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特異鬼制教導機関  作者: 美音 樹ノ宮
8/37

形勢逆転の涙

~特異鬼制教導機関~






静かな境内に、コツコツと鳴り響く革靴の歩く音。

それが死神の足音を模したものに聞こえてしまう裏人(うらひと)は、一筋どころではない汗を全身に流していた。

すでに身体中を覆う恐怖心は一節一節煽られているかのように心拍を鼓動させ、その都度(つど)無意識下(むいしきか)で小刻みに身体を震わせてしまうほどに強烈な印象となって向かってきている。

また何時しか舞い戻ってきた感性が、より誇張(こちょう)されているかのように過敏(かびん)なものと変貌し、恐怖ゆえなのか激痛ゆえなのかで溢れ出る流汗(りゅうかん)をクッキリとした感覚として伝えてくれていた。

何とも嫌な感触である。

自身の中に渦巻くその、恐怖心か激痛か分からない思考がすぐに瞼の自由すら奪い、段々を重みの増すそれは誰かによって開けられないよう封印されているのかと思えるほどに固くなっているのだ。

そのためカウントダウンのように一歩ずつ明確な死が訪れているのは認識しているのだが、終わりがいつになるのかまでは確認出来ず、永遠と悪感情が胸の内を巡っているような状況に立たされてしまっていた。

さらに汗や血液に(うみ)、涙と鼻水に唾液と全ての体液が身体中の衣類をピッタリと肌に貼り付け、それら嫌悪感(けんおかん)憎悪(ぞうお)といった感情を体外に放出されること自体、良しとしない状態が続いている。

分かりやすく言えば、文字通り目に見えるモノから、そうでない人間の心情というものまでを、殻に閉じこもったかのように吐き捨てる場所を封じられているのだ。

今より(むしば)まれるであろう痛みに堪えようとする暇も与えないで。

そして最後の最後まで苦痛を謳歌しながら死を迎えなければならないのかと思わされてしまうように、状況が悪化の一途を辿っていた。

それもこれも、全て現状を把握しないように目を閉じている自身のせい...というのは、分かっているのだが―――――。



「...ッ―――――」



どうしても体が言うことを聞いてくれないのだ。

悪夢(・・)で目が覚めた眠気眼(ねむけまなこ)の状態で、ぼやけた思考にて浮かべる「このまま死んだふりをしていた方がいいのでは」といった感じの馬鹿げた想いがこの場でも展開されてしまっていた。

絶妙に自身のことを否定できず、それでも後から思い返せば「なんと愚かな行為をしていたのか」と恥ずかしさを覚えてしまうようなあの感じの。

ただ、時に真夜中というのは人を愚かにさせ、一概にすべての想いが勘違いとするのは正しくないというのもわかっている。

尚且つ今の状態では伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)という名の明確な死が訪れているのだから、そんな寝起きの甘ったるい状況に当てはまるかどうかは言わずもがなであろう。

裏人(うらひと)は、死んだふりがある程度間違いでないことが明確であるこの場にて、そんなバカげた思考が無意識のうちに『自身の』正解を示しているのだということに気付くのだった。

状況の把握をしないようにと開かない瞼の根底にある思い、それは適当に死を演じ切って、結果何とか楽に逝けないかとの想いだけである。

ガタガタと震える全身に、死んだふりとの説得力(せっとくりょく)迫力(はくりょく)も皆無ではあるが。

ただ甚振(いたぶ)りたいのが目的ならば、死んだも同然の肉人形に興味を示したりなどはしないだろう、と。

そんなすでに生を諦めているのかと思えるような頭で、今度は何とか『痛みなく』との考えを浮かべ始めた裏人(うらひと)は、筋肉の痙攣(けいれん)を抑えようと今までの意識を全て脱力することに注ごうと切り替えるのであった。

なるべく死人を演じ切るよう全身の力を抜いていき、誰かに全てを預けるかの(ごと)く寄りかかっては、わざとらしくガクッと崩れるような仕草までして―――――



「グッ!?―――――...」



だがしかし、瞬時に突き付けられた喉元からの痛みによって、この行為が不可能であることを悟らされてしまうこととなる。

無意識に身体が硬直し、大きく跳ね上がるような激しい疼痛(とうつう)を感じて咄嗟に苦悶の声が漏れてしまった。

当たり前の事ではあるが、痛覚を我慢するために必要とされるのはその痙攣している『筋肉』というもの。

もっと正確に言うと、生きようと努力するために用いられる筋力から、痛みを堪えるため食いしばれる意識というものである。

そのため今この場をもって完全に死んだふりとの猫かぶりは偽りだとバレてしまい、一番楽そうな死に直結するであろう選択肢が閉ざされてしまう事となったのだ。

現状において最も分かりやすく、最も不可能である可能性。

そんな事実に裏人(うらひと)は経験する前に気が付きたかったと、数秒にも満たない今の時間が無駄であったこともついでに悟り、意識することも演技することもなくうなだれてしまうのだった。

