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特異鬼制教導機関  作者: 美音 樹ノ宮
7/37

死の間際の絶望

~特異鬼制教導機関~







周囲に鮮血が飛び散っていく。

それは、次第に目の前の女性の顔から髪の毛や浴衣にまで広がり、全てを汚しながら床を這いずり回っていった。

そして自身も言わずもがな。

首筋に走るのは絶叫級の痛みから熱さ、また流れる血液本来のぬくもりや、妙に生々しくこれらが『血』であるという事実からくる気持ちの悪さだった。

さらにはそれが全身へと影響を及ぼし、肌に張り付く衣類の感触や寒気の走る体温まで繋がり、次第に頭がクラクラとし始めていった。

身体の熱に近しいほどの温度を保つ血汐(ちしお)も今となっては冷たくなりつつある肌の関係上、否応なく体を温めてくれている様子。

それがなんとも不快で仕方なく、体中に鳥肌を立たせては収まることを知らないかのように、悪感情を昂らせてくれていた。

しかしそれが唯一、自身がまだ生きているのだという事実に直結し、ならばと体の中から込み上げてくるものを遠慮することなく体外に吐き出すため口を開いてみせたのだった。

危機感を覚えている生命体がここにいるぞと他者へ、そして何より自分が生命維持をしているのだと気付けるように意思のこもった叫喚(きょうかん)を放つべく。



「ゥ゛ア゛アアァッァァァアアアアアア―――――ッ!!!?」



周囲に響き渡った文字通りの絶叫にして断末魔。

しかし自分の耳のせいなのか、はたまた喉を噛みちぎられたためなのか、ほとんど小さくて聞こえないレベルの声しか放つことができていなさそう。

それほどか細いようなものが、社を囲む森中に反響していった。

心の中に浮かぶものとは、痛みや恐怖を差し置いて「気が付いてくれ」との想い。

それは自力で逃走することができるかどうかわからないと、無意識が事実を知らせてくれた上での念であった。

全身に力が入らない。

震えている自身は恐怖ゆえなのか、それとも痛みゆえなのか。

一切の機能を停止させているかのように重く、ともすれば今現在も彼女から逃れようとする行為では地べたを這いずり回っているだけの滑稽さと来た。

当然逃れることもできなければ、情けなく涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、聖域であろうこの場の石畳に血の一本道を作っている始末。

人間、死の淵に立たされた際はドーパミンやアドレナリンなどの脳内麻薬にていつも以上の力が発揮できるらしいのだが。

それを唱えた人間を、生涯(しょうがい)()けて心の底から呪ってやりたく思えるほど、余裕もなければ力もでないとそんな現状の苦しさを感じる裏人(うらひと)は顔を悲痛に染め上げていくのだった。

絶望的。

自分を俯瞰しているかのような気分に立たされた彼は、ハッキリと地べたに這い(つくば)っている自身を上から見つめ、そう内心を浮かべた。

そんな場景そのものが映ったのは視界なのか、はたまた脳内なのか詳しくはわからない。

それでもはっきりと理解できることがここからみた光景で一つだけ。

周囲に広がる鮮血が、とても助かるレベルの量ではないということだ。

今も遠くなってしまった耳に、届かないような唸りを上げながら、喉を枯らして息を吸っている。

そこへかすかに含まれる空気の音は口からも、さらには開いた()からも出ているような気がして、事の重大さを危機感と共にヒシヒシと身に()みさせてくれるかのようであった。

一瞬の気合で立ち上がるよう努力をしてみても結果は同じことの繰り返しで、すぐに地べたに倒れこんでは喉元から余計な鮮血を周囲一帯へとまき散らしてしまう。

自分で自分の首を絞める行為...それはそのまま死へと直結する文字通りの自傷行為だ。

だがそれすらも、否応なく続けさせられてしまう現状が、()めたくとも止めることのできない状況が、重い体にさらに重く圧し掛かってくるのだった。

後ろから迫る、なぜか未だに心底不思議そうにこちらを見つめては「どうして離れるの?」と言わんばかりの表情を浮かべる彼女が、一歩一歩距離を詰めてきているから。

恐怖の象徴、今の裏人(うらひと)にとってそれがこの状況を作り出した唯一の元凶にして、身体を動かせる唯一の動力源となっていた。

そのため、どんなことをしてでも受け入れて進むしかないと、裏人(うらひと)は自殺行為を繰り返しつつも無意識に足を進める他ないのであった。

ここからくる寒気(さむけ)も、痛覚(つうかく)を受け取らなくなった感覚(かんかく)も、力が出なくなった全身も、一体何が原因なのかと疑っては瞬時に答えが浮かんでしまう状況。

ゆえに判断する脳も、力が出ずとも動けと精神を超えた精神にて命令するしかないように切羽詰まった様子の号令を上げていた。

どうせ誰かが助けに来てくれたとしても、死ぬことに間違いないのでは、と。

だがそう考えていても、それでも生きたいと思う気持ちが、自我を超えたところで常に声を掛け続けてくれる。

『人』が『人』である所以は何か。

自身を想う『自我』なのか、はたまた指令を上げる『脳』なのか、それとも『身体』に依存するのかと。

そんな哲学的な思考にして、なんともくだらない問い。

それがこの場では本当にどうでもいいと一致団結し、自我が、脳が、全身が『鈴鹿(すずか) 裏人(うらひと)』というものを動かそうしているようだった。

彼女から逃げろ...百咲(ももさき) 愛悠(あゆ)から今すぐに逃げろ、と。



「ッハァ...クッ...ァアァッ!!...」



脂汗が血と混ざりあって床を濡らしていく。

恐らく今まともに前へと匍匐(ほふく)前進できているのは、その滑りがある他ない。

何とも滑稽なあがきにして、何とも最悪の手助けと言えよう。

なんせ『体外に存在する』という事実だけで死を連想させられる『自身の血液』にて生を繋ぎ止められているのだから。



「待ってよ、裏人(うらひと)くん。」



後ろから聞こえる彼女の声が、こんな状況にも関わらずいつも通り過ぎて逆に不安感を覚える。

そしてそれはすぐさま悪寒となり裏人(うらひと)の身体を這いずりまわっては、さらに強調させるかのように鳥肌を立たせることとなった。

また、その内容やそこに含まれる彼女の思いにも、これ以上ないほどの気味悪さを覚えてしまう。

自分が何をしたのかすら忘れ、また血まみれになっている裏人(うらひと)のことを気に掛けたりするような素振りもないまま、ただただ日常会話をするかのようなテンションの声音を放っているのだ。

