仲直りの次へ
~特異鬼制教導機関~
チャリッ―――――
祭囃子や人の音が数多く往来するこの場で、堅い印象の音が響いた。
それに隣を歩く百咲さんが、袖の中に手を入れている光景が目に入った。
そして何かを掴むと、小首をかしげていた裏人に視線を移し、恥ずかしそうに頬を染めてから今度は会話を持ち掛けてくる。
決まったあの、一発での人の子を落としそうなほど清楚でも色っぽい照れ笑いを浮かべて。
「裏人くん、ちょっと待っててもらっていいかな?」
ここは駐輪場から離れ、祭り会場に入って少し進んだあたりの場所。
人の音だけでなくその往来まで激しい、流石の賑わいを見せている人ごみの中心だ。
そこで浴衣が着慣れずにむず痒そうにしている裏人の隣、様になった大和撫子、百咲 愛悠は目の前で両手を合わせるとその行為同様の意図が込められた許可を口頭にて求めてきた。
その手には何かが握られている、いや挟まれている。
だが、それが一体何なのか見当もつかない裏人は、当たり前のように「わかった。」と返事をし、百咲の動向を見守る。
そしてこの場から遠ざかろうとする彼女に対し、同行するための一歩を踏み出した段階で、また別の声がかかった。
「あ、裏人くんはここで待ってて。」
「えッ...でも。」
「大丈夫、ここで待っててほしいの。」
含みのある言い方でそんな返答をした百咲は、また気恥しそうに頬を赤らめた。
その様子に裏人も、思うところはあったのだが彼女を気持ちを最優先にし、言う通り百咲を見送ってやることにした。
裏人の心配とはやはり百咲が女性であるということ。
周囲の者たちの中に、女性であればだれかれ構わず声を掛けまわる男達の姿を散見することができていた。
祭りというこの場を借りてのナンパは嘸かししやすいのだろうか、とそんなもの達の姿は一人二人というわけではなく、この場だけでも数十人単位で見受けられている。
さらに加えて、声を掛けられる側の女性としての百咲の美しさときたら、狙われてしまうのは必然だとばかりに、一帯に見える女性達の中でも一際目立ってしまっていた。
今の彼女は普段の清楚という要素に加え大人っぽい色気も持ち合わせ、周囲へ振りまく『彼女』という印象はまるでキラキラ光っているかのよう。
それが男心を鷲掴みにするのは時間の問題、というよりも視認の問題だった。
ゆえに見送りながらも背伸びをし、百咲に気付かれないくらいの距離を開けて裏人は、彼女を尾行することにしたのだった。
口約束を破ったことに悪い気もするのだが、それは致し方のないことだとして。
平謝りをする裏人の視線の先、そんな彼女はスルスルと人の間をすり抜けては、先程まで歩いて来た道を戻るような形で進路を進んでいる様子であった。
それはもちろん原付からここまでの道のりという事。
忘れ物でもしたのか、と適当なことを想像しながら、駐輪場へ戻る百咲をゆっくりと追う裏人。
目前の光景と言えば心配事が的中したとばかりに、行き交う人たちが百咲を振り返ってはすぐにひそひそ話を始める光景が目に映った。
後ろから眺めている裏人にとってよく見えるものである。
注目の的になっていた、やはりついて来て正解だったかな、と裏人。
もちろんそんなこと意にも返していない百咲の様子はというと、ただただ行く道に視線を落として歩いているだけ。
周りの視線など目もくれず、話しかけてきた男達も我関せず、というより自分の事でないと決め切っているかのように素通りする。
そんな様子に少しだけ、乾いた笑いを漏らす裏人は、案外心配なかったかなとの想いを胸に秘める。
彼女の人としての強さは、ある意味自分がよく知っているのでは、と過去を振り返ってみては微笑みと一緒に深い呼吸を落とすのだった。
そしてそんな雰囲気が少しの間続き、気が付くと駐輪場付近まで戻ってきていた裏人は、やはり原付の方へ歩いていく百咲を最後に、立ち止まって後のことを任せることにした。
とりあえず彼女の意志に沿うよう視線を外し、後ほど再会したとき用の何食わぬ顔を取り繕っては、出会う準備を始めていく。
今日という日は短くとも、今この瞬間だけは始まったばかり。