今も瞼は開かない。

ただそれでも革靴の小気味よい音が近くまで来ていることだけは認識できていた。

そしてスローモーションにもならないその足音が、自身のあらゆる可能性を狭めに狭め、おそらくこの瞬間で潰えてしまったのだということも。

それゆえ、もうどうなってもいいと覚悟と諦めの念を胸に落とした彼は、最後の力を振り絞り、歯を食いしばって表情を強張らせることに尽力する他ないのであった。

もう足の指一本も動かせないと、自身の可哀想な身体を想い、逃げることは無理だと確信して。



「それをどうするつもりなんだ、百咲(ももさき)



しかしそんな自身には目もくれず、ちょうどいい距離感を保てたのだろう歩きを止めた伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)が、声を掛けてくる状況を体感することとなった。

当然それに答えるのは自身ではなく、またそんな彼の調子はというと相も変わらず熱や愛や感情すらも込もっていないようである。

必要なことを必要なまでに行い、必要の範疇(はんちゅう)に留めておくだけであるかのような、雰囲気。

今、彼はどんな思いを浮かべているのだろう。

殺人現場を目撃し、平然としてられる理由にはどういうものがあるのであろうか。

さらに、先に放った言葉の意味とは、まったくそのまま受け取るのが正しいのであろうか。

そしてそんな事実があるのなら、彼もまた何かしら取り返しのつかないほどの黒い一面を持っている人物であるという事なのであろうか。

そんな万人が見れば、誰しも思い浮かべる感情がありそうな状況の中、それでも何一つ心に浮かぶものがない裏人(うらひと)は、溢れ出てしまう恐怖の念に蓋をすることもないまま頬を伝う一筋の感触を味わった。

ただ...ただなぜだろう。

確かに恐怖の念は、未だ依然(いぜん)心の中に巣くっているのだが、今までのモノとは少しだけ違うような、そんな感覚をも味わっていた。

自身の中に芽生えた、言葉にしようもない引っ掛かり。

ここで言う今までのモノとは、当然伝槙(つたまき)から受け取っていた、死んでしまいそうなほどの怖さを覚えるあの感情の事だ。

しかしそれが(なに)か違うと感じられれば、何故(なぜ)か不意に安堵するような心持(・・・・・・・・・)を受け取ってしまう心境の変化とは。

それが状況(じょうきょう)に関与するモノなのか、或いは心情(しんじょう)のみで完結するような安っぽいモノなのかは、正直わかっていない。

ただそれでもそんな、正体に気が付くことができれば一気にこの状況を打破できそうな感覚に、思い当たることができた彼は最後の希望を託して、腕を伸ばすよう意識そのものをそれに向け変えていったのだった。

生き延びようとしているのか、はたまた楽に死のうとしているのか断定できずとも、唯一この状況を乗り越えようとする、そんな一心で。



「―――――――――――――――。」



祭囃子と人々の雑多な声が少しだけ届き、爽やかな風と心地よい虫の音が通り過ぎる辺りに、5秒にも満たない静寂が訪れた。

それでも、裏人(うらひと)自身が生き延びるための断末魔をあげていた頃に比べれば、長すぎるほどの沈黙だろう。

そんな中、まだ伝槙(つたまき)からの意志に、百咲(ももさき)が答えるような素振りは見せていない。

それゆえ走り抜けるこの緊張感とは、二人の距離感が生み出す死と隣り合わせの状況を示唆しているのだろう。

あくまでイメージでしかないが、何やら良からぬ感情を内包させたように身構える百咲(ももさき)を体感して、そんな思考を浮かべることができた裏人(うらひと)はスッと息を呑む。