まるで正気ではない。

数分前までの彼女と比べ物にならないほどの違和感が重圧となり覆いかぶさってくるかのよう。

それもこれも、全て世闇に光るあの金色の双眸(そうぼう)が織りなす産物だ。

あの目を浮かべてから、彼女だけでなく周りの状況が急変し始めたような気がする。

言葉にするのは不可能なのだが不思議と感じ取れてしまう、『周囲一帯が精神的にも物理的にも暗くなってきている』といった様子の違和感を。

もしかしたらそれを感じられるのは、自身が死に瀕しているからという可能性もあるのかもしれないが。

しかしあくまでそれを体感させられているのは、彼女がそこにいるからという事実が最も大きな要因であることに違いはない。

たった一組の、あの双眸によって恐怖という二文字に縛り付けられる。

それは単純な恐れと、未だ依然(こころ)の底からの疑問の念を放つ彼女の、視線そのものの気味悪さからくる恐れの双方によって。

こちらを見下ろしては「なぜ、逃げるの?」との意図を含んだ表情。

日常生活で凡庸に浮かべられるような当たり前のものにして、血肉が飛び散る殺人現場となりそうなこの場においてはとても不釣り合いだと思えるもの。

道端を歩き回る野良猫にでも問いかけるかのように。

仲間(うち)で意図せず始まった鬼ごっこにて詳細を求めるかのように。

そして、まるで人を殺すことが息をしているのと変わりないとまで思っているかのように、『平然』の二文字がそっくりそのままガワを被って生活しているかのごとき顔と雰囲気だった。

なぜこの状況で『ただの疑問』を浮かべられるのか、その気が知れない。

死にかけている人を前に、さらにはその状況を作り上げた犯人が自分だとわかっているのに、悠長に「どうして離れようとしてるの?」と声を掛けるような人を、少なくとも自分は人とは思わないだろう。

そんな人の道に反した者が、今まで自分が何より信頼を預けていた怪物が、そっと愛の言葉をささやくかのように、今もこうやって愛おしそうに言葉を放ってくるのだった。



「ダメだよ、私から離れたら。

 守ってあげるから、ね。」



頭がおかしくなりそう。

もうすでに彼女の口から放たれる文言の意味すら理解できなくなってしまった裏人(うらひと)はその想いを胸にする。

そして涙と鼻水、さらに口や鼻から漏れ出てくる血液でぐちゃぐちゃになった表情を浮かべ、未だ誰かの助けを願っていた。

叫び声は一体どこまで響いているのか。

すでに遠くなり過ぎた耳は、周囲一帯の音量をまるで箱の中に閉じ込められたのかと思えるほど小さく()もった様子で受け取り、自分の声すらも聞こえなくなってしまっている。

さらに視界もぼやければ体温が低くなっていくのも感じ、もしかしたらもうすぐ死ぬのかもしれないといった妄想が脳裏を過ぎていった。

するとその瞬間、突如視覚(しかく)聴覚(ちょうかく)を犠牲にしたのか、反比例して痛覚が復活を遂げ始めていく感覚を味わうこととなった。

首筋の激しい痛みから、叫びすぎて枯らした喉の内部に響く鋭い痛み、床を這いずりまわったことによりついた(うで)(ひざ)の擦り傷と、これらが生み出した猛烈な頭痛が舞い戻ってきたのだ。

それはこの期に及んでまだ苦しみを与え続けるのかと、底知れぬ怒りが次第に湧き立ってしまうほどに強烈であった。

また、口呼吸の痛みに耐えきれず、鼻から空気を吸い込んだことにより、際立つ『血液』本来の匂いやそこに混じる『体液』や『(うみ)』のキツイ臭いが痛みとなり脳天を突き始める。

これにより吐き気すら催しては、口から出るモノ達が身体の内側で喧嘩を始めていく始末ときた。

腹の奥からの吐しゃ物に、喉から上がってくる血液や、唾液などの体液にしてそれらをまき散らすために上げれらる叫び声等々。

そんな不要物を堪え切れなくなり一気に解放してやりたくとも、意識をそれに向ければすぐに動きが止まってしまう腕や足に困窮(こんきゅう)し、結果うなり声をあげることで妥協し呑み込むよう体が勝手に動いてしまう。

それは数々の激痛か、現状(げんじょう)による情報(じょうほう)の処理不足か、それとも脳内が直接ダメージを受けているのか、マルチタスクが出来なくなってしまったことによるものだった。

一つのことに集中すれば、その他のことができなくなってしまう。

いや、もしかしたらこれは一つのことしかできないほど、余力が残されていないのかもしれない。

そのために、口から出るものは叫び声も合わせて『漏れ出る』という表現が似つかわしいような状態で姿を顕すこととなった。

文字通りの絶望にして崖っぷち。

それはもうすでに裏人(うらひと)一人の力ではどうしようもないところまで来てしまっている、と。

その事実に気が付いた瞬間、彼はたちまち全身の力が抜けていき(・・・・・・・・・・)、誰も助けに来てくれないのなら諦めてしまおうかとの言葉が脳裏を()ぎってしまう事となった。

意識的なものではなく、意識したとしてもどうしようもない無意識が早々に楽になろうとしているらしい。

その痛みがまだ生きているということの訴えなのだとしたら、痛覚(つうかく)を感じるようになった状況というのは脳内麻薬すら出し尽くして、後は死を待つのみという事実に直結するのだろうか。

声を張り上げたり、呼吸器系を確保するため血を吐きだそうとしてくれるはずの筋肉も、もうどうやら動きを止めてしまった様子。

さらにこれら全ての事実にここまで来たのに勿体無いが、それでも早く楽になりたいとの思いが先行してしまう裏人(うらひと)は、そんな自分をも咎める気力すら失ってしまっていた。

後ろから迫り来る、彼女の気配がもうどうでもよく思えてくる。

それと同時に、生きていること自体がどうでもよく思えてしまう。

身体を巡る激痛と助からないという事実、それにぼやけた視界と内心に、這いつくばる彼に唯一残された『心持(こころもち)』も音を上げてしまった。

『人』が『人』である所以は何か。

先の問いに答えてみて、自我が、脳が、全身がこの瞬間をもって諦めたかのように匙を投げ出した。

そのためもう後ろを気にする素振りすらも共に投げ出し、その先にいる彼女の存在など無視を決め込んでは、ここまで続いた短い生涯に幕を閉じる覚悟を決めてしまうのだった。

残された意識を手放して、目前に虚しく伸ばされた腕を最後に、そっと目を閉じていき―――――



「ねぇ裏人(うらひと)くんッ!?