ゆえにこれから行われる『祭りの勉強』という名のデートへと互いの気持ちを冷まさぬよう、雰囲気を作っていった。
そうして心底楽しみに湧く胸の内を静まらせるようにと...祭りの様子に似つかわないこの場で一人、深呼吸をするのだった―――――
「おや、鈴鹿くん。
こんなところで会うなんて、驚いたよ。」
「ッ―――――!?」
だが、突如として男の声が背中側で響いた。
それによって、準備していなかった裏人の体は自身を呼ぶ声に硬直していく。
そして瞬時に気持ちを落ち着かせるために繰り返していた深呼吸はせき止められ、逆に激しさの増す胸の内はそのまま悪寒として嫌な汗へと変化し、体中を蝕んでいくことになった。
その一声聞くだけで、体温が変に跳ね上がる。
その一言を受けるだけで足がすくみ、緊張感が自身を貫いていく。
一度その男が存在すると意識しただけで、呼吸が浅く苦しくなっていき、身体はガタガタと震え始めていく。
それはこの短い生のなか、たった一度だけ経験した記憶に従った通りの直感であった。
嫌でも振り向かざるを得ない、なんせその声を放った張本人は自分の名前を呼んだのだから。
そして有無も言わず振り向かなければならない、なんせ立場的には相手の方が目上の人物に当たるのだから。
失礼など顧みず、瞬間的にこの場から逃げ出すことができたらどれほどよかったことだろう。
と青ざめた表情のまま後ろを振り返った裏人の視線の先には、想像通り何を考えているのかわからない笑みがその場に立ちつくしていた。
そして同時にそこから下ろされる視線に憑りつかれ、ただただ決まりきった言葉を返すしかない状況の裏人は、当然流れの通りにしか動かせない口を開いて、定型文の挨拶を返していった。
「こ、こんばんは、伝槙先生...」
「はい、こんばんは。」
優しさの灯っていない声音が返される。
もうすでに現状の把握を終え、人格を偽る必要もなくなったとでもいうのだろうか、と。
そんなことまで想像できてしまうほど、この場で異質な存在感を放っているのはやはり伝槙 柏伯教員その人であった。
声音も視線も感情も、全てに至って裏人のことを異物として扱っているかのような悪感情が感じ取れる。
まるで祭りの雰囲気に似つかわしくない。
この場でただ一人、楽しむという感情を忘れたかのようなその男は、元々開いていない目をさらにスッと細めると、裏人に向け一歩一歩と足を踏み出してきた。
そこに言葉は存在していない。
だからこそ伝わる様々な思いが足を動かすことを拒み、裏人は近づく伝槙教員から距離をとることができないでいた。
それも指の一本に至るまでが、まるで石化してしまったかのように。
「体の調子は良くなったのかい?」
「あ、はい。」
「そっかそっか。
でも、御祖母さんに迷惑をかけるのは感心しないね。
その様子なら今日の学校も来れたのでは?」
「まだちょっと、全快したというわけではないので。」
「ならまだ安静にしていた方がいいじゃないか、こんな遠い方の祭りまで来て...っと。
そういえば今日は誰かと一緒に来てるのかい?」
その言い草に、少しだけ裏人の想いが外れた予感がした。
百咲と共に来たこと、それを一部始終見られていたと思っていたのだが、当りを見渡す様子からはそんな気配が感じられずにいたのだ。
それにより、裏人も少しだけ心の余裕を取り戻す。
そしてそうともなれば強気に出れると、臆病になりきった内心を落ち着かせると、改めて伝槙教諭に向き直り、返事を返していった。
「いえ、今日は一人です。
自宅の祭りには出なくていいと祖母に言われたので。
勉強がてら下見に。」
「そういえば、君のご実家は神社で、今日も夏祭りをしてるところだったね。」
「はい。
ここまで来るのに山を越えるので、時間が掛かりそうだなと。」
「それで今週は今日いっぱいまで学校を休んでいたんだね。
まぁご実家の手伝いってことなら、納得はできないけど感心だ。」
そういった彼はなぜかこの瞬間になって、優しさを取り戻したかのように声音と表情に柔らかい印象を浮かべ始めた。
それはまるで出会った初日のあの雰囲気に近い。