こんな、普段であれば気が付くことができるどうかわからないような空気感を、目を閉じていてもさらッと感じ取れてしまうのは、感覚が過敏になっているからなのだろうか。

自身の身体を優しく抱く、百咲(ももさき)の腕に少しだけ力が込められたのを感じられる。

そして近くに聞こえる、彼女の甘い吐息が強張ったような印象を孕み始めたのも、感じられる。

それほどに集中力や精神力も増した今の状態が裏人(うらひと)にとってはなんとも都合よく思え、ともすれば存分に活用するため違和感へと向けられた意識をさらに思慮深く保つよう促していくのだった。

『その人がその人である所以』の事項であった自我が、脳が、全身がそれぞれに声掛けを行いつつ、状況を紐解くよう真剣さを以て努めさせる方向の指令を出しながら。



「答えるつもりはないんだな。

 なら、黙秘は肯定の意味として受け取るが?」



沈黙を貫こうとしていた百咲(ももさき)に、再度掛けられた伝槙(つたまき)からの声はどす黒い。

それは恐らく彼女にも存分に伝わったことであろう。

後ろ手に感じる伝槙(つたまき)の迫力が、今の一言をもって巨大なものへと変貌したような気配がした。

そう彼女に抱かれている状態の裏人(うらひと)は、目を()ければ対面するであろう教員の雰囲気に、思考が乱されかけてしまう。

そして当然、受け取らざるを得なかった百咲(ももさき)も背中越しではあるが、言葉や様子に表せない一瞬の身体の微動によって、恐怖を体感したことを裏人(うらひと)へと悟らせるのだった。

今まで以上に彼女の腕が(りき)む。

それにより現況の緊張感がさらに膨れ上がったことを体感する裏人(うらひと)は、あと少しで届きそうな何かのイメージにグッと歯を食いしばることとなった。

切羽詰まらされた状況に叶わないという思いから、また喉の激痛や百咲(ももさき)からも逃れられないという苛立ちに嫌悪感を思い出し、結局不都合だらけである自身を俯瞰して憐れみを抱きながら。

時間にしておおよそ10秒にも満たない出来事。

それでも、数分(すうふん)規模の場面に感じられるのは、言うまでもなく伝槙(つたまき)から放たれる威圧感のせいであろう。

周囲にいる誰もが無意識のうちに放ってしまっている神経質な悪寒の中、その教員からの迫力が床を引きずる金属製の得物も相まって頭一つ飛びぬけているのだ。

まるでこの場を支配したとでも言うかのように、圧倒的なまでの恐怖心を以て、強制の名のもとに。

だからこそ事実自分たちがここまでの緊張感を感じさせられ、緊迫した雰囲気に身を投じては、過去含め現在までその恐怖で縛られ続けているのだ。

伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)という男が身近に現れてから、全て巻き起こった現実の内容にその存在を思い返す。

優しさや対極にある怒りなどの情を一切含んでいない、非情(ひじょう)無分別(むふんべつ)無配慮(むはいりょ)無感情(むかんじょう)な声を放つ、嘘くさい笑顔を貼り付けた妖怪のような男。

自身にとっては、何より忘れがたい存在であり、今こそ噛み締めようとしていた色鮮やかな情景を全て奪い去っていった、正真正銘の化け物。

そして挙句の果てには、巡り巡ってこんな状況へと追いやられ...。

その根底にあるのは、やはり彼の存在...であり。

...そのため、このような状況へと追いやられてしまい、誰もが死と隣り合わせで...結果こんな感じの緊迫した...雰囲気へ、と―――――

自分だけでなく、あの百咲(ももさき) 愛悠(あゆ)自身も、恐怖を...抱き?



「ふっ、気付いちゃったか。」



とその瞬間、突如として周囲の空気が一変したことに合わせ、何かに気付いたような表情を浮かべる裏人(うらひと)へと、軽々しい言葉が掛けられた。

特徴的だからこそハッキリとわかる、人生で初めて聞くような声が。

そしてそれが境内へと響き渡ると同時に、二組一対の金色(こんじき)が光線となり、その場を駆け抜けていく様子も映し出される。

緊迫した息苦しい場所に似つかわしくない『(たの)し気』な声音と、『耀(あかる)気』な閃光を含むモノ。

その双方が、世界の時を止めてしまったかと思えるほどに、緊張感に包まれていた一帯を瞬時に別モノへと変貌させていくのだった。

思考がぼやけているというか、目前の景色が滲んでいるというか、一瞬で変化した何かに気付けずあのむしゃくしゃした心情を味わうかのような雰囲気を体感させられる。

そう、言いようもない焦燥感を覚える百咲(ももさき)は、確保していたはずの視界でもその違和感の正体にまでは気が付けず、固まった表情を浮かべてしまうことになるのだった。


