、まさかぶつかった人がたまたま僕のファンだなんて」

 テーブルの上に写真の入った封筒を置いて、夏目さんは微笑んだ。コンビニで買った新しいワイシャツに着替えた彼は、脱いだワイシャツとスーツを脇に置いている。

「あ、僕のファンじゃなくて、僕の作品のファン、か」

「いえ、夏目さんご自身のファンでもあります」

 私の声は、興奮でわなわなと震えていた。今、テーブルにあるのは、本物の生写真。目の前にいるのは、憧れの人。夏目翔弥、本人なのだ。その夏目さんと、喫茶店でお茶している。こんな偶然は二度とないだろう。

 私ははっとして、名刺を差し出した。

「申し遅れました、桐谷です」

「夏目です」

 彼も名刺をくれる。穏やかな落ち着いた表情が大人な雰囲気を醸し出しているが、三十代には見えない童顔である。

 写真を通してしか知らなかった「夏目翔弥」が、今目の前にいる。気持ちが昂ぶって、私は早口に喋り出した。

「私、夏目さんの写真が大好きなんです。新作の星空の写真なんて、とくに」

 デスクトップ画面に設定した、「見下ろす星々」。夏目さんは満足げに微笑んだ。

「ありがとう。僕も気に入ってるんだ。桐谷さんは、あれのどこが好きなの?」

「森の暗さと星の明るさのギャップ、でしょうか。それがなんというか、儚げで、それでいて。ちょっと恐ろしくもあるんですよね」

 写真の魅力を考えながら、私はじっと天井を仰いだ。

「なんでだろう、美しいからでしょうか、ぞっとするような、呑み込まれるような。あっち側に行ったら、もう戻ってこられないみたいな……」

 白い泡のような星がひらひらと見下ろしている、真っ暗な森の闇。

「そして、呑み込まれてしまいたくなる。羨ましいんです、あの深い深い暗闇が」

「桐谷さん……」

 不思議そうにまばたきをする夏目さんに、私はハッとなり我に返った。

「すみません、おかしなこと言って」

 なんだか気持ち悪い感想を口走った気がする。咄嗟に頭を下げると、横に流した髪が頬を弾いて邪魔くさく揺れた。夏目さんの声が、頭上から降ってくる。

「おかしくないよ。すごくいいね。そういうの大好きだよ」

 機嫌よさげな口調に、私は顔を上げた。夏目さんはにっこり微笑んで、私を眺めている。

「時々いるんだ。僕の写真を見て、そういう感じ方をする人」

 呑み込まれるような深い闇に迷い込む感覚。そんな私を、高い空から見下ろす星。

 夏目さんは、なんだろうねえ、と意味深な笑みを浮かべてコーヒーに口をつけた。

「僕が写真を撮るときによく意識してることがあるんだけど、もしかしたらその意識が写真を通して伝わるのかな」

 夏目さんが、ふう、と小さく息をつく。

「気持ち悪い話かもしれないけれど、死を意識するんだ」

 一瞬、背中がぞわりとした。

 彼の撮る穏やかな写真の裏に、死への意識。真逆の印象だ、と思いつつも、なぜだか全く驚かない自分がいた。夏目さんが苦笑する。

「あの星の写真を撮りに行ったとき、帰り道がすごく寒くて死ぬかと思った」

「あ、『死を意識する』って、そういう意味ですか?」

 拍子抜けして言うと、夏目さんは、ははっと笑った。

「でも星がすごくきれいでね。人は死んだら星になるっていうでしょ、僕もこの寒さで死んだら、星になれるのかな、って。まあ、あのくらいの寒さでは人間は死なないだろうけど」