 眠っちゃダメだよ!?」


「ッ―――――!?」



とその刹那、せっかく固めた死の覚悟がものの一瞬にして不意にされてしまうような出来事が巻き起こっていった。

飛び込んできた焦りを含んだ彼女の声音を耳にし、同時に受け取ったまた違う感覚にて浮かび上がる思いが、強固なはずの重い気持ちを上書きしていったのだ。

予想外の出来事、それにより目を見開き驚きの表情を露わにする裏人(うらひと)

そんな彼の身に突如起こったのは、全身の感覚が隈なく無くなっていたはずなのに感じる、唇への(なま)めかしく柔らかな接触(せっしょく)であった。




◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




「あの、姫奈(ひめな)先輩。

 いつまでもこうしてると、天道(てんどう)さんに怒られますよ?」


「いいのよ、何も感じてないでしょ(・・・・・・・・・・)

 そういうこと。」


「はぁ、じゃあせめて自分で持って下さいよ。

 これも、これも、あとこれも。」



行き交う人々で溢れ、提燈(ちょうちん)や屋台の明かりにて照らされた雰囲気のいい会場の中。

響く祭囃子や下駄の甲高く情緒深い音、さらに人の波からこぼれる雑多な喋り声を通り過ぎ、歩く二人の姿が石畳の道の上に存在していた。

少し前同様、片や楽し気なテンションで話し、片や呆れた受け答えをすると、そんな仲良さげな声を振り撒く色んな意味で注目を集める男女。

美しく長いストレートヘアが特徴の見女麗しい姫奈(ひめな)という名の女性は、愛嬌やきらめきを周囲一帯へと振りまいていた。

そしてお洒落なパーマが掛かり、ふんわりと今どきを表現するような明るい髪色の優男は朗らかで親しみ深い微笑みを浮かべ、周囲の女性陣を虜にしつつあった。

そんな二人は相変わらず言い争いを繰り返しても、なんだかんだ祭りの雰囲気を楽しんでいる様子。

(ゆう)の方は両手いっぱいに自分のではない屋台の品を抱え面倒くさそうにしつつも、満足げに黒い天狗のお面を良く映えるその真珠色の頭に掲げていた。

さらに荷物の中から焼きそばやたこ焼き、フライドポテトなど細々としたものを勝手に(つつ)いては腹を満たし、上機嫌な心持を浮かべている。

また姫奈(ひめな)もそんな彼の様子に気が付いているのだが特に咎めることもなく、りんご飴ならぬイチゴ飴を頬張りながら我が道に彼を付き合わせていた。

尻目に(ゆう)を見つめるその瞳には純粋にして、言葉とは裏腹な優しい微笑みが映し出される。

それがまるで弟を連れまわす姉のような心持と佇まいを彷彿とさせ、事実そのような関係値へと直結しているのだった。

なんだかんだ言っても一応は彼のことを気にかけているという、目上の責務を(おもんばか)った責任感の強い女性像を体現(たいげん)しているといった様子で。

とまぁそんな綺麗事を言ってみても、気に掛けるだけで彼を(ねぎら)うことなどはせず自分だけ(・・)が楽しむことを念頭に置いているので、年長者(ねんちょうしゃ)云々(うんぬん)というよりかはまさに『姉』といった勿体無さが見受けられてしまうが。

しかしそういう姿勢もまた、彼らが仲のいい理由となっているのだろう。

そんな人間性の表れた二者(にしゃ)二様(によう)の言動や雰囲気を体現しつつ、彼女らはここに来た理由(りゆう)目的(もくてき)も忘れ、あれやこれやと屋台を練り歩いては楽し気に通りを闊歩し続けていった―――――





―――――辺りを包む『遠い夏の日』という語句がまさにピッタリと来る心地の良い雰囲気。

それをゆったりをした時間の流れと一緒に感じ、ともすればまるで恋愛小説の中にでも迷い込んだかのような心地を味わう姫奈(ひめな)は、自身を棚に上げて女性主人公(しゅじんこう)気取りの表情を浮かべていた。

頭の中で思い描く物語での祭りの雰囲気とくれば、そろそろ王子様とこの場この瞬間にて好意を確かめ合う展開が巻き起こる時間とシチュエーションのはず。

そんな期待を胸に、自身のおとぎ話を遂行すべく辺りをきょろきょろと見渡しては、目標となる人物を探していくのだが。



「―――――ん~、はぁ...。」



その配役に当てはまるであろう人物が、他の誰でもなくよく見知った顔の(ゆう)しか居ないのだという事実に直面することとなるのだった。

これにより冷めやらぬ興奮も一瞬で凍り付いては、当然納得いくはずないと心底残念そうな気持ちを自身の中で膨れ上がらせる運びとなる。

熱くなる体温は『夏』の介入など一切関係なく怒りの感情からのモノ。

であればとまた、頭との温度差にてクラクラと目眩のような感覚を覚えるのも、腹立たしい現状が織りなす副産物なのだろう。

そんな体感に姫奈(ひめな)は、あれこれ考える思考を他所に煮えたぎる内心を軽く保ち続けるため、温度調節や悪感情の分散をため息にて行うのだった。

自分の日常生活は、何かと一般人よりも疲労が溜まりやすい傾向にある。

突然何の話かというと、都会での学業に関する事情だ。

詳しくは言わないが、それら日常生活から受け取る肉体的疲労や精神的苦痛などの肩の荷は想像を絶するモノとなっていて、「よく耐えているな」と自分でも感心できるほどのものであった。

ともすれば当然リフレッシュは生きていく上で必要不可欠な事象となり、この身体ではパンクしないよう『ある程度の息抜き』ではなく『完全な気分転換』が要求されるようになっていったのである。