(この妙な胸騒ぎは何。

 今、真横を通り過ぎていったモノって。)


現実味のない体感に、至近距離を通過した金色(・・)の判断にも対応が及ばず、混乱した頭では指の一本すら動かせない状態へと(おちい)らされてしまっている。

ほんの一瞬の出来事、ゆえにほんの一瞬だけ思考(しこう)する時間を有してしまったのだ。

それが命取りとなるのだということ事も知れず、もう手遅れになったという事実にすら、一コマ遅れてから理解してしまうほどに。

と、自身の周りを吹き抜けた風に、いつからここにあったのか|明確な死がカウントダウンのように近づく気配《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》を体感した彼女は、次第に決まったものへと移り変わる表情を、止める意思などないとばかりに(おもて)へ体現してしまうのだった。

彼女が彼女である所以、その自我が脳が全身が絶望を悟り、心底の表現(ひょうげん)としての表情や言動にて包み隠すことができないまま。



「ッ―――――!?」



息を止めたかのような時の中、次に「カンッ」と鳴り響いた『鋼材(こうざい)の得物』が『石材(せきざい)の地面』とぶつかり合う甲高い音によって、(もや)掛かっていた思考が綺麗に澄み渡っていく。

それにより、スローモーションの如く鈍くなっていた思考も、その役割を取り戻していくこととなった。

直近で目にした(・・・・・・・)光景から、様々な情報を受け取りつつその、(ぜろ)の瞬間を明確化したような音が鳴った理由を突き止めるように。

さらに自身が感じている、言いようもない違和感の正体を突き止めるように、機能をフル回転させながら。

これまでが落ち着いていた分、一気に満たされていく思考がより大きなものとなって五感から流れ込んでくる。

すると当然、瞬時に答えが導き出されては、その事実に彼女は息を詰まらせる様子を浮かべ、頬を伝う裏人(うらひと)の血液ではない体液(たいえき)の感触を味わう羽目になるのだった。

言葉にするどころか、頭の中で文字に起こすことすら憚られる、そんな事実を直感する。

そして一筋の汗の感触にて、動けるようになったことに気が付くと、よろめくよう前へ一歩踏み出してから現況を受け止めるべく、後ろを振り返るのだった。

それが彼女の意志による言動なのか、はたまた無意識がそう行動させたのかは百咲(ももさき)自身にも分からないところ。

しかし、これだけは間違えようもない事実だと、分かり切っていた世闇の奥に控えるものへその視線を向けていく。

思考通りの真実と、あろうことが自身から大切なものを奪っていった、自信満々で飄々としている一人の男の姿へ。

一瞬遅れた判断の末その場に残された、ただ一人(・・・・)ポツンと佇む自身の姿を俯瞰して、どうして対応することは愚か気付くことすらできなかったのかと自らを責めたくもなるような、そんな光景へと。



「返してッ!!!!!」



焦りと絶望の表情を宿した彼女は、ついて出た言葉を止めることなく、溢れ出るかのように目前の人物へと解き放っていった。

いつの間にか立ち位置を変え、ワザとらしく...そして嘘くさくニヤッと微笑みを浮かべる、伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)という名の教員へと向けて。




◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




フワッと身体が浮く感覚を味わった。

いや、それより何かにぶつかったというべきか。

唐突で、ほんの一瞬だったその体感に、変化を求めてか裏人(うらひと)は目を閉じたまま自分の身体を探り始めていく。

どうやら体勢も変わっていなければ、首の痛みも変わっていない様子。

さらに言葉を放つ事も出来なければ、一人で立つことも出来ないままでいるのに、どうしてか...少しだけ違うような心地を感じていた。

そんな言いようもない出来事に、彼は先程気が付いた真実だけを胸に浮かべ、呆けた思考ですぐ耳元より響く正体不明の肉声を受け取る運びとなった。



「気付いちゃったか。」



刹那、頭に浮かんでいる思考とその言葉の意味が合致し、現状での違和感を理解できてしまう彼は、瞬時に身体が発熱していくのを感じた。

自身の中に芽生えた引っ掛かりの正体。

それに気が付くことができれば、この状況を一気に打破できるであろうと、思っていた事象について。

つまり、これが正解なのであれば、と後に響いた百咲(ももさき)の声にも納得できる裏人(うらひと)は、ハッキリと意識の戻った自身の思考(・・・・・)にて瞼を開け、現状の把握を行おうとするのだった。