 私は、店の窓の外に見える、白い空に目をやった。昼間の空に姿を隠した星を探す。夏目さんがふ、と鼻で笑った。

「人は所詮、星にはなれやしないね」

「そうですね」

 私も小さく頷いた。

「人は死んだところで、なににもなれない。だからこそ、消えてなくなってしまえるからこそ、人は死に希望を見出すんじゃないでしょうか」

「君も意識したことがあるんだね」

 夏目さんはふわりと目を細めて、いたずらっぽく言った。

「君とはフィーリングが合いそうだ。大好きだなあ、君みたいな人」

 彼のほんわかした微笑みに、私は感嘆のため息を洩らした。

「恐縮です。どうしよう、こんな奇跡あるんだ。大ファンの写真家さんに偶然出会って、こうして話して……さらには感性を褒めてもらえて!」

 感激して声が上ずる。夏目さんは、そんな私を面白そうに見ていた。

「本当、奇跡だよね」

 テーブルに置かれたコーヒーを一瞥し、夏目さんは言った。

「その大好きな写真家さんに、コーヒーぶっかけるなんてさ」

 柔らかな口調のまま発されたそれに、私はピシッと凍りついた。興奮から一転、冷や汗が流れる。そうだった。夏目さんが穏やかに接してくれたから意識が逸れていたが、私はこの人に、出会い頭にコーヒーを浴びせたのだった。

「ほ、本当に申し訳ございません。弁償します」

 夏目さんが笑顔を崩さず、テーブルに肘を乗せる。

「このスーツね、ツキトジアンドサラソージュってブランドの最高級仕立てでさ。いくらすると思う?」

 しかも、ハイブランド志向。私の給料何か月分だろう。想像するだけでも血の気が引く。目を伏せた私に、夏目さんは言った。

「桐谷さんさ、きれいだね」

 突然、外見を褒められた。驚いて絶句する私に、夏目さんはくすくす笑った。

「ごめんね、びっくりしたよね。青ざめた顔で俯く表情がなんかすっごくきれいでさ」

 それから笑顔のまま続けた。

「しかもそんなきれいな顔に、大きな傷があるなんて」

 ぎく、として私は思わず左耳の辺りを押さえた。

「……子供の頃の傷が、残ってて。お恥ずかしいです」

 髪で隠しているのに、見られてしまった。頭を下げたとき、髪が動いたから見えてしまったのだろうか。夏目さんが頬杖をついた。

「サモトラケのニケ、ミロのビーナス。欠けた月。人は、少し欠陥のあるものに惹きつけられる。君のその傷はとても神秘的だよ」

 彼はふ、と目を細めた。その表情に、ぞっとした。今まで見せていた柔和な微笑みとは違う、どこか悪魔的な微笑みだ。コーヒーカップを持った手に、思わず力が入る。

 しかし彼のそんな顔は、一瞬で元の人懐っこい笑顔に戻った。

「ね、桐谷さん。僕の作品、好き?」

「す、好きです」

 まだ肩が強ばっていたが、これだけははっきり言い切れる。夏目さんは嬉しそうに頷いた。

「ありがとう。僕も桐谷さんが好き。君をもっと知りたくなっちゃった」

「え?」

「だからさ、君に僕の特別な一枚を見てほしい。今からちょっとだけ、時間もらえる?」

 特別な一枚。その言葉に、私はぐっと心惹かれた。



 夏目さんに連れてこられたのは、とある古びたアパートだった。申し訳なさそうに佇むその建物を見上げ、私は呟く。

「ここが夏目さんの仕事場、ですか」

「そう。といっても、写真とかカメラ機材を整理するために借りてる。倉庫みたいなものだけれど」

 このアパートの一室。二階の角部屋が、それだという。

 錆の出た鉄の階段をカンカンと音を立てて上る。薄汚れた扉がいくつも立ち並んでおり、その中のひとつの前で夏目さんが立ち止まった。コートのポケットから古そうな鍵を出してドアに差し込む。ぎし、ノブを捻ると扉が開き、途端に、ガサアッと音を上げてゴミ袋が雪崩てきた。夏目さんはゴミ袋を軽く蹴飛ばして中に入ると、振り返ってどうぞと私を手招きした。

「ごめんね、ちょっと散らかってるけど」

 今の雪崩を目の当たりにした私は、目が点になっていた。そのゴミ袋の量は何日もゴミの日を逃していると思われる。

 恐る恐る中に入る。奥にパソコンが置かれたデスクのある小部屋が見えるが、そこまで辿り着くまでの通路は脱ぎっぱなしの服や開いた雑誌が散乱し、足の踏み場などない。さらに通路脇にインスタント食品のストックがダンボールで詰まれ、さらに道を狭くしている。これは酷い散らかりようだ。