元々開いていない目も、先程の嫌に細められた感じではなく、弓なりに笑顔を以て作られるものに変わっていた。
優し気な視線を落とす教師の鑑のような微笑み。
その様子に自分の担任である作巻先生を思い返しては、やはりこの人も一先生なのかと再認識。
そしてまた過去の嫌な思い出が薄れているような、そんな心持ちの現状から改めていい人なのかもしれないと、酷く感傷的になった一週間を忘れ、自身の中に彼に対する好印象が芽生え始めているのに気付く。
色々思うところがあるのだが、あくまで自分本位の考えから来る恐怖心だったため、それらすべてを勘違いで捉え直せば何のこともない出来事だった。
それは百咲からの告白を無視すれば、という話にもなりそうなのだが、思い返せばこれも一応あの恐怖からの延長線上にある出来事。
ゆえに同じ事象だと捉え、本当に心の底から感心してくれているのだとわかる伝槙教員の顔を見つめ直せば、全部が思い過ごしであったという感情が先に出始めて来るのも必然。
ただの勘違い、それによってある意味では最悪の結末に自ら飛び込んでいっただけだという過去へと想いを馳せ、少しだけ気恥しくなるような、そんな気分を浮かべた裏人。
そして次に口を開いた伝槙教員からの言葉に、自身を御するような意味合いを含めた、真摯に受け止めようとする姿勢を見せて、耳を傾けていった。
「それじゃ、私はこれで失礼するよ。」
「はい、それでは。」
「あっと、そういえば最後に一つだけ―――――」
ただそんなうまい話が過去にあっただろうか。
ここまで変に感情が揺れ動くのは、自分でも初めての経験であった裏人。
ゆえに、これも全て新鮮な気持ちから来る感覚の愚鈍であることに、自身さえもが気付けないままでいてしまった。
いつもの冷静な自分であればわかったはずだ。
本気で他人を殺そうとした時の殺気を、冗談のものと同じ心境で受け入れることができるわけがないことに。
あの時の伝槙教員から感じた恐怖は、それであった。
ならばこの、助け舟のように取り戻した感情の余裕さは、その原因を作り、また良い意味壊してくれた彼が思い描く通りの、人心操作ではないか。
心にできた安堵の領域。
それが二度目の恐怖に蝕まれた時、人は初めに感じたモノより余程大きなショックを受けてしまうものである。
伝槙教員はその言葉を放った後、顔を裏人の耳元まで近づけて、最後の言葉を放った。
与えた余裕を踏みにじる、最初から最後まで完璧に仕組まれていたマインドコントロールのとどめとしての一言を。
「彼女から離れろって言ったでしょ、ね。」
その時、視界に捉えていなくとも、伝槙 柏伯がどんな顔をしていたのか裏人には想像が出来てしまった。
だが、分かりやすく脳内がその光景を確信へと昇華することを拒んだため、彼の顔を見返すことはできなかった。
どうせ笑っているのだろう、どうせ驚くほどに、ただひたすらに、微笑みを浮かべているのだろう。
そこから紡がれた驚くほどに冷え切った声。
それによってフワッとした違和感に包まれ、一瞬視界がぼやけたのを感じ取った裏人は、これ以上ないほどに激しい心音に全身を蝕まれ、恐怖に震え上がった。
その一言だけで自分がこれまで想像していた物事全てが気のせいではなかったことに確信がついてしまう。
プリントの答案ごときで、ただの文字遊びごときで。
それでも、確かに感じるこれ以上ないほどの恐怖心からでは、歯向かう事すら出来そうもないことも事実。
そこに百咲 愛悠という女性の存在があろうがなかろうが。
目の前を過ぎ去っていく彼の背中。
ここまで大きなものとは思わなかった、と祭りの景色が塗りつぶされてしまうほど、彼の邪悪な雰囲気で視界が埋まっていく。
目を大きく見開き、それでも他の情報が脳へ届かないまま、そうして周囲の熱量も届かないほど冷え切った表情を浮かべた裏人の姿がその場に残された。
そしてまたどれくらい経ったのかわからない、狂った体感時間の後に帰ってきた百咲の声が鳴り響いた。
その瞬間、ようやく我に返れた裏人は、しがらみから解放されたかのように後ろを振り返って彼女と対峙し、それでも冷めない恐怖から表情を固めたまま会話へと戻っていく。
「裏人くん?