それが、今まさに目の前に広がっている田舎の景色(けしき)や雰囲気を目にし体感すること。

そして同時にその光景へと自分を投影し、久しく忘れている子供心やそこに(とど)まる高揚感を孕んだ情緒などを想い出すため、目一杯堪能してやることなのだった。

これはあくまで自身にのみ許された感性なのかもしれないが、田舎の雰囲気は都会とは違い無条件に心と体に安らぎを与えてくれると思っている。

それは文字通りおいしい空気から、その中で暮らす人たちの心豊かな面持ちに直結し、彼らとのコミュニケーションを経て、結果自身へもたらす心の豊かさまで広がってくれるような感覚によって。

当然その中には田舎の専売特許である川のせせらぎや鳥のさえずり、虫の鳴き声に自然が揺れる音などの情緒も含まれている。

そして、今回で言えばそれに相乗して祭りの風景(ふうけい)が組み込まれ、そこに自身を投影したうえでより豪快に羽を伸ばすこともできるのだとすれば、何よりも効率のいい気分転換となるだろう。

景色を楽しむことで視覚(しかく)が、風情(ふぜい)談笑(だんしょう)を楽しむことで聴覚(ちょうかく)が、そして澄み渡った空気と焦げるような夏の暑さに人の往来がそれぞれ味覚(みかく)嗅覚(きゅうかく)触覚(しょっかく)などの五感を遊びに満たしてくれている。

これこそ夢にまで見た、そして友人同士で語り合っていたおとぎ話での情景だったはずのものだ。

何物にも代え難い、自身にのみ許された気分転換にして、自身にのみ許されたストーリー。

普段の日常生活とは違うベクトルの『忙しさ』を与えてくれて...普段の日常生活で忘れかけていた高揚感を与えてくれる。

そうしていつしか、自分を特別な存在だと勘違いすることができ、余すことなく...恥じることなく主人公を演じ切れる、と。

そんな思い通りの展開が、そんな思い通りの瞬間が今まさにこの場で現実にッ!!!―――――といった様子で、来る前は意気込んでいたというのに。



「はぁ...ま、正直わかっていたけどね。」


「どうしたんですか、そこにいるのはお前じゃないとか言いたげな顔して。

 暇なんですね荷物持ってくださいよ。」



呑気でデリカシーもなければ、(うやま)いも(へりくだ)りもなく、あまつさえ先輩である自身のことを見下したかのような態度をとる(ゆう)に、また姫奈(ひめな)はため息をついてしまうのだった。

正直、現状において彼に対し怒りの感情を露わにするのは間違いであることには気が付いている。

自分たちがここに来た理由。

そしてそこで請け負ったこの仕事(・・)はそういう趣旨の元で計画されたものであり、当然彼に非があるかと言われればないと答えるのが妥当であろう。

自身も(ゆう)も、面倒事に巻き込まれた側であることに変わりないのだ。

つまりは二人して被害者というわけ。

それゆえこの場で八つ当たりとして、彼を荷物持ちという役割にて落ち着かせている自身の行動も、甚だ間違いであることは理解しているつもりであった。


(しかし、それはあくまでこいつが大人しくしていたらの話。)


そう心の中で独り言ちる姫奈(ひめな)の言う通り、彼の一挙一動は明らかといっていいほどこちらを煽っているような印象が含まれているのだった。

彼の笑みの裏に隠されたもの。

姉と弟のような関係を築けているからこそ、それが手にとるように彼から伝わってくる。

思いやりもへったくれもなく、失礼極まりない『してやったり』という感じの悪意。

出会ってこの方、幾度となく繰り返している争いの中、何度だって浮かべられていたあの清々しいほどに闇を秘めた嫌味の感情だ。

それを前面に押し出すのではなく、その甘いマスクの裏に潜めているのだから、陰湿以外の何物でもなかった。

さらにそこから繰り出される、完璧といっていいほどの仕草にも、余計に苛立ちが沸き上がってしまう。

彼を睨んでいる視線の先、「なに?」とでも言いたげに緻密(ちみつ)計画(けいかく)された自然に見える微笑みから、緻密に計画(けいかく)された首の角度。

そしてその小首を傾げた体勢から少し瞼を見開きし、一瞬だけこちらの様子を伺ってくるような視線を向けるというあざとさ満点の言動。

それが「今の俺、かわいいでしょ? で、どうしたの?」との心根(こころね)となって、姫奈(ひめな)の内心を寒気(さむけ)という矛として突き刺してくるのだった。

煽りのスキルが高い、と認めるのも少々()なのだが、そういった雰囲気が自身の怒りの感情を、事実引っ張り上げてくれているのだから、なんとも...。

とまぁそんなこんなで、非がない(ゆう)に苛立ってしまうのも無理はない状況が、何より無意識下でこれらの行動を行ってしまっている本人によって作り上げられているのだった。

ゆえにこの怒りの感情は正当なものであろう、と姫奈(ひめな)は自分の内心へ素直に従い、悪意をもってこちらからも睨みを利かせてやるのだった。

さてはて、その行為に一体意味はあるのだろうか―――――。



「何ですか、先・輩?―――――」


「ふんッ。」



次の瞬間には、彼女の思いなどどこへやら、ニヤッと微笑む優男がまた一人ここに誕生してしまったのだった。

やはりというべきか効果は当然無しであり、逆にしてやられた感が沸き上がる姫奈(ひめな)は無意識のうちに視線を逸らし、そのまま顔ごとそっぽ向く。

そうやってわかりやすく感情が表に出る先輩を見つめ、(ゆう)は面白さから口元が緩み、ともすれば事実としてまたもや彼女を手玉にとることに成功させて見せたのだった。

それはいつも通りの展開で、いつも通りの流れである。

常日頃から何かと勝負をひっかけてくる姉。

しかしその結果勝敗(しょうはい)を求めているのは彼女の方だけであり、自身はそのじゃれ合いを楽しんでいるだけという状況に落ち着いているのだが。

それがどうやら彼女には伝わっていない様子...というより、受け入れがたいとでも思っているのだろうか。

ゆえにまたそのことが変に姫奈(ひめな)の神経を逆撫でするようで、逆効果となった挙句今みたいな光景が繰り広げられてしまうのだ。

(ゆう)には悪気がないどころか、ただ楽しんでいるのに彼女が一人暴走している、といった感じで。

そのため心の中では、またいつも通りの感情が沸き立ってしまうのだった。


(はぁ、まったく。)