「汚いなーって思うでしょ、でもこれゴミじゃないからね。家にあると邪魔なものをこっちに持ち込んでたらこうなっちゃっただけ。ただ整理整頓ができないだけで、ゴミはちゃんと捨ててるから汚くはないんだよ」

 部屋の主がなにやら言い訳をしている。私は物を踏みつけないよう、そろりそろりと奥の部屋に入った。夏目さんは慣れた足取りで進み、ばさっとコートを脱ぎ捨ててパソコンの前の椅子に腰掛けた。

「まあ、適当に座ってよ」

 適当にと言っても、どこもかしこも物だらけである。

「どこなら座っていいですか」

「んー、そのベッドとか? 大丈夫だよ、押し倒したりしないよ」

 夏目さんの目線の先に、床と同じく物が乱雑に置かれたベッドがあった。仕事部屋とのことだが、ここで仮眠する日もあるのだろう。私は言葉どおりにベッドに座る。

 部屋を見渡してみる。パソコンのあるデスクの周りには、見慣れない周辺機器が大量に積まれている。床にはカメラ機材の部品やら日用雑貨が乱雑に置かれ、床材の模様すら見えない。部屋の真ん中にローテーブルがあるが、そこも物がどっさり載っていて、とてもテーブルとしては使えそうにない。ベッドの上には新聞が置かれている。これは、今日の朝刊だ。大きな見出しの「山中の集団自殺、彼らになにが」の文字に見覚えがある。

 この世紀末のような部屋で、夏目さんがパソコンデスクの引き出しを開けている。彼自身は清潔感があって高級志向らしくて、潔癖っぽささえある。おかげでこの部屋の中にいると、彼の方が異質に見える。

 夏目さんは引き出しの奥から小さめの封筒を取り出した。

「桐谷さんにだけ、特別に教えてあげる」

 封筒を片手に、にこりと相好を崩す。

「『見下ろす星々』を撮った場所、川蝉山っていう山なんだ」

「川蝉山……」

 私はその名前を繰り返し、はたと、ベッドに置かれた新聞に目をやった。都内山中での集団自殺。現場は、川蝉山。

「……集団自殺があった山、ですか?」

「そう! 車の中で練炭自殺だってね」

 夏目さんは明るい声で言った。

「この自殺した三人が車の中で最期に見ていたのが、あの星空だったんだよ」

 薄暗い部屋に差し込む弱い日光に、彼の微笑みが照らされる。

「僕は、彼らが見た景色を見たかった。真冬の山はすっごく寒かったよ。正直途中で帰りたくなった。でもその真っ暗な森と音まで凍ってるみたいな静けさ、それを見下ろす真上の星は、最高に美しい景色だった。寒いの我慢して見に行ってよかった!」

 なにを言っているのだろう。

 三人もの人間が死んでいるのに、悲哀も冥福の祈りも見せず、ただ、現場の風景を「美しい」と讃え、写真に収めている。この男は一体、なにを考えているのだろう。

「僕はね。『自殺者が最期に見た景色を撮る』風景写真家なんだ」

 夏目さんの横顔に、白い光が差す。

「桐谷さんが美しいと言ってくれた写真は全部、自殺した人たちが見ていた風景。とっても、きれいだったでしょ?」

 海や建物、深い深い森の中。桜の木、線路。心に刻まれている、夏目翔弥の作品の数々が、頭に浮かぶ。途端にあの「見下ろす星々」も、夜空の星が星になれない死者たちを冷ややかに見下ろす図に見えてくる。

「君はあの写真に心を奪われた。もしかして君にも、死にたくなるときがあるのかなって」

 淡々と続ける夏目さんから目が離せない。身体が動かない。

「取り立てて辛いことがなくても、ふと未来を考えたとき、ああなんて面倒くさいんだ、いっそ先なんかなければいいのにって、感じたりしない? 朝が来るのが鬱陶しくて、このままずっと眠っていたいって、思わない?」