...あれ、どうしてここに?」
「も、百咲さん。」
定位置でない場所で再開した彼女は、案の定というかこの場にいるはずのない後姿に驚いた様子。
そして少しだけ恥ずかしそうにしたのは、今の裏人の心理状況的には彼に届いてはいなかった。
その様子は、髪の毛を少しいじって、照れくささを誤魔化そうとしている雰囲気。
だったが、すぐに裏人の状態が今までと違っていることに気が付いて再度声を掛け直していった。
「どうしたのッ!?
顔色、すごいけど...」
「あぁいや、その...」
今の恐怖から抜けだすことができない、その様子は百咲にも何となくで通じているのだが、果たして抱えている問題の端々まで捉えることができたのだろうか。
恐らく二人の想いには、明確な重さの違いが存在していた。
それもそのはず、こんな楽し気な雰囲気のなかでは、誰であったとしても死と隣り合わせであろう程まで緊張しきった様子の者など存在しているはずがないのだから。
尚且つ先程まで自分と同じように浮かれきっていた人物がたった数分の一別にて、ここまで感情の差が生まれるほどの出来事に遭遇することなどこれまたあるハズもないのだから。
百咲に思い当たる節など特にあるわけがない。
ゆえに何か印象の強いものを見せれば気がまぎれるのではないかとの軽い気持ちで解決するだろうと、間違った印象を受け取った百咲はというと、その場でスルッと体を回転させて見せたのだった。
それは一度裏人と分かれた理由に関するものを見せるため。
袖に腕を入れ、チャリッと堅い音を放ったあれの正体とは、まさしく品質から品性まで全てにおいて優れた装飾の施されている髪留めの事であったのだ。
元々長髪の彼女が、美しい黒髪をおろしたこれまでに比べて、その髪留めによって浴衣に映える綺麗な外見へと変貌を遂げているのはまさに美の象徴か。
原付の場所まで戻ったのは手鏡を取りに行くためであった。
そしてそれを用いて結った今の髪型はというと、彼女の印象とも相まって『色気づいた清純』というような雰囲気を醸し出していた。
ヘルメットを被るがゆえに元々解いていた髪の毛を結ぶ、つまりは『浴衣姿』の完成形を作るための時間であって、それは百咲のある意味では自信作ともなる努力の結晶であった。
裏人とのあの件以来、もし祭りに行く約束が叶うのであれば、との想いでただひたすらに練習した一週間を思い返しての力作。
よく見てもらおうとしていた、いうなれば邪な想いのものではあるが、こんな形でのお披露目とはなってしまった以上、気持ちの落ち込んだ裏人には元気を出してもらわなければならない。
いつも救われていた、あの笑顔に比べたらこんなもの安いものだと、その理由まで聞くことはせずに百咲は裏人の目の前で少しかがみ、無理矢理彼の視界に入るように小首をかしげて見せた。
自分磨きはしていたはず。
ゆえに自信があるとは言い切れないが、それでも目の前の彼にはよく思ってもらっているとの自覚があったため、これによって彼の悪感情を上書きして、この後の祭りを楽しんでもらおうと。
「そうだ、裏人くん。
これ、どうかな?」
「...あぁ、えっと。」
「裏人くん、私を見て。」
たった一つの微笑み。
目を泳がす、裏人の気持ちが何に揺れているのか、気にならないといえば嘘になる。
それでも、すべてどうでもいいと思ってもらうため、その視線を一手に引き受けようと羞恥に身を焦がしながら目に見えてぶりっ子してみた百咲であった。
今この瞬間だけは自分を見てほしいと告げる。
彼の胸の内をなだめようと、そのために発した言葉ではあったが、まぁこれ以上ないほど本心なのも事実。
とは言っても、こんなセリフを簡単に吐いてしまうとは...いや、吐かされてしまうとは、と思った百咲はその体勢のままそっと頬を赤らめた。
無条件に何かをしてあげたいと、そんな衝動に駆られてしまう胸の内。
これが裏人の良いところであり、自分が彼を好きになった理由だと、こんな場ではあるが再度実感してしまう事による赤面。
自分が救われたこの想い、であれば今度は自分が救ってあげる番だとばかりに、彼の目をしっかりと見つめ、今の自信に満ち溢れた姿を見せようとするのだった。
「綺麗だと、思うよ。」
だが、その健気な姿は裏人には響いてくれなかった。
彼の口から出たモノは、あからさまに気持ちが込められていないような、そんな上辺だけのものであると何となく勘付いてしまったのだ。
あの時と同じ胸の痛みが自身を襲う。
遠ざかっていく背中を、またぼやける視界で眺めることしかできないまま崩れ落ちるのかと、唇が震え始めた。
だが、それは百咲だけでなく裏人も等しく感じた、同じ想いであることには、これまた百咲は気付いてあげられることはできなかった。
心の底から褒められない、そこに存在するのはやはりあの恐怖心。
こんなところまで来て、何を考えているのか。
こんなところまで来て、結局結末がこれか。
こんなところまで来て、一体何がしたかったのだろうか。