姫奈(ひめな)の視線が無くなったことを確認し、そっと首を左右に振った(ゆう)はすぐさま憐れみの感情を浮かべた。

よくもまぁ「人の心を読まないでよ。」と馬鹿げたことが言えたもんだ。

何より顔に出る、そして結果自滅するのはどっちだと、空を仰いで肩にまで持たされた荷物を身体の動きだけで背負い直してみせる。

ただ、そうは言ってもこれが本気の怒りというわけでないことも理解しているつもりであった。

ここは流石に長年の付き合い。

それに(ゆう)の方からも姉のように慕っている彼女のこと、顔に出ずともそれなりの雰囲気で事実彼女だけの思考を読み取ることもできていた。

現に今だって、手に持つ屋台飯を(つつ)いていたとしても特に何かを言われることなく、タコ焼きに関しては自分一人で食べ終わってしまっているのだから、奢ってくれたのを素直に言わないだけなのだ。

ツンデレ、とでもいうのだろうか。

そんな風に、対姫奈(ひめな)専用心情(しんじょう)探知機を搭載している(ゆう)は改めて彼女に向け、「ある程度の尊敬や感謝はしてますよ」と再度微笑みを浮かべ直し、その視線を向けるのだが―――――。



「―――――...。(コクコクッ)」


「はぁ...。」



何やら自信満々に頷く彼女が視界に映り、その様子へと仕舞いには心の中だけに留めておいたはずのため息が漏れ出てしまうこととなるのだった。

先程も言ったが彼女が考えていることは、手に取るようにわかってしまう。

ゆえにここで考えていることも、何となくで想像できてしまうのだ。

やいのやいの言い合って最終的に勝敗を決めようとする彼女の事、「言い返したり反応したりすれば、負けた気になるから止めておこう。」と思考し、「そう思うことができる私、大人になったなぁ。」と自賛しているに違いない。

また、そのような内心を浮かべる際、癖でよくやる腕を組むような体勢まで視界に映っているとくれば、おそらく間違いないだろう。

と、事実その通りの思考を浮かべている彼女は、後ろからの視線も気付かず辺りをきょろきょろと見渡していた。

そんな風に自信満々で首肯する姿を、またもや無意識下で因縁の相手へと見せつけてしまい、その様子がまるで何ともうまくいかない彼女の人生そのものを顕しているかのようで目も当てれないほど哀れであった。

いつになったら報われるのだろう、と恋人ができないことを憂いている彼女を想い、心配もしてやっている(ゆう)の気持ちも考えてほしいもんだ。

そう、出会ってから長い事思い続けている彼の声はやはり届かず、我が道を行く彼女は手に持っていたりんご飴ならぬイチゴ飴を口の中に放り込み始めると、串を近くのごみ箱へ捨てて間髪入れず別の露店(ろてん)目掛け走っていくのだった。

この場を何より謳歌するため、未だ(ゆう)の手元に残っている屋台飯を放り出して、()の自分の舌を満たすべく足早に駆け出して―――――。



「すみません、牛串一つ!」


「あいよ、五百円ね!

 ―――――あい丁度、少々お待ちをー!」



気前が良く、体格(がたい)もいい坊主で色黒のおっちゃんにお願いし、持っていたがま口の財布から硬貨を取り出して手早く会計を終わらせる。

そんな彼女が向かった先は赤い垂れ幕にでかでかと『牛串』と文字を刻む露店。

一本500円とワンコインで求めやすく、何より嫌う者などいないであろう『焼肉』という視覚(しかく)聴覚(ちょうかく)味覚(みかく)嗅覚(きゅうかく)を一瞬で満たしてくれる豪勢な食事、それを一本の串にまとめた品物とは、言わずもがな悪魔的な魅力を放っていた。

そんな()(もの)に魅せられた一人の女性の後姿を見つめ、先程の彼女の言動に相反するようまた首を左右に振った(ゆう)は、もう何度目ともなる微笑みを浮かべ直し、その後へと続くのだった。

キラリと光る歯を見せつけ、ハキハキと聞き取りやすく感じの良い声を張り、慣れた手つきで気前よく鉄板と牛串を操る大男。

その手腕を、事実(めずら)しいものでも見るかような視線で眺めている姫奈(ひめな)は、その匂いと雰囲気に嬉しそうな笑みを漏らした。

そうした彼女の隣へと、こっそり近づいていく(ゆう)そのままそっと横顔を覗き込み、また彼女で言うところの「緻密に計算された首の角度」といった様子で小首をかしげ、内心でとある事柄について思考するのだった。


(黙ってれば、ねぇ。)


弟として、恋愛感情などは持ち合わせていないが、身内の贔屓(ひいき)目無しにしても、彼女の容姿は整っていると思っていた。

自慢ではないが自身はそれなりにモテる方である。

スラッとした体躯や甘い顔付きに人懐っこい雰囲気、また趣味や性格に付き合い方など、どれを取っても皆が口を揃えて「非の打ちどころがない」と言ってくれるし、事実怠らないよう自身で留意(りゅうい)しているところでもあった。

ゆえに誰かから陰口を言われることも(ほとん)どなかったし、そう言っていた人も知り合ってしまえば必ず友情が芽生えていたのだ。

ただ、そんな自分が傍にいたとしても、男女問わず人気があるのは彼女の方であった。

同じようにスラッとした体躯から、時に甘く、時に力強く、時に情けなくといった様子で七変化する雰囲気と表情をその身に宿している。

また自身の抱える問題をすぐ人に打ち明け、それゆえ皆が気軽に相談を持ち寄っては、誰かに頼られることを好み解決まで協力するような、切磋琢磨し合う人格と性格の持ち主。

そして例え相手が初対面であったとしても、その『人となり』を余すことなく理解しようとする心意気が雰囲気から、視線から、何より彼女の表情から伝わり、最後には格好良く人の前に立てる、と。

そんな人を、誰が嫌いになれようか。

これ以上踏み込んでほしくないというラインはキッチリと守り、それでも時には飛び越え、本人すら気が付かなかったSOSを見つけ出して救っていく。

そんな、この牛串のように嫌われることなどないであろう雰囲気を持っているところは、本当に心の底から尊敬していることに違いはなかった。

それなのに恋人ができないと嘆き、事実男の気配すらないとは...これ如何に。

自分との関係値を色々と想像し、姉弟として性格に裏表(うらおもて)があることは知っているが、そうとは言っても陰で他人をいびるようなことなどは絶対にしない彼女。

ゆえに外へ発信される姫奈(ひめな)の人物像はそのままの上甘(かむらあまい) 姫奈(ひめな)として嘘偽りなく、(ゆう)への態度は疲れた時彼女がよく放つ気怠さと類似しているので、本性とも(ほころ)びとも違っていた。