久しぶりの光景...でもないがかなり懐かしく感じられる血塗られた景色を目に、一先ずは驚いた表情を浮かべる。

だが次第に「当たり前か」との思いが沸き上がってくるその視線の先には、例の声を放った張本人である伝槙(・・) 柏伯の存在(・・・・・)がデカデカと間近に映っているのであった。

身体を包み込む温かみの正体とは、言わずもがな安堵感だったのであろう。

それは当然、百咲(ももさき) 愛悠(あゆ)から解放されたことによるもの。

だからこそ、それらの安らぎが本当の事実として視界に入ってきた瞬間、目頭には今までのモノとは違う意味での熱が込められていくことになるのだった。

我慢する必要もない、とは言っても声が出るわけでもないので、一人静かに涙だけを流して、支えられる彼の腕と身体の力強さを欲しながら。



「返してッ!!!!!!」



だがそこへ、突如として空気の読めない聞き覚えのある声が届いた。

百咲(ももさき)の、周囲一帯の森中へと反響させるかのような声量をみせる、けたたましい叫喚だ。

それも、なぜか言いようもない悲壮感に包まれていて、まるで取り返しがつかないことを悟った、人間の本音からくる悲鳴と同じ迫力をしているものである。

その声に、これまでの心情とは違う思いを浮かべている裏人(うらひと)は、改めて矛先の変わった恐怖心により、一瞬身体を硬直させる(・・・・・)こととなった。

それはそのまま、過去の伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)へ浮かべていたものと同じ、肩を掴まれれば殺されるといった内容の焦りから来る恐怖の念。

しかし、この場合だと少し意味合いが異なっていて、殺意のみの恐怖というわけではなかった。

その根底には理解できないモノへ向けた、『怒りを感情を孕む、疑問の念』というのが、色濃く宿されているのだ。

これまでの彼女の行動を顧みて、どうして「返して」などと馬鹿げたことが言えるのか、といった具合の。

もちろんそれは、伝槙(つたまき)教員の庇護下にあるという現状が織りなす、安堵感ゆえの虚勢(きょせい)みたいなものでもあった。

一人ではどうしようもない過去を振り返り、そこから救われたばかりの大きな安寧による、脳内麻薬といった様子の。

ゆえに押されれば引かざるを得ないほど非力な思考になってしまうのだが、それでも背中を押してくれるかのように伝槙(つたまき)教員は、大きく納得の表情を浮かべてくれるのであった。

百咲(ももさき)が、事実おかしな文言を口にしていることに変わりない。

そしてその奇妙(きみょう)さから来る狂気は、裏人(うらひと)以外の人間が体感しても、理解できない言動である事に変わりないと、確信を持たせてくれるみたいに。

そんな彼からの、全てを察しているかのような(やさ)しさが、(うれ)しさからくる痛みとなって胸を突いてくる。

恐怖と激痛で頭がおかしくなっているのかと思ってみても、しっかり違うと否定してくれて、誰よりも助けを求めていた状況にて、明るく暖かい手を差し伸べてくれる。

さらに今もこうやって、抱える裏人(うらひと)をゆっくりと地面を下ろすよう試みては、その最後の最後までエスコートするかのように身体を支えてくれていた。

恐らく百咲(ももさき)の叫び声によって起こした一瞬の身体の微動が、堅苦しい体勢への辛さであると認識されたのだろう。

けれど、それでもありがたい事実に違いなく、であれば甘えるようにその親切心を受け取っては、傍へ座り込み軽口を掛けてくれる彼の存在を、とても大きく感じるのだった。

その表情にはもう、嘘くさい笑顔なんてものなど欠片もなく、こちらの身を案じて安心させるかのような心地を前面に押し出した、優しい笑みが浮かべられていた。



「だってさ、戻りたい?」



先の気付き(・・・・・)に合わせ、裏人(うらひと)の中に存在していた伝槙(つたまき)教員へと対する『恐怖』の念は、もうすでに皆無であった。

というより、初めからこれが正しい矢印の向き方だったのかもしれない。

そう、打って変わった百咲(ももさき)への恐怖心を胸に、今の伝槙(つたまき)から送られた薄っぺらい言葉に対して、裏人(うらひと)は首だけを振って返答する。

当然、声を出せないことも察してくれている彼は、それを受け取ると見えるように頷き「だよね。」との一言だけで、簡潔に返答を留めてくれるのだった。

薄情だが温かみがある、一生忘れられそうにない声と表情を(もっ)て。

そして、すぐに立ち上がっては裏人(うらひと)の前に身構え、現状の答え合わせをするかの如く、より大きな背中を間近に見せてくれるのだった。

そう、先に述べた裏人(うらひと)が気付いた自身の中の引っ掛かりとは、百咲(ももさき)すらも伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)の存在を、死と隣り合わせに迫られるほど恐れていたという事実であった。