(こんなところまで、こんな、ところまで来て―――――)
そんな風に心の中で自問自答を繰り返す裏人。
たった一人の登場にて、自分たちの人生が何度狂わされることになったのか。
と言ってもどうしようもない感情に苛まれ、ついには視線を彼女から外し完全に下を向いてしまう自身にも、苛立ちが湧き始める。
本当に申し訳なくも思うが、果たしてその理由を彼女に伝えることが正しい事なのかもわからない。
巻き込んでしまっては元も子もない、と。
だからどうせ、また同じ結末になるのだろうな、と半分諦めかけていた静寂に、突如百咲が放った変わった印象の声音が響いていった。
「裏人くん、ちょっと来て。」
それによって静寂が切り裂かれる。
そしていつの間にか消えていた、周囲の環境音がまた裏人の耳に流れ込んでくるのがわかった。
無意識のうちに感じ過ぎていた緊張感が消えたのだ。
そのことに今この瞬間で気が付いた裏人は、思っていた以上に追い込まれていた現状にも気が付き、それを振り払ってくれた彼女の方へと顔を上げた。
百咲のその不躾な物言いは、いつもの優し気な雰囲気が含まれておらず、それによって驚きで目を覚まし、同時に不思議と安心感をも感じされてくれるものであった。
この状況で見つめる彼女の顔は、あの時とは違って強気に見えていた。
覚悟を決めたかのような、そしてもう失敗はしないとばかりに自信を感じさせてくれるかのような、そんな力のこもった目を浮かべ。
そして彼女は振り返り、ゆっくりとでも確実に一歩一歩と足を進めていき、腕を引かれる裏人も自然と歩きを始めていった。
いつの間にか裏人なりの安堵感を感じていたのかその足にも力が込められ、伝槙教員と対峙していた時とは違いスルスルと動いてくれている様子をみせる。
やはり、彼女が本気で関わると、どこか不思議と心が軽くなっていく感じがするな、と逆の想いを感じていた一週間を思い返して、微笑みを一つ。
そうして目の前の華奢でも大きく見える背中をまたそっと見つめ直し、再度歩く足に力を入れ直した。
それは自力で歩き、彼女の後をつけて行くという意思を感じてもらうための行動。
のはずが、それでも離さないと力強く握られている手に、少しだけの恥ずかしさと大きな嬉しさを感じながら、目の前の彼女と同じように頬を赤らめていった。
そのまま二人は祭りの雰囲気とは違い、当初の目的から外れたとある場所へ向け足を進め、夜闇の中に消えてくのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ほんの少し離れた、とは言っても祭囃子も聞こえてくれば人の音も絶えない、そんな暗い場所へと二人はやって来た。
繋がれた手は未だ離されていないまま、そこからお互いの感情を共有しながら歩く足を速めたり遅めたり。
そんなことを繰り返してやってきた場所は、祭りごとから奥に行った神社の本殿、その手前に存在する賽銭箱が置いてある拝殿だ。
石畳の道を進み、これまた石材を用いて作られたひんやりとした階段に腰かけ、二人元来た道の方を見ながら周囲の余韻に浸っているところ。
祭りごとの明るさとは高が知れていて、都会でもないこんな場所ではやはり爛々と輝く星たちがこれでもかと顔をのぞかせていた。
そんな風景に崇拝の対象として神様を思い浮かべては、実家でない別の崇拝者の元にて安息の地を得ているという状況が難しくもおかしく思い始めていた裏人。
それはひとえに、気まずくない感じの良い静寂が辺りを包んでくれているからこそ湧き出た感情だろう。
お互いに喋ることはせず、ほんの少しの息遣いが両者の耳に届く程度の状況。
良い雰囲気ではあるのだが、繋がれた手のせいか、悪い雰囲気に突入しそうな予感が絶えないこの場では、両者別の意味でドキドキを胸に秘めているのだった。
彼女の肌感を直に感じているせいか、いつの間にか伝槙教員からの恐怖から逃れられたような感じがする裏人も、ここにきて再度その恐怖心が沸き上がってきていた。
なんせこんな場所を見られたら一発アウトだろうと、二人だけの空間に焦りのこもった感情を浮かべている。
ただし、百咲と同じように、別の意味でのドキドキを感じているのも事実。
それは先の恐怖などどうでもいいとも思えてしまうほどの、強い好感情である。
気恥しいような嬉しいような、やはり気恥しいような、そんなもの。
また、その感情がお互いに向けられたものでもあり、それを象るかのように隣の彼女が俯いて、恥ずかしさから黙り込んでいる状況ときたら、無理にでも意識せざるを得ないというものだ。
だからこそ余計に続いてしまう静寂に、流石の気まずさを感じそうになるほどの時間がたったあたりで、今回の一手は裏人が下し周囲に少しばかりの音声が響いていった。
「あの、百咲さん、なんでこんなとこに?」
「えっと...わかんない。
何となく、静かなほうに行こうかなって...」
「それって。」
「いやッ!?