 穏やかな声が、旋律のように頭を流れる。

「美しい君がつまらない未来に絶望して、自ら死を選んだら、きっととても絵になる。君が最期に見る景色は、どれだけ美しいんだろう」

 私はただただ、血の気が引いていった。

「死ねって言いたいんですか?」

「絵になるって言っただけじゃないか」

 ふふ、と笑って、夏目さんは私に、手に持っていた封筒を差し出してきた。

 嫌な予感がする。

 でも体がいうことを聞かなくて、手を伸ばしてしまった。受け取った封筒から、恐る恐る。中身の写真を取り出す。


 それは、アパートの一室を窓の外から映した写真だった。セーラー服に身を包んだ少女が、部屋の中で立ち尽くしている。あどけない目を見開いて、息を荒くしているのが分かった。

 手には、血の滴った包丁を握っている。

 少女の顔を見て、私は体じゅうの血液が凍ったような感覚に襲われた。

「いやっ……!」

 私は写真を放り投げた。

「なにこれ、なにこれ! やだ!」

「刺激が強かったかな。今はそれより提案を聞いてほしい」

 夏目さんがぽすっと、ベッドに腰掛けた。

「スーツ汚したこと、許してほしいでしょ?」

 私は身じろぎする。

「なにが条件ですか」

 睨み付けると、夏目さんは話が早いねと笑った。

「美しい君が死ぬときに見る、美しい景色を、僕にも見せてほしいんだ。きっとそれは、世界一美しいから」

 ベッドの上に手をついて、夏目さんは私に顔を近づけた。私はじり、と後ずさる。

「私を、殺すの?」

「他殺は違うでしょ。自分で死に場所を選べないじゃないか」

 少しずつ詰め寄られる。

「自殺はさ、自分の都合で自分で選んだ場所で自分のタイミングで死ねるんだ。死ぬ間際に見ていたい風景を、自分で選択できる。だから、彼らが選ぶ場所では美しい景色が見られる」

 じりじりと追い込まれて、肩がどん、と壁に当たった。

「殊に、心中は美しい」

 夏目さんはニヤアと笑んだ。

「愛する人と一緒に迎える、最期の瞬間。命の終わりまで隣で、同じ景色を見つめる。美しいじゃないか。理想的な恋で、完全な愛だよね」

 とん、と夏目さんの手が壁をついた。

「椿ちゃん、僕と心中してよ」

 思考が停止した。頭が真っ白になって、私は真正面の青年の顔をただ見据えていた。角度のせいで前髪が目に僅かにかかり、顔に陰ができている。小動物みたいな童顔なのに、私を弄ぶ表情は危険な獣にすら見えた。

 細めた瞳から目が離せない。恐ろしいのに、心を掴まれたみたいに視線を動かせなくなった。私は短い呼吸を繰り返し、ようやく声を絞り出す。

「なんで……」

「なんでって、椿ちゃんは僕の作品が好きで、僕も椿ちゃんの顔が好きだから」

 夏目さんはおかしそうに言った。

「それとも、君には心中する恋人がいるの?」

「……いないけど」

「それなら僕がその役を買っていいよ」

 彼はひらりと身を翻しベッドから降りた。

「嫌だって言うんなら、スーツの代金を全額支払ってもらうまでさ。一体何年かかるのか、想像もつかないけど」

 彼は床に落ちていたコーヒーまみれのスーツを掲げ、にこっとわざとらしく微笑む。こんなの脅しだ。睨みつける私を面白そうに観察して、彼は再びスーツを下ろした。

「悪い話じゃないよね? 僕は君を殺すつもりはなく、ただ近くで、死ぬときを待つだけ。君は死にたくなるまで死ななくていい。それだけで、お金の問題に目を瞑ってあげると言ってるんだ」

 夏目さんは心の篭らない声で付け足した。

「僕は君と一緒にいられれば、それでいい」

 どちらにせよ私に選択肢などないのだ。

「分かりました。もうなんでもいいです」

「よかった。大丈夫、僕が誰より愛してあげる」

 よろしくね、と差し出された夏目さんの手を社交辞令的に握った。

ひんやりと冷たくて、細い指だった。


 彼の誘いを断ることなんかできないのだ。

 夏目さんから差し出された、セーラー服の少女の写真。包丁を持つあの女の子は、左のこめかみから顔にかけて、真っ赤な鮮血に濡れていた。

 あの写真の中のあどけない目の少女は、私の顔をしていた。

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