さらに言えば、彼がこの場に現れてからというもの、一度たりとも自身に対し敵意や殺意などの悪感情を向けて来こなかったということも。

感覚が過敏になっている今だからこそ受け取れた、その目に見えない視線(しせん)心情(しんじょう)交錯(こうさく)

それが、この事実を紐解く唯一の鍵であった。

まぁ、百咲(ももさき)からの狂気染みた私怨に当てられ、伝槙(つたまき)教員を恐れていたという無駄な勘違いも起こしてしまっていたが。

だがそれらに気付ければ後は流れの通り、導き出される真実に沿ってこの場に自身を助けに来てくれた伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)を信じるという正解へと辿り着けたのだった。

断末魔が届いたのか、はたまた偶然かはわからないが、今この瞬間に彼の姿が見えていることが、全ての答え。

それに自身のこの判断を、雰囲気だけで勘付いた彼の言いようもない凄さ自体も、気付かされる要員の一つである。

あの時放たれた、確信を突く一言を思い返し。



―――「ふッ、気づいちゃったか。」―――



ゆえに、今の守られている状況に限っては、贅沢に「もっと早く気が付けばよかった」との心根を持ち、裏人(うらひと)は悔しそうな内面を浮かべるのだった。

虎の威を借るではないが、ほとんどそんな心持の。

そして、それでも現状が好転していることに違いなく、ホッと胸を一撫で出来るほどの落ち着きも取り戻せている彼は、今一度伝槙(つたまき)教員のその大きな背中を眺めてやった。

首の痛みはかなり激しいが、この瞬間をもって...というより安心感をもってして姿を現してくれた本来の脳内麻薬のおかげあり、耐えられるほどのもので留まっている。

また同時に、視界内でくっきりと彼の姿を認識(にんしき)できることから、感覚も申し分ない程度で復活してくれている様子。

ならば当然とその取り戻した思考や五感により、後の判断は流れの通り伝槙(つたまき)教員を頼っていく、正しき未来に向かえるよう意識を向け直すのであった。

金属製の得物を手に、自信満々な顔付きの人物へ。

そして女子高生と成人男性との体格さを比較し、かなり多めに見繕(みつくろ)った安堵の念を浮かべ、自身の全てを託すかのように。



ガサガサガサ―――――



とその瞬間、突如として裏人(うらひと)の後方に位置する自然が、わざとらしく激しめの音を立て始めた。

風などによる揺すられた葉音とは違い、何かが明確な意思をもってこちらに近づいてくるような気配と共に。

それにより、少々怯えたような対応を見せるは裏人(うらひと)

状況が状況なだけに当たり前とも言っていいのだが、対する伝槙(つたまき)はというと口元の笑みを少し強め、百咲(ももさき)へと歩き出そうとしていた右足を元に位置に戻すだけ。

そして続き、心配ないよと裏人(うらひと)へ手の甲を見せヒラヒラ左右に振ってやると、途端にそんな状況の一切をあざ笑うかのような声を放つのだった。

またもやこの場には似つかわしくない、『裏人(うらひと)だけが理解できない』とでも言いたげなくらいの、軽々しい声を。



「遅かったじゃないか、二人とも。」


「すみません。」


「気配に気づいてすぐ走ったんですけど。」



すると同じように気軽げな調子を含んだ声が戻り、気が抜けるかのような心地を味わう裏人(うらひと)は、視線だけでその人物へと目をやった。

伝槙(つたまき)の言葉通り、そこには二人の同年代と(おぼ)しき男女が立っている。

片や明るいトーンの髪の毛にゆるふわなパーマがかかり、都会での若者を表すかの如くキラキラした印象を浮かべる優男。

片や少し派手目だがしっかりとした印象で、スラッとした体躯からモデルかとも思えるような外見をした優女。

そんな二人の制服を着た様子からは、第一に田舎では見かけることがないであろう雰囲気を感じさせられる。

また第二に自身の田舎脳が『学生の象徴たる制服』と『大人びたそれ以外』でギャップを生ませ、これ以上ない混乱を招いてくれるかのような、不釣り合いな印象を受け取り始めた。