変な意味じゃなくてね、その...やっぱ...」
黙り込まれるとまた気まずさが増してしまうのだが、と内心思った裏人も流石に口に出すことはしなかった。
一度は顔を上げてくれたものの、それでもこの状況がある意味では彼女からしてもイレギュラーだったのか、ごにょごにょと濁したような独り言をこぼしている百咲に頭を抱える。
正直変な意味、と言われた方が変に意識してしまうような状況故、口に出されたのが何より痛い一撃となっていた。
だから必死に他のことを考えようとしていた裏人も、彼女と繋がっている手のひらに汗をかいてしまうほどには、そのことを想い発熱してしまっている。
とは言ってもそれがどちらの汗と熱なのかわからないくらいには、お互いの脳内はぼんやりとしてしまっているのだが。
彼女の艶めかしく人間らしいところ。
それが一緒に帰ったあの時と、一緒に登校したあの時、そしてそこから少し時間が空いて今日再会したときのどれよりも鮮明に裏人の目に焼き付いてしまっていた。
確かに近い距離間では汗やら息やら視線やら、その全てが手に取るようにわかってしまうのは言わずもがな。
それでも、こんなに鮮明に感じ取れてしまうか、と彼女の首筋に伝う汗の一滴まで裏人の目には見えてしまっていた。
それほどに百咲 愛悠という女性と二人っきりになった薄暗く雰囲気の良いこの空間では、時間が凍り付き、神経が極限に研ぎ澄まされているかのようなほどの、緊張感が周囲を包んでしまっていた。
未だ俯いている彼女。
ただ、何となくその様子から目が離せないでいる裏人は、百咲が顔を上げた際この辺りに目が来るだろう、という位置を読んでそこに焦点を合わせていた。
そして案の定、次の瞬間で顔を上げた彼女と向き合う形で目が合うこととなった。
百咲は一瞬息が詰まったかのように体をビクつかせ、何か覚悟を決めていたはずの顔は、情けなくも可愛いものへと変化してしまっている。
ようやく考え出して答えようとした返答も、のどに詰まって出てこない。
その様子に手を差し伸べようとした裏人の行動も、今の百咲からすればありがた迷惑で、近づく距離間にさらに緊張し漏れる息遣いと共に「えっと...」との声を溢してしまった。
受け取った裏人の頭の中には、もうすでに伝槙 柏伯という男の存在など微塵も存在しておらず、二人を取り巻く雰囲気に完全に流されきった様子。
ともすれば続く会話もそんな雰囲気を孕んだ、甘ったるいものになってしまうのは必然か。
ただ、裏人が思っていた以上に百咲の言葉のチョイスが上を行き、両者変わらぬ緊張感をもってこの状況の渦に飲まれていくことになったのだが。
「どう、あー。
えっと...大丈夫?」
「うん...大丈夫―――――
あの...さっきの...」
「さっき、の?」
「変な意味って言ったやつ...」
「あぁ、えっと...それはもう―――――」
「あれ...やっぱり勘違いしてくれないかなッ!?」
「...え―――――」
「好き、裏人くんのこと、やっぱり好き。
忘れられない、から...」
今度は裏人が呼吸を止める番。
というより心臓まで止まってしまったのかと思えてしまうほど、周囲の音が一気に鳴り止んでしまった。
その空間が、この世界が、二人だけを残して消失したのかとばかりに、互いの一挙一動が全神経から伝わってくるようになったこの場。
そこで放たれた彼女の声が、未だ頭の中で反響して鳴りやまない。
何とも可愛らしい雰囲気から紡がれたモノは、何とも重々しい彼女の本心そのモノであった。
そんな巨大な鈍器で殴られたのかと思えるほどの衝撃を受け取った裏人は、当然言葉を返せずにいる。
そしてその顔には当然驚きと共に、百咲からすれば受け入れ態勢が整ったと思えるような、そんな表情が浮かべられていた。
だからこそ、これが最もな好機だと考えた彼女は、もう逃げ場はないとばかりに形勢逆転したことによって迷子になった感情のまま、裏人に逃げ道を作らせないよう次から次へと優位状況を形成していった。
「言葉では、その、緊張するから聞きたくない。
だから...受け入れてくれるなら、目を閉じて。」
「いや、その―――――」
「言葉はいらない。
目を閉じるか...そうしないか。」
「違う、僕、こういうの―――――」
「私だってしたことないよ!