「ならどうしてなのだろう」と何より姉想いの弟として、色気づいた話のない彼女を想っての心配の念を、その横顔を眺めながら頭の中で()(ほぐ)している次第なのであった。

だがその事実はというと。

近しい関係だからこそ気が付くべき所に気付けていない優は、自分たちが思っている『二人の関係』がそもそも他者から見て通用しないのだという事実にまでは考えが及ばないのであった。

高嶺の花とはおこがましい。

隣にいる(ゆう)こそが...何より親し気にしている自身こそが、上甘(かむらあまい) 姫奈(ひめな)の人生を左右する高きハードルとなっていることに気が付けないまま、お似合いカップルとして日常生活でもこの祭りの雰囲気でも周囲一帯へと馴染みながら(・・・・・・)にして、浮き続けている(・・・・・・・)のであった。



「へい、お待ちッ!」


「あッ、ありがとうございます!」


「おうおう、サービスしてやってるからな!

 そっちの色男のあんちゃんと食べな!」


「あぁ、どうもすいません...。」


「いいってことよ!」



とそんなこんなで辺りへと気前のいい()り声が響き渡り、次第に脳天を突くような香ばしく食欲のそそる香りが鼻腔をくすぐり始めてきた。

もちろんそれは牛串が出来上がった合図であり、周囲一帯へと幸福感をおすそ分けするかの如く広がっていく。

その様子に自然と笑みが零れていた(ゆう)は、改めてこの場この瞬間にて祭りの情景(じょうけい)を謳歌していたのだという事実を再認識した。

同時に、彼女が頼んだ肉の魔力によって、今まで脳内を駆け巡っていた思考は消え去り、満腹感に(さいな)まれては(かすみ)が掛かり始めていた視界もクリアに澄み渡っていくこととなった。

荷物持ちがどうの八つ当たりがどうのと、結局いつも通りの流れだったし、どうやら関係なかったらしい。

そう屋台のおっちゃんへ、彼女よりも大人びた対応としてのお礼を告げた(ゆう)の隣で、姫奈(ひめな)は早速牛串にがぶッとかぶりつくと、店主も嬉しそうにするほどの笑顔を見せ身悶(みもだ)えするように体を震わせたのだった。

我慢できずご馳走を頬張った子供かのように、ただただ純粋に満足した様子の可愛らし気な笑顔だけを放って。

そうしてひとしきり周囲一帯へと牛串のうまさを表情のみで伝えては、先の露店(ろてん)に活気と行列を残し、すぐさま次の屋台(やたい)を目指して歩くことに尽力し始めていった。

そんな欲望に忠実な姿とは、よもや幼子と遜色ないのではと可笑(おか)しそうに微笑みを浮かべる(ゆう)も彼女の後に続き、時間をとらせることなく足早に歩幅を進めるのだった。

こういうところは、実に姫奈(ひめな)の良さが出たといえよう。

一挙一動が、包み隠すことなく本心からの振舞いなのである。

ゆえに影響を受ける側は一度でも関わってしまうと素直に共感を得てしまい、いつも楽しそうな光景が彼女の周りで展開されている所以となっているのだ。

一緒にいるだけで退屈しない、そんな長年の付き合いであれこれ実体験のある(ゆう)は、改めて背中の荷物を背負い直し小さくも大きな...いや女性としては大きいのか?

...まぁ、その背中を間近に捉え、尾を引く牛串の香ばしい香りで気分を遊ばせに満たしていくのだった。

未だ口の中の熱さにハフハフと悶えるような仕草を繰り返す姫奈(ひめな)

歩きながらでもその気分たるや、(ゆう)にまで伝わってくるほどの嬉しさとなって、彼女のステップから、鼻歌から、雰囲気からヒシヒシと伝わってきている。

そんな彼女の好感も同時に共有させられ、今の愉悦感が(ゆう)の中で丁度倍加(ばいか)した辺りにて、突如何かを察知したか急に動きを止めた彼女が、こちらの様子を伺うようクルッと体の向きを変えたのだった。

緻密に計算された首の角度とは、一体誰が苛立ちを覚える振る舞いといったのだろう。

目を合わせるよう下からグッと覗き込む姫奈(ひめな)の上目遣いと小首をかしげたその様子を見つめ、いつもの調子を崩されかけて固唾を飲んだ(ゆう)は、理由を探るため先に口を開こうとする。

だがなぜか、喉に言葉が詰まり聞こえるほどの大きさにならないまま乾いた声として漏れ出るように空気中へと消えていってしまうのだった。

そんな様子に、少し不思議そうにするのは姫奈(ひめな)の方。

だからこそすぐに目の前へと突き付けていた食べかけの牛串をもう一度グッと差し出してきて、ようやく(ゆう)は彼女の行為の真意に辿り着くこととなったのだ。

ただし、混乱のせいか、多少の時間は有してしまったのだが。



「ほいひいよ、ほあ(おいしいよ、ほら)。」



...こういうのは、本当にずるいと思う。

何がとは言わないが気持ちを変に硬直させる(ゆう)は、口を可愛らしくもごもごさせ、何の気なしにその行為を行ってくる姫奈(ひめな)を正面から見つめ少々顔を強張らせた。

案外祭りの雰囲気とは、馴れ親しんだ人を別人と化す魔法でも掛かっているのだろうかとの、余計な思考と共に。

ほんの一瞬の限りなく鈍化したこの考えを揉み解す今の『表情』が、至って正常なままの自分自身であることを願うばかりだ。

そうすぐさま『いつも通り』を取り戻そうとする脳が、先程の内情に否定的な想いを沸かせ、ぼやけのかかった思考を跳ね飛ばすかのように(かぶり)を振らせたのだった。

冷静になれとの一言を(もっ)てして、この(よこしま)な感情が本人に悟られないよう。

そして間髪入れず、それが「いらない」との返答だと受け取られる前に、それと余計な思考時間を姫奈(ひめな)に与えないように串へとかぶりつくため身を乗り出し、一塊(ひとかたまり)になったブロック状の肉を引き抜くよう顔を動かすのだった。