じゃあなぜ彼らが同年代だとわかるのか、と言われればただの雰囲気としか答えようがない、そんな二人と視線が交差する。

そしてすぐさま女生徒の方が隣にしゃがみ込むと、何かを言うでもなく自身の首元へと手を伸ばし、その傷を確かめるかのような仕草を取ってくるのだった。



「ッ―――――」


「ごめんね、我慢して。」



声まで綺麗なその女性は、すぐに上甘(かむらあまい) 姫奈(ひめな)と名乗ってくれた。

さらに血液の量と痛むような様子、それに傷の具合から(おおよ)その状態を感じ取り、口での返答が出来ないことまでを察してくれて、「答えなくていいよ。」との優し気な笑顔まで送ってくれる。

そうしてすでに破けつつあった着衣の襟元を、胸の位置まで裂き広げてくると、手際よく、流れよく次の工程へと進んでいった。

後ろから声を掛ける、伝槙(つたまき)からの指令にもきちんと応える様子をみせて。



「具合は?」


「出血は多いですけど、傷口はなんとか」


「それはよかった。

 一応毒物の可能性も考慮しておいて。

 薬は?」


「持ってます。」


「じゃあこれも―――――」



淡々と手短な会話を交わし、情報共有を行っている。

その様子が、まさに仕事人という雰囲気を醸し出すと同時に、かなり焦らなければならない状態にあるのだという事実を危機感として感じさせてくれた。

だが、彼女の口から肯定の意味を内包した「なんとか」という言葉が聞けると、少し安心したような心地も体感できる。

あの絶望的な状況から、気が付けば助かる見込みがあるところまで来たという感慨深さに、そっと流れる涙も拭けずに。

そんな裏人(うらひと)の様子をまじまじと見つめ、会話の後伝槙(つたまき)教員から何かを受け取った彼女は再度微笑みを浮かべてくれると、肩掛けカバンから取り出したハンカチにてその涙をそっと拭ってくれた。

さらに伝槙(つたまき)教員からの指示にある、毒の存在というのを確認すべく同時に取り出した何かを首に当てては、裏人(うらひと)にとって理解のできない作業を行うのだった。

やはり手際よく、心地のいいナイロンを破る音や堅い金属製の音を響かせ、まるで医者に診察されているかのような感覚を、こんな場所で味わわさてくるかのように。

そしてそのまま数十秒にも満たない時間の末、「毒は大丈夫そうです。」と簡潔な答えを迅速に導き出し、先に受け取ったとあるものを裏人(うらひと)の手首へと装着してくるのだった。

間髪入れない流れの良さは、気を抜けない現況を示唆している。

そんな焦りつつも冷静に仕事(・・)をこなす上甘(かむらあまい)の返答に満足いくよう頷いた伝槙(つたまき)は、彼女を通り越しあの時の印象に戻った声音を裏人(うらひと)へと放つのだった。

時間が惜しいとばかりに、必要なことを必要なまでにしか行わない、冷静沈着な想いをもって。



裏人(うらひと)くん、聞こえるね。

 その数珠(・・)は今、君に掛かっている呪い(・・・・・・・・・・)解くモノ(・・・・)だ。

 詳しい話は後。

 次第に眠くなるだろうけど、(あらが)ったりはしないで。

 いいかい、絶対に(あらが)ってはいけないよ、どうなるかわからないからね。」



何を言っているのか一切理解が出来なかったがその声を受け取ると刹那、今までの人生で感じたこともないほどの睡魔に体が侵され始めていくことになった。

スッと目前から空へ向け、意識が遠のいていく感覚を味わう。

百咲(ももさき) 愛悠(あゆ)に襲われて、死にかけていた時とは状況が違うが、全く同じ体感。

ゆえにどうやっても抗うことなどできず、暗闇に包まれていく視界を止めることなどできない裏人(うらひと)は、あの時離さなかった意識をこの瞬間ではあっさりと手放したのだった。

またもや何を言っているのかわからない、伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)の声を最後に―――――



(ゆう)裏人(うらひと)くんを......ながら逃げ...

 私にも...なるか......

 二人を......―――――」

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