だから、早く決めて。」
ついには声のボリュームまで調節できなくなった彼女は文字通り目を回しながら、逆に変なテンションで裏人への可愛らしい強要を図った。
対する裏人はもう全部どうでもよくなって、この状況の全てに素直な気持ちのまま従順する事しか考えられなくなっていた。
受け入れ態勢が整う、そして二人の気持ちが一致する。
であれば、もう覚悟を決めるしかないのだと、言われた通り目を閉じた裏人のその仕草に、緊張感を高めた彼女の想いが、繋いだままの手を伝い直になだれ込んできた。
そして、これが最後の声掛けだとばかりに、上気した雰囲気を孕んだ声音で、そっと彼女が声を放った。
「手は離さないで―――――」
唇に確かに柔らかな感触。
彼女の匂いに包まれる、と同時にこれほどまでに幸せな気持ちになるのかと、緊張の糸が解けた裏人は自信を幸福感が包んでいくのがわかった。
そして次第に力が緩んでいき、目を閉じたままでも緩み切った裏人の表情をこじ開けるように、百咲の舌が口の中に入ってくるのを感じ取った。
「んッ―――――」
と漏らした吐息は、果たしてどちらのものだったのだろう。
曖昧になった思考で、それでも拒むことが出来るはずもなく、されるがままに体を侵されていく感触に入り浸ること十数秒。
離された『彼女自身』を名残惜しく思いながら、未だ目を開けていいのかわからない状態でいる裏人は、変わらぬ表情のままその場で固まってしまっていた。
自分にとって初めての経験であり、それが何故か罪悪感のようなもので圧し掛かってくるのが、変に気持ちよくておかしな内情が生まれ始めている。
あの百咲 愛悠と、キスをしてしまったのだ。
たった数秒が何時間にも感じられるほど、濃密な行為に発熱と発汗がせわしなく繰り返されている。
そして心がこれ以上ないほどの幸福感を感じているのがわかる。
この感情に浸りたい、とそんな思いで目を閉じたままの裏人へ、間髪入れず百咲がそういう意味で何かを解釈したのか、また顔が近づいてくるのを気配と息遣いで感じ取ってしまった。
それにより裏人は、延々と繰り返す発熱にブレーキが利かなくなってしまう。
それでもやはり拒むことなどできないと、再度目を閉じたままの体勢で心の中に覚悟を浮かべてから、また行われるであろうその行為に想いを馳せ、彼女を受け入れる準備を始めていった―――――
「ッ―――――!?」
のだったが直後、完全に油断しきっていた裏人の唇に触れる感触はなく、代わりに首筋へと信じられないほどの衝撃が走ることとなった。
熱い、痛い、怖い、不快。
その一瞬、意識が朦朧とするのを何とかこらえた裏人は、痛みに叫ぶ前に自然と開いた目によって状況確認を行っていった。
ほんのコンマ何秒かの情報処理速度。
それによって、全貌を明らかにした裏人は、再度自分の力によって瞼を持ち上げると、その表情を驚愕のものへと変化させていった。
謎に自身へ埋もれるような体勢を見せている百咲に視線を落とし、その首筋に噛みついた彼女の瞳が、夜闇の中でキラリと金色に輝いているのを見て―――――