だが、その瞬間―――――。



「「ッッ―――――!?!?」」



姫奈(ひめな)が差し出した串に(ゆう)が口を添えるという『餌付け』のような奇妙な体勢のまま、二人の動きが一瞬だけ固まった。

それは彼らにしかわからない、とある事象が巻き起こったことによる悪寒を感じ取ったから。

そしてそれが、自分たちがこの場に来た本質(・・)となる事情(じじょう)の気配だと識別(しきべつ)し、ある意味では覚悟を決めるよう自身に決意をさせたから。

そのためすぐに顔色を変えては目配せを始め、同時に先程までの楽しげな雰囲気は捨て去って瞬く間に緊張感を走らせた雰囲気のまま互いに頷きを交わし、口を開いて手短な確認事項を行っていった。

口内へと放り込んだばかりの塊肉をも、呑み込まざるを得ないほど焦燥感に駆られながら。



「わかってるわよね。」


「ゴクッ―――――...うん、急ごうか。

 はい、焼きそば―――――」


「もう、食べときなさいよ。」



そうして慣れた手つきと阿吽の呼吸で間もなく、掌上(しょうじょう)の屋台飯の受け渡しを終わらせると、行儀悪く走りながら残飯を出さないよう食べ進めて、世闇の中に消えていくのだった。

小気味よい下駄の音だけ(・・)が鳴り響く、祭りの雰囲気に似つかわしくない運動靴ののっぺりとした音を鳴らしながら。

悪寒がした方、提灯(ちょうちん)の灯から遠のき、暗くなる方、暗くなる方にと一心に向かい、姿を(くら)まして。




◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




「んちゅッ...んんッ―――――。」



周囲に甘く艶めかしい水音が鳴り響く。

そこにかすかに含まれるのは女性の吐息のみであり、言うまでもなく高揚感を孕んだ様子は、上品なものとはかけ離れているように感じることだろう。

情欲的(じょうよくてき)にして必死さから品性に欠ける、熱を帯びた消え入りそうな弱々しい声。

ただそれゆえ、余計な(あで)やかさを感じさせられてしまい、現況においては何とも言いようのない色気を強要させられる。

そんな状態に巻き込まれた裏人(うらひと)は目を見開き、驚愕の様子を全身に映し出していた。

未だ、文字通り自身の目前(・・)で行われている行為について合点がいかないのは、決して思考が鈍っているからというわけではない。

むしろその逆で、判断力だけは現状において何よりも正常な状況(じょうきょう)分析(ぶんせき)をしてくれているといえよう。

ではどうして何も理解することができないのか。

結論を先に言ってしまえば、理解不明で真っ白になった今の思考自体(じたい)が、この場この瞬間においては正しい事実であり正しい判断であるのだった。

それはそうだろう。

死にかけている状況で、心配の念からの行為とは到底思えないような施しを対象から受け取ったのだ。

混乱もすれば理解などできるはずもない。

と目前に迫る、百咲(ももさき) 愛悠(あゆ)の美しく可愛らしい顔を見つめ、何も思い浮かばない思考から恐怖心を煽られた裏人(うらひと)は目を見開くしかないのであった。

彼女の頬や髪の毛には恐らく自分のものと言えよう血痕が所々に付着し、濡れて(まと)まった箇所からポタポタと血液を垂らして間近に迫ってくる。

また必死(ひっし)に自身の唇を必要(ひつよう)とするかのような気配と共に、口内へ侵入する彼女の舌の生々しい感触をも味わってしまった。

これが死にかけている状況で味わうべき感覚なのだろうか。

否、絶対に違う。

ではなぜ今この行為を受けさせられているのだろうか。

裏人(うらひと)は手放そうとしていた意識を手繰り寄せることに成功し(・・・)、その中で再度事態(じたい)の真意を探し出すため無意識という意識が熟考を重ねるのだった。



「ぷはぁ...はぁ...はぁ...。

 ふふッ...裏人(うらひと)くん。」



彼女の色っぽく(あで)やかな声が鳴り響く。

いつの間にか聴覚が復活していて、それにより鮮明に伝わる恐怖の声に裏人(うらひと)の危険信号がドンドンと高まっていった。

また、今の今まで無我夢中で重ね合っていた唇が解放され、百咲(ももさき)の上気した表情が視界いっぱいに写されることとなった。

その瞬間、彼女からのアツく鉄臭い(・・・)口づけの真意に、最悪な形で見当がついてしまいすぐさま恐怖に掻き立てられてしまう運びとなる。

この延命は成功した(・・・・)のではなく、成功させられた(・・・・・・・)のだ、という事実に。

あの瞬間の、二人の気持ちが絶頂に達し、これ以上ない幸福感を味わっていたあの時の状況を、あろうことか彼女はこのタイミングで再現しようとしてきたのだ。

自分をまだ生かしておくため...いや裏人(うらひと)という生命を、まだ殺しては勿体ないと思っているのだろう。

その証拠に、今もこうやって嬉しそうな笑顔を浮かべている。

だがなぜなのだろう、心底彼女から『|甚振|いたぶ》ってやろう』という意思が感じられない。

それどころか、百咲(ももさき)の目はしっかりと自分のことを見つめてくれていて、そこに込められているのは嘘偽りのない『愛情』ときた。

死にかけている生命体が愛おしくてこの上ないというサイコキラーについて、この集落での話などは聞いたことなかったが事実都会の方にはそれなりに存在しているという話はテレビで確認していた。

ということは、運悪く彼女がそのサイコキラー的内面を持っていたいう事になるのだろうか?

それとも、自身が本当に死にかけているのだということが全く理解できていないのか?

聞いている側としては、なんとも裏人(うらひと)の思考を疑うレベルの二者択一。

ただ、ここまで奇妙(きみょう)で理解不明な事柄が続いては、人間は案外突拍子もない考えだけが頭に浮かんでしまうモノらしいのだ。


百咲(ももさき) 愛悠(あゆ)という怪物に喉を噛みちぎられた事実とそれにより死にかけている状況。

その上で彼女から掛けられる言葉は、「怪我したの?大丈夫?」というレベルの暖かみとやさしさの込もった心配の念。

そして逃げようとしている自身に対し「なんで逃げるの?鬼ごっこしてるのかな?」とでも言いたげな純粋無垢な疑問に、「心配してあげてるんだから返事してよ、安心できないじゃん。」という雰囲気の姉や母親のごとき愛情。


それはそれは、この状況に立たされたのが誰であれ、理解不明な現況(げんきょう)であることに変わりないだろう。

何故この場で親友や恋人、息子に弟と話しているかのような心情で、会話を続けられるのか。

また、なぜそのテンションが作ったものではなく、心の底からのものであるのだろうか。

考えれば考えるだけ理解ができない。

ゆえに先程の二者択一は間違いでなかったことを示していて、事実その通りにしか考えられない裏人(うらひと)はもう言葉も喋れず、されるがまま彼女の口づけを受け入れる他ないのだった。

自身の両脇に通されているのは彼女の腕であろう。

先に話した全身の力が抜けていく(・・・・・・・・・・)とは死にかけているという事ではなく、全身に力を入れる必要がないとばかりに抱きかかえられている状況が織りなした体感であったのだ。

またそこにも非現実が見え隠れしていて気味が悪い。

華奢な腕で二回りほどの体格さがある自身を、さも平然と持ち上げてはその表情に一切の揺らぎなく、可愛らしい笑みを崩すこともなければ汗一つ掻く様子すらない。

そしてそういう状態に陥っているのは、ただ単に彼女との目線を合わせるためだけであり、キスをしやすくなる高さに調節させられているのだという様子まで感じられていた。

まるで道具か何かのようである。

これで自身が死にかけている状況でなかったとしたら、なんと素敵なハッピーエンドであっただろう。

だが、すでに彼女からの好意が喜ばしいモノでないと察している本心が、こんな結末自体を受け入れられないものとして拒絶しようとしていた。

また唇を重ねてくる百咲(ももさき)(もてあそ)ぶかのような舌への甘噛みも、そのまま這いずり回る生々しい感触も、嬉しいはずのものが鳥肌を立たせるほど気色の悪いものとして判断されている。

ゆえに逃げたしたい欲求に駆られ、それでも力の入らない足にもう何度目ともなる苛立ちと絶望を覚えて、息がかかるほど近くにいる彼女の顔を間近に捉えた。

叫び声はどこまで届いたのだろうか。

時間はどれほど経ったのであろうか。

ここは、賑わっていたはずのあの祭り街道からどれくらいの距離があるのだろうか。

そしてこの社を囲む森は、普段から人の往来があるような場所なのだろうか。

自分が助かる可能性は、もう他者からの介入がないと無理だと理解している脳が、今この場をもって逃げたいという意思を持ち始め、先の諦めムードから裏人(うらひと)の中だけで気持ちの変化が現れ始めた。

というより、痛くない死に方を探しているという方が、正しいかもしれないが。

そうやって一応の状況把握をしなければならないという感情と、事実その通り身体を動かせるくらいの余力が沸き上がり、周囲一帯をグルッと見渡すよう百咲(ももさき)に抱きかかえられた体勢で、裏人(うらひと)は首を動かしていくのだった。

すると神の巡り合わせか、そんな彼の視線の先で、何かが一瞬動いたような揺らぎを眼にしたのだった。

ただでさえ真っ暗な闇の中、確かにこちらへと目指し動いているような黒い影が一つ。

ほんのわずかな希望、そしてほんのわずかな可能性が、裏人(うらひと)の内に明かりを灯してくれた。

叫び声が届いていたのか、それとも普段から訪れるような人が偶然この瞬間にここを通ってくれたのか、それはわからない。

だがもうこれに(すが)るしか後がないと、そう思った裏人(うらひと)は未だ粘着質の唾液や血液でネバネバになった喉から、それでも精一杯となる叫び声を出せるよう準備して、腹筋から最後の力を振り絞り押し上げるように声を放っていったのだった。



「だえがぁ...だぁえて(誰か...助けて)。」



まともな声には当然ならない。

ただ、恐らく真剣さや絶望感、それに恐怖や危機感などは十分すぎるほどの迫力となり伝わったことだろう。

そう自分に言い聞かせては自信を持ち、都合のいい解釈をしたいだけの裏人(うらひと)の願いがなんとこの瞬間では見事に届き、例の人物がより鮮明に動きを見せるかのように近づいてくる気配と光景を感じ取ることができたのだった。

その事実に、当然喜びの表情として笑顔を浮かべるのは彼。

またその者の接近に、百咲(ももさき)が気付いていないという状況も、完璧なものといえよう。

ここまでくれば後は掴むだけ、と希望の糸を垂らされた裏人(うらひと)は必死に手繰り寄せるかのように、例の人影へと手を伸ばすのだった。

だがそれも束の間、次第に見え始めた例のシルエットの正体が、現状において最悪だといえよう人物であったため、浮かべた笑顔は一瞬にして崩れ去り引き攣ったものへと変貌を遂げてしまう事になった。

石畳の道に景気良く響くのは下駄の音でも運動靴の音でもなく、堅い革材質(かわざいしつ)の靴音。

それに世闇の中で月明りを反射しキラリと光るモノ、位置からして恐らく眼鏡であろう。

そして段々と鮮明に見え始めた高い身長とやせ型の体系に気怠そうな雰囲気...最後にビシッと決められた服装。

それが無条件にその者の存在感を強調して映し出してくれていた。

ここまでの絶望を感じさせられ、その上さらに希望の芽を摘もうとしてくるのか。

自分が一体何をしたのだと、変えようもない事実と運命に激昂しては、順々に前世の自身にまで遡り内心で毒を吐いた裏人(うらひと)

しかしそうしたところでもうどうしようもないと、今度こそ諦めが付いた様子で彼は、情けなく百咲(ももさき)へと身体を預けるよう全身の力を抜き、苦しんで死ぬことを覚悟する様子で瞼を落としたのだった。

次の瞬間、百咲(ももさき)が身体をビクつかせると同時に放たれた、社の境内に響き渡る男の声を最後にして。



「また、派手に食い荒らしたな...百咲(ももさき)。」



嘘くさく張り付けたかのような笑顔を浮かべては眼鏡をクイッと持ち上げ、逆の手に持つ金属バットのような得物を地面に引きずりつつ近寄る教師。

この場に現れた伝槙(つたまき) 柏伯(はくのり)はそう余裕に満ちた佇まいを浮かべると、エグみのある笑みに更なる陰険さを含ませ、この場を支配するかのような雰囲気と言葉を放ったのだった。

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